unexpected

「にゃっ……!?」
 フェイトは困惑していた。
 普通に声を出したつもりが今のような響きになってしまい、彼は慌てて両手で口を塞ぐ。
 ぐんと高くなった周囲の建物。高層ビル。
 いつも見上げていた位置よりも確実に高くなって見えるのは、彼自身が縮んだためだ。
「にゃ、にゃんでこのタイミングで……?」
 慌てて頭に手をやった。そこにはふわふわな手触りの『耳』がある。普通ならありえない状況だが、それは猫耳であった。
 そして恐る恐る後ろを見やれば、自分の尻の上辺りから生えているのは紛れも無く長い尻尾であり、思わず「うわぁ……」と独り言が漏れた。
「ど、どうしよう……もうすぐクレイが合流しちゃうにゃ……」
 フェイトはその場であたふたとし始めた。
 彼はつい先程IO2の任務を終えたばかりで、同僚のクレイグとの合流ポイントに向かっている最中だったのだ。
 前触れも何もない状態での『チビ猫化』――。これまでにも数回ほどこの状態になったことがあるが、原因は不明のままである。
「おーい、フェイト?」
「!」
 同僚の声が聞こえてきた。
 フェイトはビクリと全身を縦に震わせて周囲を見やる。
 すぐそばにクレイグの足音があって、彼はフェイトを探しているようであった。
「にゃ、にゃ……どうしよう……」
 頭の上にある猫耳を押さえつつ、左右ウロウロとしていたが、足元に落ちていた自身の銃に躓いてフェイトはころんと転がった。
「……うぉっ」
 そんなおかしな声を出したのはクレイグだった。
 躓いて転んだフェイトが、彼の足元にボールのように転がり込んできたのだ。
「う、にゃっ」
 クレイグの長い足をくぐり抜け、フェイトは近くの植え込みにぽすんと体を軽くぶつけてからその動きを止める。
 逆さまに映る世界。
 こてり、と自分の両足が地面につくのを感じた彼は、本物の猫のように軽やかにくるりとその場で回って自分の体勢を直した。
「ふぅ……危なかったにゃ」
 そんなことを言いながら、着ている衣服についた土埃を両手で払う。ちなみに体が縮むと同じように衣服も縮むらしく、その辺りで困った問題点は無さそうだ。
「フェイト?」
「……ッ!」
 ほっとしたのも束の間。
 改めて目の前を見やれば、そこには膝を折ってこちらを見ているクレイグの姿があった。眉根を寄せて不可解そうな表情をしている。
 まずい、とフェイトは内心で呟いた。
「あ、あの……おれは……フェイトじゃないにゃ……」
「…………」
 フェイトがぶんぶんと頭を左右に揺らしながらそう言うと、クレイグの眉根の皺が益々深いものになった。
 彼は彼なりにこの事態に、これでも動揺しているのだ。
 難しい表情のまま「うーん」と唸り、首を傾げてから彼は何かを納得したようにしてまた顔をフェイトに向けた。
「よし、帰るか!」
「にゃっ!?」
 フェイトの体がふわりと宙に浮く。
 クレイグが抱き上げたのだ。
「……ふにゃ~……」
 肩の上にちょこんと座らされて、直後にフェイトはそんな声をあげた。
 自分の知らない視界。
 背の高いクレイグから見える『世界』は、自分の普段とは大幅に違う。
 それに素直に感動した彼は、数分前まで心に抱いていた警戒心をすっかり緩めていた。
「いい眺めだろ?」
「うん!」
 クレイグの言葉に、フェイトの返事が明るい色があった。
 そして彼はクレイグの頭を抱きしめるようにして掴まり、「れっつごー、にゃ!」と言い放つ。
 猫化によって精神面での変化もあるらしく、幼い物言いが目立つようになってきた。
 それを側で確認したクレイグは、小さく苦笑しつつフェイトの言うとおりに歩き出す。
 なぜ、自分の相棒が突然この姿になってしまったのか。原因を突き止めるには時間を要しそうだと判断した彼は、そこで敢えて真実を追うのをやめた。困っている様子は見られなかったので、この状況を楽しんでもいるのだろう。
 そして小さなフェイトを肩に乗せたクレイグは、少し歩いた先でタクシーを拾い、自分のアパートへと帰るのだった。

