三面六臂の殺戮者

「あぁ? 何だおめえら、酒持って来い酒! 女もいねーじゃねえか、どうなってんでぇオイ!」
 1人は、老人である。老害と呼ばれる類であろう。黒装束の男たちに取り押さえられたまま、喚き散らしている。
 もう1人も、一見すると老人である。髪は真っ白で顔はやつれ、喚き散らす元気もないまま松葉杖にすがりついている。左脚、それに右腕が、上手く動かないようだ。
 年齢そのものは、よく見ると意外に若い。40代、であろうか。
 もう1人は、肥り気味の若い男だった。美少女キャラクターがプリントされたシャツに、汗臭さが染み込んでいる。
 そんな無様で汚らしい身体に、黒装束の男たちが蹴りを入れていた。
「何だ何だ、こんな萌え豚クソ豚まで霊的進化に導かなきゃならねえのか俺たちは!」
「ああ臭え臭え! こんなのが混ざったら、神聖なる滅びが穢れてしまううう!」
 蹴り転がされながら、まさに豚の如く泣き喚く肥満体。
 生きる価値もない、としか表現しようのない3名を見渡しながら、彼は苦笑するしかなかった。
「よくもまあ……ゴミばかり、集まったものよ」
「ゴミの有効活用が貴方の仕事だ。わかっておられような」
 黒装束の男の、1人が言った。
「生きた廃棄物どもを、我らの戦力として造り直してもらう。貴方の、その身体のようにな」
「私の、10分の1程度の力でも持たせられれば良いのだが」
 機械化した右手をギュイィーンと鳴らしながら、彼は応えた。
 右手だけではない。左目は、微生物をも視認出来る義眼。骨格は8割近くが特殊金属のフレームと化し、筋肉にも細胞強化を施してある。この身体、今や人の形をした兵器であると言っても良い。
 頭脳でIO2ジャパン科学技術長官の地位にまで上り詰めた自分が、身体能力においても人類の頂点に立ったのだ。
 このゴミのような者どもを、そんな自分と同じような存在に造り替える。
 虚無の境界が、そのように要求してきた。
 彼らが、とある山中に隠し持った秘密施設。
 捜索願いも出されないような者たちが100人近く拉致され、ここに強制収容されている。
 その中からとりあえず3名が選ばれ、施設最奥部の実験室に連行されて来たところである。
 人体改造設備を内蔵した手術台が複数、並んだ実験室。
 今から数時間、これら設備をフル稼働させる事となる。生きたゴミのような者たちを、優れた生体兵器へと造り変えるために。
 やれるだけの事は無論やるが恐らくは無理だろう、と彼は思う。こんな者たちでは、どれほど優れた改造手術を施してやったところで、せいぜい使い捨ての兵隊にしかならない。
 このような輩ではなく、あの少年ならば、と彼は思う。
(最高の素材……破壊神とも呼ぶべき、究極の生体兵器と成り得るものを……)
 だが現実に今、目の前にあるのは、屑も同然の素材である。これらを使って、とりあえず結果を出すしかない。虚無の境界の戦力を、ある程度は自由に使えるようになるまでは。
(……焦るまい。お前はいずれ私のものだ……緑の瞳の、少年よ)
 この場にいない少年に語りかけながら彼は、片手を上げた。
 黒装束の男たちが、その合図に従って動いた。屑のような3名を無理矢理に引き立て、手術台に押さえ付けようとする。
 老人が、喚き散らした。
「何だオイ、話が違うじゃねえか! 酒! いくらでも飲ましてくれるんじゃねえのかよ!」
「…………の無修正DVD! フィギュア付きの限定バージョン! 格安で売ってくれるって言うから、ついて来たのにぃいいい!」
 肥り気味の青年が、泣き叫ぶ。
 相変わらず物静かなのは、白髪の男だ。松葉杖を奪い取られ、手術台に押し付けられながら、辛うじて聞き取れる声を発している。
「楽に……死なせて、くれるんだろうな……」
「死ぬか生きるかは、お前たち次第だ。私は生かしてやるつもりでいるがな」
 虚無。ふと彼は、そんなものを感じた。
 この白髪の男は、周囲にいる虚無の境界の者たちよりも、ずっと虚無と呼ぶにふさわしいものを心に抱えている。
(屑と思ったが……存外、使い物になるかも知れん)
「……まあ、どうでもいい。俺の全部を、ごっそり違うものと取り替えてくれるんなら」
 男は静かな声を発し、他2人は喚き続けた。
「やめて、やめてくれ! 手術するなんて聞いてないいいぃ……ああでも、触手とか生やしてくれるんなら」
「酒! いいから酒飲ませろ酒酒酒酒! 酒がねえと、おらァおかしくなっちまうんだよおおお! あ、あっ、顔が、あっちこっちに顔がよおぉ」
 アルコール依存症と思われる老人が、幻覚を見始めていた。
「泣いてやがる、怒ってやがる、わわわ笑ってやがる、俺の事わらってやがるぅううヒへへへへへへ」
「そろそろ静かにしろ。消毒用アルコールなら、いくらでも堪能させてやる」
 そんな彼の言葉を、しかし老人は聞かず、黒装束の男たちに押さえ付けられながら笑っている。
「ひへっ、へへへへ顔が、顔が、顔がいっぱいあるからぁあああああ」
 光が、いくつも閃いた。
 真紅の飛沫が、大量に噴出した。
 黒装束の男たちが倒れ、手術台の周囲に折り重なってゆく。
「何……!」
 彼は息を呑んだ。
 義眼が故障した、としか思えぬ光景であった。人工視覚が、有り得ない映像を捉えている。
 折り重なった屍たちを踏み付けるようにして、老人は手術台から床へと降り立っていた。
 その右手には、刃が握られていた。ナイフ……いや、クナイである。
「顔が沢山あるから……って事でまあ、アシュラなんて呼ばれてる」
 先程までとは別人のように静かな声を発しながら、老人は左手で、己の顔面を引き剥がした。
 その下から現れたのは、何の変哲もない男の顔である。特徴に乏しい、何にでも化けられる顔。
「貴様は……!」
 息を呑む彼に、特徴のない、だが眼光だけは鋭い男の顔が、ニヤリと微笑みかけてくる。
「久しぶりだな。あんたの顔は2度と見たくなかったんだが……仏教で言うところの、怨憎会苦って奴かな」
「穂積忍……」
 エージェントネーム・アシュラ。複数の顔を使い分けながら、殺戮を行う男。
 いささか迂闊であった事を、彼は認めざるを得なかった。自分を消すために誰かが動くとしたら、まずは確かに穂積忍であろう。
 それにしても、これほど早くにこの場所を探り当てられるとは。
「馬鹿な……何故、この施設の場所が」
「調べ事の得意な助っ人が、アメリカから来てくれたんでなあ」
 穂積の身体が、本物の酔っ払い老人の如くよろめき、翻った。
 いくつもの光が飛んだ。
 虚無の境界の男たちが、黒装束から拳銃を引き抜き、構えようとしながら、ことごとく光に射貫かれ、倒れてゆく。
 全員の眉間あるいは首筋に、小さなクナイが突き刺さっていた。
 肥り気味の青年が、手術台の上で呆然と座り込む。
 白髪の男が、弱々しく上体だけを起こした。
「何だ……あんた、アル中のジジイじゃなかったのか……」
「タバコも酒もやらないんでな。酔っ払いの真似は、苦労したぜ」
 松葉杖がなければ立ち上がれない男の姿を、穂積は一瞥した。
「そんな身体なのに悪いが、自力で逃げてくれ」
「仲間を見つけた、と思ったのにな……」
 虚無を丸出しにしながら、白髪の男は言った。
「俺も、酒で何もかも駄目にした男さ……女房をぶん殴って、子供を蹴飛ばして……逃げ帰る場所なんか、どこにもないんだ……」
「不幸自慢は、暇な時に聞いてやるよ」
 屑同然の素材2名を、背後に庇う格好で、穂積は立った。
 今や頭脳・肉体共に人類最強の存在となった自分の眼前に、立ち塞がっている。罰を与えねばならない、と彼は思った。
「末端の戦闘員に過ぎぬ身でありながら……分際をわきまえず、私に刃向かうか」
「あんたはもう俺の上司じゃあないからな。遠慮なく、ぶちのめせるってもんだ」
 穂積が笑った。
「まだ上司だった時のあんたを、容赦なく叩きのめした奴もいるけどな」
「あやつは殺す。生きたまま、臓物を引き裂いてくれる」
 機械義手が、彼の憎悪を注入されたかの如くギュイィーンッ! と凶暴に起動する。
「そして、あの子は私のものとなる……」
「やめておけ」
 穂積が、ゆらりとクナイを構えた。
「あんたが、あの2人に勝てるわけないだろう? 俺なら……あいつらよりは、あんたを楽に死なせてやれるぞ」

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蠢く悪意

緑色の瞳は、何も見ていない。
 と言うより、ここにはない何かを見据えている。睨んでいる。
 憎しみの眼光だった。
 何をそんなに憎んでいるのかは、しかし少年自身にもわかってはいないだろう。
 5歳か、6歳か。まだ少年とすら呼べない年齢、とも言える。
 その小さな身体を満たす憎悪の炎が、エメラルドグリーンの眼光となって、左右の瞳から溢れ出しているのだ。
 憎しみを直接叩き付けるべき相手はしかし、もうこの世にはいない。穂積忍が率いるNINJA部隊によって、あらかた殺し尽くされた。
 行き場のない憎しみを、瞳の中で渦巻かせ燃え上がらせている、小さな男の子。
 今は、叔父である青年と一緒に暮らしている。
 その青年が、言った。
「何かしてくれようという意思があるなら……気持ちだけもらっておくよ、穂積君」
「お前……本当に、これでいいのか」
 無駄な問いかけであるという事は穂積自身、理解はしている。
「自分で言う事じゃあないが、こう見えてもNINJA部隊の指揮官だ。俺が口を利けば……解雇処分の1つや2つ、取り消せない事もないと思うぜ」
「そこまでして残りたい職場じゃないからね」
 微笑みながら青年は、甥の頭を撫でた。
 撫でられても、男の子は表情を動かさない。
 行き場のない憎悪の念を緑色の眼光に変え、瞳の中でくすぶらせたまま、押し黙っている。
 青年によると、家で会話をする事も、ほとんどないという。
「そんな職場でも、給料だけは悪くなかった。おかげで、いくらか貯えも出来た。次の仕事は、焦らず探す事にするよ。コンビニのバイトでもしながら、ね」
 彼は、仕事を辞めた。
 一言も口を利かない甥と、一緒に過ごす時間が増える、という事でもある。
 青年は身を屈め、小さな甥と目の高さを合わせた。
「僕は、馬鹿をやらかして仕事を辞める羽目になった。だけど心配は要らない。甥っ子の面倒を見るくらいの貯えはある……お前はただ、僕を嘲笑っていればいいんだ」
 言葉が通じているのかどうかは、わからない。
 構わず、青年は言った。
「僕のように、なってはいけない。それだけを、お前には学んで欲しい」
「…………」
 男の子は相変わらず、何も言わない。
 ただ緑の瞳がようやく、ここにはない何かではなく、目の前にいる叔父の顔を映した。
 穂積は、そう感じた。
(お前の叔父貴はな、お前のためにIO2を辞める事になっちまったんだぞ……)
 その言葉が、穂積の喉の辺りまで出かかっていた。

 海外研修というのは、要するに左遷である。穂積忍は、そう思っている。
「さもなきゃ島流し……かな」
 ぽつり、と呟いてしまう。
 その言葉に、米国人女性は反応した。
「ほう。この日本という国が流刑地であると、日本人である貴様がそう思うのだな」
「おっと……日本語、話せるじゃないか。しかも上手い」
「貴様の英語は聞くに耐えん。日本語で会話してやる」
 IO2アメリカ本部から、研修という名目で日本支部にやって来た、と言うより飛ばされて来た女性である。
 かなり気を遣って若作りをしている。最初に彼女を見た時、穂積はそう思った。
「島流しにされるほどの一体何を、あんたがしでかしたのか、ちょいと興味はあるな」
「上司を殴った」
 あっさりと、彼女は応えた。
「飛ばされるだけで済んだのだから、まあ運が良いとは言える」
「……だろうな」
 穂積は思い返していた。あれから7、8年は経つ。
「上司をぶん殴ってクビになった奴なら、俺の知り合いにも1人いる。そいつは、まあ運が悪かったのかな」
 緑色の瞳をした、あの男の子も、今は中学生だ。
 学校で時折、他愛もない騒動を引き起こしている。
 問題があるとすればそのくらいで、まあ穂積が思っていたより、ずっと真っ当に育ってはくれた。
「……その、殴られた上司というのは?」
 米国人女性が、おかしな事に興味を抱いている。
「今頃、どこで何をしているのだろうか」
「さあな。嫌な野郎だったし、俺の知った事じゃあない」
「IO2ジャパンでも指折りの猛者が、半ば殺すつもりで暴行を加えたのだ。数ヶ月の入院で済んだのは、それこそ運が良かったと言える」
 女性が言った。
 穂積は、耳を疑った。
「あんた……調べたのか? そう簡単に調べられる事件じゃあ、ないはずなんだがな」
「私が調べたのはシノブ・ホヅミよ、お前のこれまでの実績だ。何しろ現場で動くお前たちに、後ろから色々と指示を下さなければならない立場だからな。どういう仕事をする者たちなのかは、知っておかねばならん」
 女性が、青く鋭い瞳を向けてくる。
 観察されている、と穂積は感じた。
「特に大きな実績は、8年ほど前……虚無の境界と関わりのある研究施設を1つ、潰しているようだな。そこで実験材料にされていた子供が無事、救出された」
「めでたしめでたし。それで終わりさ」
「お前の、その仕事はな。だが一方で、別の何かが始まってしまった……救出された子供に、IO2ジャパンの上層部にいる者たちが目をつけたのだ」
 あの子供は、叔父である青年が引き取って育てる事になった。
 その青年も当時はIO2日本支部の末端エージェントであったから、上層部の意向には逆らえなかった。逆らえない、はずだったのだ。
「特に乗り気であったのは、当時IO2ジャパンで科学技術課の長官を務めていた男だ。お前が救出した子供を、その男はいたく気に入った。強力な、生体兵器の材料としてな……有り体に言えば、虚無の境界の研究施設で行われていたのと同じ事を、その子供に施そうとしていたわけだ。IO2の設備を使って」
 結果、その長官は、最も怒らせてはならない男を怒らせてしまった。
「とある1人のIO2エージェントに、長官は命じた。預かっている子供を差し出せ、と……返答の代わりに、そのエージェントは拳を振るった。長官の片目は潰れ、眼窩から脳漿が溢れ出した。蹴りの一撃で、長官の身体はへし曲がり、背骨は折れ、口から臓物が」
「待て待て。あいつも、そこまではやってない」
 穂積は片手を上げた。
「まあ……手足の1本くらいは折っていたかな」
「お前は、それを黙って見ていたのか?」
「恐くて動けなかった。いやあ小便ちびりそうだったぜ、冗談抜きで」
 その長官は入院を強いられ、青年は査問にかけられた。
 結果が、解雇処分である。
 警察沙汰にはならなかった。何もかも内々で片付けようとするIO2ジャパンの隠蔽体質が、この場合は幸いした、と言うべきか。
 問題が1つあるとすれば、その長官が、入院先の病院から行方をくらませてしまった事くらいであろうか。
 失踪、そのまま退職という扱いになっている。
「それにしても、まあ脳漿とか臓物とかはともかく……よくも、そこまで正確に調べ上げたもんだ」
「調べ事は得意でな。それで成り上がってきたようなものだ。私には、お前たちのような戦闘能力もない」
「その割に、上司をぶん殴ったりもするわけだな」
 この女性が何故、そんな暴力事件を起こしたのか、本人に訊いても答えてはくれないだろう。
 もしかしたら、あの青年……今はもう穂積と同じく30代半ばの中年だが、とにかく彼と同じではないのか。
 誰かを守るために、庇うために、拳を振るってしまったのではないか。
 特に何の根拠も無く、穂積はそう思った。

