goes back

更衣室というものは案外厄介である。
 個々に与えられたロッカーの前、同性同士、何の気兼ねもないはずなのだが、時にはその着替えに気を使わなくてはならない事もあるのだ。
「…………」
 自分のロッカー内の鏡の前で、眉根を寄せながらネクタイを閉めているのはフェイトだった。
 真っ白なシャツの襟口からうっすらと見える赤い痣のようなものを隠すために、ここ数日大変だったようである。
「ユウタ、先行くぞ……って、お前まだ気にしてんのか?」
「……よく言うよ、確信犯のくせに」
 フェイトの後ろを通りかかったクレイグが、彼の鏡越しにそんな声をかけてくる。
 何の悪びれもない彼の態度にフェイトが睨みつつそう言えば、彼は口元のみでいたずらっぽく笑った。
「だーからこうやってさ、ボタンを上まで留めりゃぁ……」
「ちょっとクレイ、……苦しいってば。俺が一番上のボタン閉めないって分かっててこの位置に残したんでしょ」
 ポン、と肩に手を置かれたと思えばあっさりと体の向きをクレイグのほうへと変えられ、首元に両手が添えられる。そしてわざとらしい言葉と共にフェイトのシャツのボタンを閉めようとする仕草を見せてから、フェイトの返事を待って彼はニヤリとまた笑った。
「……俺のことで頭がいっぱいだっただろ?」
「他の同僚に冷やかされて誤魔化すの大変だったんだ。それどころじゃなかったよ。俺もクレイに同じ事してやろうか?」
「出来んのか、お前に。……俺はイイぜ? キスマークってのは勲章みたいなモンだしな」
「……、……っ」
 勢いで放った言葉が墓穴に繋がったフェイトは、頬を染めつつ悔しそうな表情を浮かべてクレイグの胸を思い切り押した。そこで距離を保って、彼はロッカーの中から上着を取り出した後、バタンッと大きな音を立てて閉め更衣室を先に出ていく。
「おい、ユウタ、待てって……、っ」
「キャッ!」
 クレイグがフェイトを追うために慌てて更衣室を出たところで、そんな声が響いた。女性の声音だった。
 すでに数メートルを歩み進んでいたフェイトであったが、その声に驚いて振り返るとクレイグが女性のエージェントと何かを話してる姿が視界に飛び込んでくる。
「……悪ぃ、どこも怪我してねぇか?」
「大丈夫よ、ナイトがこうして抱きとめてくれたじゃない」
 クレイグは女性の背中に手を回している状態であった。どうやら出会い頭にぶつかったらしいのだが、その光景だけ見れば良い雰囲気にも取れる。
「あれ、リップの色変えた?」
「相変わらず目聡いわね。新色が出たから、今日はお試しでそれ使ってみたのよ」
「いいんじゃないか? キレイだよ」
「……もう、ナイトったら」
 女性の口紅の色を当たり前のように褒めるクレイグ。
 それを目の当たりにした女性はやはり当然のようにして頬をピンクに染め、数メートル先で見ていたフェイトは、眉間に再びのシワが寄った。
「……自分がバカみたいだ。行こう」
 思わずの言葉がフェイトの唇から零れ落ちる。
 そして彼は踵を返した。
 ――直後。
「フェイト」
 当たり前のように背中に掛かる声。
 それを耳にして、フェイトはかくりと自分の頭を落とした。足が前に進まないのだ。
「どうした、調子悪いか?」
 するりと自然に頬に滑りこんでくる大きな手。
 それと同時に自分へと降ってくる優しい声音に、フェイトは頬を膨らませるしか無かった。
「おい、すげぇ顔してんぞ」
「誰のせいだよ」
 クレイグが小さく笑いながらそう言えば、フェイトはじろりと彼を睨み上げつつの返事をする。
 それすら可愛いと感じているのか、クレイグはますます楽しそうに笑ってから、僅かに身を屈めた。
「お前だけだって」
「……簡単に言うけどさ……」
 ふわ、と額に感触があった。言葉とともに一瞬だけ触れてきたのはクレイグの唇だった。
 それに内心を高鳴らせつつも、フェイトは周囲を気にして彼の胸に手を置き軽く押してそう言う。
 クレイグはそれを敢えて黙って受け止めつつ、胸に置かれたフェイトの手に自分のを重ねて軽く握りしめた。
「さっきの彼女には付き合って三年目になる奴がいる。ああいうのは社交辞令ってやつだよ」
「クレイの場合は傍から見たらそう見えないから困……いや困るっていうか俺が嫌……そうじゃなくてっ」
「うんうん、そうだな」
 フェイトの言葉にクレイグは満面の笑みを浮かべてうんうんと頷いていた。場に乗せられて自分の感情をぽろぽろと零している目の前の恋人が可愛くて仕方無いと言った感じである。
「……っ」
 フェイトが言葉に詰まり、握られたままの手を軽く払ってそのまま拳を作りクレイグの腹のあたりをドスドスと叩く。
 クレイグはそれにもクックッと笑うのみだった。
「――仲睦まじいのは結構な事だが、そういったやりとりはプライベートでやってもらおうか。ナイトウォーカー、フェイト」
「!!」
 二人同時に、ビクリと体が震えた。
 少し離れた位置から声をかけられたのだが、クレイグもフェイトも予想外であったらしい。
 恐る恐る向けた視線の先には、例の老エージェントが立っていた。彼は呆れ顔であったが、それ以前に険しいオーラを抱えていて、二人は姿勢を正して彼に向き直る。
「任務ですか」
 フェイトがそう言うと、老エージェントは深く頷いた。それを見て、クレイグも表情を引き締めて彼の言葉を待った。
「ボストンに爆弾魔だ。霊的エネルギーを爆弾に変えて街を破壊している」
「……、……」
 フェイトの真横で、クレイグの肩が僅かに揺れた。視界に捉えられる範囲であったので、彼を見上げたが表情には何の変化も見られなかった。
 だが。
「……霊的エネルギーを放つ爆弾魔、か」
「ナイト?」
 クレイグの口からぼそりと零される言葉に、フェイトが僅かに表情を変えた。そして、思わず問いかけてしまう。
「ん、ああ、何でも無い。……ってのもアレか、後で話すよ」
「うん……」
 クレイグはフェイトに軽く笑みを作ってそう言った。
 確かに今は個人的な話をしている場合ではないが、滅多に見せない彼の小さな動揺にフェイトは引っ掛かりを感じたままで居る。
「――悪ぃな、じーさん。続けてくれ」
「うむ……。とにかく犯人の能力範囲が広くてな。今回は多数のエージェントで目的を囲み捕捉する作戦で動く」
「なるほど、了解」
 老エージェントの説明を受けて、クレイグはそう言った。そして彼はひらりと片腕を上げて踵を返す。
「クレ……ナイト!」
 フェイトはそんなクレイグを追った。
 その際、老エージェントへと視線を先にやったが、彼はそれ以上は何も言ってはこなかった。もしかしたらある程度の把握をしているのかもしれない。
「ナイト、待ってったら!」
 クレイグはいつもどおりに歩いていた。だが、その足取りは僅かに危ういものに感じて、フェイトは焦りを見せて彼の腕を引いた。
「どうしたフェイト。このまま出るだろ?」
「そうだけど……。ナイト、平気?」
 フェイトのそんな問いに、クレイグは小さな笑みを浮かべた。
 そしてゆっくりと腕を上げて、フェイトの頭に優しく手のひらを乗せる。それから彼の髪を数回撫でで「まぁ、五分五分ってトコだな」と答えた。
「……クレイ」
「んな不安そうな顔すんなって。任務には支障ねぇよ。……と、ほら、出ろってさ」
「うん……」
 それぞれに支給されている携帯端末が同時に震えた。それを取り出してディスプレイを見れば、『任務開始』の文字が浮かんでいる。
 ここでこれ以上の会話は出来ないようであった。
「行こう」
「ああ」
 最初にそう言ったのはフェイト。
 クレイグも端末を内ポケットに仕舞いこみつつ、歩みを再開させた。

〈B班、目視で目標を捕えた。かなり追い詰めているはずだ〉
〈こちらC班、広範囲で展開できる捕捉網の設置は完了している。待機してるA班のもとに追い込んでくれ〉
 耳に取り付けられている通信機から各班の言葉を受け止めつつ、フェイトとクレイグは人気のない路地を挟んでそれぞれに銃を構えていた。
 通信機で言われていたA班とは、クレイグ達のことを指しているらしい。
 数秒待っていると、乱れた足音と焦りの息遣いが聞こえてきた。
「ナイト、来た」
「ああ、ここで確実に捕捉するぜ」
 二人は互いを見やりつつ、こくりと頷いて足音がする方へと視線をやった。
「……ちくしょうっ、IO2め……ッ」
 息を切らしつつも言葉を作る男が一人。
 犯人らしき人物だ。
 彼は追手であるIO2に恨み言を言いながら、駆け込んできた。
「――おっと、そこまでだ」
 クレイグが角から足のみを出して、そう言った。
 その足に見事に躓いてアスファルトに転がるのは犯人の男だ。打ちどころが悪かったのか、「痛ぇぇッ」と声を漏らしつつ足を抱え込んでいる。
「ついさっき街を破壊してきたくせに、これくらいで痛がるなよ」
 銃を犯人に向けつつ、クレイグが姿を見せる。それと同時にフェイトも反対方向から姿を見せて二人で男を囲むようにして立った。
「……あれ、お前さん若いな。俺の記憶じゃオッサンだったはずだが」
「るせぇっ、クソッタレなお前らなんかに……!」
 ゴリ、と男の額に銃口を押し付けつつクレイグがそう言った。その言葉に、フェイトは僅かに眉根を寄せる。
 じわりと広がる言い知れぬ不安。それが何なのか解らないまま、彼はクレイグと男を見守った。
「俺達がクソッタレなら、お前は何なんだよ? こんな行為を正義とでも言うのか」
「ああ、俺にとっちゃぁ、正義だね。クソつまらねぇこんな世の中、俺が派手にぶっ飛ばしてやる!」
 この状況でも強気である男に、フェイトは違和感を得て改めて犯人の全身を見渡した。
 男の右手が不用意に地面へと向けられていることに気づいて、口を開く。
 間近にいるクレイグは未だに気づいていないようであった。
「――ナイト!」
「!!」
 フェイトの声に、クレイグはようやくそこから一歩飛び退いた。
 男がニヤリと笑みを浮かべる。
「ははっ、とくと見やがれっ!!」
〈ナイトウォーカー、フェイト!!〉
 通信機から叫びに近い声が届いた。
 その直後。

 ――ドンッ!!

 大きな爆発音が鳴り響く。
 それより数秒ほど前に、フェイトがクレイグの傍に駆け寄ってくるのが見えた。
 右腕を伸ばして、クレイグの胸元を思い切り押す。
 そこまでは、互いの記憶に留まる光景となった。
「クレイ」
 フェイトは彼の名を呼んだ。
 だがそれは、浮遊感を帯びたような響きだった。
「あれ……?」
 自分の視界の範囲が狭くなっていく。取り敢えずは爆発の直撃を避ける事は出来たはずだが、それを確認することが出来なかった。
 フェイトの意識はそこで途切れてしまう。否、途切れるというよりかはどこか遠くに飛んでいってしまったかのような、そんな感じであった。
「……フェイト。おい、フェイト?」
 爆風に飛ばされ数メートル転がった先で、クレイグがフェイトの名を呼んだ。
 フェイトはクレイグの腕の中に収まる形で傍にいたが、意識がない。
「マジかよ。……しっかりしろ、ユウタ!」
 ピクリとも動かないフェイトを片腕で抱きつつ自分の身も起こし、クレイグは慌てて彼の体を手探りで調べた。
 土埃で汚れている以外、目立った外傷はない。それから首筋に指を当てて脈を調べるが、きちんと動いている。
 そこで一度安堵はするが、フェイトは瞳を開かない。
 それが今のクレイグには精神的なダメージに繋がっているようで、彼はぐっと唇を噛み締めてフェイトを抱きしめた。
「………………」
 意識のないフェイトの耳元に何かを囁く。
 それは誰に耳にも止まらずに周囲の喧騒に掻き消されてしまうのだが、今のクレイグには同じことを繰り返す余裕はどこにもなかった。

 ――俺を置いて行かないでくれ。

「……、……」
 遠くで声を聞いた気がして、フェイトはうっすらと瞳を開いた。
「ニャァ……」
 自分の口から発せられたらしい声音に、動揺が走る。
(……え、なんで?)
 自分の体を起こしてみたが、地面が近かった。手元を見れば、手であるはずのものが黒猫の前足になっている。
 彼は慌てて自分の姿を映せるものを探した。すぐそばに水たまりがある。
 それを恐る恐る覗きこめば、映った影は人のものではなかった。
(これ……俺、だよな……?)
 水たまりの向こうの黒猫に対して、心で問いかける。
 人語を話せなくなっているというのは先ほどの声で自覚して、敢えて鳴こうとは思わなかった。
「…………」
 辺りを見回す。
 いつもと違う視点から見る世界は丸きり別のモノに映り、不安にもなる。
(ここ、どこだろう……俺たち爆発に巻き込まれて……何とか直撃は避けたけど、クレイは……?)
 そんなことを思いながら数歩を歩く。
 街並みは同じように見えるが、あの時の緊張感が無い。爆発が起きた様子もなく、IO2によって包囲網も張られていたはずなのに、それすら見当たらなかった。
(これって、もしかして……)
 フェイトには思い当たる節が一つだけあった。
 自分の能力に『時空転移』と言うものがある。制御不能でいつ発動するかもわからないそれが、爆風に飛ばされた勢いで起こってしまったのだろう。しかも猫の姿ということは、身体は元の時代に残されたままなのかもしれない。
(……どうしよう。自分で戻れるものでもないし……、あれ?)
 俯きながら考え込んでいると、身体がふわりと浮いた。そして一気に視界が変わって向きを変えられる。誰かに抱き上げられたらしい。
「お前、どこの野良だ? この辺じゃ見かけないな」
「!!」
 耳に届いた声に目を見開く。とても良く知る声音だったからだ。
「おっ、お前の目、キレイだなぁ。宝石みたいだ」
(ク、クレイ)
 フェイトの視界に飛び込んできた青い瞳。自分が記憶しているものより明るいような気がしたが、それでも見間違えるはずもない色。そして、その姿。
 だが、面立ちがやや幼いように見えた。
 つまりは、フェイトは今、クレイグの過去を遡ってかつての彼と対面しているのだ。
「……ニャー……」
 ぽふ、と前足で彼の頬を突く。
 クレイグはくすぐったそうにしながら嬉しそうに微笑んだ。
(あ、笑顔は変わらない……)
 間近で見る笑顔は今も昔も同じだと思った。
 そんなことを考えていると、少し遠くの距離からクラクションが長く鳴り響く音が聞こえた。
 それを耳にしたクレイグは「うわ、やべぇ乗り遅れる!」と言いながら、斜めがけの自分の鞄にフェイトを突っ込んで走り出した。
「!?」
(……ク、クレイ?)
 訳も分からず慌てて鞄の中で体勢を整えたフェイトは、鞄の蓋の隙間から顔を出して彼を見上げた。
 クレイグは焦りながらも余裕の笑みで走り続けている。
 鞄の中には教材が入っているので、彼は今学生なのだろう。高校生くらいだろうか。
「ニャァ」
「後で飯やるから、そこにいろよ。こんなに綺麗な猫初めて見るし、母さんにも見せたい」
 フェイトが鳴けば、クレイグはそんなことを言いながら横目でこちらを見てきた。
 そして走る速度を早めて、前方に待つ黄色のスクールバスに飛び乗る。直後にバスの扉が閉まり、背中でそれを感じたクレイグは、苦笑しつつ空いてる関を探した。
「クレイグ、こっちよ」
「ん、おぅ、いつも悪ぃな」
 プラチナブロンドの長い髪が自慢らしい女子がクレイグに声を掛けてきた。
 どうやら彼のために席を取っていてくれたらしく、自分の鞄を避けて手招く。
 その席に辿り着く間にも各所から声がかかり、彼の人気ぶりがここでも目立っていた。
「今日はギリギリだったのね」
「ああ、ちょっとな。いい出会いがあってさ」
「ちょっとぉ、アタシの前でそれ言っちゃう?」
「……はは、悪い悪い。週末に付き合うから許してくれよ」
 席を取ってくれていた女子は、明らかにクレイグに好意を持っているようであった。
 とかく彼に気に入られようとする空気が、鞄の中にいるフェイトにも伝わってくる。
(こういう所も変わらないんだなぁ……)
 フェイトは鞄の中で丸まりながら、ふぅ、とため息を吐いた。
 すると鞄越しであるが背中を撫でられて、閉じかけた瞳を開く。
 言葉は何もなかった。だが、クレイグの手は鞄の上――その中にいるフェイトを守るようにして置かれ、バスが揺れてもその衝撃を少しでも軽くしようとする行動があり、フェイトは心がくすぐったくなる。
 無意識なのだろうが、それが彼の優しさの一部である事を知っているフェイトは、手のひらを感じる部分に頭を擦り付けて小さく小さく「ニャァ」と鳴いた。

 それから一日、フェイトは猫の姿のままでクレイグの姿を眺めていた。
 女子に人気なのも当たり前な光景であったが、クラスメイトからの信頼も厚いようでよく声が掛かる。
 頭の回転が早い彼は、そんな呼びかけにもすぐに答えて場を和ませていた。
「クレイグ! 今日の放課後空いてるか? メンツに空きできちまってさ~」
「悪ぃ、もう予約済みだ」
「うわ、マジかよ~!!」
「今度埋め合わせするって」
 そんな会話を男子と交わしつつ、彼は一人で校舎裏へと足を運んだ。鞄も一緒だったので、当然中に入ったままのフェイトも連れてこられる事になった。
「……ごめんな、窮屈だっただろ?」
 人気を感じないことを確かめてから、彼は鞄の蓋を開けてフェイトの身体を持ち上げられる。
 そこで改めて、フェイトはクレイグの顔を見た。
 朝に見た時より少しだけ疲れているかのような、そんな顔色をしている。
 常にクラスメイトや女子に気を使う分、反動が出るのかもしれない。
「さて、待ちかねのランチタイムだぞ」
 クレイグはフェイトに向かってニカっと笑いながらそう言うと、鞄の内ポケットをガサゴソと探り、小分けにした袋を三つほど取り出した。
 すると、草むらの向こうから気配が生まれて、二匹の猫が姿を見せる。真っ白な猫と茶色の縞のある猫だ。
(……猫……、野良かな)
 自分も今猫だがと思いつつ、同じ目線上にいる猫を見やる。
 真っ白な猫はプライドが高いのか、チラリとフェイトを見た後、ふん、と言わんばかりそっぽを向いてクレイグの傍に寄った。
「お、ルーシー、ヤキモチか?」
 クレイグはそんなこと言いながらドライフードの小袋を開けた。白い猫はルーシーというらしい。
 縞柄の猫は臆病なのか、少しだけ離れた場所で腰を下ろして『餌』を待っている。
「マックスは相変わらずだなぁ。ほら、ちゃんと食えよ?」
 クレイグは二匹の猫に対して物凄く柔らかな声音で話しかけていた。
 それは、自分へと向けられるものと同じだった。
(今、気づいたけど……クレイはちゃんと使い分けてくれてるんだな……)
 そんなことを思っていると、フェイトの前にもドライフードが置かれた。
 彼は毎日こうして餌を持ってきているのだろうか。
「お前の好みはわかんねぇけど、今これしか持ってなくてさ。我慢してくれよな。あ、そうだ、ミルクのほうがいいか?」
 彼はそう言いながら鞄の他に持っていた茶色の紙袋の中からミルクを取り出して、携帯用の皿に半分ほどを開けてくれた。どうやらそれは彼自身が飲むものだったらしいのだが、フェイトに半分をくれるようだ。
「ニャー」
 フェイトはひと鳴きしてそのミルクに口をつける。「ありがとう」の意味の鳴き声だったが、それが彼に伝わったかは解らなかった。
 クレイグは黒猫がミルクを舐めるのを暫く眺めた後、言葉なく自分用のサンドウィッチを取り出して食べ始めた。手作りらしいそれは、彼の母が作ってくれたのだろうか。
「……ここさ、俺の秘密基地。暗いし変な噂もあってさ、誰もこねぇんだよ。でも俺にとっちゃ、小さな楽園みたいなもんだ」
 一口食べてきちんと噛み飲み込んだところで、彼は静かにそんな事を語りだした。
 フェイトに向けて語りかけてくれているのだ。
 ミルクを綺麗に舐め終えたフェイトは、彼の話を聞くために顔を上げた。すると、クレイグは嬉しそうに笑って頭を撫でてくれる。
「お前、不思議なやつだなぁ。俺の言葉が解ってるみてぇだ」
(解るよ、クレイの事なら)
 そう言いたくても、伝えられない。
 フェイトは今の姿に少しのもどかしさを感じて、クレイグの手のひらをぐいぐいと頭で押した。
 すると彼は「何だ、どうした?」と言いながらフェイトの身体を抱き上げる。
 そのままクレイグはゆっくりと寝転がって、天を仰いだ。フェイトは彼の胸の上に乗る形なったが、そのままでいた。
 暫くすると白い猫も縞の猫も彼の傍に寄ってくる。
「……俺はさ、恵まれてるっていう自覚はあるんだよ。何でかまではわかんねぇけど、皆、声かけてくれてさ。すげぇ楽しいし幸せだって思う。けどさ、なんか……たまにこうやって一人になりたくなるんだよなぁ」
(うん、それも……何となく解るよ、クレイ)
 クレイグは基本的に人が良すぎるのだ。誰に対しても対等に接して、差別をしない。それは無意識の優しさからくる行動であって、エゴなどではない。
 だから余計に、周囲から同時に向けられる期待の感情に、耐えられなくなるのだ。
 完璧な人間などいない。
 いくら人望があっても、頭が良くても、スポーツが万能でも、必ずどこかに脆い部分がある。
(きっとクレイは……向けられる好意そのものに優しくなれるんだ)
 フェイトは心でそんな言葉を続けつつ、クレイグの首元に顔を埋めて甘えの仕草を見せた。
 するとクレイグは目を細めてフェイトの頭をまた撫でる。ゴロゴロと喉を鳴らせば、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「お前、可愛いなぁ」