「ちび、何食べたい?」
「ハンバーグ!」
「んー、ああ、パティか。了解。ちょっと待ってな」
「ねークレイグ、テレビ視てもいいにゃ?」
 ソファの上でごろごろしつつテレビのリモコンを見つけたフェイトはそんな事を言った。
 クレイグはすでに台所に立っていて、フェイトが所望した『ハンバーグ』を作るための作業を開始している。
 ちなみにテレビを視てもいいかという質問には「好きなの見て待ってな」と答えている。
 黒い尻尾がゆらり、と揺れた。
 今のサイズだと、クレイグが普段から小さいと言っているソファも大きく感じる。
 フェイトがうーんと全身使って伸びをしてもまだまだ余裕があった。
「おい、ちびー? お前ニンジン食えるよな?」
「にゃー、甘いのが好きにゃ!」
 クレイグがフェイトを『ちび』と呼ぶのは、フェイトが自分を「フェイトじゃないにゃ!」と繰り返すので彼はそれ以上を追求せずに呼び方を変えたらしい。
 うつ伏せになりながらテレビのリモコンをポチポチと弄っているフェイトに対し、クレイグはエプロン姿でリビングを覗いてそう言った。リラックスしているように見受けられる『黒猫』を見て、彼は安心しながら元の場所に戻る。
「……普段のあいつも、あれくらい素直で自然でいてくれりゃぁなぁ……。そういう場所を、俺が作ってやるしかねぇか……」
 ぽつり、と唇から漏れる言葉。
 フェイトに出来る事。彼に自分が、自分だけがしてあげられること。
 クレイグは密かにそれを探っている。
 彼の中ではいつでもフェイトが優先順位の上位を占めているからだ。
 自分が守りたいと思ったからこそ、それなりの覚悟と気持ちの大きさがある。
 手際よく夕飯の準備をしながら、彼は口元のみで小さく笑って心の中の決意を改めていた。