 脳に痛みをもたらすだけだった人工視覚も、慣れれば心地良いものだ。
 殴られて失明した左眼球も、回復不可能なほど骨を砕かれた右腕も、人工物に取り替えた。
 かつて自力でIO2ジャパン科学技術長官の地位まで上り詰めた、自分の力をもってすれば、容易い事だ。
「逃がさんぞ……絶対に、逃がしはせん」
 完全に機械の義手となった右手をギュイィーンと鳴らしながら、彼は呻いた。
 今はこの場にいない相手に、語りかけた。
「お前は、私のものだ。私の手で……最強の、生ける究極兵器となるのだ」
 8年前、虚無の境界の研究施設から救出された子供。
 あのエメラルドグリーンの瞳の輝きは、忘れられない。禍々しいほどの、力の表れだった。
 生体兵器として、最高の素質を有する子供だった。
「貴方、IO2では随分と嫌われていたようですなあ」
 黒装束の男たちが、口々に言った。
「負傷そして入院……それを機に、貴方を長期療養という名目で第一線から退かせようとする力が働いた」
「だから貴方は、我々のもとに身を寄せるしかなかった」
「まあ我らとしても、IO2日本支部に関する様々な情報を、貴方から入手する事が出来た。こうして協力するのは、やぶさかではない」
「ただ1つだけ……あの子は我々『虚無の境界』の研究成果であって、貴方の私物ではない。それだけは、どうかお忘れなきように」
(愚かな狂信者どもが……まあいい、今は貴様らを利用してやる)
 かつて長官であった男は、心の中で呻いた。
(だが……あの子は、私のものだ……)

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ウィル・オー・ウィスプは魂を照らす

魔女がいる。妖精や幽霊もいる。吸血鬼に狼男、フランケンシュタインの怪物もいる。
カボチャのお化けが、街じゅうに溢れかえっている。
問題は、それらの中に「本物」がいるかも知れないという事だ。
「ハロウィン……か」
様々な仮装をした人々が行き交うニューヨークの街角で、フェイトは呟いた。
警戒任務の最中である。
一組の母子が、傍らを通り過ぎて行く。母親はグラマラスな魔女、子供は小さな狼男。付け耳と尻尾が、可愛らしく似合っている。4歳か5歳くらい、であろうか。
手を繋ぎ、楽しげに笑い語らいながら遠ざかって行く、魔女と狼男の母子。
その背中を、フェイトはじっと見送った。
自分は、あんなふうに母親と手を繋いで街を歩いた事など、あっただろうか。
ふと、そんな事を思ってしまう。
無力な子供・工藤勇太であった幼い頃。最も親に甘えたい、大っぴらに甘える事が許される時期の自分。
それをフェイトは、最近ようやく冷静に思い出せるようになっていた。
父親は、ただ酔っ払って暴力を振るうだけだった。母親は、ただ泣くだけだった。
甘える事など、出来なかった。
だから、なのであろうか。高校生の頃から勇太は、おかしな夢を見るようになった。
「何だったんだろうなあ、本当にあれは……」
フェイトは頭を掻いた。
本当に、愚かしい夢であった。
今はもう見ていない。IO2に入った頃から、見なくなった。
思い出したくもないのに記憶から消えてくれない、奇天烈な夢。
「……そんな事どうでもいい。仕事しろ、俺」
フェイトは自分を無理矢理、警戒任務に引き戻した。
化け物の仮装をした人々の中に、本物の化け物が潜んでいるかも知れない時期である。しっかりと、気を引き締めなければならない。
フェイトがそう思った時には、しかし遅かった。
街じゅうにいるジャック・オー・ランタンの1人が、ゆらりと近付いて来てフェイトの顔を覗き込んでいる。
紫色のマントに包まれた身体。首から上は、目と口がくり抜かれたカボチャである。
くり抜かれた穴の中で、真紅の眼光が妖しく燃え上がってフェイトに向けられる。
被り物、ではない。本物のジャック・オー・ランタン。
直感・警戒しながらも、フェイトは身体を動かす事が出来ずにいた。
真紅の眼光が、全身に絡み付いて来た。

 

 

高校生の時、小さな男の子の兄弟と知り合いになった。
獣の耳と尻尾を生やした、仔犬のような兄弟だった。今どうしているのかは、わからない。
彼らと同じような生き物にフェイトは今、成り果てていた。
「こ、これは……」
五歳児ほどまで小型化した身体に合わせ、黒いスーツまでもが縮んでいる。まるで仕立て直されたかのように。
ズボンの尻の部分には小さな穴が生じ、そこから長めの尻尾がにょろりと伸び現れている。猫の尻尾である。
頭には、黒髪をはねのけるようにピンと立った獣の両耳。
ハロウィンの仮装ではない。猫科の耳と尻尾が、フェイトの頭と尻から生え伸びているのだ。
高校生の頃によく見ていた、おかしな夢が、復活していた。
否、夢ではない。ここは現実の世界……のはずなのだが。
「こ、これは一体、これは一体」
短くなった手足をおたおたと動かし、慌てふためくフェイトに、2人組の警官が近付いて来た。
「いよう、どうした坊や。迷子かい」
「ハロウィンだから、ちいと遊び過ぎちまったのかなあ」
仔猫のようになったフェイトの頭を、警官たちが馴れ馴れしく撫でてくる。
「おっ……この耳、良く出来てるなあ」
「こっちの尻尾も、なかなかのもんだぜ。ダディに買ってもらったのかい、それともマミィに作ってもらったのかい?」
父も母も、そんな事はしてくれなかった。いや、そんな話をしている場合ではない。
「お、俺は仕事で来ているにゃ! 迷子扱いするにゃー!」
警官たちの手を振り切って、フェイトは走り出した。
走りながら、口を押さえる。何か言葉を発すると、語尾がおかしな感じになってしまう。
(にゃ……にゃんで、こんな事に……)
先程のジャック・オー・ランタンは、すでに人込みの中へと姿を消している。
やはり、本物がいた。仮装ではない、本物の人外が。
こんな所で、おたおたと走り回っている場合ではない。IO2本部に、報告を入れなければ。
そう思いつつ、フェイトは流されていた。
様々な妖怪が、妖精や魔女、幽霊が、楽しげに妖しげに踊り狂っている。
パレードのような仮装行列の中に、フェイトは紛れ込んでしまっていた。
「ふっ、ふにゃ、ふにゃああ……」
仔猫のような姿のままフェイトは、踊り狂う人込みの流れに翻弄され、目を回した。
目を回しながら突然、宙に浮かんだ。
優しい、だがどこか冷たい感触が、フェイトの小さな身体を包み込んでいる。
抱き上げられていた。ほっそりとした、女の子の両腕にだ。
「ねえフェイト……これ、新しい超能力?」
冷たいほど涼やかな、聞き覚えのある声が、猫科の耳をくすぐった。
「あんまり役に立つとは思えないけど」
「アデドラ……」
フェイトは青ざめた。最も恐れていた事が、起こってしまった。
この姿を、知り合いに見られてしまう。悪夢そのものの事態だ。
「お、俺はフェイトじゃにゃい。単なる通行人Aにゃのだ。この耳と尻尾はただの仮装、ハロウィンだからにゃー」
その耳と尻尾を、アデドラは容赦なく弄り回した。
ひんやりとした繊手が、猫科の耳を摘んでくすぐる。ふっさりと伸びた尻尾を、尻もろとも撫で回す。
「ふにゃにゃにゃにゃ、やややややめるにゃ」
「フェイトじゃないなら、それでもいいわ。単なる野良猫Aって事にしときましょう。さ、行くわよ」
「ど、どこへ……」
フェイトの問いに、アデドラは答えない。
迷子を心配してか、先程の警官たちが走り寄って来た。
「御心配なく。この子、あたしの弟ですから」
そんな事を言いながらアデドラは、すたすたと歩き出し、フェイトを抱き運んだ。
(お、俺の方が年上にゃんだぞ……)
ゴールドラッシュの時代から存在し続けている少女に、フェイトは思わず、そう言ってしまいそうになった。

 

 

アデドラが通っている学校では、ハロウィンパーティーが盛大に催されていた。
様々な仮装をした男女の生徒たちに混ざって、アデドラはいつも通りの格好である。小柄な細身に良く似合う、ゴシック・ロリータ風の衣装。
仮装など必要ないくらい、このハロウィンというイベントに馴染んでいる。フェイトは、そう思った。
「それで……野良猫のAさん。これ、一体どんな超能力?」
ほっそりと綺麗な指に巻き付けるような感じで、フェイトの尻尾を撫でながら、アデドラが訊いてくる。
「見れば見るほど、使い道がなさそうなんだけど」
「ち、超能力じゃにゃい……ただの変な夢にゃ……って言うか、いじり回すのやめて欲しいにゃ」
「夢なら、そのうち覚めるかしらね」
フェイトの頬をぷにーっと摘んで引っ張りながら、アデドラは言った。
「あたしは、このままでも一向に構わないけれど」
「ふみぃ……」
短い手足をじたばたと暴れさせながら、フェイトは情けない声を出すしかなかった。
そこへ、どすどすと足音が近付いて来る。
「よおアディ。せっかくハロウィンなんだからさあ、こっこれ着なよおぉ」
例の、嫌日議員の子息である。
吸血鬼のつもりであろうか、でっぷり肥えた身体を無理矢理タキシードに詰め込み、脂ぎった顔面を青白くメークしている。
そして、アデドラに着せるつもりらしい衣装を両手で広げている。
「今日のために日本から取り寄せた、魔法少女◯◯◯のハロウィン限定コスチューム! た、高かったんだから着替えなよ、今すぐこの場で変身セリフ決めながらあああ」
「ふーッ!」
フェイトは牙を剥き、背中を立てた。その小さな身体で、アデドラを庇うような格好になった。
上院議員の息子が、たじろいでいる。
「な、何だこのチビ……ん? どこかで見たような」
「ちょっと、ちょっとちょっとアディ! 何なのよその子は、可愛いじゃないのよおおおお!」
議員子息の肥満体が、車にでも撥ねられたかのように吹っ飛んだ。
大勢の魔女や妖精が、押し寄せて来たところである。
仮装した、女子生徒の群れ。猛然と集まって来て、フェイトを取り囲む。
「かわいー! 本物の仔猫ちゃんみたい!」
「何なに、アディの弟? いとこ? まさか彼氏とか言わないよねえ!?」
「そっそれともまさかペット? この女ぁ、こんな小っちゃな男の子に猫耳とか尻尾とか付けて、一体何考えてんのよっ!」
日本の女子高生よりいくらか大人びた少女たちが、しかし子供のように喜びはしゃいで、フェイトの小さな身体を弄り回す。子供用サイズになった黒いスーツに、チョコレートやらキャンディやらを押し込んで来る。
「ほらほら、お菓子あげる。悪戯もしちゃう!」
「トリック・アンド・トリート! きゃははははは!」
撫で回され、耳や尻尾を弄られながらも、フェイトは思う。
(あ、アデドラの奴……友達も多くて、けっこう楽しくやってるみたいにゃ……)
その時。視界の隅で、真紅の光が妖しく輝いた。
ジャック・オー・ランタンが、そこにいた。
ふわふわとマントを揺らめかせて空中に立ち、両眼を赤く禍々しく輝かせている。
女子生徒たちが、ざわついた。
「あれ誰? 良く出来たジャッコランタンだけど……」
「何か浮かんでるし、光ってる……」
「え? まさか本物……なわけ、ないよね?」
彼女らによる包囲の中から、フェイトはぴょーんと飛び出し、叫んだ。
「早く逃げるにゃ!」
そして猫の如く着地し、見上げて睨む。浮揚する、カボチャの怪物を。
「もう逃がさにゃい……とっとと俺を元に戻すにゃーっ!」
懐から、フェイトは拳銃を取り出した。スーツに合わせて小さくなってしまった、まるで玩具のような2丁拳銃。
それらをフェイトは、空中のジャック・オー・ランタンに向かってぶっ放した。
ぱん、ぱんっ! と銃声が可愛らしく響いた。
左右2つの銃口から、万国旗と紙吹雪が飛び出した。
玩具のような、ではなく拳銃は2丁とも、本当に玩具と化していた。
「ふにゃ……そ、そそそそそそんにゃ」
おたおたと慌てふためくフェイトに、ジャック・オー・ランタンがユラリと迫る。
くり抜かれた両眼窩の奥で真紅の眼光が燃え上がり、大きな口がさらに開いて牙を剥く。
「渡さない……」
アデドラが、ふわりと進み出て来た。
「フェイトの魂は、あたしのもの……横取りは、させない」
アイスブルーの瞳が冷たく輝き、真紅の眼光を正面から受け止める。
2色の眼光がぶつかり合い、そして爆ぜた。
光の爆発に呑み込まれながら、フェイトはゆっくりと意識を失っていった。
失う寸前、アデドラの声が聞こえた、ような気がした。
「フェイトの魂って、いろんな形をしてるのね。その猫ちゃんの他にも、まだまだありそう。全部、見てみたいから……しばらくは食べないでいてあげる」

