風を味方に付ければ良い。
加賀見凛は、そんな事を思った。
自分はもしかしたら、負けそうになって気が動転しているのかも知れない。
負けてはならない。負けたら、終わりだ。
刃を抜いての殺し合いであろうと、このようなサッカーの試合であろうと、勝負事というものは常にそうだ。
勝たなければ、ならないのである。
だから凛は、ボールを蹴った。
昨夜見た夢を、脳裏に蘇らせながら、ゴールを狙った。
夢の中で、自分は何者かと戦っていた。
木々の間を走り抜け、跳躍しつつ凛は、その敵に向かって手裏剣を投げた。
風の、方向、吹き方、強さ、全てを無意識下で計算しながら。
「風さん、頼む!」
念じ、叫びながら、凛は蹴った。
蹴られたボールが超高速で弧を描き、敵味方入り乱れるバイタルエリアを切り裂いて飛ぶ。
そしてキーパーの手をかすめ、ゴールに突き刺さった。
「うおおおお加賀見!」
「加賀見の凛ちゃんが、またやってくれたあ!」
クラスメイトたちが、大騒ぎをしている。
シュートを決めた本人は、しかし呆然と立ち尽くしたままだ。
「何だ……一体……」
風が、ボールを運んでくれた。凛には、そうとしか思えなかった。
手裏剣は、狙い通りに命中し、敵を仕留めてくれた。夢の中だったからだ。
ここは現実である。3時限目、体育の授業だ。
ボールが、まるで夢のように、思い通りの軌道を描いてくれたのだ。
自分の力ではない。凛は、それだけを思った。
「お前! やっぱ凄いよ加賀見!」
クラスメイトが2人3人と、駆け寄って来て大騒ぎをする。
「カガリンってさぁ、ここぞって時にやってくれるよなあ! 火事場のクソ力って奴!?」
「お前、帰宅部のフリして陰でこっそり鍛えてんだろ!」
「サッカー部に入れ! お願い、入って下さい!」
もはや試合どころではなかった。
「やれやれ……まいったぜ、今日は」
畳の上に寝転がったまま、凛は呟いた。
1匹のパピヨンが、相槌を打つように小さく鳴く。
加賀見家の飼い犬、花である。
「なあ花ちゃん……俺って一体、何者なんだろうな? 自分探しなんてものに興味はねえ、つもりだったんだけどな」
2階の自室で、凛はペットと会話をしていた。
何者でもない。単なる中学生男子、であるはずだった。
祖母に両親、それに犬が1匹。何の変哲もない一般家庭で自分、加賀見凛は暮らしている。
つい最近、であろうか。変わった事が、あったと言えばあった。
交通事故である。
数日の間、凛は病室で意識を失っていた。
親友を庇って暴走車に撥ねられた中学生、という事で美談になったらしい。今でも時折、マスコミ関係者が接触を求めてくる事がある。
そんな事より、あの日以来、何かがおかしい。
退院してから凛は、昨夜のように奇妙な夢を頻繁に見るようになった。
夢の中で、凛は手裏剣を投げた。刀を振るった。人を、殺した。
「うん、あれって……もしかして……忍者?」
ゲームで、忍者系のキャラクターを使った事くらいはある。
忍者に対する馴染み方など、その程度のものだ。夢にまで見るヒーロー、というわけではない。
そして夢だけではなかった。
今日の体育はサッカーだったが、先日はバスケットボールで、ダンクシュートが決まった。
忍術忍法の類としか思えない力が時折、発揮されてしまう。
あの事故に遭う以前は、そんな事はなかった。勉強と同様スポーツも、まあ可もなく不可もなしといった程度であった。
身体能力は、中学生男子としては低い方ではない。
何しろ小学生の頃は、荒くれていた。校内あるいは他校の悪童を相手に、喧嘩三昧の日々を過ごした。中学生の不良に、飛び蹴りを食らわせた事もある。
飛び蹴りは出来ても、あんなシュートを決めるような脚力が身につくはずはなかった。
「花ちゃんが生まれる、ずぅっと前なんだけどな……うちのテレビがボロくてよ。しょっちゅうガピーってなるのを、ばあちゃんがこう、斜め45度くらいの角 度でぶん殴るわけ。そうすっとまあ、ちゃんと映る事もあったんだけど……俺の身体、それと同じ? 車に轢かれたせいで体調すこぶる良くなっちまったのかな あ」
花が、わんと鳴いた。
お前は馬鹿だ、と言われたのだと凛は思った。
「ははは、まぁバカはバカなりに頑張らねえとな……ってなわけで俺、宿題やんねえと」
凛は机に向かい、教科書とノートを広げた。
勉強をするようになった。喧嘩もしなくなった。
小学校の時とはまるで別人ね、と母には言われた。感心されたのか、呆れられたのかは、わからない。
その母は本日、夜勤である。父も、クレーム対応が長引いて帰れそうにないという。
今、家にいるのは、凛と花の他には祖母だけだ。1階で、もう寝ている。
両親は昔から共働きで、凛は祖母に育てられたと言っても過言ではない。
少しは年寄りらしくしろ、と言いたくなるほど元気で口うるさい祖母だった。殴り合いに明け暮れる孫をどうにか更生させようと日々、老骨に鞭打っていたものだ。
その祖母が1度、倒れた。凛が、小学校6年生の時である。