 揃って夕食を採った後、フェイトはすっかりクレイグに気を許すようになり彼の膝の上でごろごろとしていた。
 クレイグは片手でフェイトの頭を撫でてやりながら、新聞を眺めている。夕方にポストに入るタブロイド紙だ。
「にゃー」
「ん、どうした、ちび?」
「クレイグ、煙草、吸わないのにゃ?」
「お前がいるからな」
 テーブルの上に置いてある灰皿と煙草の箱が気になったのか、フェイトがそんな質問をした。
 クレイグは食後の一服を欠かさずにいるので、不思議だったのだろう。だが彼は、フェイトの前では殆どそれを吸ったことはない。一緒にいる時であればベランダに出て吸う姿が記憶の端にあった。
「クレイグは優しいにゃね~」
「お前が嫌がることはなるべくしたくねぇからな」
 クレイグはそう答えると、フェイトは嬉しそうに「えへへー」と笑った。
 彼の優しさと気遣いがその笑顔を導いたのだろう。
 そんなフェイトの笑みを見たクレイグも自然と表情がほころんでいる。
「おれはねー、クレイグがすきだにゃー」
「ありがとな。俺もお前が好きだよ」
 何気なく買わされる言葉。
 フェイトにとってはその好きは友好の延長上みたいなものだったが、クレイグのそれは違うところにある。
 今は特に言うべきでもないので、彼はそれ以上は言わずにいる。
 そんなクレイグの顔を、フェイトはころりと仰向けに体を動かしながら見上げた。よくよく観察しているようにも見える。
「なんだ、ちび」
「うにゃー。クレイグはいけめんにゃね~」
「ん?」
「えっとねー、日本ではカッコいい人をそう言うんにゃよ」
 フェイトはクレイグの手にしていた新聞を取り上げつつそう言った。
 そしてそれを両腕で広げて少し文字を読んだ後、つまらなそうにポイと投げる。
「こら、ちび」
「だって、クレイグはおれとお話してるにゃよー。だから余所見しちゃダメなのにゃー」
「あー……そうだな」
 フェイトの言葉を受け止めて、クレイグはくしゃりと彼の頭を撫でた。指先に触れた猫耳にそのまま指を這わせて軽く揉んでやったりもする。
「『いけめん』はちびの言うこと聞かねぇとな」
「そうにゃよー」
 くすぐったそうにしながらも、クレイグの言葉に得意げになるフェイト。
 可愛い仕草に思わずの笑みを見せつつ、クレイグはフェイトを軽々と抱き上げて目線を合わせてから額にキスをする。
「にゃっ?」
 フェイトは全身を震わせてそんな言葉を漏らした。尻尾もピンと伸びて、緊張しているかのようだった。
「……お前ほんとに可愛いなぁ」
「男にかわいいとか言っちゃダメなのにゃ」
「しょうがねぇだろ? ほんとの事なんだからさ」
「うー……」
 かわいいという響きに難色を見せるも、クレイグには何の効果もなくさらにちょん、と鼻の頭が触れ合った。
 フェイトの心が僅かに跳ねる。
 何故かは解らなかったが、頬が上気していくのを感じてフェイトは慌てて両手を伸ばした。
 そしてクレイグの両頬にそれをおいて、ぐいぐいと距離を測る。
「にゃー!」
「はいはい、わかったよユウタ。そろそろシャワー浴びるか」
「うにゃ……水はきらいにゃ……」
 小さな手で一生懸命自分との距離を取ろうとするフェイトの姿を暫く眺めているのも良いと思ったが、嫌がる彼を無視するのは意に反する。抱き上げたままだった彼を膝におろしてそう言えば、フェイトはシャワーを嫌がるような言葉を発した。
 どさくさに紛れてフェイトの本名を読んだクレイグだったが、フェイト自身はそれに気づかなかったのか両手で猫耳を隠すようにして身を丸めているので、それ以上の反応は諦める。
 本物の猫は水を嫌う傾向にあるが、フェイトも似たようなものなのだろうか。
「……なら、一緒に入るか?」
「うん……」
 新しい質問には、素直に。
 と言うよりは、嫌悪感のあるモノから少しでも逃れたいと思う気持ちが先に出たという所だろうか。
 それでもクレイグは満足そうに笑って、再びフェイトを抱き上げて「じゃあ行くか」と彼をシャワー室へ連れ込んだ。