 ――ユウタは可愛いなぁ。

 いつも傍で言われている言葉を思い出す。同じ声音だが、ほんの僅かだけ若い響きのそれは、数年後には落ち着いたものになるのだろう。
 自分だけがそれを聞けるのだと思うと、急激に体が火照って気がしてフェイトはぶんぶんと首を振った。
 ざわ、と風が吹く。
 その風に白い猫が反応し、顔を上げた。直後、フェイトも『気配』を感じてそちらへと顔を向ける。
「……またアンタか。もういい加減、行ったらどうだ?」
(え……)
 猫はたまに何も無い空間を見上げることがある。
 一説には人間には見えない何かが見えていると言われているが、その実はどうなのかはわからない。
 今のこの状態も似たようなものだが、猫が見ている方向をクレイグも見ていた。先程の言葉は、それに向けられて放たれたものだ。
 視線の先には崩れかけた人の影があった。おそらくは『霊』というものなのだろう。一般人には殆ど目にすることもないものだが、少し前『に悪い噂が出ている』とクレイグが言っていたものの根源でもあった。
 ゆらゆらと揺れながらこちらを見てくる霊。
 悪意は感じられないが、寂しいという感情だけは伝わってくる。
「俺は見えるだけで何も出来ねぇよ。それに、ここは寂しいだろ? だから早く天国に行って、そこで幸せになれよ」
(クレイ、普通に見えてるんだ。霊感は昔から強かったんだな……)
 霊にすら優しい声を掛けてしまう彼に、フェイトは苦笑した。優しすぎるプレイボーイは、見えるというだけでも大変だろうに、普段はそれらしい素振りすら見せない。
 霊はそれから暫くして、その場から姿を消した。
 フェイトが行く末を確認したが、どうやら天へと昇って行ったようだ。
「ニャァ……」
 緑の目を持つ黒猫が鳴いた。
 すると他の二匹も同じようにして鳴く。
 
 誰も近寄らない校舎裏、ひっそりとした場所で寝転がる心温かな青年を癒やすようにして、三匹の猫たちは彼に寄り添っていた。

カテゴリー: 02フェイト, season2(紗生WR), 紗生WR(フェイト編) |

fascination blue

「なぁ、これって海軍の仕事なんじゃねぇの?」
「いや、『出る』んだって。だから、こっちの仕事」
 太陽の光が水面に反射してキラキラとしている。その上を一つの小型船が移動していた。
 海の上は地上より少しは涼しいかと思ったが、その実はそうでもないものだという現実を今まさに体感しつつ、クレイグとフェイトは海上のとあるポイントに向かっていた。
 任務のための移動なのだが、今回は沖合に浮かぶ幽霊船の調査及び掃討が目的らしい。
「…………」
 海風に攫われる髪を抑えつつ、フェイトは隣に座るクレイグを見上げた。彼は船の操縦をしている最中だ。
「……こっちって船舶免許いらないんだね」
「こういう小型船まではな。まぁ、免許関係は日本とのルールの差デカイよな。こっちは車検もねぇし、高速道路も無料が殆どだしな」
「そうなんだ……」
 何気ないような会話が続く。
 フェイトはクレイグを見上げたままでいた。
 どことなく、心ここにあらずといった感じであった。
「……ユウタ、どうした?」
「えっ」
 そんなフェイトの様子に気がついていたクレイグは、ちらりと視線を動かして問いかけてくる。
 素直に心臓が跳ねる感覚を内心で感じ取りながら、フェイトは僅かに焦りの色を見せた短い返事を漏らした後、彼から視線を逸らした。
「昨日、向こうでちゃんと眠ったのか?」
「う、うん」
「…………」
 視線のみでフェイトの様子を見て、クレイグは言葉を繋げるのをやめた。そして彼は船のスピードを落として、スーツの内ポケットへと手を伸ばして煙草を取り出す。
「ユウタ、火くれ」
 ポン、とフェイトの懐に投げられるクレイグ愛用の銀のZIPPO。片手が塞がっているから点けてくれという理由らしかったが、普段から器用な彼がわざわざそれを言ってくることに疑問を感じてフェイトの表情が若干難しい物になった。
「操縦しながら吸うの?」
「煙はお前に行かないようにするからさ」
 既に一本を口に咥えながら、クレイグはフェイトをちょいちょいと人差し指だけで招いた。
 そんなクレイグに半ば呆れ顔になったフェイトだったが、ゆっくりと立ち上がって彼の口元にライターを差し出す。
 その、直後。
「!」
 ぐい、とクレイグに抱き寄せられる。
 その勢いで右手からはライターが滑り落ちてしまうが、どうにもならなかった。
「……ちょっと、クレイ?」
「やっと捕まえた。お前、戻ってから微妙に俺を避けてただろ。無意識だったんだろうが、結構分かるもんなんだぜ?」
「…………」
 至近距離でそんな事を言われた。
 ちなみに彼の咥えていた煙草は既にそこには無く、足元に転がっている状態であった。
 意識してなかったといえば、嘘になる。
 フェイトは昨日一日、別の任務でアメリカを離れていた。任務を終えた時間が遅かったために移動を避けてその地で一泊してから今日の朝には戻ってきたのだが、現地で会った友人との事を思い出し、なんとも言いがたい後ろめたさのようなものを感じていて、クレイグにはそれが伝わってしまっていたらしい。
「クレイ……その、寂しかった?」
「おっと、その質問が来るとは思わなかったな。俺は昨日はあのじーさんに同行する任務だったけどな、普通に寂しかったぜ。おかげでレッドに浮ついてるだの散々な評価貰っちまったよ」
 苦笑しつつもそう言うクレイグに、フェイトは素直に頬を染めた。
 自分が居なくて寂しかったと彼は隠さずに言ってくれた。それが嬉しかったようだ。
「……ところで、俺に聞いたからにはお前も聞かせてくれるんだろうな?」
「えっ……」
「なぁ、昨日電話くれた時、誰かと会ってただろ」
「!」
 フェイトの表情が一気に崩れた。
 何も悪いことなどしてはいない。だが、『友人』のことを詳しく言うのもまたややこしくなってしまいそうで、言えずにいる。
「あー……悪ぃ。なんかお前を責めてるみたいな言い方になっちまったな。ダメだな~俺も、余裕無くなっちまってよ」
「……クレイ」
 クレイグはフェイトを抱きかかえているほうの腕を動かして、彼の髪の毛を梳いた。それからゆっくりと頭を撫でて、そう付け加えてくる。
「ユウタにはユウタの個人的な理由がある。……そんなこと、解りきってる。なのにアレだな、余計なことばっか考えちまってよ。ガキの恋愛かよって……おっと、着いたみてぇだな」
「あ……」
 ゆっくりと進んでいる感覚があった船だったが、どうやら目的のポイントにいつの間にか到着していたようだ。
 クレイグの言葉につられて周囲を見やれば、お約束のように霧がもやもやと広がり始める。
「なんだっけ、クリスティーナ号? いかにもな感じの海賊船だなぁ」
「映画のセットみたいだね」
 眼前に揺れるボロボロの船。二人の言うように映像や漫画の世界などで見られる形の大きな帆船がそこには在った。三本マストのクリッパーのような形をしている。
「取り敢えず、ここからでも『いる』のは見えるが、もうちょい近づいてみるか。大砲とか打たれても困るしなぁ」
「……クレイ、ちょっと待って」
「ん?」
 相変わらず片腕に抱き込まれているままのフェイトだったが、ハンドルを動かそうとしているクレイグのスーツの襟を掴んで彼の動きを止めた。
 短い彼の返事を聞いてから、半ば強引に服を自分へと引き寄せて、数秒。
「――――」
 クレイグの瞳が一瞬だけ大きく開いた。
 自分の唇にあるのは、柔らかな感触。触れ合っていたのはほんの僅かな時間であったが、紛うこと無く目の前のフェイトのそれであって、彼はさすがに驚きを隠せないようである。
「ユウ……」
「……ほら、船動かして。後ろ側に回りこんでよ」
 クレイグの言葉を遮るようにして、フェイトは彼の胸を軽く押し、顔を背ける。その頬をは真っ赤に染まっていたが、前髪に隠れて表情はあまり伺えなかった。
「今のは反則だぜ……」
 と独り事のような言葉を漏らしつつ、クレイグはハンドルを握り直した。そしてフェイトの言うとおりに右側に回りこんで幽霊船へと近づく。
「……ナイト、頭下げて!」
「!」
 横付け状態で彼らの船が寄ったところで、フェイトが何かに気づいて銃を構えた。
 きちんと思考を切り替えて、クレイグの名をエージェント名で呼ぶところはさすがとしか言い様がない。
 ドン、と銃の放たれる音が海上に響いた。数秒後、ボチャンと纏まりのある何かが水面に落ちた音が続いて、二人はそれを確認する。船に飛びかかってきた影をフェイトが撃ち落としたのだが、それは曲刀を手にした骨であった。
「骸骨か……まぁ、そうだよなぁ。しかし、好戦的で助かるな。探す手間が省けるってもんだ」
 そう言いながら、クレイグも懐から取り出した銃を放った。船の上からこちらを見ていた骸骨に命中して、先ほどと同じようにボチャリと落ちる。直後、わらわらと甲板上に骸骨が湧き出てくるのを見て、思わず「うぉっ」とそんな声を漏らした。
「……予想外の数だね。乗り込んでる余裕なさそうだし……ナイト、船をゆっくり動かしてくれる?」
「了解」
 幸い、船からは大砲を撃ってくるような気配は感じられなかった。それならば不用意に近づくよりも遠距離で仕留めていくほうが効率的かもしれないと判断して、彼らは行動を開始した。
 メインの攻撃に回るのはフェイト。クレイグは操縦しつつフェイトが撃ち漏らしたものを拾って撃つという形で、彼らは次々と骸骨たちを海へと還していく。
「フェイト、弾数大丈夫か? 補充するくらいの時間だったら稼げるぞ」
「ああ、うん……じゃあ、頼むよ」
「残り五、六体くらいか。そういや、船長っぽいのまだ出てねぇなぁ。ラスボスか?」
「数的にはかなり減らしたから、そろそろ終わりだと思うんだけどね」
 クレイグの言葉を横目に、フェイトは自らの銃の弾の補充を行っていた。
 一つ目を手早く変えて、二つ目に手をかける。
 その間にも、クレイグの操縦する小舟は海賊船の周りをゆっくりと移動して、隙を見ては彼が左手のみで銃を放ち、カクカクと動く骸骨の海賊たちを落としていく。利き手は右のみなので、左はどうしても命中率が下がるがそれでもきちんと目標を捉えている彼は、やはり器用なのだろう。
「……クレイって器用だよね」
「お前の銃の腕前から見りゃ、レベル的にも足元にも及ばねぇけどな」
「でも、格好良いよ」
「……なぁユウタ、さっきからお前、俺をダメにする気満々だろ……」
 珍しく自分の気持をサラリと告げてくるフェイトに対して、クレイグがため息を漏らしつつそう言った。先ほどの不意打ちの件もそうだが、余裕を端から崩されている気がしてどうにももどかしい気持ちが溢れてくる。
 戦闘中でもあるために、尚更だ。
 そんな複雑な感情を抱えつつ船の操縦を続けるクレイグの傍で、フェイトは再び銃を放つ。
 一発一発が的確で、目標を綺麗に仕留めるのは相変わらずの腕前である。
「あ、ナイト。お待ちかねのラスボスだよ」
「そうみたいだな。じゃあ最後は俺にも撃たせてくれ」
 それらしい衣服を身につけた骸骨が姿を見せた。眼の部分が赤く光ってこちらに向かって何かを叫んでいるようだったが、彼らは飛び道具を何一つ持っていなかったのでフェイト達にとっては何ひとつの苦労も感じることもなく、同時に銃を構えた二人はやはり同時に引き金を引いて相手を沈ませた。
 見る限りはもう骸骨の影が浮かぶことはない。クレイグの視る力でも念のため見てみたが、それらしい気配は感じられなかった。
 任務完了である。
「……船が」
「乗員が居なくなったからお役御免って奴か? まさに幽霊船だったな」
 周囲から霧が無くなっていくのと同時に、目の前の海賊船も音もなく消えていく。まさに霧に溶けていくと言った感じであった。
「今更だけど、暑いね……」
「ああ……何で俺は今スーツなんか着てるんだよって心で自分に突っ込んじまったぜ」
 霧がじわじわと晴れていく一方で、現実に引き戻されるような感覚を得た二人は今が真夏であることも同時に自覚して、項垂れた。自覚と同時に滲み出てくる汗にフェイトもクレイグも言葉を失う。
 その、直後。
「うわっ!?」
「……、うぉっ」
 がくん、と船に衝撃があった。
 バランスを崩して倒れるフェイトを抱きとめつつ、クレイグも後ろに倒れこむ。
 数秒してから船が僅か傾いていることに気がついて、「ちょっと外見てくれるか」とフェイトに告げて、船の縁に手を掛けた。
「……クレイ、砂浜だ」
「あー、やっぱりか。霧ん中だったし、いつの間にかルート外れてたんだな」
「小さな砂浜だよ。こんな所あったんだね」
 フェイトは半身だけ起こして周囲を見ていた。下にクレイグを組み敷いている形なのだが、まだ気がついてはいない。
「……おーい、ユウタ。手、どけてくれ。起きれねぇ」
「わっ……ご、ごめん……っ」
 フェイトの右手が丁度クレイグの肩口あたりにあった。押し付けられている状態なので苦笑しつつそう言ったのだが、フェイトが過剰に反応してしまい慌ててその場で立ち上がる。
「って、おい、危な……ッ」
「う、わ、わ……っ!」
 クレイグががばりと起き上がって腕を差し出すが、それは間に合わなかった。
 体勢を大きく崩したフェイトは、そのまま船の外に落ちて派手な水音を立てる。砂浜に乗り上げた状態なので浅瀬だろうが、それでもクレイグの顔色が一瞬青ざめた。
「ユウタ!」
「……だ、大丈夫……濡れただけ」
 ザザ、と波が寄せる音がした。
 その中で尻もち状態でクレイグを見上げているのはフェイトだった。水位を言えばふくらはぎ辺りの位置であったが、見事に全身びしょ濡れになっている。
「あ~……立てるか?」
 クレイグは何とも言いがたい表情で船を降り、フェイトに手を差し出してきた。
 そんな彼に、フェイトはにやりと笑みを作った後にバシャリと水をかける。予想もつかない行動にクレイグも最初は驚いていたが、直後に「……やったな」と言って上着を脱いで船の中に投げ入れた。
 まるで子供に戻ったかのように、二人は暫くその場で水をかけ合ってはしゃいだ。その砂場はどこかの崖と崖の間に存在する場所であったので周囲にも何もない手付かずの自然空間で、人目を気にすることもなくフェイトにもクレイグにも満面の笑顔が浮かんでいた。
 そうして、ひとしきり遊んだ後。
 本部に連絡を入れ忘れていたことを思い出した二人は、そこで現実に戻り、船へと足を向けた。
「……ユウタ、携帯濡れてねぇか?」
「うん、なんとか大丈夫」
「そっか。……あー、煙草ダメになってんなぁ」
 船の中に戻り、先ほど投げ入れた上着をごそごそとしてたクレイグが、そんな言葉を漏らした。割と多くの煙草を吸う彼にとっては、一服する物がないとやはり口寂しいものがあるのかもしれない。
「濡れちゃった?」
「ああ、一度濡れちまうと乾いてもマズくてな」
 彼の右手にはいつもの赤い箱が握られていた。それだけでは水に濡れているかどうかの確認はフェイトには出来なかったのだが、クレイグがそう言うのだからと疑いもしなかった。
「……まぁそんなわけだ。ユウタ、犠牲になってもらうぞ」
「え!?」
 何がどういうわけなのかフェイトが理解しきる前に、クレイグは行動に移った。
 フェイトの腕を引いて、抱き寄せる。直後に唇が塞がれて、彼の身体はあっさりと傾むき、船の底へと転がった。いつの間にかクレイグの上着が敷かれていて背中が痛むことはなかったが、突然の展開と行動にフェイトは半ばパニック状態になった。
「……、クレ、……っ」
「キスだけだって。……俺に少しの時間をくれ」
 間近で紡がれる言葉に、反論が出来ない。「そういう風に言うのは狡い」と伝えたかったが、それは適わなかった。
 夏の空がどこまでも広がるその下で、今耳元に届くのは波がくりかえし砂浜に寄せる音と、相手の息遣い。
 触れられる度に深くなっていくキスは、どんどん心をかき乱されていくようで少しだけ怖かった。
「……っ……」
 言葉を作ろうとすると、それを崩すのはクレイグだ。苦しそうにするフェイトを間近で見て、彼は嬉しそうに口元だけの笑みを象る。おそらくはフェイトが抱える小さな不安や微妙な心の揺れも、読んでいるのだろう。
「!」
 思考が追いつくより先に、身体がビクリと震える。
 唇を解放したかと思ったクレイグはそのままフェイトの首筋へとそれを滑らせてきた。
 ゆっくりと押し付けられる感触に、ひくりと喉が鳴る。
「ク、クレイ……っ」
「悪い、ユウタ。あとちょっと我慢してくれ」
「ちょっ……、っ」
 じくり、と僅かな痛みが首元に走った。経験したことのない刺激に、フェイトは表情を引きつらせる。
 思わず右手がクレイグの髪に伸びる。力任せに掴んで、ぐい、と引っ張ると彼は苦笑しつつフェイトの首元から唇を離して半身を起こした。
「……俺は謝らねぇよ、お前は俺のものだ」
 クレイグのその言葉に、フェイトは首を傾げた。何を言っているのか意味を理解するのにそこから数秒かかる。
「え、……っ、まさか……」
 がば、と勢い良く起き上がる。そして彼は辺りを見回して自分の姿を映せるものを探した。
 クレイグはそっぽを向いて湿気ってダメになったはずの煙草を咥えて、火を灯しているところだった。その手元に収まっている銀色のライター。それが目に止まったフェイトは、彼に飛びかかる。
「うぉっ、危ねぇな、ユウタ」
「いいから、ちょっとそれ貸して!」
 小さな面積しか無いが、ツルツルとしている銀の面を自分へと向けて、首もとを探る。歪みはあるが、鏡代わりになるそれを駆使して、気になる箇所を映した。
「……っ、クレイ!!」
 ライターの側面を通して視界に飛び込んできたものは、赤い痣のようなものだった。
「だーから、俺は謝らねぇよ? それにその位置だったらシャツのボタン全部しちまえば見えねぇし、大丈夫だって」
 ブルブルと体を震わせて抗議をしてくるフェイトに対して、クレイグはさらりとそう返すのみだ。
 そして彼は、にやりと笑みを作る。
「――お前が言いたくねぇ事は無理には聞かねぇ。けど、それなりの反動があるって、そう思ってくれ」
「な、何言って……」
「さっきの話の続きってやつだ。俺はユウタをやっと手に入れた。だから、誰にも渡さねぇし、触れさせない」
「…………」
 青い瞳が少しだけ厳しいものになった。
 それを間近で見て、フェイトは小さく肩を震わせる。抱いていた怒りの感情も、そこで静かに消えた。
「怖いか?」
「……ちょっとだけ。でも、クレイ……。俺は、その……クレイだけ、だから。本当に」
「わかってる。お前を信用してねぇ訳じゃ無ねぇんだ。……まぁこれは、俺の我儘なのかもな」
 フェイトの言葉を受けて、クレイグはその瞳を柔らかいものにして、苦笑する。
 そして目の前の彼を抱き寄せて、「ふー……」と紫煙を吐き出した。
 さぁ、と海風が二人の頬を撫でる。
 それに目を細めつつ、クレイグがまた言葉を作った。
「さて、そろそろ戻るか。ユウタは本部に連絡入れてくれ。俺はその間に船の向き変えとくしさ」
「……あ、うん」
 クレイグはフェイトの身体の位置を元に戻して数回頭をなでた後、ひらりと船から降りた。砂浜に乗り上げたままなので、移動させるのだろう。
 その場に一人残されたフェイトは、へたりと座り込んでぼんやりと思考を巡らせた。
 言葉なくクレイグの残した印へと手を持って行き、頬をうっすらと染める。
 明確なことは言われなかったが、クレイグはおそらく昨日のことを気にしているのだろう。だからこそ、こうして目に見える形でフェイトに行動で示してきたのだ。
 好きだからこその感情の一つ。嫉妬の延長上のそれをを子供っぽいと感じ取るのは簡単だが、クレイグはその先に『欲』を滲ませている。そんな気がして、フェイトは益々頬を染めて俯いた。
「……まだ、もう少しだけ」
 小さく小さく、そんな呟きが漏れた。
 直後、かくりと船が僅かに揺れるのを感じて、顔を上げる。クレイグが船を砂浜から沖へと動かしているらしい。
「クレイ、俺も手伝う?」
「大丈夫だよ。それよりお前は連絡、な」
「あ、そうだった……うん」
 船の上からクレイグの様子を伺ったが、彼はいつも通りの表情をしていた。
 そしてフェイトに再度の連絡を促して、また船を押す。
 フェイトは慌てて自分のスマートフォンを手にして、本部へ連絡を入れるために操作をし始めた。
「……あー、ほんと、俺ももうちょい余裕持たねぇとなぁ……」
 ぼそりと独り事が漏れる。
 両腕で船を動かしている間に、クレイグが吐き出した音だった。
 フェイトの呟き同様、その音も、相手には届かずに空気に溶けて消えていくのだった。

