薪の爆ぜる音で、フェイトは目を覚ました。
「うっ……ん……」
うっすらと、目を開く。
ベッド、いやソファーの上だった。近くでは、暖炉の中で火が燃えている。
洒落た造りの、洋室である。
半ば毛布を被ったままフェイトは、ソファーの上で弱々しく身を起こした。
身体に力が入らないまま、ぼんやりと見回してみる。
目が合った。
暖炉の近くで膝を抱えている細身の人影が、顔だけを上げて振り向いたのだ。
「初めまして、お兄様……とでも言うべきなのかな」
目が合った、と言っても片目だけだ。左目は、黒いアイパッチに覆われている。
そして右目は、緑色に輝いている。禍々しい、エメラルドグリーンの輝き。
鏡を見ているような気分に、フェイトは一瞬、陥った。
「あんたは……」
「貴方の妹、というわけではないが……まあ、そのようなものだ」
少女だった。高校生か、あるいは中学生か。
しなやかな、いくらか凹凸に乏しいと思われる細身を、黒く短い衣服に包んでいる。
髪も黒い。ポニーテールの形に束ねられてなお、背中に達する長さだ。
それら黒さと鮮烈な対比を成す、肌の白さ。そして瞳の緑。
この少女を自分は知っている、とフェイトはようやく思い出した。
だが、あの時は隻眼ではなかった。
それに7人いたはずだが、ここには1人しかいない。
7人のうち、確か4人がIO2日本支部の保護下に入った。3人が、虚無の境界に走った。
ここにいる1人は、果たしてどちらなのか。
「俺……虚無の境界に、捕まっちゃったのかな」
「ここは虚無の境界の施設ではない。単なる山小屋、山中の休憩所だ」
少女が、冷ややかに微笑んだようだ。
「研究所の人たちが、私たちをここまで運んでくれた。そうなるに至った経緯を、説明しようか?」
「……いい。思い出した」
思い出したくもない記憶が、フェイトの中で甦って来る。
自分は無様な油断をして、捕まったのだ。氷の中に、閉じ込められたのだ。あの青い瞳の少年によって。
アメリカにいた時、不調で長期休暇を強いられた事がある。あれと同じくらいの失態であった。
フェイトは額を押さえ、うなだれた。
「あんたが、助けてくれたと……そういうわけか」
「任務なのでな」
少女は言った。
「消息を絶ったエージェントの身柄を回収する……それが私の、最初の任務となった」
「任務ね。虚無の境界の手先が、完全にIO2エージェントになっちゃったわけか」
隻眼の少女を、フェイトは睨み据えていた。
「上手い事IO2に入り込んで、何をしようって言うんだ? 一体何を企んでる!?」
虚無の境界に走った、あの3人と同じだ。
この少女も、あの女性に取り憑かれているに違いない。かの組織を統べる、赤い瞳の女神官に。
そう思い込みながら、フェイトは叫んでいた。
「虚無の境界が、いよいよ本格的にIO2を乗っ取りにかかったと! そういうわけか、おい!」
少女は何も応えない。隻眼を、じっとこちらに向けているだけだ。
フェイトと同じ、エメラルドグリーンの瞳。あの女神官の、真紅の邪眼とは違う。
この少女は、何者かに取り憑かれているわけではない。
虚無の境界の女盟主の、分身などではない。自分自身の心というものを、持っている。
ひどい言葉を浴びせられれば傷付く心を、持っているのだ。
「……ごめん。八つ当たりだった」
フェイトは俯き、詫びた。
「俺、助けてもらったのにな。ありがとう……本当に、ごめん」
「簡単に気を許し過ぎだぞ、お兄様」
緑色の隻眼を冷たく輝かせて、少女は言った。
「私は本当に虚無の境界の密命を帯びて、IO2を内側から崩そうとしているのかも知れない。それを明確に否定出来る根拠など、ないだろうに」
「どうでもいいけど……お兄様、って俺の事? どうにかなんないかな、それ」
「では、お母様とでも呼ぼうか。私たちは、貴方の肉体から生まれたのだからな」