 アメリカのシャワー室はトイレと一体型が普通である。
 クレイグのアパートでもそれは同様で、バスタブの中で体を洗うシャワーのみだった。
「狭くてごめんな。だけど、ちびだけだとシャワー届かねぇだろ?」
「クレイグは毎日シャワーなのにゃ? 湯船に浸かったりしないのにゃ?」
「んー、こっちじゃそういう習慣は殆ど無いからなぁ」
 そんな会話をしながら、クレイグはてきぱきとフェイトの服を脱がせて彼のバスタブの中に入れた。そこには沢山の泡があり、フェイトは素直にそれに興味を持った。
「にゃ~! あわあわだにゃ!!」
 テレビなどで見かける泡だらけのバスタブ。
 それが今目の前で展開していることに、フェイトは驚きと喜びがいっぺんに訪れているようであった。
 アメリカにはバスタブにお湯を溜めるという習慣は殆どないが、子供の体を洗う際には気を引くためにおもちゃも入れたりこうした泡がメインの入浴剤を使ったりする事がある。クレイグがなぜこのようなものを常備していたかは分からないが、取り敢えず「水が嫌だ」とギリギリまで怖がっていたフェイトの気持ちを反らせることには成功したようだ。
「ほらちび、髪洗ってやるからここ座れ」
「はーいにゃー」
 膝を曲げた状態でようやくバスタブの中に入れると言った狭さの中で、クレイグはフェイトを自分の膝の上に座らせた。
 フェイトが泡に気を取られている間にシャンプー剤を手の中に取ってわしゃわしゃと洗い出す。
「……うにゃ~……クレイグは手がおっきいにゃ~」
「そりゃ今のお前が小さいからだろ?」
 見る間に自分の周りまでが泡になっていく中で、フェイトは目を瞑りながらそんなことを言い出した。
 クレイグが洗うことに専念しながらそう答えれば、フェイトはゆるく首を振る。
「そうじゃないにゃ……クレイグは……クレイは……おっきな手でいつもおれを守ってくれて……それが、嬉しいんだにゃ……。でも、してもらってばっかりで、おれは何もお返し出来にゃいのにゃ……」
「…………」
 ぽつぽつと話を繋げるフェイトに、クレイグは瞠目した。そして直後に苦笑する。
「お前がそう思ってるだけで、俺はお前から色んな物貰ってるぜ?」
「ふにゃ……?」
「今だって、裸のお付き合いだろ? お前が小さいのがまぁ残念と言えば残念だが、これもこれで悪くない」
 言葉の並びだけでは物凄い事を言われているのだが、今のフェイトにそれが通じているのだろうか。
 彼は目を閉じたまままで首を傾げている。
「ほら、流すぞ」
「にゃにゃ……待ってにゃ……今度はおれがクレイの髪の毛洗ってあげるにゃ」
「目ぇ瞑ったままじゃ出来ねぇだろ。俺は自分で出来るから……って、おいユウタ」
「くらえ~泡攻撃にゃ~!!」
 うっすら目を開けたところで泡が目元にないことがわかったフェイトは、両手にいっぱいの泡を抱えて目の前のクレイグに飛びかかった。
 あまりの展開にクレイグは驚いたままで「うわ」と声を上げた後、フェイトの泡攻撃にされるがままの状態になった。
 スイッチの入った子供のフルパワーな遊びには、さすがのクレイグもお手上げのようだ。
 そして二人は、狭いバスタブの中でしばらく童心に帰ったようにしてたくさんの泡で遊ぶのだった。

 ひとしきりクレイグとじゃれあったフェイトは、ベッドに入る頃にはすっかり体力も尽きてうとうととしていた。
「おいちび、そんなとこで寝るなよ。ちゃんと真ん中行け」
「うにゃ……」
 ベッドへよじ登った後、端でうつらうつらとしているフェイトをクレイグが後ろから抱き上げて、中心へとその体を持っていく。
「ほら、寝るぞー」
「うん……」
 クレイグが先に横になり、フェイトを促してやった。
 すると彼はそのままぽてりと体を傾けさせて、クレイグの体の上で眠ってしまう。動作が猫と同様なのは、やはりどうしようもないのだろうかと思いつつ、彼は器用に上掛けを手繰り寄せてそれを被った。
「にゃ……」
 もぞり、とクレイグの胸の上で丸くなっているフェイトが身じろぐ。体のラインにそって尻尾も沿っているので、それに指をやればパタリと本物の猫のような反応を返してくる。その可愛らしい仕草に目を細めていると、クレイグも疲れたのかじわじわと訪れた睡魔に抗うこと無く瞳を閉じた。
 その手にきちんと小さな黒猫を抱きながら。

 次の日。
 いつもより早い時間帯に目が覚めたフェイトは、いつの間にか自分の体が元に戻っていることに気がついて静かにその場で瞠目した。頬に感じるのは人の体温。
 要するには、クレイグの体を下敷きにして眠っていたのだ。
「……、……」
 思わず声が出そうになり、フェイトは口元を手で多いながら静かに彼の側を離れた。そしてズルズルと後ろ向きに体をずらして、彼のベッドから降りる。
 意識がはっきりしていくのと同時に昨日の記憶が綺麗に蘇る。
 猫化して過ごしたクレイグとの時間は、色々な意味で濃いものだった。顔から火が出るほどに恥ずかしい。
 寝巻き用にとクレイグが着せてくれていた彼のシャツを静かに抜いて、そそくさとソファの上の自分の服に着替える。
 変化した場所に銃を置いてきてしまったと思い込んでいたが、服の側にそれが置いてあるのを見て、フェイトはクレイグを振り返った。
 おそらく彼は、最初から猫化したフェイトの事をきちんと解っていたのだろう。
 改めて自然な彼の気遣いに感謝しつつ、羞恥のために彼を長く見ることが出来ずに視線を落とした。
 そしてテーブルの隅に置かれているブロック型のメモ帳も一枚取り、言葉なくメッセージを書き込んだ。