カテゴリー: 02フェイト, season1(紗生WR), 紗生WR(フェイト編) |

Dazzle of summer

北大西洋に位置するバミューダ諸島。イギリスの領土であるその土地は、魔の海域を持つことで世界的にも有名である。
 首都をハミルトンとし、世界遺産となっているセント・ジョージなどはリゾート地としても人気が高い。
「任務完了っと……」
 この地に一人きりで任務のために訪れていたフェイトは、頬をくすぐる海風に釣られつつ顔を上げて、ぽそりとそう呟いた。遠くの空がオレンジ色に染まっていて、。
「今日はここに一泊、かな。取り敢えず本部に連絡入れて……」
「おや――フェイトさんじゃないですか?」
「!」
 潮騒の聞こえるビーチへと視線をやったままで携帯を耳に当てたところで、背後に掛けられる声がした。
 聞き覚えの有り過ぎるその声に、フェイトは何となく振り向きたくない気持ちになり、そのままの姿勢で佇んでいた。
「ああ、やっぱり。お一人ですか?」
「……ダグ」
 品の良い高貴なオーラが視界に入り込んできた。『彼』は数人の使用人を連れてにこやかに話しかけてくる。
 イギリスIO2に所属するエージェント、ダグラスだった。
 フェイトとは縁があり、これまでに幾度か任務で一緒になっている。電話番号とメールアドレスなどを交換しあっているので、どちらかと言えば顔見知りの同僚というよりはすでに『友人』の枠であるのだが、何かと癖の強いダグラスには、フェイトは若干の苦手意識を抱いたままだった。
「もしかして、ダグも任務?」
「ああ、いいえ。今日は家の稼業のほうで、少し。先ほど終わったところだったんですよ」
「ふーん……」
 実家が豪商であり、『次期社長』という立ち位置を約束されている彼はいつも忙しそうであった。
 フェイトと向き合って話をしている間にも使用人が何かしらのサインを求めてくる。
 フェイトがそれらを黙って眺めていると、彼の視線を受け止めたダグラスが制止のサイン出して使用人を下がらせた。
「これは失礼をいたしました」
「いや、いいんだけど。なんか、大変そうだなって思って見てただけだし」
「そうではないといえば嘘になりますが……せっかくこうして再会出来たというのに、申し訳ありません」
 電話でなら割りと頻繁に声を聞いているのにと思いながら、確かにこうして顔を合わせるのは久しぶりかもしれないと感じつつ、数秒。「そう言えば」と話題を切り替えてきたのはダグラスのほうでだった。
「今日はこちらにお泊りに?」
「ああ、うん。この時間だし、飛行場まで行くのも手間かなって思ってさ」
「それでしたら、私の別荘へご招待しますよ」
「は……?」
 フェイトがそんな返事をしつつ目を丸くすると、その様子を見ていたダグラスは嬉しそうに口の端だけで笑みを作り、使用人の一人を傍近くまで呼び寄せた。
 二言三言の言葉で会話は終了し、あれよという間にフェイトはタッカー家の別荘に招かれる事となる。
「いや、あの、別に頼んでないし!?」
「私も今日はこちらで過ごす予定でしたから、どうぞ遠慮なさらずに。さぁ、ご案内しますよ」
「お車へどうぞ、フェイト様」
 わらわら、と背の高い使用人が進み出てくる。体躯の良い彼らに圧倒されたフェイトは何も反論することが出来ずに、黒塗りの豪華な車に乗せられて、その場を離れるのだった。

「なんと……坊っちゃんのご友人!? それは素晴らしい……!!」
 別荘らしき建物についた途端、出迎えてくれた老人が目尻の皺を深くしてそう言った。彼はとても感動しているようで、今にも泣き出しそうな勢いだ。
「そういう事ですから、失礼のないようにお願いしますね」
「もちろんですとも。――フェイト様、ようこそおいでくださいました。使用人一同、精一杯のおもてなしをさせて頂きます」
「い、いや……なんというか……ちょっと、ダグ……」
 ずらりと並ぶフットマンとメイド。彼らが一斉に頭を下げてフェイトを熱烈に歓迎してくれているのだが、その勢いについていけない当の本人は困り顔である。
「固くなることはありませんよ、フェイトさん。我が家のように思ってくださればいいんです」
「思えるかっ!」
 ダグラスはいつもと同じような笑みを湛えつつ、そう言う。
 その笑顔を見ながら、フェイトは敢えて語気を強めての返事をした。
「さて、夕食の準備まで少し時間がありますし……あ、そうだ。この間珍しい蝶の標本が手に入ったんですよ、ご覧になります?」
「え、あ……うん」
 吹き抜けのエントランスホールから、ゆっくりとカーブして登る階段をゆっくりと歩み進めて二階へと登る。
 豪華なホテルを思わせる空間の中、広い廊下を数メートル進んだ先に、一つの部屋があった。
「ダグの部屋?」
「そうですね、私のコレクション部屋の一つですよ。さぁ、どうぞ」
 ギィと扉が音を立てた。ダグラスの導きの元、フェイトが歩みを進めたその先は、沢山の分厚い本と昆虫の標本が展示してあった。
「うわ……」
 虹色を思わせる箱が視界に飛び込んでくる。
 フェイトは思わずそれに歩み寄り、まじまじと見つめる。
 青い蝶の標本箱であった。
「ヘレナモルフォですよ。世界三大美蝶の一角のものです。美しいでしょう?」
「うん、すごいキレイだ……。俺、黄色と黒いアゲハしか見た事ない」
「ナミアゲハとクロアゲハでしょうかね。あの子達も可愛らしいですよね」
 虫の事となるとさすがに詳しいなと思いつつ、フェイトは彼を見やる。標本に目を向けつつ言葉を繋ぐ彼は、とても優しい表情をしていた。
「どうかしましたか?」
「……あ、いや、なんでもない。ところで、これが珍しいって言ってたやつ?」
「ああ、それはこちらです。ロスチャイルドトリバネアゲハとメガネトリバネアゲハの種間雑種のメス個体なんですけどね……」
「…………」
 ロス……なんだって?
 と、心で思いつつ敢えて口で問い直すことはせずに、フェイトはダグラスの指す手のひらの向こうを見た。
 今度は黄緑色の蝶だった。見たことのない不思議な色合いをしている。
「生きて見られる個体は今のところはいないそうです。雑種なので独立した種とも認められてませんしね」
「ふーん……」
 さら、と、ダグラスの指が標本箱のガラスを愛おしそうに撫でる仕草が印象的だった。
 それを見ながら生返事をしていると、またもやダグラスがフェイトの顔を覗きこんでくる。
「な、なんだよ?」
 あまりな近距離に驚き、一歩を引く。
 慌てるフェイトと、落ち着き払ったままのダグラスはとても対照的であった。
「……いいえ。フェイトさんはとても素直だなと」
「???」
 そんなフェイトの姿を目を細めつつ見たダグラスは、満足そうに笑みを作ってそう言った。
 フェイトには言葉の意味が解らずに首を傾げるのみだ。
「そうだ、こちらの蜂はご覧になったことありますか?」
「え? 青い蜂……?」
 意図的なものかは定かではなかったが、ダグラスはそこで話題を変えた。
 そして一つの箱をフェイトの前に差し出す。その中には光沢の有る青い蜂が入っていた。
「日本に生息してるんですが、あまり見かける機会は多くないそうですね。『大きな青い蜂』で『オオセイボウ』と言うんですよ」
「……へぇ。でも、なんかこれ、小さかったらハエっぽいな」
「玉虫色のような青ですからね。そう思われても仕方ないと思います。この子は生態も変わっていて、同じ蜂を食べて成長するんですよ」
「共食いするのか?」
「――寄生するんですよ」
 ガラスの上で青い蜂に指をさしていたフェイトの手を、ダグラスは自然に取った。背後からだったのでフェイトはそれに反応することが出来ずに、瞠目する。
「ダグ?」
 彼の名前を呼んだ。
 すぐ傍で気配がする。
「こうして貴方にも寄生させたら、どうなるでしょうね?」
「…………」
 手を取られたままで、そんなことを言われた。するりと手のひらにダグラスのそれが滑り込み、何故か指が絡められる。
 ざわ、と心が揺れて、フェイトはその手を振りほどいた。
「冗談です」
「……っ……」
 振り向いて口を開いたところで、ダグラスはいつもの笑顔とともにさらりとそう告げてきた。
 フェイトはそれ以上を言えずに、ふるふると身体を震わせている。
 そんなタイミングを見計らったかのようにして、扉を叩く音が響いてきた。
「――坊っちゃん、ご夕食の準備が整いました」
「わかりました、すぐに行きます」
 ダグラスは標本箱の位置を軽く直して、またフェイトを案内するように手のひらを扉へと向ける。
「では行きましょうか」
「……あ、うん」
 そして二人はそのコレクション部屋を後にして、夕食を取るために再び階下へと降りていくのだった。

 無駄に縦に長いテーブルの上、真っ白で上質クロスの上に料理が並ぶ。海産物が豊富である為に本日のメニューも魚介中心のものであった。大きなロブスターが縦半分に分けられ目の前に置かれただけでも驚いたが、地元で取れる魚のフライだったり、大きな巻き貝のカレーやシチューがあったりと様々なものが次から次へと運ばれてきて、フェイトは目を回すしか無かった。正直、味がどうだったかまでは認識出来なかったようである。
「うわ、ジャクジー風呂なんだ。っていうか、個人の家の客室にジャクジー? ……これだから金持ちは……」
 用意された部屋に辿り着いたフェイトは、そこでも目を回すこととなる。
 ベッドは天蓋付きな上にキングサイズ、革張りのソファにジャグジー付きの風呂、ベランダには一人用の丸テーブルと椅子まで備え付けられていて、どこの高級ホテルだと勘違いを起こしてしまいそうであった。
 取り敢えずは、と綺麗にベッドメイキングされている大きなベッドの上に倒れこむ。
「うわ~ふかふかだよ……ほんっとに、これだから金持ちってのは……」
 体に感じる幸福感を慌ててかき消すようにして、文句が漏れる。ダグラスが本気の富裕層なのだと思い知るたびに、フェイトは何故か卑屈になってしまうのだ。
「……う、ヤバイ。このまま寝ちゃいそうだ。風呂入っちゃおう」
 頬をふくらませつつも、上掛けのふわふわ感を味わっていたフェイトだったがゆるりと訪れた睡魔に焦りを感じて慌てて身を起こす。
 そして彼はソファに上着を投げてそそくさと服を脱ぎ、入浴を済ませてしまうために浴室に姿を消した。
 数分後、ソファの一部がブルブルと震えた。彼の置いた上着の内ポケットに入れたままになっていた、携帯が震える音であった。

「ふい~……なんだかんだいって堪能しちゃったな……良い風呂だった……」
 どんな場所であっても、風呂を心ゆくまで楽しんでしまうのは日本人の特性ゆえなのか。
 あれだけぶつくさと文句を言っていたフェイトであったが、結局ジャグジーが楽しかったのか小一時間ほどを浴室で過ごしてしまったようだ。
 用意されていたバスローブを着て、頭にタオルを乗せたままで浴室から出てきた彼が最初に気づいたのはソファの上でチカチカと光る小さな明かりだった。
「うわ、まずい。本部に連絡入れ忘れてた……っ」
 バタバタと掛け寄り、上着を避けて携帯を握りしめる。
「……――」
 手にした携帯のディスプレイを見て、フェイトは表情を変えた。
 連絡を入れなくてはならなかったのは本部。だが――。
「あ……、終わったら連絡入れるって約束してたんだった……」
 フェイトにはもう一件、連絡を入れなくてはならない相手がいた。
 そして、着信履歴を残したのもその『彼』である。任務を終えてからもう数時間。向こうも心配しているのかもしれない。
「……お電話ですか?」
「!」
 背後でそんな声が響き、フェイトは肩を震わせた。
 ダグラスの声だった。
「すみません、ノックしたのですが。――ナイト・キャップを用意させたので、ご一緒にどうかと思いまして」
「ああ、うん……」
 彼の誘いに、フェイトは手にしていたままの携帯電話をテーブルの上に置いた。
 それを見ていたダグラスが、首を傾げて口を開く。
「お電話しなくていいのですか?」
「あ、いや……うん」
「親しい方なんでしょう?」
「!」
 ビクリ、と肩が震える。視線だけでダグラスを見やったが、彼は口元のみでの笑みを浮かべるだけでそれ以上は言ってこない。
「……まさか、知ってる?」
「さぁ、それはどうでしょう。ただ、エージェントなどというものをやっていれば不思議といろんな情報を多方面から得るものです。例え所属してるところが違っていても……ね」
 ダグラスの言葉は明らかに遠回しのそれであった。
 それを受けて、フェイトは深い溜息を吐き零しながら再び携帯を取る。どうやら連絡を入れるらしい。
「私がここにいても?」
 その言葉をフェイトは手のひらを差し出すことで受け止めた。すでにコールが始まっているところだったので、返事ができなかったのだろう。
「――ああ、俺。うん、お疲れさま……ごめん、終わった時間ちょっと遅くて、飛行機取れなかったんだ。……うん、ごめん。こっちで一泊してから帰るよ。大丈夫」
「…………」
 普段、自分には難しい顔しか向けないフェイトが、珍しく表情を和らげている。
 そんなことを思いながら、ダグラスは通話を続けているフェイトを黙って見つめていた。
 彼は大切な『友人』。そうであるはずなのだが、心の奥で何かが軋む気がして、言葉なく眼鏡の位置を直して静かにそれをかき消した。
「ちょっと、そういうことを軽々しく言うなって、いつも言ってるだろ……うん、うん。わかってる。じゃあ、おやすみ!」
 最後の方は一方的に会話を終えるかのようにして、フェイトは携帯を切った。頬が赤く染まっていて、彼自身が居た堪れないといった具合である。
「大丈夫ですか?」
「……ま、まぁね……」
「貴方は本当に素直で解りやすいですね。じゃあ、次は私に付き合ってください。こちらへどうぞ」
 かくりと肩を落としているフェイトをよそに、ダグラスはそんな言葉を繋げた。そう言えば彼は飲みの誘いに来たんだと思い返して、フェイトは彼の言うままに部屋を出た。
 フェイトに与えられた部屋の丁度隣にあたる空間は開放的な談話ルームとなっていた。その先に大きな窓があり、どうやら広いバルコニーがあるようだ。
 使用人の一人がその窓をゆっくりと開けて、二人を案内してくれる。
「うわ、すごい……星がこんなに」
「ここから見上げる星空が好きなんですよ。さぁどうぞ、お掛けください」
 木製のデッキチェアに通されたフェイトは、そのままその場に腰を下ろす。眼前に広がるのは満天の星空であった。都会にいては絶対に見られない光景の一つである。
 コトリ、とデーブルにグラスを置かれる音がした。
 ダグラスの言っていたナイト・キャップなのだろう。ラムベースのカクテルにミントの葉が添えられている為に、緑色のそれに見えるが意図的なものなのだろうか。
 もっとも、フェイト自身はそれに気づいていないようで普通にグラスに手を伸ばしている。
 カチン、とグラスが当てられる音が小さく響く。それが乾杯の合図となって、隣に座るダグラスがにこりと微笑みながら一口を含んだ。
 フェイトも同じようにしてグラスに口をつける。
「……こんなに沢山の星、初めて見たかもしれない」
「私の秘密基地のようなものです」
「そんな秘密の場所に俺を招いてよかったのか?」
「フェイトさんは私の大切な友人ですからね」
 星空を見上げながらの会話がゆっくりと進められた。
 チカチカと瞬く星に気を取られているフェイトを横目で見たダグラスは、「もしかしたら友人以上かもしれませんけどね」と独り言のように繋げたが、フェイトがそれを聞き取るのは小さすぎる音のようであった。
「波の音まで聞こえるんだな」
「オーシャンビューも意識して造られてますからね。朝など、清々しい気持ちになれますよ」
「でもこの海ってあんまりいい話聴かないけど。なんだっけ……バミューダ・トライアングル?」
「正確にはトラペジアムですけれどね。トライアングルとしたほうが不幸じみてて聞こえが良いんでしょうね」
 興味深い話へと切り替わると、フェイトが視線をダグラスへと戻してきた。
 眼鏡の向こうでそれを確認したダグラスは、フェイトには分からないようにして僅かに笑みを作り、言葉を繋げる。
「まぁ、過去に消えたという船や飛行機の話は殆どが作り話です。日本でいうところの都市伝説と同じですよ。国がそれを明確にそうだと公言しないのは、ミステリーは解き明かされないからこその魅力があるという点が大きいんでしょうね」
「げ、現実的な話だな……」
 さらりとそんなことを言うダグラスに対して、フェイトが呆れ顔になりつつカクテルをまた口にした。
 ミントの葉がグラスの中でくるりと周り、それを間近で見ていたフェイトも心なしか思考がふわふわとし始める。
「……だからといって、行方不明になっているそういう案件が実際はゼロかといえば、そうでもないんですよ」
「そうなのか……」
「色んな意味合いでの『魔の海域』ですからね。別の海流が交じるポイントもありますし……そんな所に飲み込まれたら、探しようもありません。他にも磁気だとか気圧や温度の関係性だという話も出ていますけれどね」
 ダグラスは己の知識を惜しげもなくフェイトに伝えた。彼が話をよく聞いてくれる為に、ついつい話してしまうらしい。そしてそれが、ダグラスにとっては何よりの楽しみであり幸せだと感じる瞬間でもあった。
「人と人の関係性が複雑なように、深く解明できないものはこの世にはまだまだ沢山あるのだと思いますよ。……今みたいにね」
「え?」
 ダグラスの言葉が呪文のようだと思った。
 たった二口含んだだけの酒がよく回っているのか、フェイトの思考がじわりと遅れ始める。
 テーブルの上に見えるのは一つのグラス。ダグラスが置いたものなのだろう。そして、瞬きを数回した後にはそのグラスが二つになっていることに気がつく。自分の右手に収まっていたはずのものが、すでにそこには無かった。
「……これも、バミューダのせいですよ。そう、言ってしまえば……その通りだと思えてきませんか?」
「……、……」
 ダグラスの顔がフェイトに近づく。
 思考が鈍くなっている為なのか、それがどういったものかと理解するまでにまた数秒の遅れが出た。
 だが。
「――ダグ、またいつもの『冗談』か?」
「おや」
 フェイトの開いた右手が思考より先にダグラスの顔をグイ、と押した。それにより眼鏡がズレてしまった彼は残念そうに、だがやはり楽しそうな笑みを作って体勢を戻し、きっちりと眼鏡の位置も直す。
「明日早いし、そろそろ寝るよ。今日は色々と有難うな。……その、楽しかったよ」
 本格的にふわふわとしてきたことを自覚したフェイトは、そこでゆっくりと立ち上がった。
 ダグラスはにこりと微笑んだままでフェイトの言葉を受けて頷いてみせる。
「それは良かったです。またこうした機会が訪れると良いのですが」
「お互いの都合がついたらな。おやすみ」
「おやすみなさい」
 星空を背にして、フェイトはバルコニーを出て行った。そして足早に隣の部屋に姿を消し、扉の向こうで大きなため息を吐く。
「あ、危なかった……ダグのやつ、俺が止めなかったらどうするつもりだったんだ……」
 ダグラスの真意は読めない。だがあの時、僅かに感じ取った危ういものは『熱』が篭っているような気がして、フェイトはぶんぶんと頭を振る。直後、ふらりと目眩がして「さっさと寝よう……」とつぶやき、ふかふかのベッドに潜り込んだのだった。

「――今日は私も楽しかったですよ、色々とね」

 そう、夜風に溶けるかのような呟きを漏らすのはバルコニーに一人残っているダグラスだ。
 彼は満足そうに笑みを浮かべたまま、静かに輝く星空を暫く見つめていた。

 次の日、ダグラスが起きた頃にはフェイトの姿はそこにはなく、使用人に聞けば「朝早くの便でお発ちになりました」と報告を受け、「やれやれ、逃げられましたか」と漏らしたが、その表情は昨夜の楽しげな色を保ったままであった。
 