「別に、呼び捨てでもいいよ。まあ少しは先輩扱いしてくれると、嬉しいけどな」
フェイトは頭を掻いた。
お母様というのは冗談にしても、お父様とは呼べないだろう。
この少女にとって、お父様と呼ぶべき存在は、別にいる。
フェイトは訊いてみた。
「仇……討つ気でいるのか?」
「復讐は何も生まない、といった類の説教なら御免こうむる」
少女の口調は、淡々としている。
「今ならわかる。私たちが『お父様』と呼んでいた男は、単なる狂人だ。私たちの事を、愛してくれていたわけでもなかった。単なる作品として、私たちを作っただけ……それでも私が今こうして存在していられるのは、お父様のおかげだ。私は、その恩を返さなければならない」
淡々とした口調に、しかし確固たる何かが宿っている。
「なのに私は、あの男が生きている間には何もしてやれなかった。死んだ者に対する恩返しなど……仇討ち、くらいしか思いつかん。他にあるなら教えて欲しい」
死んだ者の分まで、幸せになる事。幸せに生きる事。
そういった綺麗事を彼女は、IO2日本支部で嫌になるほど聞かされたに違いない、とフェイトは思った。
復讐。それが、この少女の心の中核なのだ。
自然ならざる生命として、この世に生まれながら、彼女は心を育んできたのだ。
それを否定する資格など誰にもない、とフェイトは思う。復讐心であろうと闘争心であろうと、心は心だ。
自分を凍らせてくれた、あの青い瞳の少年を、フェイトはふと思い出した。
彼もまた母親の胎内ではない場所から生まれつつ、心を育んできた。凶暴なまでに、純粋な心。
その根底にあるのは、誰かを守りたいという思いだ。あの少年には今のところ、それしかない。
(俺には……それすらない、んじゃないのか?)
思いかけて、フェイトは軽く頭を横に振った。
自分には何があるのか。自分は、何なのか。何者であるのか。
アメリカでも、さんざん自問した事である。自問し、思い悩み、時には周囲に迷惑をかけた。
答えなど出ない。
それが、思い悩んで辿り着いた結論である。
「……名前、まだ聞いてなかったよな。そう言えば」
強引に、フェイトは話題を変えた。
「俺はフェイト。一応、改めて名乗っておくよ」
「私はイオナ。I07と呼びたければ、ご自由に」
「誰が名付けたのか知らないが……それなら俺はA01でアオイ、とでもなるのかな」
フェイトは苦笑した。
虚無の境界によって造り出された怪物・A01であった頃の自分というものは、どれほど忌避しようと抹消出来るものではない。受け入れて一生、付き合ってゆくしかないのだ。
虚無の境界によって生み出され、IO2によって鍛え上げられた結果、今ここにフェイトという存在がある。
このイオナも同じだ。虚無の境界の技術で生まれ、IO2エージェントとして生きてゆこうとしている。
2つの組織の、奇妙な繋がりが、今の自分たちを存在させているのだ。
あの青い瞳の少年は、どうなのか。
彼を生んだ研究施設は、虚無の境界と関係している。IO2とは、繋がっているのか。
「イオナは……あの子と戦って、俺を助けてくれたのかな?」
「あの氷の少年か。もし戦っていたら私は今頃、生きてはいないかも知れない」
イオナは答えた。
「幸い、戦いにはならなかった。彼の保護者らしき男と、穏やかに話し合っただけだ……私は貴方を助けるというほどの事はしていないよ、お兄様」
「まあでも戦いにならなくて、良かったじゃないか」
「……どうかな、それは」
緑色の隻眼が、天井に向けられる。
「私の戦闘能力を、極限まで実験したかった……そう考えている人々が、IO2上層部には少なからずいると思う。危険な敵との戦いを私が回避してしまって、彼らは不満を抱いているだろうな」
「上の連中の思惑なんて、気にするなよ」