『ありがとう』

 たった一言。それだけの言葉。
 そしてそのメッセージの横には肉球のマークを小さく描いて、ペンを置く。
 クレイグはまだ目を覚まさない。
 だから今のうちに、彼の部屋を出てしまおうと心に決めてフェイトは静かにクレイグの部屋を出た。
 扉を閉める音も出来るだけ最小限に。それだけを心がけてアパートを後にする。
 そしてフェイトは自分の部屋に戻るために足早に早朝の路地を掛けていき、その影を消した。

「……紙じゃなくて、直接言ってくれりゃいいのになぁ」
 フェイトの書き置きを手にしながらそう言うのはクレイグだった。
 彼はフェイトが目を覚ます数十分前にはすでに起きていて、彼の様子を静かに伺っていたらしい。
 ふぅ、と漏らすため息。口元には苦笑が混じってはいたが、気分を損ねているような色合いではなく、むしろスッキリしているかのような空気もある。
 そして彼は、右手に収めたメモ帳を口元に持って行き筆跡に軽いキスをしてから大きく伸びをするのだった。

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夢見るチンチラ、英国へ

「そうか……君は、人間になりたいのか」
 ぼくの頭を指先で撫でながら、その人は言った。
「なる手段が仮にあるにしても……やめておいた方がいい。人間は、君たちと比べて自由じゃあない。それゆえに汚れてゆく。人間はね、汚らしいんだ。だから、私は……」
 そこから先を、その人は言ってくれない。
 悲しそうな目をしたまま、指先で、ぼくの頭や頬っぺや顎の下を撫で回すだけだった。
 ぼくがくすぐったそうにしても、やめてくれなかった。