カテゴリー: 02フェイト, season1(紗生WR), 番外編(紗生WR), 紗生WR(フェイト編) |

Afterglow

「クレイ、次はあれ行こう!」
 ぐいぐいとクレイグの腕を引っ張りながらそう言うのは、フェイトだった。
 まるで子供に帰ったかのような笑顔だ。
 クレイグはそんなフェイトの勢いに完全に飲まれる形になりながら、彼の後を追った。
 童話の世界の城と、色とりどりの風船と、様々なキャラクターに扮したスタッフと客である『ゲスト』が行き交う場所。
 アナハイムに存在する世界的に有名なテーマパークは、とても賑やかであった。
 『そんなに子供じゃない』と前日に言っていたフェイトであったが、今はとても楽しそうだ。
 絶叫系のアトラクションが面白いのか、次から次へと試したがるフェイトにクレイグは半ば連れ回されている状態であったが、それでも彼は彼なりに楽しんでいるようでもあった。
「はい、風船どうぞ~」
「お、さんきゅ」
 妖精の姿に扮した女性スタッフから、風船を二つ手渡された。
 先にフェイトが進んでいるはずだったが、何故かクレイグが受け取ってしまい表情は苦笑いである。
「ユウタ」
 引かれるままの手を、一度強く握り返して名前を呼ぶ。彼が足を止めるのを確認してから、クレイグは風船ごとフェイトを自分の腕の中に招き寄せる。
「ク、クレイ、ちょっと」
「――風船貰ったんだよ。後、少し補充させろ」
「補充って……」
 風船が口実になっているのかは分からないが、クレイグはフェイトを抱き込んだままでそう言った。
 腕の中のフェイトはもちろん照れていて、何とか抜けだそうともがいている。
 そんなフェイトをよそに、クレイグは彼の黒髪に頬を寄せて満足そうに表情を緩めていた。
「……はぁ、ユウタって気持ちいいなぁ」
「それ、変態っぽく聞こえるよ……」
 ぽそり、と独り言に近い言葉を耳元で受け止めて、フェイトがそう返す。
 だがクレイグは訂正などもせずに、ひたすらそのままであった。
 遠くで子供たちのはしゃぐ声が聴こえる。
「楽しそうだなぁ……」
 風船を手にしながら駆けていく小さな子供を見やりながら、クレイグが感慨深そうにそう言った。
「クレイは楽しくないの?」
「俺はユウタが楽しけりゃそれでいい」
 フェイトが思わずの質問を投げかければ、彼は小さく笑ってそんな返事をくれる。もちろん、彼自身も楽しんでいないわけではない。だが今は、フェイトを腕の中に収めて彼のぬくもりをじっくり味わっている方が幸せそうであった。
「――さて、次はどっちだっけ?」
「あ、えっと、あれ行きたい」
「ん、了解。ほら、風船はお前が持て」
 くしゃりとフェイトの髪の毛を一度指で掻き集めて、それから静かに梳くという行動をしてから、クレイグは自ら体を離してそう言った。フェイトの指をさす方向へと目をやり返事をして自分の片手に収まっていた風船を二つ共フェイトに手渡して歩みを再開させる。
「これ、一つはクレイのなんじゃないの?」
「俺が持ってるより、お前が持ってるほうが絵になっていいだろ」
 黄色と青の風船がゆらりと宙を揺れる。
 二つとも手渡されたフェイトは若干不満そうな色合いの言葉を発したが、クレイグはさらりと流すだけであった。
「…………」
 何となく、子供扱いされたかのような気分になった。
 だがそれでも、風船は嫌いではない。だったらいっそ、今日だけは本能のままに楽しんでしまってもいいのかもしれない。
「あっ結構並んでる。クレイ、早く!」
「お、おい。待てって」
 フェイトはそう言って、再びクレイグの腕を掴んで走りだした。
 それを予想していなかったクレイグは若干慌てた表情で地を蹴る。
 そして二人はさらに各アトラクションを満喫するために人混みの中に紛れ込んでいくのだった。

 西の空がオレンジ色に染まりつつある。
 気づけばもう夕刻であった。
「……クレイ、大丈夫?」
「ん、ああ。大丈夫だ」
「なんか、ごめん……」
「謝るなって」
 ひと通り遊んだ後、気がつけば珍しくクレイグがダウン気味になっていた。
 そこでフェイトが思い出した事は、彼は養生期間であったということだった。身体の赤みもまだ引いてない状態である。
 広い芝生で腰を下ろした途端、クレイグが先に寝転がってしまった。
 どうしたのかと訊ねれば、「少しだけ酔った」と短い返事があるのみで、冷たいミネラルウオーターのボトルを額に当てて一息ついた所で先ほどの会話が交わされたのだ。
「暗い顔すんなって。逆に悪ぃな、俺もこんなつもりじゃなかったんだけどな」
 ゆらりと伸ばされる腕。指先が心配そうな表情のままのフェイトの頬に触れて、ゆっくりとそれを撫でる。
「ほんと、ごめん。羽目外しすぎたよ……小さい頃、こういう場所で遊んだことなかったから……」
「じゃあ、その分を今日埋めたって思っておけ。それから、羽目外した話なら昨日の俺だってそうだっただろ。だからお相子でいいじゃねぇか」
「……うん……」
 いつもと変わらないクレイグの優しい言葉。
 それを受け入れて、フェイトは彼の隣に自分の体もごろりと寝かせてから返事をした。
「久しぶりにこれでもかってくらい、遊んだなぁ……」
 クレイグが天を見上げながらそう言う。
 静かに広がっていくオレンジ色の中、遠くを飛んで行く一羽の鳥に気がついて、そちらに視線を移してゆっくりと追う。
 ざわ、と風が草木を鳴らした。
「あっという間だったね」
「そうだなぁ」
 互いに空を見上げつつの言葉が繋がった。
 フェイトは昨日のホテルの事を思い出して、ふぅ、と改めてのため息を零す。
「あんな豪華なホテル、初めてだったよ。夕食も凄かったね」
「俺もだよ。まさに豪遊ってやつだったな」
「ゴンドラは、ちょっと恥ずかしかったけど」
「面白かっただろ? あそこだけヴェネツィアって感じでさ」
 昨日は夕食の後にホテル自慢のゴンドラに乗った。広い中庭に作られた水路を巡るコースだったために、各部屋の窓から珍しそうに覗く客も多く、フェイトはそれが恥ずかしかったようだ。
 対してクレイグは楽しかったのか、そのような表情をしている。
「バスルームも広すぎて落ち着かなかったよ。なんか、金箔みたいなのお風呂に浮いてたよね」
「ああ、あれ凄かったよな。女性用には花が浮くんだってさ」
「そうなんだ」
 ぽつぽつ、と昨日のことを思い出しながら会話を続ける。そして一つのベッドに二人で寝たことまでを思い出して、フェイトは一気に頬を染めた。
「ユウタ?」
 思わず両手で顔を覆ってしまったフェイトに対して、クレイグが僅かに身を起こして様子を窺ってくる。
 彼は昨夜『何もしない』と前もって言ってくれた。そしてきちんとそれは守られた。
 ――なのだが。
「……キスが交換条件だなんて、ズルいよクレイ……」
「あー、寝る前のことか。なんだよ、今までだって一緒のベッドで寝てたりしてただろ?」
「だったら、普通に寝るだけで良かったじゃないか……。あんな風にキスされたら、意識するなって言う方が無理だよ」
 フェイトは両手で表情を隠したままだった。クレイグと目を合わせられないのだろう。
 どうやら昨夜は何かしらの条件を交わしてから寝たようだが、 羞恥心が全面に出ているようでフェイトの顔は真っ赤であった。
 クレイグはそれを見て小さく笑いながら、フェイトの傍に寄り身を屈めた。
「――ごめん、あれでも俺にとっては最低限だったんだよ。それに昨日はさ、お前が言葉をくれた日だったしな」
「もう……さらっと言わないでよ」
 耳元にそっと落ちる声。
 楽しそうな声音だと思った。
 それが何故か悔しくなってフェイトが両手を開放すれば、その先にはクレイグの青い瞳がある。
 改めてその色を見て、フェイトはドキリと心臓を跳ねさせた。
 直後、前髪が触れたかと思った矢先に唇が一瞬だけ触れ合って、すぐに離れていく。
「クレイ……っ」
「お前が可愛い顔するからだろ」
 片手でまた顔を覆って、今度は空いている左手でクレイグの肩を軽く叩く。
 その仕草がまた可愛くて、クレイグは堪えるようにして笑っていた。
 ざざ、と風が吹き抜ける。
 それは二人の近い距離にも入り込んで、するりと頬を撫でて上空へと登っていく。
 フェイトもクレイグも、それに釣られるようにして天を見上げた。
「……帰ったらまた、任務詰めだね」
「そうだな」
 少しの間を置いて、そんな言葉が交わされた。
 旅行を終えて帰れば、現実が戻ってくる。いつも通りにスーツを着て武器を持ち、任務をこなす。張り詰めた緊張感の向こうにあるのものは――。
「……っ」
 ビクリ、とフェイトの肩が震えた。
 クレイグがそれに気づいて視線を動かす。
「どうした?」
「……ごめん。ちょっと、こないだの任務のこと思い出しちゃって」
 虚無の施設への潜入捜査と、対峙と、力の暴走。
 どうしようもない感情と記憶が、ふつふつと湧き上がってくる。
 いつかまた――あの時にように暴走してしまったら……。
「ユウタ」
 フェイトの思考を遮るかのように、クレイグの腕が伸びてきた。
 そして横たわったままであるが彼はフェイトを抱き込んで、名前を呼ぶ。
「ユウタ、大丈夫だ。俺がいるだろ?」
「……クレイ……」
 じわりと彼の声が沁み渡る。
 それを受け止めて、顔を上げた。
「何があっても、俺が受け止めてやる。絶対に、だ。だから大丈夫だよ」
 クレイグの言葉は、力強かった。それでいていつものように優しく響くそれに、フェイトの表情も和らいでいく。
 そして彼の腕の中で、ゆっくりと深呼吸をした。
「クレイは何かと、ズルいなぁ……」
「そうか? 自分に正直なだけだけどな」
 フェイトのその言葉は、半分以上は照れ隠しであった。クレイグはそれに気づいているようであったが、それでも彼らしい返事をする。
「俺にとって、ユウタは何よりの存在だ。だからこれからも同じようにお前を守らせてくれ」
「うん。……俺も、守られてばかりじゃいられないけどね。でも、前にも言ったけど、クレイはクレイの思うように、やりたいようにしてくれたらそれでいいから」
 ――自分の、傍で。
 フェイトはゆっくりと静かに言葉を繋げた。最後の言葉は自分の心の中でだけになったが、それでもクレイグには伝わっているだろう。
 想い合っているからこそ。

 一泊置いた後、わぁ、と周囲で歓声が上がった。
 それに釣られて同時に身体を起こした二人は、次の瞬間に頭上で光ったものを見上げてそれぞれに驚きの声を漏らす。
 いつの間にかオレンジの空は藍色に染まり、テーマパークでは一日の終わりを飾るための花火が上がっていた。
 夜空に開く花は、鮮やかで綺麗だった。日本のように大きな花火ではないが、その分数が多いような気がする。
 それに見とれていると、とん、とクレイグの肩に当たるものがあった。横目で確認すれば視界にフェイトの黒髪が飛び込んでくる。彼が自分の頭を預けてきたのだ。表情を見やれば視線は明後日の方向にあり、頬はまた赤くなっていた。
 まいった、と心で零しながら、クレイグはフェイトの体を抱き寄せる。
「……ユウタ」
「ちょっと、クレイ」
「お前が悪い」
 名を呼んで、直後。
 フェイトは少しだけの不満の言葉を漏らしたが、クレイグはそれを無視する形で彼にキスをしたのだった。