 

 

ベッドの上で、フェイトは身を起こした。
アパートメントの自室である。
「夢……」
自分の身体を、見回してみる。頭を触り、黒髪を掻き乱してみる。
獣の耳など生えていない。尻尾もない。22歳の、青年エージェントの身体である。身に着けたままの黒いスーツも、大人サイズだ。
その懐やポケットに、大量の菓子が詰め込まれていた。チョコレート、キャンディ、ビスケットその他諸々。
「勘弁してくれよ……」
チョコレートをかじりながら、フェイトはぼやくしかなかった。

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滅びの祭礼

足元で、ガクリと石畳が沈んだ。
(罠……!?)
 フェイトがそう思った時には、石畳だけでなく、壁が、天上が、崩落を開始していた。
 互角に戦っていた、ように見えて、実はこの罠に追い込まれていたのか。リボルバー拳銃とナイフを操る、このサングラスの男に。
 彼の姿が、降り注ぐ巨石の向こう側に消えていった。

 壁も天井も一緒くたに崩落し、IO2エージェントを名乗った若者を呑み込んでいた。
 男は、サングラスを少しだけ押し上げた。
 ディテクター、と呼ばれている。
 その名にふさわしい冷静さを、しかし今の自分は失っている。完全に、私情で動いている。
「いいさ……こんな名前、いつだって返上してやる」
 呟きながら、ふと思う。たった今、巨石の下敷きとなって姿を消した若造。
 彼は本当に、虚無の境界の一員だったのか。
 恐るべき手練であった。あの動きにディテクターは、組織的な戦闘訓練を感じ取った。
 自分と同じ訓練を積んできた若者ではないのか。
 もしも彼が、本当にIO2エージェントであったとしたら。
「……生き延びて見せろ。生きているなら、な」
 一言だけ声をかけながらディテクターは、その場を走り去った。

「生きてる……けどさ……」
 通路脇の石像の陰でフェイトは、ぐったりと声を漏らした。
 テレポート。
 超能力と呼ばれる技能の中でも、特に難儀な荒業である。気力を、体力を、とてつもなく消耗する。
 力尽きかけた身体を、フェイトは無理矢理に立ち上がらせた。石像にすがりつくような格好になった。
 あの男は、どこへ向かっているのか。虚無の境界の用心棒かと思われた、サングラスの男は。
「お互い……間抜けな勘違いをしてる、って事なのかな……」
 あれは間違いなく、正式な戦闘訓練を受けた事のあるIO2エージェントの動きだった。
 サングラスを手放さない、腕利きのエージェント。
 1人、フェイトは名を聞いた事がある。IO2において、半ば伝説になりかけている名前だ。
 彼が本当にその人物であるかどうかは、後をつければわかる事だ。

 ピラミッド最奥部。広大な石造りの遺跡内に、人間大のカプセルが100個近く、設置されていた。
 それらの中で、少女たちが培養液に漬けられ、眠っている。
 全く同じ姿形をした、100人近い美少女たち。
 うち1人だけがカプセルではなく、遺跡の中央部、十字架のような拘束台に、磔の形に束縛されている。
 その周囲で、白衣を着た男たちが忙しげに動き回っている。虚無の境界の技術者であろう。
 1人が、進み出て来て言った。
「侵入者がいるとは聞いていたが……やはり貴様か」
 巨漢である。理系の白衣が、あまり似合っていない。
「愚かな、そして哀れな奴よ。あれを本当に、己の妹であるなどと思い込んでおるのか?」
 十字架の形の拘束台に、白衣の巨漢はちらりと視線を投げた。
「あれは人ではない、生ける殺戮兵器よ。その力、人々に滅びを経験させ、新たなる霊的進化をもたらすためにのみ存在する……貴様の、私物ではないのだよ」
「滅びるのは、お前たちだけだ」
 言葉と共にディテクターは、ゆらりと白衣の巨漢に歩み寄った。左手で、ナイフを揺らめかせながら。
 残弾数が心もとない。少女を連れてここから脱出する事を考えると、銃弾は節約した方が良さそうだ。
「このアメリカは、侵略によって成り立った国だ」
 ナイフに怯んだ様子もなく、白衣の巨漢は語り続けている。
「侵略者が持ち込んだキリスト教によって、多くの土着信仰が邪教として駆逐され、あるいは地の底へと封じられた……それらの中にはな、先住民族の無害な守護神だけではない、本当に邪悪としか言いようのないものも確かにあったのだ」
「そんなものが、このピラミッドの中で眠っている……のだとしても、俺たちには関係のない話だ」
 十字架に拘束されたまま眠っている少女を、ディテクターは見据えた。
「返してもらう……俺に言えるのは、それだけだ」
 突然、カプセルの1つが開いた。
 培養液まみれの少女が1人、床に投げ出される。
 そこへ、白衣の技術者の1人が拳銃を突き付けている。
 ディテクターは、冷ややかに問いかけた。
「……何の真似だ?」
「さあな。好きに解釈すると良い」
 白衣の巨漢が答えながら、拘束台の少女に親指を向ける。
「語るまでもないと思うが、本物はこやつのみ。培養液に漬けられているのは、クローンの量産品よ。こうして人質に取ったところで、意味はないのだ」
 その通り。自分が助けなければならない少女は、拘束台に捕われている1人だけだ。
 ディテクターは、そう思った。
 だが、足は止まっていた。
 倒れた少女に拳銃を突き付けている、白衣の男。
 1度の踏み込みでナイフが届くかどうか、微妙な距離である。残り少ない銃弾を使ってしまうべきか。
 そんな事を、ディテクターは一瞬だけ考えてしまった。
 その一瞬の間に、衝撃が来た。
 防弾加工されたロングコートと、その下に着込んだパワードプロテクター。それらをもってしても、完全には殺せない衝撃。
 ディテクターは吹っ飛び、床に叩き付けられ、血を吐いた。折れた肋骨が、体内のどこかに刺さった。
「いかんな、頭を狙ったのだが……まだ、この身体に慣れておらぬか」
 白衣の巨漢が、そんな事を言っている。
 その右手では、いくつもの銃口が硝煙を発していた。
 大口径のガトリング銃身。巨漢の右前腕そのものが、そんな形状に変化している。
「まあ良い。その防弾武装の上から、臓物を叩き潰してくれよう……」
 巨漢のその言葉が、銃声に掻き消された。
 嵐のような、フルオート銃撃。
 白衣の巨体が吹っ飛び、倒れ、すぐに起き上がる。
「うぬっ、何者……」
 起き上がった全身で、白衣のみならず皮膚が破け、隆々たる筋肉の形をした金属装甲が露わになっている。そのあちこちから、めり込んでいた銃弾がポロポロとこぼれ落ちた。
「一体いくらかけたら、そんな身体になれるんだか……」
 石柱の陰から、若い男が1人、よろりと姿を現していた。
 石の下敷きになった、と思われていた若造。何やら憔悴している。両手の拳銃を、今にも取り落としてしまいそうなほどだ。
「まさに技術の無駄遣い、だよな」

 突然、遺跡のあちこちで、カプセルが全て開いた。
 否、内側から破壊されていた。閉じ込められていた、少女たちによってだ。
 全く同じ姿形をした、100名近い美少女たち。
 全員、そのたおやかな細身に鎧をまとっていた。金属ではない、土器の甲冑である。
 先程の、半透明の土偶。
 あれらに似た鎧をまとった少女たちが、全方向から歩み迫って来る。フェイトに、それに死にかけたサングラスの男に。
「成功だ……!」
 先程まで白衣を着ていた、機械の巨漢が、喜びの叫びを発した。
「この娘はな、怨霊を具現化して武具に変える力を持っている! その能力を受け継いだクローンどもに今、この遺跡に眠っていた者たちが宿ったのだ。最強の鎧としてなあ!」
 まさに、最強の鎧だった。
 あの邪精霊を鎧に変え、身にまとった少女たち。その1人が、機械の巨漢に鮮やかな飛び蹴りを喰らわせていた。
 隆々たる金属装甲が、へし曲がり、破裂する。
 残骸と化した機械の巨漢を踏み付けながら、少女はじっとサングラスの男を見つめている。
 先程、人質にされていた少女だった。
 他の少女たちが、白衣の技術者たちに襲いかかっている。遺跡内は、阿鼻叫喚の地獄と化した。
(生贄は、受け取った……)
 フェイトの脳裏に、何者かが語りかけてくる。
(その生贄どもの願いだ。お前たちは、殺さない……)

 気が付くと、静かになっていた。
 土器の鎧をまとう少女たちは1人残らず、姿を消している。
 残されているのはフェイト、サングラスの男、それに拘束台に捕われた1人の少女。
 100名近いクローンたちは、どこへ行ってしまったのか。
 知る術はない。
 確かな事は、ただ1つ。とてつもなく禍々しい何者かが、この遺跡ピラミッドから解き放たれてしまったという事だ。
 あの少女たちは、その何者かによって、尖兵として使われる事になるだろう。それが、いつになるかは不明だが。
 サングラスの男が、よろよろと起き上がろうとして倒れた。拘束台の少女に、歩み寄ろうとしている。
「無理をするなよ。救護班は呼んでおいた……あの子も、あんたも、助かったんだよ」
 いささか馴れ馴れしいのは承知の上で、フェイトは男に肩を貸した。
「俺は……愚かな勘違いをしていた……」
 男が呻く。
「私情に走り、冷静さを欠いていた……などというのは言い訳にならんな……」
「お互い様だよ。俺だって、あんたを撃ち殺すつもりで戦ってたんだからな」
 IO2の救護部隊が、ばらばらと遺跡内に駆け込んで来た。
 少女が、拘束台から解放された。意識はないが、命に別状はなさそうだ。
「ディテクター……などという大層な名前は、返上する事になりそうだな……」
「そんな必要はないさ」
 伝説にも等しい男に向かって、フェイトは偉そうな事を言っていた。
「これから、とんでもない戦いが始まりそうだ……って気がする。あんたの力は絶対、必要になる。今回、何か失敗したと思うんなら、そこで挽回すればいいよ」
「お前の……エージェントネームは?」
「フェイト」
 気恥ずかしさに耐えて、フェイトは名乗った。
「あんたの、山ほどいる後輩の1人だよ。会えて、嬉しいと思う」
「生き延びて見せたな、フェイト」
 伝説の男が、フェイトの名を口にした。
「お前に、いずれ借りを返したい……何か起こるかわからん仕事だが、少なくとも、それまでは生き延びろよ」

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探偵、現る

アリゾナ州で、地震が起こった。
 人死にが出るような地震ではなかった。が、地形は少しだけ変わった。
 グランド・キャニオン大峡谷に、ピラミッドが出現したのである。
 メソアメリカ文明風の、神殿ピラミッドである。地中にあったものが、地震によって迫り上がって来たのだ。
 とある大学によって、学術的調査団が編成された。まずは彼らが、ピラミッド内部へと赴いた。
 そして、帰って来なかった。
 続いて軍が、調査団救助のため、武装した人員をピラミッド内へと送り込んだ。
 兵士の1人が、命からがら帰還し、地元の病院に収容された。
 精神に異状をきたしている、としか思えぬ状態であったので、ベッドに拘束された。
 その拘束を引きちぎりながら、兵士は暴れた。
 フェイトが駆け付けた時には、病院内で複数の負傷者が出ていた。

 言い訳にはならない。ただ負傷者を人質に取られているような状況であったので、慎重な戦闘を強いられたのは事実である。
 結果、いくらか時間がかかってしまった。
 その間、例のピラミッドには、IO2の戦闘部隊が投入されていた。目的は、行方不明となった調査団及び軍兵士らの救出である。
 グランド・キャニオン。その雄大な岩壁に彫り込まれたかの如く出現した神殿型ピラミッド。
 頂上の神殿へと続く階段を、フェイトは駆け上った。そして、すぐに足を止めた。
 階段のあちこちで、人が倒れている。小銃と防弾着で武装した、屈強な男たち。
 IO2の、戦闘部隊であった。
 全員、血まみれである。生きているのかどうかも、わからない。
 少なくとも、1人は生きていた。大柄な身体を石段にもたれさせ、苦しげな声を発している。
 フェイトは駆け寄り、声をかけた。
「教官!」
「よう、フェイト……そっちの首尾は」
 息も絶え絶えに、教官は言った。
「人死には……出さずに、済みました」
 報告しながら、フェイトは見回した。
 屈強なIO2戦闘部隊を、このような状態に追い込んだ怪物たちが、ハゲタカの如く空中を旋回している。
 空を飛んでいるが、翼はない。半透明の人形、というのが最も近い表現であろうか。
 以前、博物館で見た事がある、プレコロンビア期の土偶。あれらを人間大に巨大化させ、より禍々しい意匠を施した感じの、怪しげな土人形たち。
 半透明のそれらが、ゆらゆらと空中を漂う様は、立体映像か何かのようでもある。
 だが、このものたちは映像などではない。実体を持たず、それでいて物理的な害悪をもたらす怪物。
 病院で暴れていた兵士にも、これが1体、取り憑いていた。
「こいつに取り憑かれると、人間じゃなくなります」
 両手で左右2丁、拳銃を構えながら、フェイトは報告を続けた。
「理性を無くして、とんでもない馬鹿力で暴れるようになります。取り憑かれた兵隊さんから、こいつを引き剥がすのに……少しばかり手間取りました。遅くなって、すみません」
 対霊銃弾が装填された、2丁拳銃。
 人間の身体から引き剥がしてしまいさえすれば、対霊射撃で仕留めるのは、それほど難しい事ではなかった。
 教官の大きな身体を助け起こしながら、フェイトは訊いた。
「もしかして教官……こいつらに1回、取り憑かれちゃったんじゃないですか?」
「まあ、な……無様なもんだったよ……」
 教官が自嘲する。
「取り憑かれて……トチ狂って同士討ち……で、この有り様だ」
「無様なもんですか。見ればわかりますよ」
 倒れている同僚たちを見回し、フェイトは言った。
「みんな、対霊銃弾を自分の身体に撃ち込んで……こいつらを追い出したんでしょう?」
「急所は……外した、つもりだけどな……」
 教官が、言葉と共に血を吐いた。
「追い出すのが、精一杯だった……後は、おめえに任すしかねえ……」
「任されました。今、救護班を呼びますからね」
「任された、だと? ふん、たった1人で何が出来る」
 嘲笑と共に、男が1人、気取った足取りで階段を下りて来る。
 フェイトと同じく、黒いスーツをまとった男。
「小賢しいIO2のネズミども、貴様らに我らの理想達成を阻む事は出来んぞ。人は滅び、新たなる霊的進化を遂げる! 我らはその導き手となるのだ。邪魔はさせん」
「虚無の境界……やっぱり、あんた方か」
 フェイトは会話に応じた。
「あの地震は、このピラミッドを掘り出すために、あんたらが起こしたんだな?」
「その通り。太古の大いなる邪精霊が封印されし、この遺跡こそ! 我らの新たなる拠点にふさわしいのだ!」
 半透明の土偶……太古の邪精霊と呼ばれたものたちが、ゆらりとフェイトに向かって降下を始めた。
 一斉に、取り憑こうとしている。
 群がって来るものたちを、かわそうとせず、フェイトはただ念じた。
 翡翠色の瞳が、強く激しく輝いた。
 敵の思念を威圧する、強度のテレパス。霊体・精神体という形で存在する相手に対しては、特に強い効果を発揮する。
 邪精霊の群れが、凍り付いたように動きを止めた。
 硬直している彼らに向かって、フェイトの両腕がふわりと掲げられる。
 左右2丁の拳銃が、火を噴いた。対霊銃弾のフルオート射撃が、邪精霊の群れを薙ぎ払う。
 半透明の土偶は、1体残らず消し飛んだ。
「なっ……!」
 虚無の境界の術者と思われる黒スーツの男が、狼狽しつつも虚勢を張った。
「こ……こんなものではないぞ! この遺跡の奥には、さらなる強大な邪精霊が封印されている! 今、その眠りを覚ましてくれるわ!」
 言い終えながら背を向け、なかなかの逃げ足で階段を駆け上って行く。
 追いながらフェイトは、スマートフォンを取り出した。まずは救護班を手配しなければならない。