「や……こ、これは若社長」
 貨物船の船長が、いささか驚いている。
「私どもの仕事を、もしや抜き打ちでお調べに? まあ構いませんが、荒っぽい奴が多いから気をつけて下さいよ。何せ船乗りですから」
「船乗りは荒っぽい、というのも偏見でしょうけどね」
 ダグラス・タッカーは微笑んだ。
 若社長と呼ばれてはいるが、まだ正式に総社長の地位を受け継いだわけではない。タッカー商会を実質的に動かしているのは父であり、その状況は、ダグが正式に地位を受け継いだ後も続くであろう。
 いや。この先、何事もなく正式に社長の座を受け継ぐ事が出来る、などと思うべきではない。タッカー商会内部にさえ、敵対者は多いのだ。
 そういった者たちが、商会の貨物船で違法な荷を運び、私腹を肥やす。
 このところ、立て続けに発覚している事件である。
 1週間ほど前も、ここポーツマスの港に出入りしていたタッカー商会の船から、大量の麻薬が発見されたのだ。
「この船も、調べさせてもらいますよ。貴方がた現場の人たちを、差別なく等しく疑うのが、私たちの仕事ですからね」
「まあ御自由に。何もないとは思いますが……隠れてクスリ持ち込む奴が、いないとも限りませんからね。そういう奴を、むしろ見つけ出して欲しいくらいですよ」
「持ち込みが禁じられているのは、麻薬の類だけではありませんが……」
 ダグが言いかけた、その時。
 港湾施設の一角で、ちょっとした騒ぎが起こっていた。
「ぼくはネズミじゃない! ネズミじゃない! なんどいったらわかるのか!」
 ネズミにしか見えない白い生き物が、そんな言葉を発している。
 貨物船から下りて来た1人の若い船員が、喚き立てるネズミを片手でつまみ捕えたまま、困惑していた。
 そこへ、船長が声をかける。
「おい、何かあったのか……何だ、そりゃ?」
「いやあ、船の中にネズミがいたんで捕まえたんですがね」
 船員が言った。
 その手で首根っこをつまみ上げられたまま、白いネズミがじたばたと暴れている。人間の言葉で、叫びながらだ。
「だからネズミじゃないといっている! ぼくはダイフク! ダイフク! みてわからないのか!」
「ほう、大福ですか。あれは私も大好きです」
 ダグは言った。
「日本のお茶には、よく合いますよね。ですが紅茶との組み合わせは……果たして、どうでしょう。貴方で試してみましょうか」
「あわない! りょくちゃともこうちゃともてっかんのんちゃとも、ぜんっっぜんあわないから!」
「冗談ですよ。しかしまあ、貴方自身が冗談のような存在ですからね」
「……若社長、普通に会話をしないで下さいよ」
 船長が、わけのわからない夢でも見ているような顔をしている。白ネズミを捕えている、船員もだ。
「船長にも、聞こえますよね……このネズミ、喋ってますよね」
「俺もお前も、疲れてるのかな……そんな大した船旅じゃなかったはずだが」
 IO2エージェントなどという仕事をしていれば、言葉を話すネズミなど問題にならないほどの怪異を、日頃いくらでも目の当たりにする事となる。
 IO2とは縁もゆかりもない船長や船員にとっては、おかしな夢にも近い事態なのだろう。
「どうしましょう、船長……うちの猫の餌にでもしようかと思ったんですが」
「ネコ? ふふん、キミはネコなんかかってるのかね」
 つまみ上げられたまま、白ネズミが偉そうな言葉を発している。
「ずるがしこくてはらぐろくて、ほんとはすごくキョーボーで、だけどキミらニンゲンにこびをうるのはたいそううまいアイツらに、もののみごとにころがされちゃってるとみえるね。なげかわしいなげかわしい、あさはかだなあ」
「てめえ! 猫ちゃんの悪口を言いやがるか!」
「まあまあ」
 激昂する船員を宥めながら、ダグは長身を屈め、少しだけ眼鏡の位置を調整し、まじまじと白ネズミを観察した。
 ネズミと言うより、ハムスターの類か。
 以前、日本で見かけた、チンチラという種にも似ている。
 虫以外の生物に関しては詳しくないダグにも、人語を話す齧歯類など存在しない事くらいはわかる。
「……彼の身柄は、とりあえず私が預かりましょう。タッカー家の客人として」
 IO2の領分かも知れない、とダグは判断した。