カテゴリー: 02フェイト, season1(紗生WR), 紗生WR(フェイト編) |

flood of light

眠らない街、ラスベガス。
 クレイグが旅行先に選んだ地はカジノの街で世界的に有名な場所だった。
「……ほんとに来ちゃうしさぁ……」
 意気揚々としているクレイグの隣でそう零すのは彼に同行したフェイトだ。
 ギリギリまで「怪我人が旅行だなんて」と反対していたのだが、「家でじっとしてるほうが苦痛だ」というクレイグに負けて今に至る。
「クレイ?」
 返事をもらえなかったフェイトは隣のクレイグを見上げた。
 彼は眼前のキラキラしているカジノ特有のライトに瞳を輝かせていた。まるで子供のような表情をする彼に、フェイトも驚く。
「――ああ、ごめんユウタ。何だって?」
 遅れること、数秒。
 クレイグがフェイトに視線を落としてそう問い返してくる。
「……珍しいね、クレイのそういう顔」
「ん、どんな顔してた?」
「緩みっぱなしでだらしないって言うことだよ」
 フェイトは思わずそんな嫌味を言った。
 するとクレイグは困ったように笑って肩をすくめてから、「ちゃんとお前のことも見てるぜ?」と耳元に言葉を落としてくる。
 ぞくり、と背中で音を立てたのはフェイトのそれであった。
 耳の奥へと心地よく染みこむクレイグの声音。それが全身に行き渡る感覚を得た後、自然と頬が熱くなる。
「そういうこと、さらっと言うのやめてよね……」
 パタパタ、と手のひらで頬を仰ぎつつ、そう答える。
 先ほどまでの少しだけ尖っていた気持ちがすでに消し去っていて、フェイトはそれが悔しく思えた。
「ほら、行くぞユウタ」
「え、ちょ、ちょっと……」
 クレイグはフェイトの手を当たり前に取った。そして彼は楽しそうな表情で歩みを始める。
 前は見たままだが、しっかりと握られた手。振り解こうとも、力負けして動かすことすら出来ない。
 そんな彼に呆れつつも、フェイトはそのまま足並みを合わせて彼の後に続いた。
 両端から光が飛び込んでくる。
 多くの電飾とともに聳え立つのは豪華なホテルばかりだ。
「ホテルばっかりなんだね」
「建設条件があるからなぁ、ここのカジノは。デカイの建てたかったら客室二百以上あるホテルに付帯させねぇとダメなんだってよ」
「マフィアとかいっぱいいるって聞いたけど……」
「昔の話だよ。取締りの関係でそっち関係のは殆ど手を引いてるはずだぜ」
 あたりを見回しつつ、どこを見ても眩しさに目眩が起きそうだと思いながら、フェイトはクレイグの話を聞いた。
 彼は元々様々なことに詳しいと思ってはいたが、カジノ関係にも精通しているのは趣味が高じたものなのかもしれない。
「クレイ、スロットするんだ」
「使えるもんはフルに使えってな」
 一つのスロットの前に腰掛けたクレイグを見て、フェイトは意外そうな顔をした。
 カジノといえばポーカーなどテーブルゲームが主流だなだけに、彼もそうしたところに座るのかと思っていたようだ。
 フェイトの言葉にクレイグは自分の瞳を指さして悪戯っぽく笑って見せた。『目』が良い事を活かして遊ぶらしい。
 彼は早速手早くコインを三枚投入して、ボタンを押した。
 いきなり小当りが出る。
「わ、すごい」
「ん、こりゃビギナーズラックってやつだな。暫くこういう当たりがちょいちょい続いて、その後は完全に運任せになる」
「へぇ……」
 数回回しながらフェイトの言葉に応えるクレイグは、やはり子供のような表情をしていた。「全力で遊ぶぞ」というオーラが全身から出ているような気がして、フェイトも思わず釣られてしまう。
 そうこうしているうちに、クレイグの台は見事に大当たり――ジャックポットとなった。
 ヒュゥ、と口笛が本人から漏れて緩んだ口元からは喜びの笑みが垣間見える。
 その様子を遠巻きから確認していたこのフロア担当らしいカクテルウェイトレスが近づいてきた。金髪美女だった。
「ハァイ、何か飲む?」
「お、いいね。ハイネケン頼む」
「そっちのボウヤは?」
「…………」
 クレイグはごく普通にビールの銘柄を告げて、また手元のボタンを押し始める。
 ついで扱いで飲み物を聞かれたフェイトは、『ボウヤ』と言われたことに関して腹を立てたのか、「結構です」とそっぽを向いた。
「あー、こいつにはフローズンマルガリータな」
 クレイグがフェイトの態度を察してそう言った。
 ウェイトレスはクレイグに甘ったるい返事をして、一旦その場を離れていく。
「……要らないって言ったのに」
「お前が子供じゃないっていう証にもなるだろ。それから、パスポートいつでも出せるようにしておけよ。外見で疑われたらすぐ差し出せ」
「やっぱり子供に見えるんじゃん」
「ユウタは可愛いからな」
 クレイグはさらりとフェイトに答えを告げて、彼の手を取り指先に唇を寄せた。
 フェイトは彼のそんな行動に驚いて、瞠目する。可愛いと言われたことよりそちらに羞恥を憶えて、また頬を染めた。
「……、お、俺も、ちょっと遊んでくる」
「あんま遠くに行くなよ。飲み物来たらそっちに持って行かせるからな」
「うん」
 慌てて取られた手を引くと、クレイグはあっさりとそれを離してくれた。
 そしてフェイトにチップを渡して、スロット台からあまり離れていないビンゴテーブル辺りを指さしてやる。
 フェイトはそれに頷きつつ、移動を開始した。
 周囲にはクラップス、ポーカー、ブラックジャックなどのテーブルが連なっていた。それを取り囲むようにして多くのスロット台が並ぶ。
「おいボウズ、ゲームセンターならここを出て西の施設だぞ」
 巡回スタッフにそう声をかけられた。
 フェイトは眉根を寄せつつパスポートを掲示して自らの年齢を相手に伝える。
 東洋人はどうしても若く見られがちだが、フェイトはそれに拍車がかかっているかのような感じであった。
 先ほどのウェイトレスからクレイグが注文したカクテルグラスを片手にしているにも関わらず、どうしても子供扱いを受けてしまう。
 そんな自分に憂いを感じている矢先でまた、バニーガールの格好をしたディーラーに年齢を確認されて、思わず頬をふくらませていた。
「俺ってそんなに子供っぽいかな……」
 ぽつり、とそんな言葉が漏れた。それを気にしてか各ゲームにあまり集中できずに、あっという間に手元のチップが無くなってしまう。
「ヘイ、坊や! どこから来たの? とってもキュートね!」
「いえ、もう成人してますから……」
 かっくりと肩を落とした所で派手で露出の多い女性に絡まれた。
 若干呆れ口調でそう返せば、連れらしい女性も「この子かわいい!」と飛びかかってくる。
 美人でグラマラスな女性二人に挟まれるのは悪い気はしなかった。だが、このままでいれば自分の貞操が危ないかもしれないと本能で感じ取って、彼女たちの腕を自分の膝を折ることで簡単にすり抜ける。
「あぁん、このままイイ時間過ごそうと思ったのにぃ~」
「すいません、連れがいますので」
 一人の女性の熱っぽい声が届いた。それに引きつった笑みを返しつつ、フェイトは慌ててその場から離れてクレイグの元へと戻ろうと足を向ける。
 その先で、わっと歓声がわいた。
 一つのテーブルに客が集まっている。
 それを遠目に見てから、フェイトはクレイグが座っていたスロット台へと視線を移した。その場に彼の姿はない。
「…………」
 嫌な予感がする、と素直に思った。自分のようにチップをすべて使い切ってしまうような彼ではないと何故か確信しているので、別の意味合いでの『嫌な予感』である。
「きゃぁ、ステキ!!」
 ワインレッドの羽根つきストールを肩に掛けた女性がそんな感嘆の声を上げた。
 カクテルグラスやビール缶を片手に周囲の客達は彼に興味津々の視線を送っている。
 そのテーブルに座っているのは予想通りのクレイグだった。スロットに飽きたのかルーレットに移動したらしい。
 そんな彼の手元には、すでに多くのチップが積み重なっている。どうやらずっと勝ち続けているようだ。
「……クレ……」
「おっ、あいつまた勝ったぞ!」
「すげぇ!」
 フェイトがクレイグの名を呼びかけて口を開いた直後、また歓声が上がる。
 すると彼の隣に陣取っていた女性が彼に擦り寄ってきた。その反対側にいる女性も負けじとクレイグの腕に絡みついてくる。
 そんな彼女たちを邪険にする風でもなくそれなりの態度で応えているクレイグに、フェイトは眉根を寄せた。
 自然と頬も膨らみ、自分の機嫌が斜めに傾いていくのがよく分かる。
 フェイトはその場で踵を返した。そして通りがかりのウェイトレスにグラスを返して、フロアから出て行く。
「……ユウタ!」
 数歩進んだ所で、背後にそんな声が飛んできた。
 振り向かずに受け止めつつ、フェイトは歩みを進める。
「ユウタ、待てって」
 あっという間に距離を詰められ、肩を掴まれた。
 フェイトはそれに素直に反応できずに、顔を背けたままでいる。
「……怒ってるのか」
「別に」
 クレイグがフェイトの体を器用に自分へと向けた。
 フェイトはそっぽを向いたままで答えを発する。怒っているかと問われて「そうです」と素直に応えるのも悔しかったので、短い返事のみであった。
「ごめん」
「!」
 耳に届いたのは、そんな謝罪の言葉。
 意外な響きに聞こえたのか、フェイトは慌てて顔を上げて彼を見上げた。
 見慣れたいつもと変わらない表情だったが、自分を見つめる眼差しにどきりと心臓が跳ねるのを感じて、フェイトはまた顔を背けてしまう。
「ごめんって。ちょいと羽目外しすぎた。反省してるよ」
 クレイグはフェイトが怒ったままでいるのかと思っているようで、そんな言葉を繋げてくる。
 彼は言葉通りにフェイトに対して本気で申し訳無さを感じているようだ。
「美人に囲まれて、嬉しかったんだろ?」
「そりゃぁ、美人は普通に好きだけどな。でも俺の好みはもうちょいこう……」
「…………」
 フェイトの言葉に釣られるようにしてクレイグがそう言いかけた。ご丁寧に理想のボディラインを両手で表現しつつだったのだが、直後にハッと我に返り、ごほんごほんっと咳払いをする。
 目の前のフェイトは当然ジト目になっていた。
「そのままいれば良かったじゃないか」
「お前を放ったままじゃいられねぇだろ。それにもう換金申請に出してるしな。色々すごいホテルも押さえてあるし、うまいもん奢るからさ」
「……なんか、おかしい。クレイがそんな風に必死になるのって、初めて見るかも」
「お前なぁ……」
 このまま悪い空気になるのかと思えば、それを崩したのはフェイトの方だった。
 取り繕うとしているクレイグの態度がおかしかったのか、肩を震わせて笑っている。
 それを確認したクレイグは、はぁぁ、と大きくため息を吐いてからフェイトを抱きしめる。
「ク、クレイ」
「俺がこうしたいのはお前だけだよ。俺の中でユウタがどんだけ占めてるのか、見せてやりてぇくらいだ」
 その言葉を耳にして、やっぱりいつも通りの彼だと思いながら、フェイトは頬を染めた。
 そして照れ隠しに両腕を伸ばし彼との距離を開けて、「人前でこういうことするなよ」と言って、くるりと体の向きを変える。
 カジノの入り口前で人々か行き交う中でのやりとりだったが、それほど珍しい光景でもなかったのか視線を向ける者は少数のみだ。
「ジョンソン様、換金が終わりました」
「ああ。……ユウタ、ちょっとここで待っててくれ。どこにも行くなよ」
「あ、うん」
 フロアスタッフがクレイグを呼びに来た。チップからの現金交換が終ったのだろう。
 少し時間がかかったところを見ると、それだけ彼は稼いだという事なのだろうか。
「……なんていうか、一つしか違わないのにクレイは随分大人だよなぁ……」
 フェイトはクレイグの姿を見て、ぽつりとそんな呟きを零した。
 態度も相手に対する立ち振舞も彼は一人前であった。学生の頃に天涯孤独となったためなのか、年齢の割にはやはり大人びている。現在も一人のディーラーと会話をしつつ手元の用紙にサインなどをしている姿が、きちんと様になっていた。
「あれ、そういえば着替えとかの荷物ってどうなってるんだろ。空港で預けたっきりだけど……」
 フェイトもクレイグもそれぞれスーツケースを持ってきていたが、気づけばクレイグが全て手続きした後に預けてしまっていた。小さなカバンに財布とパスポートのみという現状に我に返ったフェイトは、首を傾げつつそんなことを言った。
「ユウタ、お待たせ。ホテル向かうぞ」
「うん。……あの、クレイ? 俺達の荷物は?」
「先にそのホテルに届いてるよ」
 クレイグはフェイトの手を取って彼を案内するようにして歩き出す。
 面倒なことは全部任せておけと言われてはいたが、この手際の良さはどこで身につけたものなのだろうか。
 そんなことを思っていると、一際目立つホテルが目に飛び込んできた。
 と、言っても周囲のホテルもそれに勝るとも劣らない出で立ちばかりのもので、フェイトは声すら出なかった。
「ここのホテルの売りは全室スイートってことだなぁ。あと、屋内水路なんかもあって、ゴンドラにも実際乗れるぜ」
「ゴンドラって、あのヴェネツィアの手こぎボートの事?」
「そうそう、あれだよ」
 二人のドアボーイがクレイグたちに頭を下げてからガラス張りのドアをゆっくりと開ける。
 エントランスホールも豪華なシャンデリアがキラキラと光を放ちなら彼らを出迎え、あまりの輝きにフェイトは思わず数回の瞬きをした。
 ゴンドラという響きに釣られてうっかり受け流してしまったが、全室スイートというホテルは一体いくらのものなのか。
 あまりの展開に思考がついていかずに目を回していると、あっという間にベルボーイに先導されて用意された部屋まで案内されていた。
 当然、同室である。
「うわ、広い……!」
 部屋の扉が開かれて、その中に一歩踏み込んだ直後、思わずの声が出る。
 スイートというだけあって、室内はかなり広く豪華であった。
 ベッドルームも別にあり、リビングまである。
 テーブルの上にはウェルカムドリンクとフルーツを盛った籠が置いてあったりと驚くことばかりであった。
 ベルボーイが「どうぞごゆっくり」と頭を下げて出て行くのを見送って、広いソファに身を預ける。
 部屋の隅にはフェイトが気にかけていた二人のスーツケースもきちんと置かれていて、ほっと胸を撫で下ろす。
「バスルームもやっぱり広いなぁ」
 室内を一通りチェックしたクレイグが、そんなことを言いながら煙草を取り出してベランダへと出た。
 フェイトもそれに続くと、クレイグが驚いた表情で彼を見る。
「煙、ダメだろ?」
「平気だよ。夜景見たかったから」
「そっか」
 一応の確認をとってから、クレイグは煙草を咥えて火を灯す。
 フェイトの立つ位置とは逆の方向に風が流れていたので、それを幸いとして紫煙を吐き出していると、隣から視線を感じて彼はそれを辿った。
「どうした、疲れたか?」
「体は平気。……どっちかというと、視界的に驚くことのほうが多かったかな」
「ハハ、まぁそうだよな。俺もそうだ」
「クレイも?」
 フェイトは意外そうにそう言った。
 クレイグは肩を竦めつつ苦笑して、「色々と規格外だよな」と付け加えて、またゆっくりと紫煙を吐き零す。
「……今日は悪かった」
「もう怒ってないよ」
 眼前で流れる光を見ながら、クレイグが言葉を改めた。
 フェイトも同じようにキラキラと光る街灯を見て、そう応える。
「明日さ、あそこ連れてってやるよ。夢の国」
「それ、お詫びのつもり? そんな子供じゃないよ」
「結構面白いぜ? 何しろ本場だしな」
 苦笑しつつクレイグの言葉に答えたフェイトだが、興味が無いわけでもない。
 実際、日本にいてもそうそう行ける場所でもないので行けるならば、とは思っているようだ。
 そうして、ふつりと会話が途切れる。
 何故かは解らなかったが、ふたりとも言葉を続けようとは思えなかったようだ。
 フェイトは改めてクレイグを見やった。
 整った顔、きれいな金髪。咥えた煙草も妙に絵になっていて、思わず見とれてしまう。
 遠くで車のクラクションが長く響き、それに釣られて顔を上げるクレイグと、夜景に視線を移すフェイト。
 それを暫く眺めた後、手すりをぎゅ、と握りこんだフェイトが唇を開いた。
「……クレイグ」
「うん?」
 名前を呼ぶと、すぐに返事をくれる。
 それを耳できちんと確かめてから、フェイトは言葉を続けた。
「好きだよ」
「!」
 夜景に溶け込んでしまいそうな響きだった。
 予想にもしていなかったのか、クレイグが珍しく動揺して咥えた煙草を落としそうになり、慌てて口元に手をやった。
 それから視線を彼に向けると、頬が染まりつつもしっかりとこちらを見ている。
「……この間の、言葉の続き、だよ」
「ユウタ」
「言っておくけど、これきりだからね。もう一回とか言わないでよ」
 言葉を繋げていくうちに、羞恥が大きくなったのかフェイトはクレイグと視線を合わせられなくなり、真っ赤になりながら俯いた。
 クレイグはその間に背後にあったベランダ用のテーブルの上にある灰皿に煙草を押し付けて、静かに火を消す。
 そして体勢を戻した後、何も言わずに右手を差し出してフェイトの頬にそれを滑らせた。
 ビクリ、と彼の体が震える。
「逃げるなよ。もう一回がダメなら、態度で示してくれ」
「クレイ……、っ……」
 クレイグが伝えた言葉は、それだけだった。
 同時にフェイトの顔を自分へと向けさせて、彼が反応する前に唇を寄せてくる。
 フェイトはクレイグの名前を呼びかけた所でそれを遮られ、ぎゅ、と瞳を閉じた。
 触れるだけではないそれに、思わず体が反応してクレイグの着ている服を握りしめる。それは大きな皺を作ったが彼は少しも動じずに、そのままであった。
「……、ん……」
 クレイグの腕から抜け出すことが出来なかった。
 元より彼には力では敵わない。ここで足掻いたところでどうにもならない事は、フェイトにも良く分かっていた。
 ――逃げたいとは、露ほども思わなかったのだが。
 かく、と膝の力が抜けていくのを感じて、フェイトは掴んだままのクレイグの服を更に深く握りしめた。
 それに気づいたクレイグは、彼の背に腕を回してきちんと体を支えてくれる。
 その後、少しの時間が経ってからようやく唇が離れて、フェイトは彼の腕の中に顔を埋めた。
「がっつき過ぎ……」
 恥ずかしくてとても顔など上げられない。それだけを言った後、息を整えるために彼は言葉を止める。
「……なんだよ、これでもセーブしてるんだぜ?」
 クレイグはあっさりとそんな事を言ってくる。
 一応はまだキスだけと弁えてくれているらしいが、このようなことが今後も繰り返されるのかと考えるとそこで思考すらも止まってしまうような気がした。
「キスだけ、だからね」
「ん?」
「……その、どうこうしたい、とか、なりたいとか……まだ、そういう風には……」
「ああ、そうだな。それはまた追々、な」
 クレイグがフェイトの頭上で笑った気配がして、何故か悔しくなった。こんな時ですら彼は、余裕で上手である。
 追々という言葉を今はそれ以上考えないようにしつつ、フェイトは顔を埋めたままで口を開く。
「俺を好きだって言ってくれたこと、大事にしてくれてること……嬉しいって思ってるよ」
「これからもずっと、お前だけだよ。ユウタ」
 フェイトの気持ちをしっかり聞いて、クレイグは満足そうに微笑んだ。
 そして再びしっかりと彼を抱きしめて、そんな返事を伝える。
 しばらく互いの体温を確かめ合った後、クレイグのほうから腕の力をゆるめて、フェイトを解放してやった。
 彼はまだ、クレイグを見上げることが出来ずにいる。
「さて、飯食いに行こうぜ。その後さ、ゴンドラ乗ろうな。せっかく来たんだしさ」
「う、うん……」
 すっと差し出された手。
 自分より一回り大きなそれに、フェイトはゆっくりと右手を重ねてベランダを出る。
 相手に気持ちを伝えてそれを受け止めてもらってからの、第一歩。
 クレイグはいつも通りの表情であったが、それでも彼はどことなく嬉しそうだった。それを垣間見て、フェイトも小さく笑う。
 そして二人は手を繋いだままで、部屋を出て行った。

 暑いからという理由もあって開け放たれたままになっている窓からは、日が落ちて冷えた風がふわりと舞い込み、半透明のカーテンがゆらりと揺れていた。

カテゴリー: 02フェイト, season1(紗生WR), 紗生WR(フェイト編) |

distance

メトロを使っての移動を終えて、フェイトは今クレイグのアパートを訪れていた。
 電話で伝えたとおりなのだが、彼の部屋の前でインターフォンに指を伸ばしたまま、その動きが止まっている。
「…………」
 フェイトの表情は決して明るいものではなかった。
 電話の向こうのクレイグは慌てているようでもあった。それが気になっているのか、思考が良くない方向へと行ってしまうらしい。
 もしかしたら、この扉の向こうに誰か――。
 ――自分の知らない『誰か』が居たら。
 クレイグは女性に人気がある。彼の体を心配して部屋を訪れている存在が居てもおかしくはない。
 そう思ってしまい、フェイトは深い溜息を吐いた。
 そして彼はインターフォンを鳴らさず、扉の横に医務室で預かった紙袋を静かに置いて、踵を返した。
 心は寂しい感情が広がったままだ。
 不思議と前に進む足が重かった。
「――おっと、ユウタ。忘れもんか? だったら向かいのコーヒーショップで俺のも買ってきてくれ。Lサイズのな」
「!!」
 ビクリ、と肩が震えた。
 扉の開く気配などしなかったのに。
「……、……」
 口を開いたが、言葉が出なかった。
 何を恐れているのかと心の中で思うが、どうしてもクレイグを振り向けない。
「ここまで来て、俺の顔も見ないで帰るのか?」
 クレイグの声はいつもどおり優しかった。
 その声音がじわりとフェイトの心に染みこんで、思わず涙腺が緩む。
「……クレイは、ズルい」
「まぁな、自覚はある。今回の件は素直に謝るよ。だからこっち向いてくれ」
 トントン、と木を叩く音が聞こえた。
 クレイグが扉に添えている手の指でケージングを叩いたのだ。
 それに釣られるようにして、フェイトはゆっくりと首を動かした。
 視線の先にいる姿には、変わりは見られない。だが、水気を含んだままの髪がいつもと違った彼を感じて、フェイトは僅かに胸を高鳴らせた。
「ほら、入れよ」
 クレイグは指と言葉でそう促してくる。
 履きこまれた感じのあるジーンズの上に、白いシャツ。ボタンの掛けられていないそれの上にはタオルの存在がある。
「……そう言えば、シャワー浴びてたって……」
「まぁ、任務で色々と汚れてたからなぁ。その辺の話も、中に入ってからにしようぜ」
 彼はそう言って、足元の袋を紙袋を持ち上げた。
 先ほどフェイトが置いたものだった。
「…………」
「ユウタ、入らねぇとキスすんぞ」
「お邪魔します」
 いつまで経っても足を進めようとしないフェイトに、クレイグがとんでもないことを言ってきた。
 それを耳にした直後、フェイトは真顔になり躊躇いもなく家主を押しのけて部屋の中へと入っていく。
 クレイグはそんなフェイトの行動を見て、小さく笑ってから扉を閉めた。

「座ってろよ」
「あ、うん……」
 いつも通りのリビングだった。
 そして位置の変わらないソファに促されて、フェイトは遠慮がちにしながらもゆっくりと腰を下ろす。
 クレイグは飲み物を取りに行ったのか、すぐに台所へと姿を消した。
 目に見える限りでは、『誰か』を感じるものはない。
 フェイトはそこで、小さなため息を吐いた。
「……なんだよユウタ。俺を疑ったのか?」
「え、い、いや……」
 クレイグがそんなことを言いながら戻ってきた。右手にミルク入りのアイスコーヒー、左手にビールの缶が収まっている。
 そして彼はコーヒーのグラスをフェイトの前に置いてから、隣にどさん、と座り込んだ。直後、「……ってぇ」との声が漏れてフェイトは慌てて顔を上げる。
「クレイ?」
「あー……ほら、コレな。時間経つたびにじわじわとな」
 思わず口をついて出てしまったと言わんばかりだったが、それでもクレイグは取り繕うこともせずに苦笑しつつシャツの襟を捲ってみせた。
 その向こうに見えたのは赤く広がる打ち身の痕である。
「明日以降は青くなりそうでなぁ」
「……ちょっと、クレイ。ちゃんと見せて」
 ハハ、と笑いながら言うクレイグに対して、フェイトは厳しい表情を見せて身を乗り出す。
 そして彼の返事を待たずにシャツを掴んでバッとそれを広げた。
「…………っ」
 両肩と左の脇腹。そして二の腕辺りにある赤い色。
 フェイトの知る限りではクレイグにそんな痣があることは記憶に無い。
 間違いなく、数時間前の任務での怪我の証だった。
「こんな、体で……あの時、俺を背負ってたのか……」
「見た目が大袈裟なだけさ。それに、顔は守ったしな?」
「茶化すなよ」
 フェイトが距離を詰めてきたので、クレイグが若干身を引いた形となりながらの会話だった。
 傍から見ればフェイトが彼を押し倒している構図になるのだが、本人はそれどころではないらしい。
「……まぁ、な。俺も医務室でまともにこの痕見て、自分でも引いたよ。だからお前に何も言わずにさっさと帰ってきちまったんだ」
「クレイ……」
「俺も結構、弱ぇなって思ってさ。精神面ではかなりタフだと自負してるんだけどな。お前を守るって言っときながら、このザマかよってな」
 クレイグがそう言いながら苦笑する。
 自分を嘲笑っているのだ。
 そんな彼の表情を見て、フェイトはゆっくりと俯いた。
「幻滅したか?」
「そんなこと、無い……」
 クレイグの右手が伸びてくる。
 指先がフェイトの頬に触れて、そのまま耳まで滑りこんできた。
 それを受け入れて、フェイトは再び彼を見やる。視線の先にある、見慣れた顔。いつもは自信に満ちているそれが、今は少しだけ怖がっているようにも見える。
「俺は十分、クレイに守ってもらってるよ。今日の任務だって……クレイが居てくれなきゃ、どうなってたか」
「危なっかしいじーさんもいるしなぁ。あいつ、お前に銃向けてやがった」
「グランパは……最初から、そのつもりで俺の監視をしてる人だからね。俺みたいに虚無と深く関わった過去がある存在が、IO2でエージェントとして動いてるのも、上層のほうでは重要項目みたいだからさ」
 フェイトの言葉に、クレイグは納得がいっていないようだった。
 あの老エージェントに盗聴されていたことも含めて、やはり不満が拭えないらしい。
「彼は自分の役目を貫いている誠実な人だよ」
「やり方が卑怯なんだよ。お前が良くても俺が嫌だ」
「うん、だから……クレイはクレイの思うようにいてくれたらいいし。俺も簡単には『そう』ならないし、なるつもりもないからさ。あ、でも、今回みたいな自分を犠牲にする方法はもうやらないでよ」
 フェイトはクレイグのシャツを掴んだままでそう言った。
 相変わらずの体勢のままだったが、表情は真面目である。最後の方の言葉は語気が強く、若干怒っているかのようでもあった。
 クレイグは思わず表情を崩して、困ったように笑ってから「わかったよ」と言った。
「……それから、改めてだけど……こんな俺を受け止めてくれて、ありがとう」
「ユウタ……」
 今日のフェイトの心情は忙しかった。だが、最初に抱いていた尖った気持ちはもうどこにも存在はしない。
 今はどちらかと言うと、照れの部分が大きいようだ。
 そして彼は、それを隠すかのようにして次の行動に移った。
 視界に映り込んだままの、クレイグの痛々しい打撲の痕――。
 フェイトはごく自然に、それの一つに唇を寄せてきた。
「――――」
 さすがのクレイグも、そんなフェイトの行動に顔色を変える。
 何の躊躇いもなく自分の肌に触れるその唇を、平常心を保ったままで受け止めろという方が無理な話である。
「……あー、ユウタ?」
「なに?」
 確認のために名前を呼ぶと、フェイトは変わらずの返事をくれる。
 それを間近で見て、クレイグは「はぁ」とため息をこぼした。
 そしてフェイトの肩に手をかけて、徐ろに身を起こす。
「お前、自分が何してるか自覚無いだろ?」
「一応、早く良くなりますようにって言う、おまじないのつもりだったんだけど」
「……まぁ、そりゃありがたいけどな」
 きょとんとした顔を見つつ、苦笑する。
 そしてクレイグはフェイトの顎に手を添えて、起こした上体を彼の方へと傾けさせた。
「クレ……」
「黙ってろ」
 フェイトがクレイグの名を呼ぼうと口を開く。
 だがそれは、彼の言葉と行動に遮られる形となった。
 目の前にあるのは見慣れた金糸。それが近いな、と思った時には反応すら出来ない状態であった。
 数回、瞬きをする。だが、今の距離は少しも変わりなかった。
「……、……」
 ふ、と唇に息が掛かるのを感じて、思わず瞳を閉じる。
「……目を閉じるタイミング、違うだろ?」
 クレイグがそう言って笑ったが、フェイトは言葉を作ることが出来なかった。
 一気に高まった羞恥心で、彼の姿を垣間見ることすら出来ずにいる。
「かわいいなぁ、俺のユウタは」
「お、俺のって……」
「違わねぇだろ。……それから、何か誤解してたみたいだから一応言っとくが、俺は特別なやつ以外は自分の部屋には入れねぇよ」
 言い切る言葉と、フェイトが数分前まで心に育てていた誤解を断ち切る言葉をアッサリと告げたクレイグの表情は、いつもの色だった。
 唇に残る熱。
 色々と言いたいことがあったが、フェイトはそれを言えなかった。
 心を支配している感情が今はそれどころでは無かったからだ。
 一度息を飲み込んでから、再び口を開く。
「……クレイ、俺は……」
「さーて、明日から休暇だなぁ。旅行でもするか?」
 フェイトが何かを言いかけた直後、クレイグはそれを遮るようにして話題を変えた。
 それに驚き瞠目するが、彼の言葉の内容にも更に驚き、表情を崩す。
「え? クレイも……?」
「まぁ、見た目だけで言えば結構な怪我だからなぁ。お前の電話の後に連絡来て養生休暇出されちまったよ」
「そ、そうなんだ……」
 困っているかのような言い回しではあったが表情はそうでもないクレイグに対して、フェイトは若干呆れ顔になった。
 クレイグはそんなフェイトに小さく笑って、右手を彼の頭の上にぽんと乗せてから自分へと引き寄せる。
「――言葉の続きは、その時にでも聞かせてくれ」
「!」
 低い声が耳元に降ってきた。
 至近距離で囁かれたその声音に、フェイトは素直に肩を震わせる。
 全身が痺れるかのような響きは、もう幾度かこの距離で耳にしている。だがそれでも、慣れることは出来ない。
 テーブルの上に置かれたままになっているアイスコーヒーのグラスから、カランと氷が動く音がした。
 それに気づくも、フェイトはその場から動くことが出来ずに暫くクレイグの腕の中に収まっているのだった。