 階段を上りきって、神殿へと踏み込む。
 そこでフェイトは立ち止まった。銃声が、轟いたからだ。
 奇怪、としか言いようのない巨大な石像が、闇の中に並んでいる。
 石像たちが見下ろす通路の真ん中に、その男は佇んでいた。
 サングラスが、少なくとも自分よりは似合っている、とフェイトはまず思った。
 ロングコートの下には、プロテクター状の戦闘服を着用しているようである。
 右手にはリボルバー拳銃。その銃口から、真新しい硝煙が立ちのぼっている。
 男の足元には、虚無の境界の術者が倒れていた。射殺されている。
 フェイトは、とりあえず声をかけた。
「……問答無用で、撃ったのか」
「こいつらは、俺から大切なものを奪った。だから撃った」
 サングラスの男が、言った。
「ここにいる虚無の境界の連中を、俺は皆殺しにする……いや、少し違うな。奪われたものを俺が取り戻す。その過程で、ここの連中は全員死ぬ」
 リボルバーが、フェイトに向けられた。
「そこに含まれたくなければ、立ち去れ。俺の邪魔をするな」
「邪魔をするな、か。それは、こっちの台詞なんだよな」
 なだめる口調で、フェイトは言った。
「あんたみたいに物騒な不確定要素がうろついてると、IO2としても仕事がやりにくいんでね。とりあえず、何者なのか教えてくれないかな? その上で話し合おうじゃないか。共闘するか、大人しくお帰り願うか」
「IO2と共闘など、するわけにはいかない……俺は今、私情で動いているんでな」
 サングラスの内側で、男の眼光がギラリと強まった。冷たく鋭く、それでいて暴走寸前の激情を孕んだ眼光。
 本来は冷静な男なのだろう、とフェイトは判断した。そんな男が今、私情に走るあまり、何かを見失っている。それを自覚しながら、己を止められずにいる。
「何を奪われたのか知らないけど、俺にはそれを取り戻す手伝いくらいは出来ると思う。だから」
 協力しよう、とまでは言えずにフェイトは跳躍し、近くの石像の陰に転がり込んだ。
 サングラスの男が、躊躇なく引き金を引いたからだ。
「言ったはずだ、俺は私情で動いていると。誰の力も借りるつもりはない!」
 銃弾が、フェイトの眼前で石像をかすめた。
 火花の臭いを感じながら、フェイトは応戦を試みた。撃たなければ、撃ち殺される状況だ。
 石像の陰から、銃口を突き出す。
 その狙いの先に、しかしサングラスの男はすでにいない。
 フェイトが隠れている石像の頭上に、彼は着地していた。テレポートか、と思えてしまうほどの跳躍力である。
 ほぼ真上から向けられて来る銃口が火を噴く、よりも早く、フェイトの方が引き金を引いていた。
 フルオートの銃撃が、石像の頭をかすめて火花を散らす。
 その時には、男はフェイトの背後に着地していた。
 後頭部に銃口を突き付けられる寸前、フェイトは振り向き、その銃口を左の拳銃で打ち払った。
 一瞬遅ければフェイトの頭を粉砕していたであろう銃撃が、あらぬ方向へと迸る。
 その間、フェイトは右の拳銃を相手に向けた。
 引き金を引こうとした瞬間、光が一閃した。衝撃が、フェイトの右手を襲う。
 サングラスの男の左手に、いつの間にかナイフが握られていた。
 その斬撃で叩き落とされそうになった拳銃を、フェイトは右手で握り直した。そうしながら左の拳銃を男に向け、引き金を引く。
 だが衝撃と共に狙いが逸れ、吐き出された銃撃は、空しく石壁を直撃した。
 サングラスの男が、まるで鈍器のようにリボルバーを振るったのだ。振るわれた銃身が、フェイトの右拳銃を打ち据えていた。
「そもそも、お前が本当にIO2であるという確証もない……お前が虚無の境界の一員ではないと、俺は信じる事が出来ない。不確定要素は、排除させてもらう」
「お互い様ってわけかな。俺も、あんたが連中の用心棒なんじゃないかって気がしてきたところさっ」
 会話と共に拳銃と拳銃が、あるいは拳銃とナイフが、激しく目まぐるしく激突する。
 銃声が、幾度も響き渡る。
 マズルフラッシュが、2人の周囲いたる所で発生し、フェイトを、サングラスの男を、刹那的に照らし続けた。

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狼は吼え、猟人は潜む。そして楽聖は歌う。

「止めてくれ」
 ニコラウス・ロートシルトが言うと、老執事は黙って車を停止させてくれた。
 運転手が龍臣であれば、止めてはくれなかっただろう。彼は、危険があると判断すれば平然と主の命令を無視する。
 だが、この老執事は違う。いくらか危険があろうと、ある程度はニコラウスの自由にさせてくれる。
「おい、親父……」
 後部座席でニコラウスの隣に座っていた龍臣ロートシルトが、運転席の老人を咎めようとする。
 その時には、後部座席のドアは開いていた。
 ニコラウスは路上にふわりと飛び出し、無警戒に歩み寄って行った。道端で倒れている、その男に。
 ボロ布をまとう、死体のような男。もはや死臭にも等しい臭いを発しているが、辛うじてまだ生きてはいるようだ。
 ウィーンの、最も人通りの少ない区域である。浮浪者の類が倒れているのは、珍しい事ではない。
「どうしました。お身体の具合が、悪いのですか?」
 ニコラウスは身を屈め、まずは話しかけてみた。
「私の知り合いが、この近くで診療所を開いています。差し出がましく恐縮ですが、よろしければそこまで」
「い……いえ、病気や怪我ではないのです……」
 死体寸前とも言うべき男が、声を発した。
「ただ……お恥ずかしい話ですが、もう何日も食べておりません……どうか、水と食べ物を……いえ、水は要りません」
 弱々しく言葉を発する口が、大きく裂けた。無数の牙が、頬を切り裂いて生え伸びる。
「血を……血と、肉を……貴方様の、その若く瑞々しい血と柔らかな肉を、どうか私に!」
 血走った眼球から涙を飛び散らせながら、男は人間ではなくなっていた。
 ボロ雑巾のような服が破け、鱗のある皮膚が、大量の筋肉と一緒に盛り上がって来る。
 牙が、カギ爪が、ニコラウスの細身を襲う。
 外見は確かに14歳、オーストリア人の美少年である。確かに美味そうには見えるのだろう、とニコラウスは思う。
 だが血の瑞々しく肉も柔らかなこの身体は、10代前半で成長を止めてしまった70歳の老人のそれなのだ。
「……こんなものを食べては君、お腹を壊すよ?」
 ニコラウスがそんな事を言っている間に、銃声が轟いていた。
 怪物と化した男の巨体が、路面に倒れ沈む。その頭部……眉間の辺りに、1つだけ銃痕が穿たれている。
「ニコラウス様、そいつから離れて下さい」
 龍臣が、いつの間にか車から降りて来ていた。その右手に握られた拳銃が、微かな硝煙を立ち昇らせている。
「まだ生きてるかも知れません」
「いや……お前が、一発で仕留めてくれたようだ」
 凄まじい悪臭が、ニコラウスの小さな鼻孔を容赦なく襲う。
 倒れた怪物の巨体が、急速に腐敗しながら干涸びていった。
 腐臭を発する干物のような屍が、ひび割れ、崩れてゆく。
 まともな生き物の死に様、ではなかった。
「やはり……か」
 呟くニコラウスに、龍臣が歩み寄って来る。
「ニューヨークで、こういう死に方をする化け物を見かけましたが……ニコラウス様も、ご存じみたいですね?」
「馬鹿げた噂話であって欲しかった」
 馬鹿げた噂話に関して、いろいろと調べた結果、ニコラウスはこうして命を狙われた。
 ここで車を止めなかったら、男は怪物と化して、どこまでも追いかけて来ただろう。
「……人を怪物に変えてしまう薬が、あるらしい。そんなものの売買をしている人々が、このウィーンにもいるという話さ」
「そいつは……確かに、馬鹿げた話ですが」
 言いつつ龍臣が、車の方を睨む。
 老執事が、いくらか億劫そうに運転席から出て来たところである。
「どういうつもりだ親父。こんなのがニコラウス様のお命を狙ってる、それを知ってて車を止めたんだろう? ニコラウス様もです。わざわざ御自分から、危険な目に遭うような事を」
「このような輩が、ニコラウス様のお命を狙っている。いずれ、どこかで戦いになる」
 老執事の言葉に合わせるかの如く、いくつもの人影が、ニコラウスたちを取り囲んでいた。
「それならば……人通りのない、この辺りが良い」
 痙攣しながら、揺らめく人影たち。
「あ……あぁあ……ろ、ロートシルト家の……お坊ちゃん当主……」
「あ、あんたを殺せばぁ……もっと、クスリを……もらえるんだよおぉぉ……」
「だから死んでおくれよおおおおお」
 口々に呻きながら全員、人間ではなくなってゆく。
 龍臣が、舌打ちをした。
「野良犬どもを、毒入りの餌で飼いならしてる奴らがいるって事か」
「どうするね? 龍臣よ」
 老執事がニヤリと笑いながら、老人らしく手にした杖を軽く掲げる。
 否、杖ではない。鞘を被った、日本刀だ。
「お前の手に負えぬと言うのなら、私が老骨に鞭打って……美術品による殺戮を、披露しても良いが」
「引退した奴は引っ込んでろよ」
 言いつつ、龍臣が引き金を引いた。ろくに狙いを定めずに1度だけ。ニコラウスの目には、そう見えた。
 だが轟いた銃声は2つ、いや3つか。
 メキメキと痙攣しながら、一斉に襲いかかって来た怪物たち。その中で最もニコラウスに近く迫った3体が、硬直した。
 彼らの眉間に、額に、側頭部に、銃痕が生じている。
 硬直し、立ち尽くしたまま、怪物3体が屍に変わり、腐り干涸びてゆく。
 なおも淡々と引き金を引きながら、龍臣は言った。
「大人しくしろよ野良犬ども、一発で脳みその機能を止めてやる……薬や毒ガスよりも、楽に死ねるぞ」