 ポーツマスは、タッカー商会にとっても重要な港湾都市である。
 支部が設立されており、そこは今やほとんどダグの仕事用別荘と化していた。
 御曹司ダグラス・タッカーが時折、寝泊まりするだけではない。要人を宿泊させる事もある。
 いつ誰が来ても泊められる状態を保っておくのは、メイドたちの仕事である。
 そのメイドたちの中に、チンチラの飼育経験者がいたのは幸いだった。
「うーん、いいきもち。ひさしぶりに、すなあびをしたよ」
 本当にチンチラなのかどうかはわからない、大福と名乗った小さな生き物が、そんな事を言いながら、もりもりとスコーンをかじっている。
 アフタヌーンティーの時間であった。
 テーブル上に直立し、小さな前足で大きなスコーンを抱えながら、大福は偉そうな言葉を発している。
「まったく。チンチラにみずあびをさせようなんて、ものをしらないやからのすることさ。つぎからは、きをつけてくれたまえよ」
「大変、失礼をいたしました。お客様」
 乾杯の形にティーカップを掲げながら、ダグは微笑んだ。
 チンチラは、水に濡れると体調を悪くしてしまう生き物らしい。
 だから身体を清潔に保つために、水浴びではなく砂浴びをする。それも公園などの砂では駄目で、チンチラを飼うならば、専用の砂を購入する必要があるという。
 いきなり大福を水洗いしようとしたダグに、メイドの1人がそれを教えてくれた。
 幼い頃からチンチラを飼っていたという英国人少女で、今はテーブルの傍らに控えている。
 彼女に給仕をさせ、幸せそうにスコーンをかじりながら、大福は言った。
「それにしてもニンゲンはいいなあ。こんな、おいしいものをたべられるなんて」
 本当に幸せそうにスコーンを齧りながら、大福がにっこりと笑う。
「ぼくも、はやくニンゲンになりたい」
「……いけませんよ、成り急いでは」
 ダグも、微笑んで見せた。
「人間にも、出来損ないは大勢います。私のようにね」
「そんなことはない、キミはりっぱなニンゲンさ。ぼくにこんな、おいしいものをたべさせてくれるんだから。ほめてあげよう、えらいえらい」
「……どうも」
 ダグは咳払いをした。
 はぐらかしの上手い、手強い交渉相手と相席しているような気分だった。
「……1つ、お訊きしたいのですが。貴方のような水に弱い方が何故、船旅などを?」
「おてんきが、ぽかぽかだったからさ」
 蜂蜜がたっぷりかかったスコーンをがつがつと堪能しながら、大福は答えた。
「おふねにゆられて、おひるねをしていたのさ」
「なるほど。お昼寝の間に船が出港して、見知らぬ場所に着いてしまったと」
 会話をしながらダグは、自分は一体何をしているのか、と思った。
 テーブル上の齧歯類を相手に、ティータイムである。商会内部の敵対者たちが見たら、御曹司は気が狂ったなどと言って攻撃材料にするであろう。
 まるで人間のように、言葉で会話が出来てしまう相手なのだから仕方がない。ダグは、そう思う。
(虫たちが相手なら……会話をするのに、言葉は必要ないのですが)
「そうゆうわけでキミ、さっそくボクが日本へかえれるよう、てはいしてくれたまえ。このスコーンとハチミツとジャムをおみやげに、あっなにをする」
 傍らに控えていたメイドが、大福を片手でつまみ上げた。
「あんたね……ダグラス様にあんまり無礼な口きいてると、うちの猫の餌にしちゃうわよ? 飼い始めたばっかりの仔猫だけど、狩りを覚えさせるのも悪くないかしらね」
「こらこら、お客様を振り回してはいけませんよ」
 このチンチラが、いずれタッカー商会で買い物をしてくれるようになるかどうかはともかく、招いたのはダグの方である。賓客として扱うべきであった。
 じたばた暴れる大福の首根っこをつまんだまま、メイドが言った。
「ダグラス様、僭越ながら申し上げておきますけどチンチラは甘やかしちゃいけませんよ。こいつらマジで調子に乗りますから。犬なんかと違って忠誠心のかけらもないし」
「イヌとネコ、どいつもこいつもイヌとネコ」
 ぷらーんと揺すられながら、大福が喚く。
「みんな、もっとチンチラをかうべきなのだ! イヌとちがってほえないし、ネコとちがって、ことりをくいころしたりもしないし」
「うちで飼ってたチンチラは確かに、あんたよりは全然可愛かったわよ。15年くらい生きて、こないだ死んじゃったけど」
「そ、それですぐにネコをかいはじめるなんて、ひどいじゃないか」
「しょうがないでしょ! うちの兄貴が、拾って来ちゃったんだから」
 その兄というのは、もしかしたら、あの若い船員かも知れない。
 が、そんな事はどうでも良くなった。
「失礼……」
 一言、断ってから、ダグはスマートフォンを手に取った。
 IO2からの、着信である。
 任務のメールに、画像が添付されていた。
 ダグが今から捕縛しなければならない相手の、顔写真である。
「ほう……この男が、イギリス国内に」
 数日前、欧州某国で大規模な爆破事件が起こった。
 爆弾ではなく、黒魔術の類を用いて爆発を引き起こす能力者であるらしい。IO2の管轄である。
 その爆破能力者が、逃走の挙げ句、イギリスに密入国したという。
「ほうほう。これが『すまーとほん』というものか」
 大福が、メイドの手からぴょこんと逃げ、ダグの肩に飛び乗って来た。
 そして、まじまじと画像を覗き込む。
「あれ……このひと」
「……ご存じ、なのですか」
 ダグは指先で、大福の頬の辺りを撫でた。
「貴方を日本へお帰ししましょう。タッカー商会が世界に誇る最高品質の茶菓子をお土産に、ね……その前に、済ませておかなければならない事があります。御協力、いただけますか?」