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After missions

不安と緊張感から解放されたのか、フェイトはクレイグの腕の中で意識を手放していた。
 グラ、と体勢が崩れかけるのを慌ててクレイグが抱き直す。
「……特に外傷は、無いよな……、っ」
 フェイトの状態を見れる限りで確かめているクレイグが、次の変化に眉根を寄せた。
 切りつけるような鋭い気配。クレイグはフェイトを抱えている分その気配の反応に僅かに遅れてから銃を握る。
 視線を上げればその先にはあの老エージェンの姿があった。彼はクレイグたちに向けて銃を構えている。
「――レッド、あんた……ッ」
 顔色一つ変えずに、そのエージェントはそのまま引き金を引く。
 ――捕られた、と思った。
 だがその弾丸はクレイグの真横を通り過ぎ、背後で鈍い音と共に姿を消す。
 直後、どさり、と何かが崩れ落ちた音がした。
 クレイグが肩越しにそれを見やれば、フェイトが撃ち漏らしたらしい強化された人であったモノが一体、足元に沈んでいる。
「慢心は悲劇を招くぞ、ナイトウォーカー」
「…………」
 老エージェントはそう言いながら視線をフェイトに移動した。そして掲げたままの銃をゆらりと彼の前に向ける。
「本気か、レッド」
 クレイグは彼を睨みながら己の銃を向けた。
 チリッと鋭い視線が火花を散らせたかのような感覚になる。
 暫くの睨み合いが続いた。
「…………」
 老エージェントの口の端が歪む。
 それが合図となり、彼は緊張の空気を解き、銃を下ろす。
 彼は状況を確かめるためにその歩みを進み出た。クレイグたちをすり抜け数歩進み、辺りを見やる。
 無数の檻と倒れた人影。
 後は動くかどうかもわからない古い機械が積み上げられた状態の中、最後に見たのはクレイグが壊した監視カメラだった。
 それを見上げて数秒。
 老エージェントは何かを悟ったような表情を作り上げ、小さくため息を漏らす。
「レッド……?」
「……作戦終了。撤退だ、ナイトウォーカー」
「はぁ?」
「中枢区にいるはずの【虚無】も姿を消していた。今回はあちらが一枚上手だったよ。我々は手のひらで踊らされていただけだったのだ」
 銃を懐に仕舞いこんでスーツの襟を正す老人に対して、クレイグは納得のいかなような表情をしていた。
 多くの怪我人と窮地の中、これ以上の任務遂行は確かに危険であり無理でもある。
 だが、それでもクレイグは素直に頷くことが出来なかった。
「輸送班が迎えに来てくれている。最初のポイントに戻って帰還しろ」
「おい、レッド……」
「――何も言うな。それから私からの任務はこれからも実行してもらうぞ」
 老エージェンは低い声でそう言いながらクレイグの肩に手を置いた。
 そして一度周囲を気にした後、「ついでに、お前にフェイトのストッパーの役目も追加しておく」と告げてから彼はクレイグの肩から手を離す。その際、彼の指先に小さな機械があり、クレイグがそれを見て眉根を寄せた。
「じーさん、アンタ……」
 白髪のベテランはそれ以上は何も告げなかった。そして口の端のみで笑った後、自分の耳に指を当ててクレイグに合図をする。
「おい、俺達の話聞いてたのかよ! 汚ねぇぞじーさん!」
 先にその場を離れた老人の背に向かって、クレイグはそんな事を言った。
 つまりは、老人はクレイグの肩に盗聴器を取り付けていて、フェイトとの先ほどまでの会話を全て聞いていたということなのだ。
 当然、クレイグは憤慨する。
 だが老エージェンはそれを片手を上げてヒラヒラと手を振るのみで対応して、長い廊下へと消えていった。
「……ったく。結局、あのじーさんに良いように振り回されただけじゃねぇか」
 はぁぁ、と長い溜息を吐いてから、クレイグは眠ったままでいるフェイトを自分の背に乗せた。
 手にしたままだった銃は既に懐の中で、彼は器用にフェイトを背負う体勢となりその場を後にする。

 ――フェイトのストッパーの役目も追加しておく。

 脳内で先ほどの老人の言葉を思い出した。
 身勝手な老人ではあるが、自分は彼に少なからずは信頼されているのかと思うと、心がくすぐったいとも感じる。
「……まぁ、言われなくても、だけどな」
 背中に感じる大切な存在。
 ゆっくりと首を動かすとフェイトの息遣いが聞こえてくる。
 自分が唯一守れる存在。守りたいと思い続けている存在。
 だからこそ、譲れない。
 誰にも、『レッド』にすらも。
「……、はは……さすがにちょいと、色々堪えるねぇ……」
 フェイトを背負い直しながらのクレイグの言葉は、若干気の抜けた響きになった。
 よく見れば彼の黒のスーツは所々破れている。その先には切り傷や赤みなどもあり、満身創痍のままであった。
 それでも彼は、背に置いているフェイトの事は降ろさないし、離さない。
「ん、あれ……」
「お、気がついたかユウタ?」
「……、えっ、ちょっとクレイ! ストップ!」
 フェイトがゆっくりと瞳を開いた。意識が浮上してきたのだ。
 そして彼は自分がどういう状況にあるかを瞬時に理解して、クレイグの両肩に手を置く。するとクレイグはわざと「痛……っ」と言ってフェイトの顔色を変えさせた。
「いいからこのまま黙って運ばれてろ」
「だって、クレイのほうが怪我してるじゃないか!」
「だーから、騒ぐなって。そこから手離して腕回してくれ」
 クレイグはフェイトには従わなかった。彼を背負ったままで歩みを続けていて、痛そうな反応を示している割には平気そうである。ただ、肩を負傷しているのか手を置かれて力を入れられる事だけは、少しだけ抵抗があるようであった。
 フェイトは困り顔のまま、自分の手のひらを広げてクレイグの肩をそっと撫でてから彼の言われたとおりに腕を前へと回す。
「あの、えっと……重いだろ?」
「別に?」
 腕を前に降ろしたことによって、顔の距離が近くなった。
 それに最初に気づいたのはフェイトであったが、肩を痛めているクレイグの負担になってしまうと思い動くことが出来なかった。僅かに頬だけが静かに染まっていく。
「……クレイの背中、大きいね」
「そうかぁ? まぁ全体的にお前よりはなぁ」
 フェイトはクレイグの体に触れて、初めて知ったことがあった。
 彼の歩幅が大きいこと。足の長いクレイグだからこそなのだが、自分が横に並んで歩いている時にはそれを感じなかった。
 つまりはクレイグは、フェイトの歩幅に合わせて歩いてくれていたのだ。
 そして、大きくて広い背中。
 これも、こうして背負われなければ気づけなかっただろう。
「……戻ったら、俺に傷見せてくれよ?」
「あー、忘れなかったらな」
 再び声をかければ、クレイグはいつもどおりであった。
 ゆら、ゆら、と揺られながら進む道。
 潜入した時とはまるで違う気持ちにさせてくれる彼に感謝しつつ、フェイトは合流ポイントまで背負われたままでいるのであった。

「――入りたまえ」
「失礼します」
 IO2本部内の上層部。いかにもと言わんばかりの上司の声を受けた後、白髪の老エージェントはその扉を開いた。
 部屋の中には書類を片手に難しそうな表情をしている眼鏡姿の男と、マホガニー製の机の向こうに座する男の姿があった。
 一歩を踏み出すと厚みのある絨毯が革靴の足音をかき消し、ゆっくりと沈む感覚を覚える。
「ご苦労だった。粗方の報告は既に受けている。要点だけを聞こうか」
「はい。今回の施設には特殊筋肉増強剤及びそれを記すデータは残されておりませんでした。それと、潜入時に我らの動きを向こうがカメラを通して見ていたことが分かっております」
 眼鏡の男がピクリと眉間を震わせた。
 それを横目でチラリと確認しつつ、老エージェントは報告を続ける。
「監視対象にあります『フェイト』ですが……【虚無】にその存在を知られた可能性も有ります」
「いずれは、と思っていたことだ。仕方あるまい。……だが、それなりの対処はしているのだろう?」
「彼の同僚にストッパーの役目を与えました。しばらくはそれで様子を見たいと思っております」
 老エージェントの言葉はしっかりとしていた。
 迎えた側になる上司の男はその目をしっかりと見つめたままで、「うむ」と返事をする。
「しっかり休ませることだ。――君も、今日のところはゆっくりしたまえ」
「有難うございます。そうさせて頂きます」
 上司の言葉の後すぐにそう応えた老エージェントは、しっかりと会釈をしてから踵を返した。
 眼鏡の男が先回りをしてドアノブを捻り、扉を開く。
 三十半ばほどかと見受けられるその男は、上司の秘書のような立ち位置なのだろう。老エージェントから見ればまだまだの『若者』である。
「――レッドよ」
 老エージェントが部屋から出て、扉が閉められようとする中で、上司からの声があった。
 肩越しにちらりと振り向くと、「二十二時、いつものバーで」と続きの言葉が飛んでくる。
 それに対して彼は笑みのみでの返事をした。
 そしてその扉は、静かに閉じられるのだった。

 ひと通りの報告を済ませて、フェイトはクレイグの姿を探していた。
 途中、医務室に立ち寄って彼の怪我の具合を伺う。
「え、病院行ってないんですか?」
「ここの治療で事足りるって押し切られちゃってね。打撲も立派な怪我のうちなんだけどなぁ」
 医務室にいた医師が困ったようにしてそう言った。そしてクレイグは医師が紹介状を書いているうちに医務室を抜けだして、帰ってしまったという。
「後は腕の裂傷と打ち身なんだけど、無理させないようにね。はいこれ、換えの包帯と湿布。君、ナイトウォーカーのバディなんだろ? だったらちゃんと面倒みてあげてね」
「え、あ……はい……」
 医師がそう言いながら茶色い紙袋をフェイトに押し付けてきた。
 バディと言われて専属のそれではないと訂正しようかとも思ったが、同僚であることには間違いないので、それ以上の言葉は選ばずに終わる。
 そしてフェイトは片腕に紙袋を抱えつつ携帯を取り出した。掛ける相手はもちろんクレイグだ。
 片手のみの操作で彼のナンバーを呼び出して、そのままボタンを押す。
「…………」
 呼び出し音が思いのほか長く続いた。
 クレイグがフェイトからの電話に出ないということは基本無かったので、少しだけ心配にもなる。
 そしてかけ直そうかと思った矢先に、電話の向こうでガシャン、と言う物音とともに通話の表示に切り替わった。
『……ハロー?』
 電話の向こうのクレイグの声は、よそ行きのそれであった。相手がフェイトだと確認する間も無かったようだ。
「クレイ、俺だけど。なんかすごい音したけど大丈夫?」
『ああ、ユウタか。悪ぃな、シャワー行ってたんだよ。なんかあったか?』
「…………」
 いつもは何かと自分との距離を開けないクレイグなだけに、今の彼の行動にフェイトは眉根を寄せざるを得なかった。
 単に早く帰ってゆっくりとしたかっただけなのだろうが、何も言わずにそうされたことにも疑問を抱かずにはいられない。
 少しだけ、腹が立った。
「――クレイ、今からそっち行くから。医務室から薬とか包帯とかも預かってるしね」
『はぁ? だってお前、もう遅いぜ? 明日も早いだろ』
「俺は明日から休暇になったからいいんだよ。っていうか、ちゃんと顔見て話したいから逃げずに部屋にいろよ!」
『ちょっ、ユウ――』
 フェイトはクレイグの言葉を無視する形で携帯の通話を終えた。
 ――何故か苛々してしまった。納得がいかなかったのか、それとも別の理由があるのか。
 自分の中では答えは出せなかったが、それはクレイグに会ってからでもいいと心の中で呟いて、彼は床を蹴るのであった。

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deep mission 2

その施設は一見すると普通の研究所のような建物であった。
 外観も白一色の壁とミラーガラスが特徴的な作りで『技術研究センター』という大きな文字も冠している。
 一般企業と変わりの無いように見えるその施設の裏手に秘密の入り口がある。草木に囲まれた人目につきにくいそれは、地下に繋がる扉であった。
 時刻は十六時過ぎ。日本でいうところの逢魔が時の頃合いである今の時間帯は、昼と夜が交じり合う絶妙な薄くらさを生み出す。それゆえに昔から不吉な時間帯と言われている。明るいのか暗いのか一瞬それらの判断が出来にくいタイミングが生まれるこの時間帯に、IO2エージェント達の突入が開始された。
 斥候の班が先に配置され、ルートを抑えたポイントから数人が侵入していく。
 フェイトとクレイグも同様に、示されたポイントから突入の合図とともにその研究所内へと入り込んだ。
 誘導灯しか灯されてない暗く長い廊下。銃を構えつつ暫く進んでいくと、前方から小さな赤い光が見えた。
「ストップだ、フェイト。何かいる」
「…………」
 クレイグの左手によって、フェイトの体は前を進むことを一度止めた。それに僅かに眉根を寄せた彼だったが、すぐに冷静な表情に戻して姿勢を正す。
「こういう時には俺の能力の出番だろ?」
「……光が増えた。四つだ」
 小さな赤い光はフェイトの言うとおりに二つから四つに増えた。
 それを踏まえてからクレイグが【ナイトビジョン】を発動させてそれを視る。暗闇や今のような暗所などで役に立つ彼の『視る力』の一つだった。
「――ありゃぁ、向こうからの歓迎の一種だな。犬……狼、か?」
 クレイグの視力が捕らえたものは犬の影だった。赤い光はそれらの目の光だったらしい。
「くるぞ、フェイ――」
 ――ドンッ。
 クレイグの頬をかすめる距離で、躊躇いもなく引き金が引かれた。
 隣に立っていたフェイトが撃ったのである。弾は見事に命中し、前方で一体が倒れこむ。
 クレイグは僅かに焦りの表情を見せて、フェイトを見た。
 フェイトはいつもと変わりなかった。――否、いつもより冷たい目をしていた。
 ゆらゆらとしていた緑色の目に光は宿っておらず、ただひたすら敵を見据えている。
 そしてまた、言葉もなく引き金を引いた。三発続けてであった。
「…………」
 クレイグは一発打つごとに一歩を進むフェイトの姿を見ながら、ごくりと静かに息を呑む。
「進むよ、ナイトウォーカー」
「あ、あぁ……」
 その場に居た四体の犬らしき影は、フェイトの弾丸に全て沈められていた。
 横目で確認しながら彼らは先の見えない一本道を進んだ。
「……犬にしちゃ色々規格外だったな。なんだ、あれ?」
「ここで作られている特殊な増強剤の一つだよ。きっとあの犬達も実験体だったんだ。本来の何倍もの力を得られるけど、最後には体が耐えられなくなる」
「詳しいな」
「【虚無】の資料はいくらでも存在するだろ」
 そんな会話を続けながらの進行だった。
 普通の会話のようであって『そう』ではない流れに、クレイグは眉根を寄せる。
 突入前――その少し前から、フェイトは様子がおかしかった。
 それはどんどん悪化していってるように思えて、内心で焦りを感じ始めているのだ。

 ――たとえ何が起ころうとも、お前がフェイトを守れ。

 老エージェントに言われた響きが蘇る。
 『何が』、とは『何』なのだろうか。
「っ、……フェイト!」
 十字路になっている通路を通り過ぎようとした所で、横手から迫る影を見たクレイグはフェイトの名を呼びながら腕を伸ばして銃を打つ。左腕はそれより早く動いていたフェイトの肩を掴んで、自分へと引き寄せた後であった。
 傍らでドサリと音を立てて沈み込むのは、先ほどと同じ強化された犬だ。
「……大丈夫か、ユウタ」
「うん……あり、がとう……」
 フェイトの体を腕の中に収めたままでそう問いかければ、彼は小さく震えていた。
 クレイグが思わずエージェントネームではなく本名で呼んでしまったことすらも、今のフェイトには正す余裕すら見受けられない。
 はぁ、と上を向きながらクレイグは息を吐く。
 そして神経を研ぎ澄まし耳に捕らえた足音に向かって、彼は銃を向けた。
 青白く光る弾が二発。
 それらは見事に命中し、暗闇の向こうで『二体』が落ちる音がした。
「今更だが、こっちの動き見られてるなぁ。俺達が来ることも粗方予想済みだったんだろうな」
「…………」
 クレイグの言葉に、フェイトは応えなかった。
 応えられなかったのだ。
 フェイトは自分の呼吸を整えるのと、集中することだけで精一杯のようであった。顔色もあまり良いものとは言えない。
 敵を目の前にするたび、奥へと進むたびに脈打つのはフェイトの鼓動。
 大きく音を立ててドクンと跳ねるそれは、うるさいと感じるほどだった。
 まるで、思い出せ、と言わんばかりの――。
「ユウタ、大丈夫だ」
「……、……」
 クレイグの声が耳元に降りてきた。
 じわりと染み入るような優しい声音。頭を抱き込んでくれている大きな手。その指がさらりとフェイトの黒髪を梳いて、ゆっくりと撫でてくれる。
「クレイ……」
「大丈夫だ、俺がついてる。どんな時だって、俺がお前を守ってやるよ」
 不思議とざわつく心が落ち着いていく。
 クレイグの声がそうさせたのか、仕草にほっとしたのかはわからない。でも今は、どちらでも構わないと思った。
 ――クレイグが、側に居てくれれば。
「さて、ここは真っ直ぐだな。他のポイントの奴ら、大丈夫かねぇ」
 彼は立体マップを呼び出しながら改めての位置確認をしてそう言った。
 マップは彼らから真っ直ぐの印を示している。その先に一つの部屋があるらしく、まずは進めということらしい。
「ついでだし、ここで弾の補充しとくか」
「う、うん……」
 マップを仕舞いつつ、クレイグはフェイトにそう促す。
 するとフェイトは少しだけ照れたようにして俯いて、自分の銃の弾の補充をし始めた。
 クレイグはナイトビジョンを使い前方と後方を確認している。彼はフェイトの後に補充を行うつもりらしい。
「……ナイト……いや、クレイグ」
 クレイグを呼ぶことに珍しくの躊躇いを見せつつ、フェイトが改めて口を開いた。今のうちに、と思ったらしい。
「俺……小さい頃、ここと同じような施設に、居たことがあるんだ」
「…………っ」
 静かに言葉を続けると、さすがのクレイグも返事のための声音を詰まらせた。無理もない。
 動揺しているかのようなクレイグを上目に、フェイトは小さく笑みを作ってからまた言葉を続けた。
「奴らは研究熱心でね。……ここの犬もそうだけど、俺も似たような事をされた。実験研究っていう名目で、色んな事を強要された。俺の目の色、変わってるだろ? これもその時の名残なんだ」
 ガシャン、と銃のグリップ底が仕舞われる音が響いた。一つ目の銃の補充が終わったらしい。
 クレイグはそれを確認しつつ、フェイトの顔を覗きこんでくる。彼を心配しているのだろう。
「……何でこのタイミングで俺に打ち明けた?」
「クレイは勘が良いから、そろそろ気づいてるだろうと思って。……グランパに何か言われてただろ?」
「お前はレッドの言葉の意味を?」
「大体、解ってるよ。グランパは俺の『監視役』でもあるからね」
 至近距離で交わす言葉に湿り気が無い。
 それが何故かとても悲しい物に思えて、クレイグの表情が厳しくなった。
 フェイトはそんな彼を見て、自嘲する。
 下瞼の頬が、ビクリ、と揺れた。
「クレイグ。……もしもこの先、俺に『何か』あったら……」
「それ以上、言うな」
「聞いて欲しい。正直、もうこれ以上の自信が無いんだ。だから……」
「――だから俺がいるんだろ、ユウタ」
 半ば、フェイトの言葉を遮るような勢いでの、クレイグの声が響いた。
 彼はそう言いながら手早く自分の銃の補充を終えて、ニヤリと笑った。
「クレイ」
「俺を甘く見るなよ? 何のためにお前の傍にいると思ってる」
 クレイグは再びフェイトを片腕で抱きしめる。
 腕の強さと安心できる体温に、フェイトは思わず目を細めた。
 出来るならずっと、この位置で――。
 そう思った直後、二人の無線にジジッと音が走った。
〈こちらグループB。三人やられた。とにかく犬が多い……うわぁっ!〉
「!!」
 クレイグもフェイトもそれぞれに無線のある耳に手をやり、顔色を変えた。
 無線の向こうで嫌な音がする。
 そしてそれはノイズに変わり、ブツンと大きな音を立てて通信を終えた。
 すると別の入電があり、クレイグはいち早く反応する。
〈――フェイト、ナイトウォーカー、無事か〉
「ああ、今のところは何の問題もない」
〈既に全体の三分の一が負傷している。無茶はするなよ〉
「了解」
 声の主はあの老エージェントのものだった。
 どうやら向こうでも苦戦を強いられているらしい。
 そんな中で、どうやってフェイトを監視するのか。
 そう思ったのは、クレイグだった。
 そもそも『監視』とはどういう事だと彼は考えながら苦笑もする。
「……ナイト!」
「ああ、見えてる」
 前方から迫ってくる気配を感じて、フェイトが腕を上げた。
 それを制するようにして、クレイグが右腕を伸ばす。
「埒が明かなくなってきたな。とりあえず進むぞ、フェイト」
「うん」
 ドン、と一発。
 クレイグが打ったそれは前方で弾けて、直後にドサリと音がした。
 二人は既に駆け出していて、その落ちた個体を見ずに前へと進む。
 次から次へと襲い掛かってくる敵。
 それらを的確に落としつつも、フェイトの表情は徐々に厳しくなっていく。
 過去の忌まわしい記憶が今の彼を揺さぶり続けているのだ。
 