 あの時、自分は死んだ。龍臣ロートシルトに、撃ち殺された。
「今の俺は、もう死んでる……だから恐いものなんて何にもないんだぞっ」
 若干やけくそになっているだけだ、と自覚はしながら、フェイトは引き金を引いた。
 左右それぞれの手で、拳銃が火を噴いた。2つの銃口から、弾丸の嵐がフルオートで迸る。
 薬物で巨大化した筋肉を獣皮で覆い、剛毛を生やした者。鱗をまとった者。外骨格を隆起させた者。翼を広げた者、無数の触手を伸ばした者。
 様々な姿の怪物たちが、フェイトに襲いかかりながら銃撃の暴風に薙ぎ払われ、砕け散った。
 体液の飛沫と肉片の雨が、研究施設内部をビシャビシャッと汚してゆく。
 ヨーロッパ某国、湖のほとりに建てられた研究施設。とある製薬会社の所有物で、当然ながらその会社の了承を得る事もなく、こうして襲撃に及んだわけである。
 このような怪物たちを、施設内で放し飼いしているだけでなく、世界各地で大量生産している製薬会社。
 克明に調べ上げるまでもない、とフェイトは思う。背後には間違いなく、あの組織が存在している。
「虚無の、境界……!」
 フェイトは引き金を引いた。左右2丁の拳銃が、虚しい音を発する。弾切れだった。
 それを待っていたかのように、怪物たちが襲いかかって来る。
 カギ爪、棘のある触手、甲殻類のハサミ……様々な異形の攻撃が、あらゆる方向からフェイトに向かって一閃する。
 元々は人間であった者たち、などと考えている余裕はない。
 フェイトは身を翻した。
 心臓を狙って突き込まれて来たハサミが、胸板と左肩の中間あたりを高速でかすめる。黒いスーツがざっくりと裂けたが、肉体は無傷だ。
 カギ爪が右肩を、棘のある触手が脇腹をかすめる。フェイトの全身あちこちでスーツが裂け、いくつもの固く小さな物体がこぼれ落ちる。掌サイズの、細長い箱。
 スーツの内側に、大量に収納しておいた、予備の弾倉である。
 フェイトは念じた。
 収納しておけなくなった弾倉たちが、フェイトの周囲で、渦を巻いて浮遊する。
 そのうち2つが、左右の拳銃に吸い込まれ、装填される。
 龍臣ロートシルトがここにいたら、装填などする暇もなく全て撃ち落とされているところだ。
 そんな事を思いながら、フェイトは両の拳銃をぶっ放した。
 銃撃の嵐が吹き荒れた。
 カギ爪が折れ、ハサミが砕け、触手がちぎれた。粉砕された怪物たちが、飛び散った。
 装填されたばかりの弾丸が、凄まじい勢いで減ってゆく。
 無駄弾を撃ち過ぎだ。だから、すぐに弾切れを起こす。龍臣には、そう言われた。
 ならば、どうするか。無駄弾を撃たない。本来ならば、それが正解なのであろう。
 だが、フェイトの選んだ答えはこれだ。いくらか無駄弾を撃っても、弾切れが起こらぬ状態を用意しておく。つまり、予備の弾倉を大量に携行する。
「アメリカ仕込みの物量作戦だよ、文句あるかっ!」
 叫びながら、フェイトはとっさに跳躍した。
 その足元で、火花が跳ねた。
「銃撃……!? いやまさか」
 気のせい、ではない。
 床に転がり込んで身を起こしながら、フェイトは見た。
 怪物たちの中に、小銃を持った一団がいる。
 持っているだけではなく、構えている。カギ爪の生えた手で、水掻きを備えた五指で、触手状の指で、器用に銃身を保持しつつ引き金を引いている。
 いくつもの銃口が、フェイトに向かって一斉に火を噴いた。
 身を隠す場所もない。襲い来る銃撃の嵐を見据えながら、フェイトは念じた。
 左右の瞳が、緑色に燃え上がる。
 エメラルドグリーンの眼光と共に、念動力の塊が生じた。それがフェイトの眼前で、不可視の防壁を成す。
 そこに、怪物たちの銃撃がぶつかって来る。
 フェイトの眼前で、空間に亀裂が生じた。蜘蛛の巣状の亀裂が、空間に広がってゆく。
 念動力の防壁が、ひび割れてゆく。
「くっ……」
 僅かでも気を抜いたら、ひび割れた防壁は砕け散る。怪物たちが弾切れを起こしてくれるまで、フェイトの気力が果たして保つのか。
 その状況を破ったのは、一発の銃声だった。
 火を噴き続ける怪物たちの小銃。その轟音を断ち切るかのような、鋭い銃声。
 小銃をぶっ放していた怪物の1体が、いきなり倒れた。頭部のどこかに、銃弾を撃ち込まれたようである。
 倒れた怪物が、腐敗し、干からび、ひび割れてゆく。
「物量作戦を否定するつもりはないが……」
 声がした。それと共に、鋭い銃声が立て続けに響く。
 小銃を持った怪物たちが、ことごとく倒れた。倒れた数と銃声の回数が、ぴたりと一致している。
「しかしフェイト……お前のはアメリカ流の物量作戦と言うより、日本流のカミカゼだな。まさか1人で突入するとは」
「あんたか……」
 龍臣ロートシルト。
 その姿は見えないが、存在は感じられる。正確無比な狙撃が、彼の存在そのものであると言える。
「武装した怪物どもの巣窟に、日本人の若造1人を放り込む……それがIO2アメリカ本部のやり方か」
 恐らく拳銃ではない。銃身の長い、狙撃用のライフルであろう。
 施設内のどこかで龍臣は、その引き金を淡々と弾きながら、淡々と喋っている。
「あちらでも日本人差別が横行している、と。そういう事じゃないのか?」
「俺1人だけで大丈夫、って事で派遣された。俺自身は、そう思ってるよ……結局、大丈夫じゃなくて、あんたに助けてもらう事になったけど」
「ニコラウス様のご命令でな。別に、お前を助けに来たわけじゃあない」
 そんな会話をしてる間に、怪物は1体もいなくなっていた。全て、頭部を撃ち抜かれた屍に変わり、腐り干涸び始めている。見える範囲内では、だ。
「先へ進もうか。この奥で、例の薬が大量生産されている」
 龍臣が言った。
「頼むぞフェイト。今みたいな調子で、せいぜい派手に暴れて……弾除けに、なってくれ」

 聖母を讃える内容の歌が、清らかに響き渡る。
 欧州の、とある大銀行。
 屈強なガードマンが全員、床に倒れていた。
 昏睡状態である。死んではいないものの、医師による適切な処置が必要な状態だ。
「もちろん救急車は呼んであげる。病院で何日か、ゆっくり休むといい」
 同じく倒れている頭取に、ニコラウスは優しく語りかけた。
「その間に再編成は済ませておく。この銀行は、私が直轄する事になるだろう。君の今後に関しては、まあ考えておくよ」
「ぐっ……ぅ……こ、この……魔物がぁ……っ」
 立ち上がれぬまま、頭取が呻く。
 頭取、それにガードマンたち。倒れている者全員の上に、小さな光の塊が浮遊していた。
 飴玉ほどの球形に固まった、光。
「魔物? 今更、何を言っているのかね君は」
 ニコラウスは微笑んで見せた。
 天使の笑顔、天使の歌声、と人は言う。
 天使の歌声を聞いた者は、しかし皆こうなるのだ。生命力を、光の飴玉という形で抜き取られてしまう。
 無論そんな事にならぬよう、力を制御して歌う事は出来るが、それには尋常ならざる修錬が必要であった。
 修錬の末、人の命を吸い取ったりしない歌を、歌えるようになったのだ。
 それこそが、まさしく歌である、とニコラウスは思う。
「君たちにも、私の歌を聴いて欲しかったよ……こんなものを、歌とは呼べないからね」
 ニコラウスは、右手の人差し指を立てた。
 光の飴玉が全て、その指先に集まって来た。集まり、固まり、巨大な光球を成して輝きを増す。
「こんな事を言いたくはないけれど、私がその気になれば……君たちに、目覚めの来ない眠りを与える事も出来た。それは、わかってもらえたと思う」
 とある製薬会社に、この銀行から金が流れ込んでいた。
 その製薬会社の研究施設は今頃、ニコラウスが名指しで依頼したIO2エージェントによって潰されているだろう。念のため、龍臣を加勢に行かせておいた。
 あとはニコラウス自ら、こうして資金源を断ち切るだけである。
「愚かな事を……ニコラウス・ロートシルト……お前は、あの御方を敵に回してしまったのだぞ……」
 頭取が、呻きながら意識を失ってゆく。
「我らを……大いなる霊的進化へと、導き給う……偉大なる、滅びの聖女を……」
 ニコラウスはもはや聞かず、巨大な光の飴玉に、そっと唇を触れた。
 人体に戻す事は出来ない。責任を持って、摂取するしかないのだ。

 狙撃用ライフルを左肩に担いだ龍臣が、右手で携帯電話を折り畳んだ。
「資金源の方は、ニコラウス様が片付けて下さったらしい。俺たちの仕事も、とりあえず完了だ」
「とりあえず……ね」
 龍臣と2人で湖畔に佇んだまま、フェイトは呟いた。
 工場は破壊した。が、この製薬会社の背後に在るのが本当に虚無の境界であるならば、資金源や工場の1つ2つを潰した程度で、果たして終わるものなのか。
「ニコラウス様がな、お前を招いて直々に労いたいそうだ」
 龍臣が言う。
「来るか?」
「……やめておく。労ってもらうほどの事は、してないからね」
 フェイトは背を向けた。
「虚無の境界が相手なら、きっと長い戦いになる……また会えるよ。あんたとも、ニコラウスさんとも」

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狼狩り

いつ頃から、であろうか。人間が、犬にしか見えなくなったのは。
 もちろん犬は可愛い。テリアも、スパニエルも、ダックスも柴犬も、プードルも、シェパードやマスティフ、雑種の野良も皆、愛すべき生き物たちである。
 だが、人間の形をした犬は可愛くない。
 組織の犬、国家権力の犬。裏通りを歩いていると寄って来て金品をせびる野良犬。その中には、端た金で飼い犬になるような輩もいた。
 そんな愛らしさの欠片もない犬どもを始末するのが、龍臣ロートシルトの仕事である。
 何故、始末しなければならないのか。
 そういった犬どもが、龍臣の主に、汚らしい牙で噛み付こうとするからだ。
 主は、音楽界においては世界的に高名な人物で、楽聖あるいは神童などと呼ばれている。
 それは表の顔で、いくつもの大銀行を配下に持つ、欧州経済界の重鎮でもある。
 命を狙われるのは、日常茶飯事と言ってよかった。
 それほどの大人物が、コンサートを開くためにアメリカ・ニューヨークを訪れた。
 会場を警護してくれたのは、IO2である。
 主を守るのは無論、護衛たる龍臣ロートシルトの任務であるが、IO2による警護は確かに心強かった。
 龍臣に言わせれば、IO2とは、高度に訓練された戦闘犬の集団である。いくら心強くとも、所詮は犬だ。
 犬の群れの中に、しかし1匹だけ狼がいた。
 初対面の際には、お互い和やかに名乗りあっただけだ。
 龍臣が自分の名を言った後、その狼は名乗った。フェイトです、と。
 コンサートそのものは、つつがなく終わった。
 主は今もIO2の、そこそこは頼りになる戦闘犬たちに警護されている。一時的にであれば、龍臣が護衛から離れても問題はないであろう。
 なので、自由時間をもらった。
 ゆっくり羽を伸ばしてくるといい。主のその言葉に、龍臣は甘える事にした。
 主の目の届かぬところで実戦を行い、護衛としての腕を磨く。
 龍臣にとって、羽を伸ばすとは、そういう意味だ。
「神様なんてもの信じた事はないが……もしかしたら、本当にいるのかも知れないな」
 龍臣は呟いた。
 ニューヨークの、特に治安の悪い街並の一角である。
 そこへ、見覚えのある黒いスーツ姿の青年が歩み入って行くのを、見かけてしまったのだ。
 見るからに非力そうな、細身の日本人。
 だが、その黒スーツの下では、そこいらの欧米人アスリートを遥かに上回る身体能力が息づいている。
 ただ歩いているだけの動きからも、それが見て取れる。
 先進国で最も引き金が軽い国の、こんな場所で、フェイトと再会する事が出来た。
 神の存在を信じても良い、程度の幸運ではある。龍臣は、そう思う。
「犬を撃ち殺すのも飽きた……狼を、狩らせてもらうぞ」