祖母の入院中、凛は1度も喧嘩をしなかった。暴力を振るわなかった。絡んでくる相手には、わざと1発だけ殴られた。大抵の輩は、それで気後れしてくれたものだ。
自分は、願を掛けていた、つもりであったのだろうと凛は思う。
それが効いたわけでもなかろうが祖母は無事、退院した。凛が、小学校を卒業する頃である。
孫の卒業・進学と、祖母の退院を、加賀見家では同時に祝った。
その後しばらくして、今度は凛が交通事故で入院する事となる。
幸い、大した怪我ではなかった。
おかしな夢を見るようになったり、忍法のような事が時々出来るようになったりと、まあ変調と言えばその程度のものだ。
教科書の英文をひたすら訳しながら、凛はふと視線を動かした。
机の脇に立てかけてあるものに、どうしても目が行ってしまう。
鞘を被った、短めの日本刀である。最初は、玩具だと思った。
小太刀、というものであろう。忍者・アサシン系のキャラクターが、よく携えている得物だ。
凛が退院した時に、祖母がくれた。と言うより押し付けてきた。
御守りだよ、持っておいで。祖母は、そう言っていた。
加賀見家に先祖代々伝わるもの、であるらしい。先祖になど、凛は興味を持った事がない。
護身刀、と祖母が呼んでいたそれを、凛は手に取った。
意外に重い。人を殺せる武器の重さだ、と凛は思う。
本物のわけがない、と思って抜いてみた事がある。そして紙の束を切ってみた。
恐ろしいほど、よく切れた。
「この国は最近……銃刀法が、あんまり仕事をしてねえって事かなぁ。花ちゃん」
花は部屋の隅で丸くなり、寝息を立てていた。
昼間、授業中ですら、教科書を眺めていると眠くなるのだ。
夜間に英文など読んでいたら、寝入ってしまうのは当然であった。
机に突っ伏し、半ばいびきのような寝息を発していた凛は、花の鳴き声で目を覚ました。
「んー……何だよ花ちゃん、起きて勉強しろってか?」
花が、尻尾を振りながら凛を見上げている。くりくりとした黒い目が、何かを訴えている。
この小さなパピヨン犬が、人間にはない能力で一体、何を感じ取ったのか。やがて、凛にもわかった。
庭の方から、何やら不穏な物音が聞こえて来る。
あまり上手ではない忍び足と、小声の会話。
凛は少しだけ窓を開け、庭を盗み見た。
夜闇の中で、人影が2つ、蠢いている。両親が帰って来た、わけではなかった。
「静かにしねえか、バカが!」
「だ、だってよぉ……何か、変なもん踏んじまったよう」
「何でぇ、ただの花壇じゃねえか。クソが、こんなとこに花なんざ植えやがって!」
「お、おめえこそ静かにしろよ。この家の連中、起きちまうぞ」
「起きたら起きたで構わねえだろうが。何のためにナイフ持って来てんだよ!」
男2人組の、泥棒。窃盗犯、あるいは強盗。
警察を呼ばなければ、と凛は思い、スマートフォンを手に取ろうとして、やめた。
警察に任せよう、という考えが、頭の中から消し飛んだ。
2人の男が、花壇を踏み荒らしていたからだ。
祖母が大切に育てている、花壇だった。
「てめえらぁああああああ!」
深夜だと言うのに大声を出しながら、凛は2階の自室から飛び降りた。
普通に、着地する事が出来た。
「な、何だてめえ……!」
2人組が狼狽しながらもバチッ! とナイフを開く。
「この家のガキか! 大人しくしてりゃあ金盗るだけで勘弁してやったのによォー!」
1人が、躊躇いなくナイフを突き込んで来る。
凶器を持った男たちを、家に入れるわけにはいかない。1階では、祖母が寝ているのだ。
負けるわけにはいかない。凛は、それだけを思った。
戦いには、必ず勝たなければならない。勝たなければ、守れないのだ。
刃の閃光が、顔面のすぐ近くを通過して行く。
まるで通行人を避けるように、凛はかわしていた。
素人の振り回す刃物である。
夢の中で、小太刀を振るい手裏剣を撃ち込んで来る、あの敵たちと比べれば、攻撃と呼べるほどのものですらない。
そんな事を思いながら凛は、傍で前のめりになっている男の足を蹴り払った。
転倒した男の顔面を、間髪入れずに踏みつけた。足首をグリッと抉り込み、体重をかけた。
足の裏で、男の悲鳴が潰れるのを、凛は感じた。
「て……てめ……」
もう1人が、ナイフを持ったまま怯んでいる。
怯んだ隙を逃さず凛は踏み込み、跳躍し、右足を突き込んだ。
あの時、中学生の不良に喰らわせた時以来の、会心の飛び蹴りだった。
吹っ飛んだ男が、塀に激突し、ずり落ちる。
さらに蹴りを喰らわせようとした凛のズボンに、花が食らいついた。
「……俺は……!」
夢から覚めたような気分に、凛は陥った。
だがここは、あの夢の中ではない。
2人の男が、鼻血と涙と悲鳴を垂れ流しながら逃げ去って行く。それを凛は、呆然と見送るしかなかった。
「何だ……何だよ、俺……どうなっちまったのかなぁ、花ちゃん……」
花は答えてくれない。ズボンの裾に噛み付いたまま、黒い目で凛をじっと見上げるだけだ。
あの護身刀を部屋に置いたままで本当に良かった、とだけ凛は思った。
手元にあれば間違いなく、今の2人に対し、抜いていただろう。