 ――もういっその事、全てを蹴散らしてしまえばいい。

 脳内で誰かが囁いた。

 ――自分に向かってくるモノ。邪魔な存在を全て。

「ユウタ」
「!」
 瞳の色が曖昧な揺らめきを見せた所で、クレイグの声が飛んできた。
 その声音はフェイトの意識にすんありと入り込んで、不安を吹き飛ばす。
「……今は、『フェイト』だろ。『ナイトウォーカー』」
 それを言えるほどの余裕を与えてくれるクレイグに、フェイトは素直に感謝した。
「辛かったらいつでも俺に寄り掛かれ。守りながらの戦いってのも悪くない」
「そんなに弱いつもりはないよ、大丈夫」
 軽い口調での会話を続けて、二人は前を進む。
 暫く走った先に見えたのは、一つの鉄の扉だった。二人は目配せで扉の両側に体を添わせて、フェイトがカード式のキーを銃で壊した。
 ピー、と小さな音を立てて、扉が開く。
 フェイトもクレイグも、銃を構えて大きく息を吸った。
「……こちらナイトウォーカー。Cポイントの部屋に突入する」
〈了解〉
 部屋に進入する直前で、クレイグが無線に向かってそう言った。
 そして片腕を上げて、フェイトに合図をする。二人はほぼ同時にその扉の向こうへと駆け込んだ。
「…………!!」
 視界に飛び込んできた光景に、フェイトが瞠目する。
 薄暗い空間の中、青や緑の淡い光がうっすらと地面から漏れているように光る。
 ボゥ……と浮かび上がるように見えるものがあった。それも一つだけではない。
「……フェイト、これって……」
 クレイグが信じられないというような表情でそう言う。
 彼は【ナイトビジョン】を使い続けているので、この場でもクリアにその光景が見えてしまうらしい。
 動物の類ではなく、人のそれ。
 大きな檻に入れられた彼らたちは、男女の区別もつかず髪も伸び放題で袖のない検査服を着せられているのみであった。そこにいるのは紛れも無く、『人間』である。
「うぅ……」
「……あぁ……」
 前方からそんな声らしき音が聞こえてきた。苦しそうな声だった。
 クレイグたちを虚ろな瞳で捉えると、彼らは鉄格子を掴んでガシャガシャと音を立てて唸り立てる。
 どんな目にあってきたのか、どのような実験をその体にされてきたのか。
 クレイグには想像も出来なかったが、それでも腹の底で何かが熱を帯びるのを感じる。
「こんな……こんなひでぇ事を、お前も……?」
 そう言うクレイグの顔をフェイトがゆっくりと見上げれば、彼は額から頬に掛けて汗をかいていた。
 唇は引き伸ばされていて、ギリ、と歯がこすれ合う音が大きく響く。
 動揺と、怒りの感情が湧き上がる。
「……ク、レイ……」
 隣でそれを感じたフェイトだったが、彼自身も酷い汗をかいていてそれ以上を繋ぐことが出来ない。

 ――ヴィーッ。

 そんな電子音が頭上で響いた。
 一瞬だけそれに気を取られた直後、ガシャン、と鉄が地面に打ち付けられる音がして、二人は前方を改めて見た。
「ナイト……」
「ああ、わかってる。さっきの犬たちとは桁違い……弱点は固い皮膚の先だ」
 クレイグが左手を差し出し手のひらを向こうに広げてから横に引いてみせた。【スライド】の能力だ。
 前方の人影が動き出す。
 先ほどの音は何かの合図で、その後鉄格子が外れて中から閉じ込められていた人たちが出てきたのだ。
 要するに、クレイグとフェイトの行動はどこかから見られているのだろう。
 『それ』を探して、クレイグは周囲を素早く見回す。ごちゃごちゃとしている機械の向こう、監視カメラを見つけて、彼はそれ目掛けて銃を打った。
「今更だが、見られ続けられるよりはマシだろ」
「ナイト、来る!!」
 フェイトが一歩下がってクレイグの背中にどん、とぶつかりつつ両腕を上げた。そして半ば叫びに近い声でそう言って、両手に収まる銃の引き金を引く。
 クレイグもそれと同時にまた引き金を引いた。
 相手は人の動きとは思えないほどの足の早さとジャンプ力があった。スライドで予めを見たとはいえ、クレイグは彼らの動きに戸惑いを見せる。
 四発打って二発が外れた。当たったほうも僅かに彼らの動きを鈍らせただけで、沈めることが出来なかった。
 さすがに焦りが生まれる。
「こりゃぁ……」
 と言葉を漏らして浅く笑ってはいるが、余裕は皆無だ。
 クレイグは懐から別の銃を取り出してそれを敵に向けた。実弾が入ったリボルバーだった。
 オートマチック式とは違って六発しか打てないが彼は弾の威力に期待を掛けた。
 一発目は足に向けた。急所ではなく少しでも弾が入り込みそうな部位を狙ったのだ。
「アァァ……ッ!!」
 相手は痛そうに一度体を丸めた。そこを狙って、彼は二発目を打つ。次は手の甲を狙った。それも命中した。
 だが。
「……っ、ナイト!!」
 左腕が開いていたクレイグは、横から迫ってくる別の個体にそれを狙われた。
 大きく開いたとても人とは思えない牙の生えた口が、彼の左手をバクリっと咥え込む。
「クレイ……ッ」
「おっと、今は『ナイトウォーカー』だろ?」
 フェイトが表情を歪ませながら彼の名を呼ぶ。するとクレイグは口の端だけで笑って、左の銃の引き金を引いた。
 近接していただけあって、膨らんで爆発するブラスト弾がよく効いた。噛み付いてきた口の中で弾けたそれに、相手は仰け反り転がり始める。
 一体は地に落ちたが、安堵は出来なかった。
 この空間の中、クレイグとフェイトを取り囲むようにして既に数十人の人影が見える。
 状況から言えば、絶体絶命な状態であった。
「んー、八方ふさがりだな、こりゃ」
 クレイグは軽い口調であった。それでも視線は冷ややかで、瞬時に出口までの距離を測る。
 次に横目でフェイトを見た。
 彼は顔面蒼白になりながらも、銃を構え続けている。
「はぁ……」
 わざとらしくため息を漏らす。
 そして。
「えっ……!?」
 フェイトの視界がいきなり揺れた。
 腕を捕まれ遠心力でクレイグが立っていた位置から体を投げられたのだ。
「――ほら、邪魔すんじゃねぇよ。俺の『運命』に触れるな」
 クレイグはフェイトの傍の個体を手早く銃で牽制した。二発をそれぞれに打って、僅かであるが動きを止める。
「クレイ……!?」
「そのまま走って表に出ろ、フェイト!!」
 するり、と人の輪から抜け出せたフェイトは、クレイグの言葉に瞠目した。
 そしてゆっくりと顔を上げて彼を見やれば、自嘲気味に笑うクレイグの表情が見える。
「早く行け。ここは俺で何とかする」
「……そ、んな……出来るわけっ」
「いいから行けッ!!」
 クレイグの怒号に、全身が震えた。
 直後、彼に向かって人影が一斉に飛びかかる光景を目にする。
 数発の銃の音が聞こえたが、クレイグの姿は一瞬にして見えなくなった。
 こんな。こんな所で、彼を――。
 そう思った瞬間、ぐらりと視界が歪む。
「――――ッ」
 フェイトが唇を強く噛んだ。
 直後、チリ……と電気が走ったかのように、青いオーラのようなものが浮かび上がる。
 足元に落ちる二つの銃。直後に握りこまれる拳。
 自分の体を抱くようにして背中を丸めたフェイトは、次の瞬間にはそのオーラを放つようにして叫び声を上げた。
「うわああぁぁぁ……ッ!!」
 ぶわっ、とフェイトの全身が青白く光る。
 それに気づいて、人影はゆらりとこちらを向いた。
 彼の周囲に次々と生まれるモノがあった。彼の能力を形にした武器の一つである。青く光るそれは槍状へと姿を変え、無数に人影へと打ち込まれていく。
 『念の槍』と呼ばれるそれの威力は凄まじいものであった。
 どんなに強化された体でも、次々と突き刺してしまえる力だった。

 ――過去、似たような事があった。
 あの時も彼は、無数に囲まれた『敵』を目の前にしていた。
 極限にまで追い詰められた状態で、襲い掛かってくるそれらを今と同じようにして地に落とす。
 繰り返し、繰り返し。
 次の瞬間にはいくつもの動かぬモノが足元にあり、そのたびに『勇太』は絶望した。
 おぞましい記憶の欠片だ。

「は……はぁ……っ」
 フェイトの肩が震えた。
 ある程度の能力を放出して、呼吸を整えているのだ。
 両膝がガクガクと震えていた。
 それを抑えようと手を添えても、治まらない。
 呼吸も鼓動も、歪む。早く鎮めてしまいたいのだが、こればかりはどうしようもなかった。
「しっかりするんだ、フェイト……ッ」
 ぎゅ、と膝を握りしめて、自分を叱咤する。
 心を強くしろ。全てをコントロールしろ、と内心で繰り返して言い聞かせた。
 ――まだ、ドクン、ドクン、と鼓動が煩いままだった。
 このままこの空間で同じようなことがまた起これば、自分はどうなってしまうのだろう。
 言い知れぬ恐怖感にぎゅ、と目を閉じるとその向こうに浮かぶのは『グランパ』の姿だった。
 彼が自分に向かって銃を向けている。そんな光景が容易に想像出来てしまう。
「フェイト」
「!」
 間近でそんな声が聞こえて、勢い良く瞼を開いた。
 良く知る声に、フェイトは顔を上げられずにいる。
「大丈夫か?」
 声は変わらず優しい音であった。
 フェイトの視界が歪む。
「ナイト……」
「全部、なんとなく理解したよ。凄いな、お前のその力」
 改めてのその言葉に、フェイトは顔を歪ませた。
 彼は――クレイグも『怖い』と思うのだろうか? 自分を『化け物』だと感じただろうか?
 そんな考えが過って、ふらりと一歩後ずさる。
「おっと、その体勢じゃ危ないぜ」
「……クレイ」
 クレイグはいつもと同じようにフェイトへと歩み寄って、右腕を差し出してきた。
 そして当たり前のようにフェイトを支えて、ゆっくりと上体を元に戻してやる。
「なんて顔してんだよ、ユウタ」
「だって……俺は、俺も……あいつらみたいに、化け物で……っ」
 視界が歪んだ。
 クレイグの困ったような笑顔を見ていると、自然と涙が溢れてくる。
「お前は何にも変わっちゃいねぇよ。俺の好きなユウタだ」
「……クレイ……ッ」
 優しい言葉に、フェイトは思わず彼に抱きついた。
 クレイグは静かに笑って、背中に腕を回してくれる。
「……お前はお前だ。フェイトでありユウタだ。それ以上でも以下でもねぇし、俺がお前を守ることも変わらねぇ」
「う、ん……ありがとう……」
 クレイグは傷だらけであった。
 あれだけ無数の人に飛びかかられたのだ、無傷ではいられなかっただろう。むしろ満身創痍と言ってしまったほうが今はしっくりとするほどだった。
 そんな彼の腕の中で、フェイトは静かに頬を濡らす。
 この空間が暗いことも手伝って、素直な感情の吐露でもあった。
 安心できるクレイグの右腕。
 僅かな時間の中で、フェイトは静かに瞳を閉じた。
「――させねぇよ、誰にも。俺がどうなっても、ユウタは誰にも触れさせない。レッドにだってな」
 フェイトを抱き込みながらそう言うクレイグの言葉には、冗談の意味は一切含まれては居なかった。
 黒髪にふわりと唇を押し付けて、フェイトと同じように一度目を閉じる。
 そして再び開かれたクレイグの瞳は、氷のように冷たい煌めきが宿っていた。

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deep mission

IO2内に緊張が走っていた。
 幹部とみられる数人が電子データを眺めつつ眉根を寄せる。
「潜入は可能か?」
「既に数人送り込んである。そろそろ入電があるはずだ」
 一人の男がそう言えば隣に立つ男が自分の腕時計を見やりながら答えを返してくる。
 直後、彼の耳に装着している無線に電子音が届いて、通信を始めた。
「――ああ、私だ。うむ、そうか、ご苦労。では君たちはそこで待機していてくれ。進路の確保を忘れずにな」
 その言葉を耳にしつつ、白髪の男が所属するエージェントのリストへと視線を落としていた。視界に映り込んでいるのはフェイトのデータだ。
「…………」
 自然と眉根が寄る。個人的に彼が可愛がってきた『若手』だ。
 自分の孫に重ねた優しい感情は、そこで静かに噛み殺されていく。
「――珍しく、迷っているようだな?」
 一人の男が声を掛けてきた。
 その声に振り向きつつ、白髪の男は浅く笑う。
「そうだな、正直に言えば迷っているよ。大丈夫だと信じてはいるがな」
「あちらさんの事より身内の心配……か。大御所である貴方にも、一応の人の情ってものがあるらしい」
 皮肉交じりの言葉を受けても、なお。
 白髪の男――古参エージェントである『彼』はその表情に焦りなどは見せなかった。
 そこにあるのは、ただひたすらの――願い。
 願わくば、白髪の男の持つ銃が若き同僚に、フェイトに向かないことだけを祈りながら。
「さぁ、我々の仕事に取り掛かろう。出せるエージェントは皆駆り出せ」
「了解」
 老エージェントが片手を上げると、周りにいた男たちが一斉に姿勢を正した。そして短い返事をした後にそれぞれに動き出す。
 IO2本部が多数のエージェント送り込む一つの大きな作戦が、これから開始されようとしていた。

 同本部内、射撃訓練室。
 話は少しだけ前に遡る。
 ヘッドフォン型のイヤーマフを装着したフェイトが、右腕を掲げて銃を構えている。横移動する的を的確に捉えて、彼は引き金を引いた。その形には迷いも躊躇いもない。
 だが。
「……はぁ」
 見事中心を射抜くも、その集中力が珍しく保てない。油断するとすぐに『ユウタ』としての気持ちを揺らがせてしまう理由に、クレイグの存在があった。
 数日前、彼の部屋で告白を受けた。
 本能のどこかで気づいていた彼の気持ちを真っ直ぐに受けたフェイトは、その時の彼の表情を思い出してはうっすらと頬を染める。

 ――好きだよ、ユウタ。

 耳の奥にしっかりと残る彼の言葉。
 それには不思議と嫌悪感も無く、在るのは自分の迷いだけ。
「…………」
 フェイトはそこで一度目を閉じて、深呼吸をした。
 ここにいる間は、『フェイト』でいる間は冷静でいなくてはならない。私情などは交えず、完璧なエージェントでなければ。
 心でそう呟いて、彼は再びゆっくりと瞳を開く。
 緑色の瞳がゆらりと揺らめいた直後、フェイトは前方を見据えて再び銃を構える。
 ピ、と短い電子音が流れた。
 直後、ランダムで動く的が一気に五体ほど現れて、射撃手を惑わせる。だが、フェイトはその動きを全て捉えて的確に落としていった。

『perfect』

 そんな文字が目の前に浮かぶ。
 どうやらメニューはそこで終了のようだ。
 軽いため息を吐いたフェイトは、無言のままイヤーマフに手をかけてそれを首に下ろした。
「――お前、相変わらず上手いなぁ」
「!!」
 背後から掛けられた声に、ビクリと肩が震える。自分の良く知る声音。
 この部屋に入った時には無人であったためそのままかと思っていたのだが、途中で入室してきたのだろう。
 フェイトが振り向いた先にはクレイグの姿があった。
「ナイト……」
「よ。お疲れさん」
 腰まで在る仕切り壁にだらりと体を預けていたクレイグは、フェイトの呼びかけに片手を上げてそう答える。
 そしてゆっくりと姿勢を正し、彼はフェイトへを足を向けた。
 数歩進んだ後に、自然と伸ばされる腕。
 それがフェイトの首元に辿り着き、彼が首にかけたままだったイヤーマフを器用に取り去って、所定の位置へと戻す。
 たったそれだけの、普通の行動だった。
「どうした、フェイト」
「あ、いや……その、ありがとう」
 いつも通りのクレイグの行動を、フェイトがどこかぼんやりと見上げていた。
 先ほどまで冷静を保てていた『フェイト』はそこにはおらず、今は『ユウタ』の顔をしている。
 目の前でそれを見たクレイグは、小さく笑った。口の端のみの、本当に小さな笑みだった為に、フェイトは気づかなかった。
「休憩しようぜ。今ならカフェテリアも空いてるだろ」
「うん」
 その場から一向に動こうとしないフェイトを見かねてか、クレイグがそんな提案をした。
 フェイトは短い返事をしてようやく、動くきっかけを得られたことに安堵して緩い笑顔を作り上げる。
「…………」
 銃を構えている時には見せない表情。
 任務にあたっている時のフェイトはいつも、冷静そのものだった。表情も姿勢も何もかもが完璧だ。
 時折、その完璧さに滲ませるものが『冷たいもの』だとクレイグ感じ取れるようになったのは、いつからだったか。
 フェイトは何も言わないし、クレイグもまた何も問わなかった。生きている限り踏み込まれたくない影は誰しも抱いている。だから、フェイトから打ち明けてくれるまで、彼は待つつもりでいる。
 今も、ずっと。
 訓練室を出て、自分の前をフェイトに歩かせる。目線は頭一つ分ほど下、そこで揺れる黒髪に、クレイグは思わず手を伸ばした。
「……っ……」
 指先が触れるか触れないかの位置で、その手は静かに引き戻された。
 私情は持ち込まない。意図せずに普通に触れてしまえば良いのだが、こうして改めてしまうとそれも出来ない。
 だから、苦しい。
「――クレイ?」
 フェイトが進む足を止めて、不思議そうな顔をして振り向いた。
 クレイグの僅かに揺れる感情を感じ取ったのだろうか。自身のことには疎い彼ではあるが、それ以外のことに関してはやはり鋭いものがある。
「こら、此処では『ナイト』だろ」
「でも、今は任務外で二人だけなんだし、誰も聞いてない」
「ったく、お前って奴はほんとになぁ……」
 フェイトの素直な受け答えに、クレイグは苦笑しながらそう言った。そしてこのタイミングを狙って距離を詰める。
 いつものように肩に腕を回して、自分へと引き寄せた。
「ちょ、ちょっと、クレイ」
「んー、別にいいだろ? ユウタ」
 急に距離を詰めてきたクレイグに、フェイトは明らかに動揺を見せた。
 耳元に降る声音。低めのトーンだがよく響く。
 良い声だ、と思う。それを自覚しただけで、自分の頬に熱が帯びていくのを感じた。
 彼が与えてくれるもの、そして欲しがっているもの。
 それに答えるにはまだ少しだけ、時間が必要だった。
「先に座ってろよ。飲み物注文してくるから」
「う、うん……わかった」
 密着した状態でカフェテリアに辿り着いたところで、クレイグはきちんと距離を取ってフェイトの背中をぽんと押した。
 IO2内にあるこの場所は、エージェントたちの憩いの場だ。当然パラパラと人影が視界に映り込む。
 そうした状況をきちんと読んで行動を起こしてくれるクレイグは、ある意味完璧なのだろう。エージェントとしても、彼個人としても。
「……はぁ……」
 大きな溜息を一つ吐いて、直後。
 決めているわけではないが、空いていればそこへ進んでしまうテーブルに、フェイトは歩みを寄せた。
 天井窓から日が差し込む温かい席だった。陽は傾きかけている時刻だが、オレンジ色の光が柔らかく降ってくる。
「…………」
 クレイグは、いつも通りだ。今もカウンターに体を預けて飲み物の注文をしている。カフェで働く女性への褒め言葉も忘れずに付け加える彼の器用さは天性のものなのだろうか。
 自分の気持ちをフェイトに打ち明けた後も、それは変わらなかった。
 フェイトはゆっくりとその席に腰を下ろしてテーブルに肘をつく。
 まだ――まだ。
 そんな感情が彼をじわりと侵食していって、軽い目眩を引き起こす。そんな時にフラッシュバックのように脳内に呼び起こされるのは、自分の過去の姿だった。
 鈍くこめかみが痛む。
 意思が記憶を拒んで表に出さずとしているために、反動がどうしても肉体に及んでしまうらしい。
「……ユウタ、どうした?」
「ッ!!」
 フェイトの様子に気がついたクレイグが、飲み物を片手に寄ってくる。
 その声に過剰反応してしまったフェイトは、座っていた椅子を床に倒して立ち上がってしまう。
 ざわり、と周囲の空気が揺れた。
「医務室行くか?」
「……いや、驚かせてごめん。大丈夫だ」
 心配そうな声で問うクレイグに対して、フェイトは視線を逸しつつ倒してしまった椅子を元に戻して座り直した。
 目の前にあるのはクレイグがフェイトにと頼んでくれたカフェラテがある。それに視線を向けて、静かに数回の呼吸をした。
 向かいに座るクレイグは、ブラックコーヒーを口にしつつもしっかりとそんなフェイトを見張っている。若干、厳しい視線でもあった。
「ほんとに、大丈夫だって。……ちょっと……うん。なんていうか……ヤな記憶を思い出しただけで……」
「――俺の知らないお前、か」
「うん……そのうちクレイには、聞いて欲しいんだ」
「そうか。でも、無理するなよ」
 優しい声音だった。
 クレイグという男は、本当に本気でフェイトを思ってくれている。それを改めて感じて、フェイトの視界が歪む。
 返事のための言葉を作れずに、こくり、と頷けば彼は頭を撫でてくれた。その先には穏やかな笑顔がある。
「クレイ……」
〈緊急出動要請。本部内にいるエージェントは速やかに行動してください。繰り返します――〉
 フェイトが声を絞り出したところで、室内放送が流れてきた。
 カフェ内にいたエージェントたちが一斉に立ち上がり、言葉なく散っていく。
「おっと、いきなり大掛かりだな」
「……俺達はグランパに合流って通信機に連絡入ってる」
 クレイグとフェイトもすぐさまその場を離れて廊下へと出た。その間に通信機の任務内容を確認して、二人とも表情を変える。
 妙な胸騒ぎがした。
「こちらナイトウォーカー。現在の状況は?」
〈F地点で待機中。目標は『虚無』だ。やつらが絡んでる生体兵器の研究所を突き止めた。一斉突入する〉
「了解」
 クレイグが先方の同僚と無線でやりとりしていると、隣を歩くフェイトの表情が険しい物になっていくのを感じて横目で見やる。彼は銃の弾の詰替えを行っていたが、その手はわずかに震えていた。
「……フェイト、本当に大丈夫なのか?」
「平気だ。何も問題はない」
 ぽん、と肩に手を置いてクレイグはそう問いかけた。
 するとフェイトは銃に視線を置いたままで静かな返事を戻すのみだった。その表情はにわかに冷たい色だ。
「フェイト、もう一度だけ言っておく。無理はするな」
 クレイグの語気が強いものになった。
 そこでようやくフェイトの顔が上がり、視線が重なる。
 不思議な色合いの緑色。角度によっては淡い青のようにも見えるそれは、綺麗でいてどこか悲しい色でもあった。
「ありがとう、ナイト」
 フェイトはそれだけをハッキリと告げた。笑顔であったが、『ユウタ』としてのそれではなく、クレイグは眉根を寄せる。
 だはそれ以上の行動を起こすことが出来なかった。
 彼らは直ちに任務先に向かわなくてはならない。足を止めるわけには行かないのだ。
「ナイトウォーカー、フェイト。入ります」
 無線に向かってクレイグがそう言う。そして二人は指定されたポイントへと向かった。