 野良犬でも撃ち殺したと思え。
 犬がかわいそうだと思うなら、まあドブネズミでもゴキブリでもいい。
 とにかくだ。人間を殺した、なんて考えてたらIO2の仕事はやってられないぞ。
 とある先輩のエージェントが、そんな事を得意気に語っていたものだ。
 今、フェイトの足元に横たわっているのは、しかし野良犬の死体ではない。ドブネズミやゴキブリの死骸でもない。
 数時間前か、あるいは数日前か。とにかく、かつて人間であったものの残骸だ。
 ニューヨークの、この特に治安の悪い区域で、まさに野良犬あるいはドブネズミの如く生きてきた男である。
 そんな小悪党が、自分の所属していた組織のボスを殺害し、その護衛たちを皆殺しにした。
 押し寄せて来た警官隊を虐殺し、ホームレスや売春婦を手当たり次第に殺して回りながら、ニューヨークの裏通りを彷徨っていた。
 フェイトが駆け付けた時には完全に、人間ではないものと化していた。
 念動力を宿した銃弾のフルオート射撃で、有無を言わさず撃砕するしかなかったのだ。
 おかしな薬物が出回っている、という話はフェイトも耳にしていた。
 常習者は肉体に変調を、と言うより変異をきたし、やがて異形の怪物としか表現し得ぬものに成り果ててしまうという。
 虚無の境界が広めたもの、と言われている。
 そうであるならば、流通を断ち切るのは並大抵の事ではない。
 射殺したばかりの怪物の屍を、フェイトはじっと見下ろした。
 それは急速に腐敗し、腐臭を発しながら干からびてゆく。
 とっさに、フェイトは跳躍した。
 銃声が轟いた。干からびた怪物の屍が、砕け散った。
 路地裏に転がり込みながらフェイトは、左右2丁の拳銃を構えた。
 銃声の起こった方向に、目を向けたりはしない。敵が、いつもまでも同じ場所にいるわけがないからだ。
 自分が敵であれば、フェイトを仕留めるために、この場でどう動くか。
 頭の中で何通りかのシミュレーションを行い、その1つを選択しながら、フェイトは振り向いた。
 崩れかけたビル2棟の間の、路地裏である。片方はより破損がひどく、外壁の一部が完全に崩落し、巨大な穴となっている。
 そちらに向かってフェイトは、左の拳銃をぶっ放した。
 銃弾の嵐がフルオートで迸り、大穴の縁をガリガリと砕く。コンクリートの粉塵が舞い上がり、煙幕を成す。
 だがフェイトは、見逃さなかった。
 大穴から現れ出ようとしていた人影が、それを中止して身を翻し、ビルの内部へと駆け去って行く様を。
 フェイトは追った。
 崩落した外壁の内側へと飛び込み、転がり、身を起こしながら左右の拳銃を周囲に向ける。
 廃墟と化した、ビルの内部である。卑猥な落書きをされたコンクリートの柱だけが、立ち並んでいる。
 どこかに、敵が潜んでいる。
 何者かは不明だが、銃撃を受けた今は、敵と認識するしかない。
 追って仕留める必要など、ないのかも知れない。
 任務はすでに完了したのだ。余計な戦闘は避け、撤退する。それがIO2エージェントたる者の在り方とは言える。
 だが、とフェイトは確信していた。
 逃げた瞬間、間違いなく背中を撃ち抜かれる。
 それは、根拠のない確信ではあった。
 フェイトは、柱の陰に身を潜めた。
 すぐに、そこから飛び出した。
 気配が感じられる、と共に銃声が轟き、コンクリートの柱が火花を散らす。
 ほんの一瞬前まで、フェイトが頭を寄りかからせていた位置である。恐ろしく正確な射撃だ。
 敵の姿を確認せぬまま、フェイトは地面に転がり込み、引き金を引いた。
 左右2丁の拳銃が、轟音を発し、火を噴いた。
 フルオートの銃撃が、何本もの柱を薙ぎ払う。コンクリートが穿たれ、砕け、あちこちで鉄骨が剥き出しになる。
 ひたすら引き金を引きながらフェイトは、信じられないものを見た。
 吹き荒れる銃弾の嵐の真っ只中を、こちらに向かって悠然と歩いて来る人影。
 もう1人の自分。フェイトは一瞬、そんな事を思った。
 東洋人の、若い男である。髪は黒く、着用しているスーツも黒い。
 日本人のように見えるが、瞳は青い。もしかしたら混血かもしれない。
「龍臣……ロートシルト……!」
 フェイトは名を思い出した。
 数日前、とある人物の護衛任務で知り合った男である。
 あの人物が、まさかフェイトを始末するよう命令でも出したのか。
 問いただしたところで答えてくれるはずもなく、龍臣ロートシルトは微笑んでいる。
 青い瞳は、しかし笑っていない。殺意に等しい闘志を漲らせ、禍々しく輝いている。
 そんな龍臣の全身あちこちで、黒いスーツがちぎれた。微量の鮮血がしぶいた。
 フェイトのぶっ放す銃撃の嵐が、龍臣の身体をかすめ、だが直撃はせず、虚しく吹き荒れる。
 フェイトがわざと外している、わけではない。
 龍臣も、かわしている、ようには見えない。
 銃弾の通り道を、あらかじめ知っていて、最初からそこを避けて歩いている。そんな様子だ。
「まさか予知能力……いや、弾道を見切ってる!?」
 フェイトは銃撃を止め、横に跳んだ。
 龍臣の右手で、拳銃が火を噴いたのだ。
 横に跳んでかわした、はずのフェイトの左腕から、鮮血が飛び散った。
 深刻な負傷ではない。二の腕の肉が、いくらか削り取られただけだ。とは言え、少しでも位置がずれていたら、心臓を撃ち抜かれていたところである。
 フェイトが横に跳ぶ事を、計算に入れての射撃。
(格が違う……俺みたいな、フルオートの数撃ちゃ当たる射撃とは……)
 そう思っても、しかし数任せの射撃を止めるわけにはいかない。
 左腕の痛みに耐えながら、フェイトはひたすら引き金を引いた。
 銃撃の暴風が、虚しく吹き荒れる。龍臣の姿は、すでにそこにはない。
 左の拳銃が、虚しい音を発し始めた。弾切れである。
 グリップから、空になった弾倉が排出される。
 右の拳銃を油断なく構えたまま、フェイトは念じた。
 スーツの内ポケットから、小さな箱型の物体が飛び出し、浮遊する。予備の弾倉。
 それが念動力によってグリップに差し込まれる、寸前で火花を散らし、弾け飛んで行った。銃声と同時にだ。
 龍臣が、少し離れた柱の陰からユラリと姿を現し、引き金を引いたところだった。
 その拳銃が、もう1度、火を噴いた。
 フェイトの右手を、衝撃が襲った。油断なく構えていたつもりの拳銃が、撃ち落とされていた。
 弾倉の入っていない拳銃が、左手に残っているだけである。もはや丸腰も同然だ。
 龍臣が躊躇なく、引き金を引いた。
「……ズルさせて、もらうぞ!」
 フェイトは叫び、念じた。両眼が、エメラルドグリーンの光を発する。
 龍臣の銃弾が、フェイトの顔面に突き刺さる寸前で止まり、跳ね返り、どこかへ消えた。
 念動力の防壁に、跳ね返されていた。
 眼前で散った火花を睨みながら、フェイトは左の拳銃を真横に向けた。弾倉の入っていない、拳銃をだ。
 龍臣ロートシルトが、そこにいた。
 一体どのような身のこなしで回り込み、距離を詰めてきたものか、全く見当がつかない。
 とにかくフェイトの拳銃は、龍臣の顔面に突きつけられている。
 龍臣の拳銃は、フェイトの側頭部に押し当てられている。
「こんな言葉は使いたくないが……」
 龍臣が言った。
「……引き分け、だな」
「……俺の銃には、マガジンが入っていないんだぞ」
 フェイトは呻いた。
「このまま2人同時に引き金を引けば、俺だけが死ぬ……あんたの勝ちだよ」
「うまい具合に、こっちも弾切れでな」
 龍臣は笑った。
「弾の入っていない銃など、武器としては棍棒以下……一方お前は、弾の入っていない拳銃でも人を殺せる。違うか?」
 フェイトは、睨んだ。
 確かに、このまま念動力を銃弾として撃ち出す事は、不可能ではない。
「いわゆる能力者って連中と戦ったのは、初めてじゃあない」
 龍臣が、拳銃を下ろした。
「だが、お前ほどの奴はいなかった。いい実戦訓練、させてもらったぜ」
「……そのために、俺を殺そうとしたのか」
「お前を試したかった。俺の力も、試してみたかったのさ」
「冗談きついよ……ま、冗談じゃなかったのかも知れないけど」
 フェイトは、溜め息をついた。
 龍臣は、すでに背を向け、歩き出している。
「フェイトとか言ったな。お前、この国に来て何年くらいになるのかは知らんが……アメリカ人の戦い方に、すっかり染まっちまってるなあ」
 振り向きもせず、龍臣が言う。
「質より量……無駄弾を、撃ち過ぎだ。だからすぐに弾切れを起こす」
 彼の右手で、拳銃から何かがイジェクトされた。
 弾切れを起こしたはずの拳銃から、空薬莢が排出されていた。
 それを龍臣が、親指で弾く。
 弾かれ、飛んで来たものを、フェイトは右手で掴み止めた。
 空薬莢、ではなかった。未使用の拳銃弾である。
 フェイトはそれを、握り締めるしかなかった。
 龍臣ロートシルトが、本当に自分を試すだけのつもりであったのか。あるいは殺すつもりであったのか。最後の最後で、思いとどまってくれたのか。それはわからない。
 そんな事は関係ない、とフェイトは思った。認識せざるを、得なかった。
「要するに、俺は……死んだ、って事か」 

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戦いの犬たち、日本に集う

犬の散歩をしている。と言うよりも、犬たちに引きずり回されている。
 何本ものリードを手放さずにいるのが、八瀬葵は精一杯だった。
 テリア、トイプードル、チワワ、柴犬、スピッツにパグ。ミニチュアダックス。
 様々な飼い犬たちが、葵を引きずりながら元気に公園を駆けている。
「こ、こら……そっちへ行っちゃ駄目だったら」
 スピッツの仔犬が、茂みの方へと走り出し、止まり、吠えた。
 何に、と言うより誰に向かって吠えているのかは、茂みの中を調べてみるまでもない。
 葵は小さく溜め息をつき、声をかけた。
「……いるんだろ? IO2の暇人さん」
「これでも仕事中、なんだけどな」
 言いつつ茂みの中から姿を現したのは、まるで喪服のような黒いスーツを着た不審人物である。
 犬たちが、彼に向かって一斉に吠えた。
 懸命にリードの束を引っ張りつつ、葵は少しだけ声を大きくした。
「俺に……もう護衛なんて要らないよ、フェイトさん」
「虚無の境界って連中は、忘れた頃に手を出して来るんだぞ」
 フェイトのそんな言葉も、犬たちの吠える声に掻き消されてしまう。
「……どうでもいいけどフェイトさん、犬にめちゃくちゃ嫌われてるね」
「狛犬になら、知り合いがいるんだけどな」
 フェイトが、わけのわからない事を言っている。
「まあ何だ、血と硝煙の臭いでもするんだろう。ところで、葵さんも仕事中って事でいいのかな?」
「……まあね。犬の散歩の、アルバイトだよ」
 喫茶店は、今日は休みである。
「まさか、こんなに依頼が来るとは思わなかったけど」
「俺と違って、犬に好かれてるみたいじゃないか」
「どうかな……俺もまあ、人間と一緒にいるよりは気が楽だよ」
 犬は、人間と違って『音』を発しない。猫も、鳥も、植物も。
 葵の知る限り、『音』を発する生き物は人間だけだ。
 フェイト曰く、人間ではない生き物たちが、人間に化けている事もあるらしい。
 そういったものたちが、人間と同じく『音』を発するのかどうかは、まだわからない。
 吠えていた犬たちが突然、静かになった。
 クーン、くぅん……と怯えながら、葵の足元に擦り寄って来る。
 皆、何かを恐がっている。
「……来たな、言ってる傍から」
 フェイトが、声を潜めた。
「囲まれてる。たぶん、虚無の境界の連中だ」
「え……そうなの?」
 気配、のようなものを、フェイトは恐らく感じているのだろう。暇人に見えて、戦闘のプロフェッショナルである。
 素人である葵に、そんなものを感じる能力はない。
 ただ、音が聞こえるだけだ。
 重苦しく、不穏な響き。聞く者を、喩えようもない不安に陥れる音。
 だが、と葵は思う。最も不安を感じているのは、聞いている自分ではなく、音を発している本人なのではないか。
(俺……この音、知ってる……聴いた事、ある……?)
 そんな事を考えている葵の腕を、フェイトがいささか荒っぽく引っ張った。
「とにかく、安全な場所へ! この人数相手に、そんなものあるかどうかは怪しいけど」
 フェイトは葵の腕を引き、葵は犬たちのリードを引く。
 この人数、などと言われても、葵には何もわからない。囲まれているらしいが、囲んでいる者たちの姿など見えない。
 周囲には、何の変哲もない真昼の公園の風景が広がっているだけである。
 木々に噴水、外灯に公衆便所。まばらな通行人たち。ベンチに座って新聞を広げている男。
 その男が、新聞を畳んだ。
 フェイトが息を呑み、立ち止まった。
 その手が、黒いスーツの内側から何かを引き抜く。
 拳銃だった。
「葵さん、伏せろ!」
 フェイトが叫び、拳銃を構える。
 つい今まで新聞を読んでいた男が、ベンチから立ち上がり、同じく拳銃を構えていた。
 そしてフェイトに、銃口を向けている。フェイトの銃も、その男に向けられている。
「お……おい、やめろよ……」
 言われた通り地面に伏せ、犬たちを抱き寄せながら、葵は呆然と声を発していた。
 睨み合いの後、フェイトが言った。
「……龍臣さん?」
「お前か……」
 こんな所に鏡が置いてある。葵は一瞬、そんな事を思った。
 フェイトによく似た、若い男である。22歳のフェイトよりも、いくらかは年上であろうか。
 黒髪に黒いスーツ。外見的な類似点は、それだけだ。童顔のフェイトと比べて顔立ちは鋭く、瞳は青い。
 それでも似ている、と感じながら、葵は問いかけた。
「フェイトさん……知り合いなの?」
「ああ。虚無の境界かと思ったけど……大丈夫、この人は違うよ」
 フェイトが拳銃を下ろす。が、龍臣と呼ばれた男は下ろさない。銃口を、フェイトに向けたままだ。
「……何故、そう言い切れる」
 そんな事を言いながら龍臣は、躊躇なく引き金を引いた。
 銃声が轟いた。
 フェイトの背後で、黒い影が弾けた。
 葵とフェイト、どちらに襲いかかろうとしていたのかは不明である。
 とにかく、襲撃者だった。
 黒い、マントかローブか判然としないものに身を包んでいる。
 その身体が倒れ、痙攣しながら、苦しげに宙を掻きむしる。
 先端が鋭利に尖ってカギ爪を成す、金属製の五指。その爪で、フェイトを背後から斬殺しようとしていたのか。
「この平和な国に帰って来て……少し、なまったんじゃないのか? フェイト」
 片手で軽やかに拳銃を回転させながら、龍臣が言う。
「顔見知りだからって、不用意に拳銃を下ろすな。俺が、例えば虚無の境界に雇われた殺し屋だったらどうする」
「あり得ないさ。あんたが、あいつらに雇われるなんて」
 フェイトは即答した。
「あんたを雇える人間、あんたに何か命令出来る人間は、この世にただ1人……そうだろ?」
「……まあ、な」
 そんな答え方をしながら龍臣は、その冷たく鋭い青色の双眸を、ちらりと周囲に向けた。
 フェイトも、緑色の瞳で公園を見回している。
 敵が、葵にも見える形で、ようやく姿を現していた。
 黒い、人影の群れ。
 全員、マントかローブか判然としない黒衣から、カギ爪状の五指をギラリと覗かせている。
 フードの下では、眼光がチカチカと生気なく輝いている。人間の眼光ではない。
 機械の点灯だ。
 この者たちは人間ではない。それが葵には、はっきりとわかった。
 何故なら、音が聞こえないからだ。
 聞く者を、喩えようもない不安に陥れる音。それを重苦しく響かせているのは、この龍臣という男だ。
(俺……やっぱり、聴いた事ある……? この音……)
 心の中で呟きながら葵は、怯え擦り寄って来る犬たちを抱き締めた。
 わけのわからぬ黒衣の襲撃者たち、ではなく龍臣を、犬たちは恐がっている。
「機械人形……か」
 フェイトがいつの間にか、もう1丁の拳銃を握っていた。漫画か映画のような、2丁拳銃である。
「こんなもの使ってまで、葵さんをさらおうなんて……なりふり構わなくなってきたな、虚無の境界も!」
 2つの銃口が、火を噴いた。
 機械仕掛けの襲撃者たちが、一斉に襲いかかって来たところである。
 金属製のカギ爪が無数、フェイトあるいは龍臣に向かって凶暴に閃いた。
 それら斬撃が、嵐のような銃撃に弾き飛ばされる。
 左右2丁の拳銃を、フェイトはまるで二刀流の剣士のように振り回していた。引き金を、引きながらだ。
 2つの銃口から迸るフルオート射撃が、機械人形たちを片っ端から薙ぎ払う。
 襲撃者たちは黒衣もろとも潰れ砕け、金属の残骸に変わりながら吹っ飛んで行く。
 荒っぽく撃ちまくっているように見えて、葵や犬たちを襲う流れ弾を1発も出さない、驚くべき技量である。
 その正確無比な銃撃の嵐を、しかし潜り抜け、あるいは飛び越えて、何体かの襲撃者が獣の動きで間合いを詰めて来る。金属のカギ爪による斬撃が、多方向からフェイトを襲う。
 それら機械人形たちが、しかし見えない壁にでも激突したかのように揺らぎ、倒れ、痙攣しながら動きを止めてゆく。
「無駄弾を撃ち過ぎだ、フェイト」
 龍臣が、いつの間にか葵の傍らにいた。左腕で葵を庇い、右手で拳銃を構えている。
 その銃口が、火を噴いた。フェイトのようなフルオート射撃ではなく、単発である。
 襲撃者がまた1体、弾けたように倒れた。頭部のどこか……人間で言うと額か眉間の辺りに、弾を撃ち込まれたようだ。
「こいつらは遠隔操作で動かされている。受信装置を破壊すれば、1匹につき弾1発で済む……第3の目の位置だ。よく狙え」
「無理! この乱戦で、正確に第3の目を狙うなんて! 龍臣さんだけだよ、そんな事出来るの!」
 悲鳴じみた声を発しながら、フェイトは左右の拳銃をぶっ放した。
 銃撃の嵐が、機械人形たちを片っ端から粉砕する。
「俺、射撃下手くそだからね。質より量で、いかせてもらうよ!」
「質より量、か……まるで、アメリカ人だな」
 龍臣は、苦笑したようである。そうしながらも、引き金を引いている。
 襲撃者たちが1体また1体と残骸に変わり、倒れ伏す。
 フェイトに撃ち砕かれたものたちと比べ、実に綺麗な残骸である。受信装置を撃ち抜かれたらしいが、その部分を取り替えれば、また動けそうだ。
「龍臣さん、アメリカ人は嫌い?」
「ヨーロッパ暮らしが長いもんでな」
「そう言うなよ。アメリカ人にだって、いい奴は沢山いるから!」
 一方フェイトの銃撃は、襲撃者たちを、もはや使い物になりそうにない金属屑に変えてゆく。
 呆然とその様を見つめる葵の肩に、龍臣が片手を置いた。
「久しぶり……と言っても、覚えちゃいないだろうがな」
「俺は……」
 確かに、覚えてなどいない。だが葵は言った。
「あんたの……音……聞いた事、ある」
「音、か。相変わらずだな」
 龍臣は微笑んだ。
「人間を、音でしか判断出来ないようではいけない……俺の主からの、伝言だ」