IO2と、あの製薬会社との間で、あらかじめ話がついていた。
今回のフェイト救出作戦は、双方の『作品』がどれほどの力を持っているか、それを測定するための実験だった……のだとしても、フェイトとしては驚く気にはなれない。
日米問わずIO2という組織は、そのくらいの事はする。
それを糾弾する資格も自分にはない、とフェイトは思う。
(俺が無様にも捕まったりしたのが、そもそもの始まり……だもんな)
その男は、床に座っている。座った姿勢のまま、束縛されている。
たくましい全身を包むのは、がんじがらめの拘束衣だ。
イオナは、呆れるしかなかった。
「この師範殿は……一体、今度は何をやらかしたのか」
「聞きたいか? まあ、いつもの事さ。ちょいと、やり過ぎちまってなあ」
唯一、拘束されていない顔面が、ニヤリと凶悪に歪む。
良く言えば、仕事熱心な男なのだ。本当に熱心に、殺戮・殲滅任務を遂行する。
イオナの、戦闘師範を務めている男である。
IO2日本支部の、地下懲罰房。
イオナがフェイト救出に赴いている間、この師範もIO2エージェントとして、とある任務を遂行していた。
任務そのものは成功したようだが、何故かこんな所に入れられている。
「いいぜ、超常能力者ってぇ連中はよ」
暴走した超常能力者が、教団のようなものを組織してテロ活動を行おうとしていたらしい。
それを、この師範が見事に阻止してのけた。残虐なほど、見事にだ。
「ちょいと普通じゃねえ力があるってだけで、すぐ勘違いしてバカをやらかす。正義の味方や救世主を気取って得意の絶頂……そこから叩き落として、地べたを這わせる。これがな、たまんねえのよ」
拘束されたまま、師範は楽しそうに、本当に楽しそうに、笑っている。
「超常能力者ってぇ連中は何しろ、てめえが負ける事なんざぁコレっぽっちも考えてねえ。そうゆう奴らが地べたを這って、大げさに命乞いまでしてくれやがる。殺す方も気合いが入ろうってもんじゃねえか」
「聞いたぞ。生かして捕えろという命令だったのだろう? なのに気合いを入れて殺してしまったのか」
イオナは溜め息をついた。
「まったく、何という様だ……すぐにでも貴方に、稽古をつけてもらいたかったのに」
「ほう。可愛い事、言ってくれるじゃねえか」
「まず貴方に勝てないようでは……あの女を倒すなど、夢のまた夢だからな」
父の仇である、あの女。虚無の境界の、女盟主。破滅の女神官。
今のイオナの力では、彼女に一太刀浴びせるどころか、近付く事さえままならない。
復讐のためには、IO2の力が必要なのだ。
「……1つ、気になる事がある」
少しだけ迷った後、イオナは疑問を口にした。
「テロリストまがいの超常能力者を、殺さずに捕えろなどと……何故、そんな命令が出たのだろう?」
「さあな。上の連中の考えてる事なんざぁ」
「今回、貴方が潰した教団……人類の霊的進化を、教義としていたらしいな」
イオナ1人で、調べられるところまでは調べ上げてみた。
「虚無の境界の下部組織を、IO2が殺さずに取り込もうとしていた。そういう事ではないのか?」
「さあな」
曖昧な答え方をしながら、師範はただ凶悪に微笑むだけだ。
それが気に入らなかったから、貴方は皆殺しを実行したのではないのか。
その問いかけを、イオナは飲み込んだ。この師範がまともに答えてくれるとは思えないからだ。
虚無の境界の下部組織。あの製薬会社も、言うならばそうだ。虚無の境界系列の研究で、あの青い瞳の少年を生み出した。
それでいて、IO2とも繋がりを持ちつつある。フェイト、あるいはイオナが、本意ではないにせよ媒介の役割を果たしているのではないか。
IO2と虚無の境界が、あの製薬会社を介して、接近しつつあるのか。
それならそれで一向に構わない、とイオナは思う。
(あの女に近付く事が……出来る、かも知れない)