 ――世界は終末を迎えなくてはならない。
 終りを迎え、その先に新しい生命が誕生する。それ故に、一度滅びなければならないのだ。
 そんな事を謳った組織が存在していた。
 IO2本部でも常に追い続けている一団である。名を『虚無の境界』という組織は、一種のカルト集団であり、霊的なテロ行為を度々行ってきた脅威の存在である。
 今の世に絶望を感じ、同じ信念を抱く者、利害が一致する者。自身の能力を持て余している者。
 その組織に集まる者達は、それぞれの闇と影が付き纏っている。
 中には能力を持っているがゆえに、幼い頃から施設に連れ込まれ実験材料にされる哀れな子供たちもいた。
 ――フェイトも、『勇太』である頃、同じような経験をしてきた。
 生まれ持つ能力に翻弄され、幼い体に様々な実験を強要された。彼の瞳が不思議な色合いをしているのは、そのせいであるのだ。
「……ふぅっ……」
 フェイトが銃を片手に、息を吐いた。珍しく緊張しているのだろうか。真剣な面持ちは変わらずにいたが、少しだけ落ち着きが乱れているようにも見える。
「ナイトウォーカー」
 フェイトの様子を気にかけているクレイグに、そんな声がかかった。
 あの老エージェントのものだった。
 フェイトから少しだけ距離を取る事を仕草だけで命じられて、彼はそれに従う。
 フェイトはそんな彼らを冷めた視線で見やっただけで、また視線を前方へと戻している。
「……お前に私個人からの追加任務を与える。フェイトから目を離すな。おそらくお前だけが、あの子を守れる」
「レッド……? なんだ、それ」
 至近距離でぶつけられる言葉に、クレイグは顔色を変えた。
 年長者であるこの老人が今この場で冗談を言うはずもなく、彼の表情は非常に厳しいものだった。強い視線に、クレイグさえもが肩を揺らす。
「言葉通りだ。たとえ何が起ころうとも、お前がフェイトを守れ。いいな」
「……何のことだかサッパリだが、取り敢えずは了解しておく」
「期待してるぞ」
 只ならぬ空気の中、クレイグは動揺もせずにそう応えた。
 それを見て、白髪の男は口の端だけの笑みを浮かべてそれだけを言う。
 そして背の高いクレイグの肩の上に皺の多い右手をポンと乗せた後、彼は元に居た位置へと戻った。
「――ナイトに何を言ったんですか」
「気合を入れろと伝えただけだよ」
 男がフェイトの横を通り過ぎようとした際、そんな言葉が交わされた。
 そして男とフェイトは視線を合わせて、互いに無言になる。
 フェイトには解っていた。この老エージェントが密かに担っている裏の任務を。
 その為に今ここにいて、彼は躊躇いも見せずに『それ』を実行しようとしている。
 そうならないようにと願いながら。
「フェイト、大丈夫か」
「何も支障はありません」
 老人の厳しい声音に、フェイトは冷静に答えた。
 だが、その時には既に彼の視線は前方に向けられていて、男の眉根に皺が寄る。
「……、……」
〈infiltration〉
 男が再び何かを言おうとしたところで、各人の無線にそんな言葉が届けられた。
 潜入せよという響きだった。
 フェイトが先に地を蹴る。それに遅れを取らずに動いていたのはクレイグだ。
「――頼んだぞ、ナイトウォーカー」
 低い声音でそう呟かれた白髪の男の言葉は、誰にも届くことはなかった。

カテゴリー: 02フェイト, season1(紗生WR), 紗生WR(フェイト編) |

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『こちらフェイト。目標を沈黙させた』
「了解。こっちも終了だ」
 ハンズフリーの無線機を通して、そんな会話が交わされる。
 先日のバーでのやりとりと同じ部屋で過ごした一夜は何だったんだ、と思わせるほど、任務中のフェイトは冷静そのものであった。
 もちろん、私情を持ち込むなどもってのほかだ。
 それは分かりきっているのだが、どうにも腑に落ちない。
「ナイトウォーカー」
「!」
 背後からエージェントネームで名を呼ばれた。
 僅かにピクリ、と肩を震わせつつクレイグはゆっくりと振り向く。
 視線の先にいたのは白髪の老人であった。やけに背筋の整った、紳士的な顔つきの黒スーツが型にはまっている男だった。
 古参のエージェントの一人である。
「……心ここにあらず、だな。先ほどの行動にも出ていたぞ」
「…………」
 あっさりとそんなことを言われて、クレイグは煙草に逃げる。
 合流ポイントであるその位置には、あとはフェイトが辿り着けば任務終了と言った流れであった。
 つまりはクレイグは今、その古参で大ベテランであるエージェントと二人きりと言う状況であり、あまり居心地が良いものだとは言いがたい。
「お前らしくもない」
「じーさんにとっちゃ、俺がどう動いたって合格レベルにはなんねぇだろ」
「そうでもないさ。お前……ナイトウォーカーとフェイトには特に期待している」
 クレイグに釣られたのか、男も懐から葉巻を取り出す。ライターではなくシガーマッチで点火するその姿は、渋いが男でも見惚れるほど格好が良い。
 言葉を交わしつつそれを見ていたクレイグは、面白くなさそうにして視線を逸らした。
「――ナイト、グランパ」
 二人の背後あたりから、聞き慣れた声が飛んできた。
 フェイトがようやく合流したのだ。
 その声を耳に留めて、クレイグと男は同時に振り向いた。
「すいません、遅くなりました」
「いや、時間ピッタリだ。お疲れ様、フェイト」
 フェイトの姿を目に留めた途端、隣の男の厳しい目尻が下がったのを見たクレイグは、密かにむっとする。
 グランパと呼ばれた老人エージェントは、以前フェイトが任務同行し頭を撫でられたと告白してきたその本人であった。
「レッド、なんか俺の時と態度違うじゃねぇの」
「……ああ、いや。フェイトは私の孫に似ているんだよ。息子が日本人の嫁をもらってな……孫の面影とついつい重なってしまうんだ」
「それは……光栄です」
 そう言いながら男がフェイトの頭を撫でる。
 フェイトは少し照れくさそうにして視線を下に逸しつつ言葉を返している。
 そう、光景としては『孫の成長を喜ぶ祖父』と言った感じなのだ。だからクレイグもフェイトの告白にはノーカウントだと答えたし、今でもそう思っている。
 ――だったはずなのだが。
「さて、これでミッションクリアだな。二人とも、ご苦労だった」
「お疲れ様です、グランパ」
 男が腕時計に視線を落として、そう言った。
 いつの間にか彼の吸っていた葉巻は仕舞われていた。煙草を厭うフェイトを気遣ってのことなのだろう。
 クレイグの表情はじわじわと色の良くないものになっていく。
 それに気がついたのはフェイトで、小首を傾げつつ片手をひらひらとしてみせる。
「……ナイト?」
 その問いかけに、クレイグは弾かれたような表情をした。
 そして今抱いている感情を細かすために口の端だけに笑みを浮かべて、首を振る。
「なんでもない。レッドもフェイトもお疲れさんだ」
「ああ、うん……」
 フェイトの肩にぽん、と手を起きながらクレイグはそう言った。彼はその手をすぐに離さずに、フェイトの体をぐい、と自分の方へと引き寄せる。
 わざとらしく大人気ない行動だと自分でも思ったが、それでも手が出てしまった。
 三人の前には、本部からの迎えのヘリが待っている。
 それに先に乗り込んだ老エージェントは、肩越しにクレイグを見やって小さく笑い「若いな」と零したが、それを後の二人が耳にすることは無かった。

 本部で任務の報告を終えた後、長い廊下をだらりと歩いていたクレイグは、はぁ、と重い溜息を吐き零した。
 今までは感情に左右されること無く任務をこなすことが出来ていた。
 だが最近は、その集中力が揺らぐことが多い。
「……何やってるんだかね、俺は……」
 がしがし、と頭を掻く。
 どうにも格好がつかないと思いながら、歩みを進める。
「クレイ、待ってよ」
 そんな彼の後ろ姿を追ってくるのは、フェイトだった。
 クレイグはすぐに足を止めて、振り返る。自分はこんなにも現金な性格だっただろうか、と思いながら。
「どうした、ユウタ。報告ならもう終わったぞ」
「うん、それは知ってる。……でさ、この後……時間空いてる?」
 フェイトのそんな言葉を受けて、クレイグは軽く瞠目した。
 まさか彼からそんな誘いを受けるとは思いにもよらなかったからだ。
 心の中の動揺を包み隠しつつ、「空いてるぜ」と彼は答えた。
 フェイトはクレイグの返事にほっとした面持ちになり、再び言葉を切り出した。
「その……良かったらディナーとか……」
「お前、こっちの量はそんなに食えないだろ? 俺の部屋来るか?」
「うん」
 フェイトが少し言いづらそうにしていたので、クレイグはそれをいとも簡単に繋げて見せた。
 アメリカでの食生活にフェイトが少し戸惑っている事をクレイグも熟知していたので、そこからの提案だったのだろう。
 その言葉を耳にしたフェイトは嬉しそうに微笑んだ。
 それがまた、最高に可愛いと思えた。
「ステーキはこんくらいか?」
「……その半分でいいよ」
「じゃあ同じくらいでマッシュポテトな」
 クレイグが両手で肉の大きさを象ってみせると、フェイトは苦笑しながら訂正してきた。もちろん、そう返してくるだろうと予測しての大袈裟な大きさだった。
 冗談のような会話を交わして、二人は立ったままでいた廊下の先を共に歩み出す。
 そして二人は本部を後にして、クレイグのアパートへと向かうのだった。

『頻発する怪奇事件。――宇宙侵略との見方も』
 そんな見出しの地方新聞を見ながら、クレイグが小さいと言っていたソファに腰を下ろしているのはフェイトだった。
 傍らのテーブルにはコーヒーが置いてあり、寛いでいるように見える。
「……こういうの、アメリカっぽいよなぁ」
 ぽつり、と独り言が漏れる。
 新聞が示す『怪奇事件』は殆どがIO2絡みの件が多かったので、それを宇宙侵略かと取り立てる記者に若干呆れているようでもあった。ヒーロー像が日本より多彩なこちらの国では、何かとこういった『世の中の不思議』を面白おかしく取り上げることも少なくは無いようで、それを見る度に渋い顔になってみたりもするが、クレイグが「三流の言うことにいちいち反応するなよ」と言ってくるので、それ以上は求めないように努めている。
「ユウタ、出来たぞー」
 台所からそんな声が聞こえた。と、同時に良い匂いがして、ついつい鼻がそちらへと釣られてしまう。広げた新聞を綺麗にたたんでから立ち上がったフェイトは二つ返事をしてから台所へと足を向けた。
「わ……すごい、美味しそう」
「ユウタのはこっちな。パンは好きなの取れよ」
「うん」
 皿の上には分厚いステーキとマッシュポテト、その隣にスープが添えられていた。中心には三種類ほどのパンが入った籠があり、レストランにでも訪れたかのような感覚になる。
 クレイグの皿にも同じものがあったが、大きさと量がフェイトの倍である。よく食べる印象があるのだが、その割には一向に体型に変化が見られないクレイグに、フェイトは若干の不満も抱いていた。
「クレイって、何か鍛えてたりする?」
「まぁエージェントである以上、体力とか落とすわけには行かねぇからな。筋トレで基礎代謝は維持してるぞ」
「そうなんだ……」
「食ってばっかりじゃ太るしな。……嫌われたくないだろ?」
 互いに向かい合って座り、食事を始めながらの会話には遠回しの響きがあった。
 さすがのフェイトもそれに気がついたようで、手にしたパンに視線を合わせていたのだがゆっくりと顔を上げた。
「誰に、って聞いても?」
「……もう聞いてるじゃねぇか。そんなの、解りきってるだろ」
 クレイグがそう答えると、フェイトは眉根を寄せた。
 それを見たクレイグは、苦笑する。
「ユウタ、お前って……ほんっと可愛いなぁ」
 クックッと肩が揺れた。
 フェイトにはその意味が解らずに、益々の不満そうな表情を作り上げている。
 嫌われたくない相手は目の前にいるのに、その本人が僅かなところで気づかずに不満そうな顔をしている。それら全てを理解しているクレイグは、参ったなと思いつつも口からは笑みが溢れてどうしようもない。
 鋭い感性は持ち合わせているものの、自身については本当に疎い。過敏でも困るが、ここまで鈍いと笑うしかなくなるようだ。
「――ところでクレイ。さっき怒ってただろ?」
 フェイトが頬を膨らませながら、話題を変えた。
 クレイグもそれを受けて、数回の瞬きをしてから表情を正す。
 それでフェイトは自分を夕食に誘ってきたのか。と、すぐに察して、フォークを皿の上に置いた。
「レッドとの事か? それならお前にだって理由は分かるはずだぜ」
「え……、そうなのか……? ……グランパには頭を撫でられて……えーと……え、だってグランパとはノーカウントだって……」
「…………」
 フェイトが今日のことを頭で整理しながら言葉を続けた。
 ぐるぐる、と記憶を回しつつ考えて、彼なりに辿り着いた答えに瞠目する。
 クレイグは敢えて答えることをしなかった。
「あれ……え、えっと……クレイ……? あの……」
「お前、そこで解らなかったらそれこそ実力行使するぞ」
 クレイグはさらっとそんな事を言いながら、再び握ったフォークにステーキの切れ端を指して乱暴に口の中に突っ込んだ。
 フェイトは黙りこんでその行動を見ていたが、頬は赤く染まりきっていて、直後に俯く。
 ――ようやく、と言った具合だが、フェイトは同僚であるクレイグの抱え込んでいる感情が誰に向いているかに気づいたようであった。
「……あ、う……」
「ほら、冷める前に食っちまえよ」
「う、うん……」
 そこで話題は普通に途切れた。
 遠くに聞こえるのは、付けっぱなしになっているテレビから聞こえる楽しそうな笑い声。
 それを耳にしながら、フェイトはまず食べることに集中しようと思った。ちらりと前髪の隙間からクレイグを見やっても、彼も黙ってスープを啜るだけだ。
「……前にも思ったけど、クレイグの料理、美味しいよね。趣味?」
「まぁ、そんなもんだな。一人暮らしが長くなると極めてみたくなるもんも増えるってわけ」
 黙ったままなのもやはりどうしても居心地が良くなかったので、今感じたものを告げてみたが、クレイグはきちんと受け答えしてくれた。
 それにほっとなりながらも、改めての彼の表情をまともに見ることが出来ない。
「なぁ、フェイト」
「!」
 クレイグの響きに、フェイトは瞳を揺らがせた。
 呼ばれ慣れたエージェントネーム。
 だがそれが、何故か悲しかった。
 『ユウタ』ではなく『フェイト』と今呼ばれる事が、空しかった。
「どうしてそんな顔をする?」
 目の前のクレイグは、フォーク片手にテーブルに肘をついて様子を伺ってくる。
 これは、わざのと行動だ、とフェイトも確信した。
 それでも、反抗することが出来ない。
「クレイ……いつもみたいに、ユウタって呼んで……」
「お前が俺のほしいものくれたらな?」
 思わず唇から漏れた言葉に、クレイグは普通に答えてくれた。条件付きではあったが。
 それを受け止めたフェイトは返答に困り、視線を落とす。
 クレイグの求めているもの。
 きっとそれは、フェイトにしか成し遂げられないものなのだろう。
 正直フェイトには、自分にそれだけの価値があるのかと考えてしまう。
 クレイグがどんな存在で、自分にとってどれだけの大きさを占めているか。それを真剣に思案していると、目の前のクレイグが笑った気配がして、フェイトはゆっくりと顔を上げた。
「あんま難しそうな顔するなよ。お前を追い詰めたいわけじゃない」
「で、でも……」
「安心しろよ。俺はお前一筋だ」
「……っ」
 クレイグはいつでも自分の気持に正直だ。
 真っ直ぐで歪みもなく、彼の言うとおりに一筋の気持ちだった。
「うん、でも、言うべきことは先に言っておくか」
「え?」
 自分の皿の上を綺麗に食してから、クレイグはそう切り出した。
 そして少し腕を置くスペースを開けて、腕を組んでからテーブルクロスの上にそれを置き、改めてフェイトを見やる。
「――好きだよ、ユウタ」
「クレイ……」
 ハッキリとした口調だった。
 受け止めたフェイトは、彼の青い瞳に自分のそれを重ねられずに僅かに視線を逸らしてしまう。
 クレイグはただ静かに笑みを湛えたままでいた。
「……別に、今すぐお前にどうこうしてほしいってわけじゃねぇよ。ただ俺は、今更お前を他のやつには渡すつもりもねぇから、そのつもりでいてくれ」
「う、うん……俺もそういう風な形では……クレイから離れていくことはないって……思ってるよ」
「期待ばっかりさせやがって、この天然め」
 クレイグの右手が伸びて、フェイトの額を軽く弾いた。
 彼を見やればニカっと笑っている。
 こうしたスキンシップは、嫌ではない。普段は今以上に距離が近いこともあるが、それも何故か嫌だとは思えなかった。
 一緒に仕事をしていく上で動きやすいし、連携も取りやすい。それは信頼を得ているからであるし、フェイトももちろんクレイグを誰よりも信頼している。
 それ以上は、どうなのか。
 フェイトは改めてそう思いながら、皿の残りのものを口の中に入れてしまおうと気持ちを切り替えてフォークを進めるのだった。

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