 葵もフェイトも龍臣も、警察が来る前に逃げた。
 住宅街である。
 散歩を終えた犬たちを1匹1匹、飼い主の家に送り届けながら、歩いているところだ。
 あとはチワワと柴犬とパグが各1匹、残っているだけである。
 フェイトの左足にパグが、右足に柴犬が、左手にチワワが、がふがふと噛み付いている。
「あー……痛いんだけどな」
「こらこら……駄目だよ、人を噛んだら」
 犬たちをフェイトの身体から引き離しつつ、葵は思う。この青年は犬に嫌われている、わけではないのかも知れない。
 本当に嫌いな人間には、犬は噛み付くどころか近付きもしないだろう。
 犬たちが明らかに避けているのは、龍臣ロートシルトである。チワワもパグも柴犬も、彼を嫌っている、と言うより恐れている。
「無理もない。こちとら犬を狩るのが仕事だからな」
 気にした様子もなく、龍臣が笑う。重苦しい、聞く者を不安にさせる音を発しながらだ。
「組織の犬、国家権力の犬……野良犬のくせに、端金で飼い犬になる奴らもいたな。そういう可愛くもない犬どもを、片っ端から殺処分する仕事さ」
「日本でも、同じ仕事を?」
「この国が、思っていたほど平和じゃないってのはわかった。同じような仕事に、なっちまうんだろうな」
 フェイトの問いにそう答えながら、龍臣は葵の方を見た。
「お前に、ろくでもない犬どもを近付けないのが、俺の新しい仕事だ。お前に拒否権はない……あの方の、命令だからな」
「あの方……ってのが、どの方なのかは知らないけど……」
 龍臣を恐がって擦り寄って来るチワワを抱き上げながら、葵は言った。
「……あんた、その人と離ればなれになっちゃったから……そんなに不安そう、なのかな」
「……お前、何を言ってる」
 龍臣の青い双眸が、険しさを帯びた。
 その眼光を、葵は正面から受け止めた。
「あんた……不安なんだろ? さっきから、そういう音しか聞こえない……大切な人から離れてまで、日本へ来たのは……俺なんかを、その」
「守るため、だ。あの方の、命令だからな」
 言いつつ龍臣が、軽く溜め息をつき、頭を掻いた。
「でなきゃ、誰がお前なんかに会いに来るかよ」
 遠慮容赦のない言い方が、葵の閉ざされた記憶の扉を、荒々しくノックする。
 間違いない、と葵は感じた。自分は、この龍臣ロートシルトという男を知っている。
 そして彼の言う「あの方」も。
「あんたは……一体、誰なんだ?」
 葵は訊いた。訊くべきではない、とも思った
 思い出してはならない何かが、自分の中にはある。そんな気がする。
「あの方からの伝言だ……思い出せば、お前も背負う事になる。ロートシルト家の、呪われた宿命を」
 龍臣は言った。
「……その覚悟は、あるのか?」
「宿命……俺、そんなもの背負いたくないよ……」
 チワワを撫でながら、葵は答えた。
「けど、逃げても追いかけて来るんだろ……あんたがオーストラリアから、はるばる日本へ来たみたいに」
「オーストリアだ。オージーを馬鹿にするわけじゃあないが、2度と間違うな」
 龍臣が苛立っている。
「……追いかけて来るものを自力でどうにかしようって気は、あるんだな?」
「自力でどうにかするのは、大変だぞ」
 噛み付こうとする柴犬をかわしながら、フェイトが言う。
「宿命とか運命ってやつは、そんな生易しいもんじゃない……何にも知らずお気楽に生きる道だって、あるんだぞ。それを咎める権利なんて誰にもない」
「フェイトさんだって……お気楽に生きようと思えば出来たはずなのに、それをしなかったんだろ?」
 そのくらいは、フェイトを見ていればわかる。
「……教えてよ、龍臣さん。俺は、何を思い出さなきゃいけないのかな」
 龍臣は答えず、ただ呟いた。
 日本語ではない。英語、いやフランス語か。
「ドイツ語だ。意味は、そのうち気が向いたら教えてやる」
「あ…………」
 荒っぽくノックされ続けていた記憶の扉が、静かに開いてゆく。
 そして、光り輝くものが現れた。
「……たつ兄……?」
「いきなりそれか……他に思い出さなきゃならん事、いろいろあるだろうが」
 龍臣の言う通り、様々な記憶が甦って来る。が、それらはとりあえず、どうでも良かった。
「たつ兄に……会えた……」
 今の葵にとっては、それが全てだ。

 今まで葵を守ってくれてありがとう、と龍臣は言っていた。
「護衛の任務は龍臣さんが引き継いでくれる……って事で、いいんですよね?」
『あの男が、日本へ……帰って来た、と言うべきなのかな』
 スマートフォンの向こう側で、上司が言う。因縁を感じさせる口調が、フェイトは気になった。
「もしかして……お知り合い? なんですか、龍臣さんと」
『さあな……御苦労だったフェイト、しばらく休め。そろそろ本格的に、働いてもらう事になる』
「本当ですか。やるやる詐欺は、もう勘弁ですよ」
 通話は、すでに切れていた。

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いと高き処、神に栄光あれ

人を、音でしか判断出来ない。それでは駄目なんだ。
 遠い昔、そんな事を誰かに言われたような気がする。
 夢の中で言われた、のかも知れない。夢なら、すぐに忘れてしまいそうなものではあるが。
 何にせよ、他人を判断するには『音』を聴くのが最も手っ取り早い。それは事実であった。
 会話をする必要が、ないからだ。
 自分が他人との触れ合いを苦手としているのは、会話をする事なく相手を判断出来てしまう、この能力のせいではないのか。
 八瀬葵は、そう思わない事もなかった。
「……って駄目だよな、何かのせいにしてちゃあ」
 呟きながら葵は、その場を立ち去る事が出来ずにいた。
 聞こえてしまったからだ。『音』が。
 哀しみと寂しさ。いかなる音であるかを言葉で表現するとしたら、それしかない。
 早朝。アルバイト先の喫茶店へと向かう、道の途中である。
 葵の職場である、喫茶店の近く。
 雑居ビルと空き店舗の隙間に、その少女は佇んでいた。
 10歳前後、と思われる小さな女の子。
 哀しみと寂しさの『音』そのものが、細く弱々しい少女の姿として具現化している。葵は、そう感じた。
「見つけた……」
 少女は言った。
 独り言ではなく、葵に話しかけてきている。
「あたしと同じくらい、寂しい人……」
「君は……」
 いかなる返事をするべきか、頭で考える前に、葵は感じた事を口に出していた。
「生きて……ない? もしかして……」
「何で、そう思う?」
 少女が、にっこりと儚げに微笑んだ。
 生きている人間に、こんな綺麗な『音』が出せるわけがない。葵は、そう思っただけだ。
「まあいいや……それより、お兄ちゃんも一緒に行こ?」
「どこへ……」
 訊くまでもない、という気はした。
「1人は、寂しいよ……そうでしょ? だから一緒に行くの」
 少女が、小さな手を差し伸べてくる。
 少し前の自分であれば、その手を握っていただろう、と葵は思う。
「……俺は、行かない」
「どうして? 1人は、寂しいよ?」
 少女が、じっと見つめてきた。
「わかるよ……お兄ちゃん、1人なんでしょ?」
 今の俺は、1人じゃない。葵は、そう言ってしまいそうになった。
 口に出して、言う事ではなかった。
「俺は……1人さ。確かに寂しいよ」
 葵は、少女を見つめ返した。
 まっすぐ、お客様の顔を見て。そうすれば自然に、ある程度は大きな声が出ます。
 雇い主である喫茶店のマスターが、助言してくれた事である。
「……だけど、君と一緒には行けない。これからバイトだから」
「……1人は……寂しいよぉ……」
 少女の愛らしい顔が、険しく醜く歪んでゆく。
 寂しさと哀しみが、憎悪に等しいところまで達しているようだ。
「1人は……嫌……あたしと行くのぉ……お兄ちゃんも、一緒に行くのぉおおおおおおお!」
 おぞましい憎悪の『音』が、葵を襲った。
 身体が動かない。逃げる事も、耳を塞ぐ事も出来ない。
 憎悪の思念の塊となった少女が、ゆら……っと葵に迫って来る。
 そして止まった。止められた、ようにも見えた。
「どうにか普通に人と話せるようになって……仕事も見つかって」
 そんな事を言いながら、誰かが歩み寄って来た。
 黒一色のスーツに身を包む、1人の青年。
 初対面の時から、何やらいろいろと世話を焼いてくれる彼が、じっと少女を見据えている。
「前向きに生きられるように、なってきたとこなんだ。連れて行かせる、わけにはいかないんだよ」
 その両眼が、エメラルドグリーンの光を燃やしている。
 力を有する眼光が、少女を射すくめていた。
「フェイト……さん」
「ごめん、付きまとってた。ストーカーみたいな事してるって自覚はあるよ。だけど、あんたの護衛は俺の仕事なんでね」
 言いつつフェイトは、緑色の眼光で少女を威圧し続けた。
 威圧だけではない。この青年がその気になれば、霊体だけの少女など、一瞬にして消えてなくなる。
 それほどの『力』が、エメラルドグリーンの瞳に漲っている。
「説教臭い事、言うわけじゃないけど……難儀な力を持ってるのは、葵さんだけじゃあない」
「何……何なのよ、あんた……」
 少女が、怯えている。
 フェイトの『力』を、感じ取っているのだ。
 緑色の瞳を、容赦なく輝かせながら、フェイトは言った。
「葵さん。俺これから、ちょっと嫌な事するからさ……見たくなかったら、バイト行きなよ。ヴィルさん、待ってるから」
 生きてはいない少女を、この世から解放してやるには、力で無理矢理に消滅させるしかない。
 それを実行する、とフェイトは言っているのだ。
「あんたも連れてってやる! あたしと一緒に、恐くて冷たい所へ!」
 少女の姿が、激しく歪んだ。
 白い肌が破裂し、中から憎悪の念が溢れ出して来る。そんな感じだ。
「あたし1人で行くのは嫌! 1人は嫌! ひとりはイヤぁあああああ!」
「……そうだよな。1人は、嫌だ」
 フェイトの呟きに、何者かが続いた。
「誰もが1度は、1人で行かなければならない場所です。恐くて冷たい所になるのかどうかは、貴女次第ですよ」
 身なりも体格も良い、まるでハリウッド俳優のような外国人男性。
 葵の雇い主である喫茶店店主……ヴィルヘルム・ハスロであった。
「マスター……」
「おはよう葵君。今日も頑張っていきましょう……おはようフェイトさん。当店の従業員を護衛して下さって、どうもありがとう」
「葵さん、ちょっと厄介な連中に目を付けられてるからね。この子は、そいつらとは別口みたいだけど」
 厄介な連中というのは、あの『虚無の境界』という組織の事であろう。
「わかるもんか! 生きてる奴に、あたしの気持ちなんて! わかるもんかあ!」
 少女が、今や形容し難いほど醜く歪み捻れながら叫ぶ。
「パパもママも泣いてるの! あたしはここにいるよって声かけても気付いてくれないの! あたしの声が聞こえないの! あたしは1人! ひとり! 1人は嫌! 1人は嫌だからアンタたちも一緒に行くのぉオオオオオオッ!」
「……これは、パパとママからの贈り物ですか?」
 ヴィルが、長身を屈めた。
 少女の足元に、何かが転がっている。
 ゴミ捨て場も同然の路地裏に放置された、廃品の1つ。
 小さな箱、であろうか。
 少女の姿は、その小箱から、立ちのぼるかの如く発生しているようであった。
「オルゴール……だね」
 フェイトも身を屈め、その小箱に見入った。
「壊れてる? みたいだ」
「それなら、やる事は1つですね」
 ヴィルが、小さなオルゴールを拾い上げる。
 その形良い五指が動いた、と見えた瞬間、オルゴールはバラバラになっていた。
 そして再び、組み立てられていた。
 どうやら修理されたらしいオルゴールが、音楽を奏で始める。
 フェイトが、唖然とした。
「え……直ったの? 凄いね、ヴィルさん」
「銃の分解清掃に比べれば、楽なものですよ」
 そんな事を言いながらヴィルが、掌の上でオルゴールを鳴らしている。
 葵も知っている曲であった。音楽の勉強をしている時に、聞いた事がある。
 優しい音色の曲、だけではなく歌も聞こえた。誰が歌っているのか。
 自分である事に、葵はしばらく気付かなかった。
「ぐ、ろぉおお……おぉおぉお……おぉおぉおー……おぉおおお……りあ……」
 歌が、身体の奥から沸き起こり、唇から溢れ出す。
「いん、ねくしぇるしす……で……お……」
 曲が流れているから、歌う。ただ、それだけだ。
 何も考えず、葵は歌っていた。
 痛ましいほど醜悪な怪物に変わりかけていた少女が、元の可憐な姿に戻りながら、光に包まれてゆく。
「パパ……ママ……」
 少女は、涙を流しながら、微笑んでいた。
 悲しそうな、寂しそうな笑顔が、キラキラと光の中に消えてゆく。
「パパとママにも、いつかきっと貴女の声が届きますよ」
 ヴィルが言った。
「だから今は、1人でお行きなさい。いずれ私も1人で行かなければならない場所です。そこを、恐くて冷たい場所にしないで下さい。どうか、優しさで満たして」
 そこで、ヴィルは微笑んだ。苦笑、のようでもあった。
「……いえ、私がそこへ行けるはずはありませんね。私が行くのは、本当に恐くて冷たい場所です」
「あなたも……」
 何かを言いかけながら、少女は消えた。
 小さなオルゴールだけが、ヴィルの掌に残っている。
「俺は……」
 我に返ったように、葵は歌を止めた。
「俺……今……」
「歌ってた。俺もヴィルさんも聴いてたけど、何ともないよ?」
 フェイトが、葵の細い肩をぽんと叩いた。
「自分の歌が人を不幸にする、なんてのは単なる思い込みさ。あんたの歌は、ただの……いい歌だよ」
「葵君の歌は今、1つの魂を救ったのですよ」
 ヴィルが、あり得ない事を言っている。
 自分の歌が誰かを救う、などという事が、あるはずはないのだ。
「君の歌には、人の心を救う力があります」
 ヴィルが、まっすぐに葵を見据えた。
「それ以外の力などありません。そもそも歌に、人を壊したり死なせたりする事など出来るわけがないのですよ。人を殺せるのは、武器と暴力だけです……長く戦場にいた私が言うのですから、間違いはありません」
「マスター……俺は……」
「……さあ、仕事ですよ。葵君」
 話を終わらせるかのように、ヴィルは笑った。
「君を目当てのお客様が、今日も大勢いらっしゃいます。笑顔を忘れないように」

 どちらかと言うと、店主ヴィルヘルム・ハスロが目当ての客の方が、多いようではある。
 とにかく店内にいるのは、ほとんど女性客であった。
 レモンティーをすすりながらフェイトは、いくらか居心地の悪さを感じていた。
 この店の主な出資者である人物とは、知り合いである。
 彼に本場・英国流の紅茶というものを振る舞ってもらった事はある。
 あれと比べて、この店の紅茶が美味いのか今一つであるのかは、フェイトの舌では判断がつかなかった。紅茶の味など、わからない。
 この店で飲める物なら、コーヒーの方が自分の舌に合う、とフェイトは思っている。
 これでもかというほどの、アメリカン・コーヒーであった。
 4年間アメリカン・コーヒーを飲み続けてきたフェイトにとって、実に馴染む味であった。
 いささか安っぽさは否めないアメリカン・コーヒーの味に、ヴィルヘルム・ハスロは何か思い入れを抱いているようである。
「頑張ってるじゃないか、葵さん」
 手が空いた時を見計らって、フェイトは従業員に声をかけた。
「思ったより繁盛してるみたいで良かったよ、この店」
「フェイトさん、あんた……もしかして暇なの?」
 執事風の制服を着せられた葵が、そんな事を訊いてきた。
 今のところ彼の接客は、この制服に負けていると評価せざるを得ない。
 落ち着きに欠け、丁寧な言葉遣いもぎこちなく、紅茶やコーヒーをこぼさずに運ぶのが精一杯という様子で、まあ微笑ましくはあった。
 自分が接客をしたら、もっとひどい事になるであろう、ともフェイトは思う。
「言ったろ、あんたを護衛するのが仕事だって……あれから何か、虚無の境界の連中が手を出してきたりとかは?」
「今のところ、ないよ……それっぽい連中が来た事はあるけど、マスターが話だけで追い払ってくれた」
 ちらり、と葵が視線を動かす。
 同じ制服を着たヴィルヘルム・ハスロが、何人もの女性客に囲まれ、質問攻めに遭いながら、よどみなく紅茶の説明をしている。
 全て御曹司からの受け売りですよ、とヴィル本人は言っていたが、それを全く感じさせない見事な接客であった。女性客は皆、舞い上がっている。
 ハリウッド俳優のような美形のマスターと、美少年の従業員がいる喫茶店。
 という事で、この店はあっという間に話題となった。
 美少年と言っても20歳なのだが、とにかく連日、女性客で賑わっている。
 連日、マスターの奥方が、いささか難しい顔をしている。それがフェイトは気になった。
「マスターにも……それにフェイトさんにも俺、借りが出来ちゃったよな……」
「言っちゃ悪いけど、あんたに何か返してもらおうなんて期待はしてないからな」
 素っ気なく、フェイトは言った。感謝などされても面倒なだけだ。
 気を悪くした、わけではないようだが、葵がじっと見つめてくる。
 いや。見ているのではなく『音』を聞いているのだとフェイトは感じた。
「何か……変なものでも、聞こえるのかな?」
「いや、その……ごめん、たぶん気のせいだと思う。あんたの中から……フェイトさんの音、じゃないものが聞こえたような気がしたんだ」
 葵は、目を逸らせた。
「フェイトさんの音は、はっきり言って荒っぽい……その下に、何か……そうじゃない音が、ずうっと流れてる……それも、あんたの音なのかも知れないけど」
 すいませーん、という声が客席から上がった。追加注文のようである。
 はい、と応えながら葵がそちらへ向かう。
 フェイトは無言で、その背中を見送った。
 アメリカで、1人の少女に魂を分けてもらった。
 フェイトという魂は1度、完全に失われてしまったのだ。

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面接

かなり古い建物を買い取ったのか、あるいは古めかしく造ってあるのか、八瀬葵には判断がつかなかった。
 とにかく、年代がかった雰囲気の喫茶店である。
「どうでしょう。お金をいただいても良いレベルに、達していますか?」
 店のマスターが、そんな事を訊いてくる。緑色の瞳が、向かい側の席から、まっすぐに向けられる。
 ここを紹介してくれた青年と同じ、エメラルドグリーンの双眸。
 見つめ返す事も出来ず葵は、俯き加減に紅茶を啜っていた。
 アールグレイ、であろうか。紅茶の種類には、葵はあまり詳しくはない。蘊蓄を語るほどの知識もない。
 飲ませてもらっても、紅茶の味の良し悪しなどわからないというのが正直なところであった。
 ただ一口、味わった瞬間、葵の頭には曲が浮かんだ。
 このレトロな喫茶店で紅茶を味わう、その情景にふさわしい音楽がだ。
(……誰に聞かせるんだよ、そんなもの)
 そんな事を思いつつ葵は、とりあえず当たり障りのない事を言った。
「……美味しい、と思います」
「良い茶葉を使っていますからね。ある人のおかげで、格安で手に入れる事が出来ました」
 マスターが微笑んだ。
 30代前半、であろうか。日本語の流暢な、外国人男性である。
「このお店の、出資者のような立場の人です。とある英国企業の若社長なのですけどね。様々な事を、私はその人から厳しく叩き込まれましたよ。茶葉や豆の扱い、淹れ方から管理方法から価格設定……全てにおいて私、素人ですから」
 優しい笑顔。
 温かなものが、自分を包んでいる。葵は半ば呆然と、そう感じた。
 ヴィルヘルム・ハスロ。
 マスターは最初に、そう自己紹介をした。
 茶色の髪に、あの青年と同じ緑色の瞳。彫りの深い、端正な顔立ち。
 均整の取れた体格に、仕立ての良いスーツが似合っている。
 まるでハリウッド俳優のような白人男性が、ここで喫茶店を開こうとしているのだ。
 従業員募集に応じて店を訪れた葵が今、面接を受けている。そういう状況である。
 募集に応じたと言うより、あの緑眼の青年に、この店を紹介されたのだ。
 つまり葵がこの店で、今までのアルバイトのような失敗をやらかしたら、あの青年の顔に泥を塗る事になる。
 そうなる前に、言っておかなければならない。
「……俺、接客が……全然、駄目なんです……」 
「私もですよ。接客業は、初めてです」
 ヴィルヘルムの笑顔は、変わらない。
「言ったでしょう? 商売の全てにおいて素人なんですよ私、本当に」
「……俺は……」
 こんな所で自分は何をしているのだ、と葵は思った。
 自分は、あの『虚無の境界』などという危険な者たちに狙われている。
 アルバイトなど始めたら、この店にもヴィルヘルム・ハスロにも迷惑がかかる。
 何しろ自分には、危険な連中に狙われる能力があるのだ。人の心を壊し、不幸をもたらす。それ以外には何の役にも立たない能力。
 全て、説明しなければならない。
 なのに葵は、頭の中で言葉を組み立てる事が出来ずにいた。
 音楽が、聞こえてきたからだ。
 ヴィルヘルム・ハスロの『音』。
 その荘厳な調べが、葵の思考能力を圧倒していた。
 荘厳さの中に、深い悲哀がある。
 どのような悲哀であるのか、葵にはわからない。探る事など許されない、という気がする。
 とにかく、その悲哀すらも、ヴィルヘルムは受け入れて自らの『音』にしてしまったのだ。
「……俺……俺は……」
 自身の事を説明しなければならない。面接とは、そういう場なのだ。
 自分が厄介極まる能力を持っている事、そのために狙われている事。この店にとって自分は、迷惑となり得る存在でしかない事。全てを、雇い主には話しておかなければならない。
 説明など、しかし頭の中で組み立てる事は出来なかった。
 葵の口から出てしまったのは、別の言葉だ。
「……俺……人を、殺してるんです……」
 親友が、死んだ。
 親友の恋人だった女性は、心が壊れたままだ。
「……そんな奴が……お客さんに、紅茶やコーヒーを飲んでもらうような仕事……出来るわけ、ないですよね……」
「私も、人を殺していますよ」
 ヴィルヘルムの顔から、微笑が消えた。
 緑色の瞳が、恐いほど真摯な輝きを孕む。
「人を殺した手で淹れたお茶を、お客様に飲んでいただこうとしているわけです。私という男はね」
「……ヴィルヘルムさん……」
「ヴィル、と呼んで下さい。私も貴方を、葵君と呼ぶ事にします」
 すでに採用が決定したかのような口調である。
「葵君は懸命に、御自分の事を話してくれましたね。私も少しだけ、自分の事を話しましょうか……20年近く前、ブカレストの裏通りで、私は初めて人を殺しました。ただ一切れのパンを奪うためだけに、ね」
 ブカレストというのが、どの国の都市であったか、葵は思い出せなかった。ハンガリーであったか、クロアチアか。
「その後、私はずっと、人を殺す仕事をしてきました。生活の糧を得る、ただそれだけのために」
「……お仕事、だったんでしょう? 人殺しを……楽しんでた、わけじゃないんでしょう……」
「さあ、どうでしょうね。どこかで楽しまなければ、やっていられない。そんな仕事でもありましたから」
 エメラルドグリーンの両眼が、葵を見つめていながら、どこか遠くを見てもいる。
「私の手によって失われた命……それらは、私が後悔し反省し、己を責め続け、贖罪のために自ら命を絶ったとしても、戻って来る事はありません」
 葵がいくら自身を責め続け、仮に自ら命を絶ったとしても、親友が生き返るわけではない。彼女が、心を取り戻してくれるわけではない。
 ヴィルヘルム・ハスロは今、そう言ったのだ。
「生きている者が、死んだ人のために出来る事など、何もないのですよ」
「……何も……ない……」
「生きている者は、頑張って生き続けるしかないんです。重いものがあるのなら、それをずっと背負いながらね」
「……俺、頑張れる……でしょうか……?」
 他人に聞くような事ではない、と葵は頭ではわかっていた。
「……俺、生まれてから1度も……頑張った事なんて、何にもなくて……自分からも、他の人からも、逃げてばっかりで……」
 自分が何を言っているのか、葵はわからなくなりつつあった。
 ただ、声が震える。
 こちらを見据えるヴィルの顔が、じわりと潤み、ぼやけてゆく。
 葵は、涙を流していた。
「……俺……頑張りたいです……」
「明日の午前中から、入ってもらいますよ」
 葵が持参した履歴書に、ヴィルは目を通そうともしなかった。
「貴方に、いくらか他の人とは違う能力があるのは、見ればわかります。そのせいで、いろいろと背負ってしまっているのでしょう? 出来る限り力になりたい、とは思います。少なくとも、物理的な暴力から従業員を守るくらいの事は、私にも出来ますから」
「……俺……このお店に、迷惑を……」
「そんな余計な事は考えずに、働いて下さい」
 ヴィルは言った。
「……偉そうな口をきけるほど、私も何かを頑張った事なんてありません。一緒に、頑張っていきましょう」
「……ヴィルさん……」
 その時、喫茶店の扉が開いた。
 同時に、音楽が聞こえた。優しい音楽だった。
 葵にしか聞こえない、優しい音楽。だが言葉は厳しい。
「ねえヴィル。セカンドライフ症候群って、知ってる?」
 ずかずかと店内に歩み入って来たのは、1人の日本人女性だった。夫婦、であろうか。
「仕事一筋だった男の人が定年になって、やる事なくなってトチ狂って、おかしな夢持ち始めてねえ。いきなり借金してレストランとか経営してみたりバンド組んでみたりで、奥さんにえらい迷惑かけちゃう病気の事」
「肝に銘じておこう。そうならないように……頑張る、としか言えないんだけどね」
「まったく、この子もまだ小さいのに」
 5歳くらいの小さな男の子を、彼女は連れていた。
「おとうさん! しんそうかいてん、おめでとー!」
 その子がヴィルに、仔犬の如く飛びついてゆく。
「もう、がいこくへいったりしない? ずっと、おうちにいてくれる?」
「そういうわけには、いかないさ。まあ……外国で撃たれて死ぬ、ような事は、もうないと思いたいけどね」
 飛びついて来た息子の頭を撫でながら、ヴィルが言う。
 そこへ、彼の妻であろう日本人女性が迫って行く。
「ちゃんとした利益が出るまで……途中で投げ出すなんて、許さないからね」
「わかっているさ。ここも1つの戦場だと思って、生き抜いて見せるよ」
「本当に、もう……キミだけが、頼りよ」
 初対面の葵に、女性がそんな事を言ってくる。
「うちのヴィルを、よろしくね?」
「……は、はい……」
 そんな答え方をして良いものかどうかも、わからなかった。
「おひるごはん、できたよ。あのね、ぼくも、おてつだいしたんだよー」
 子供が、ヴィルの手を引っ張っている。
「……あ、じゃあ俺、帰ります」
 葵は、席から立ち上がった。採用が決まった以上、今日はもうここにいる理由がない。
 家族の時間を、邪魔してはならない。そう思ったのだが、
「葵君も、御一緒にどうですか?」
 ヴィルが、そう言って微笑んだ。
「私の家族を、貴方に紹介しておきたいんですよ」
「……で、でも……俺なんかが……」
「ホットサンドなんだけど。この子がねえ、調子に乗ってパン切りまくるから、つい沢山作り過ぎちゃったのよね」
 ヴィルの妻が、子供の柔らかな頬をむにーっと引っ張った。
「だから片付けるの手伝って下さいな。キミの、最初のお仕事って事で」
「……は……はあ……」
 自分の家族と、最後に一緒に食事をしたのは、果たして何年前であったか。
 葵は、もう思い出せなかった。

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