 大福が乗っていた貨物船に、その男は潜んでいた。
 夜になるのを、待っていたようである。
「ま、まさか……こんな密航者に、気付かないなんて」
 船長が、衝撃を受けている。
「若社長、私は船乗りとして失格です……辞表を、書くべきでしょうか」
「おやめなさい。偉そうに抜き打ちで調べに来ておきながら気付かなかったのは、私も同様です」
 言いつつダグは、軽く片手を掲げた。
 形良い五指から伸びた特殊繊維が、1人の男の全身を絡め取り、縛り上げ、拘束している。
 爆発の魔力を、この男はすでに使い果たしていた。だからこうして、容易く捕える事が出来たのだ。
「これで私は……つつがなく死刑に処してもらえると、そういうわけかな」
 蜘蛛に捕えられた虫のような様を晒しながら、男が弱々しく笑う。
 ダグは、冷たく答えた。
「私の任務は捕縛まで。刑罰に関しては……どうでしょうね。まあ普通に裁判を受けさせてもらえるなどとは、お考えになりませんように」
「どうして……」
 大福が、ダグの肩の上で呆然と呟く。
 この男と一緒に大福は、密航の一時を過ごしていたようだ。
「ボクにいろいろやさしくしてくれた、このひとが……ばくはつで、たくさんのひとをころすなんて……」
「動物は殺せなくとも、人は殺せる。そういう方々もいらっしゃるという事ですよ」
 ダグとしては、そう応えるしかない。
 捕えられた男が、じっと大福を見つめ、言った。
「人は、人を殺せる……動物も殺せる……だから、やめておきなさい。人間になる、なんて……」

カテゴリー: 02フェイト, その他(コラボ・小湊WR), ダグラス・タッカ―, 小湊拓也WR(フェイト編) |

再会・紅茶の国で

戦場で飲んだコーヒーの味が、忘れられなかった。
 いつか喫茶店を開きたい、と思った最初のきっかけが、それである。
 同じ部隊に配属されたアメリカ人の傭兵が、野営地でコーヒーを振る舞ってくれたのだ。
 お前ら紳士気取りのヨーロッパ野郎は、紅茶ばっかり飲んでアメリカン・コーヒーを馬鹿にしてやがるだろう。そんな事を、言いながら。
 飲まされたのは、今思えば粗悪なインスタントコーヒーである。
 あの味が、しかしヴィルヘルム・ハスロは忘れられなかった。
 だが喫茶店を開くとなれば、コーヒーだけでは片手落ちというものである。紅茶にも、こだわらなければならない。
 だからヴィルヘルム・ハスロは今、ダージリン地方を訪れていた。
 この辺りで紅茶を買い付けるとなれば、まず話を通さなければならないのはタッカー商会である。
 総社長の子息とは5年ほど前、僅かな縁を持つ事が出来た。
「あの御曹司も……私の事など、覚えてはいないだろうが」
 人脈となり得るような、深い繋がりはない。喫茶店の商売に役立てる事は、出来ないだろう。
 タッカー商会との関係は、1から地道に作り上げてゆかなければならない。
 商会の重要人物に、何かしら恩を売る事が出来れば、最も都合が良い。
 今回の事件は、だから好機とも言える。
「武装グループ……ですか」
 ヴィルは、眉をひそめた。いつ、どこで聞いても、嫌な単語である。
 武装グループ。はっきり言って、吸血鬼の類よりも悪質な相手だ。
「商会の幹部の方が、拉致されてしまったと?」
「身代金の要求が、来ているのです」
 タッカー商会・ダージリン支部の責任者が、青ざめている。
 武装グループに拉致されたという商会幹部の身に万一の事があれば、彼の責任問題となるのであろう。
「用意出来ない金額では、ないのですが」
「払うべきではない、と私は思いますよ」
 商会の関係者でもない自分が余計な事を言っている、とヴィルは頭では理解していた。
「武装グループという者たちの性質は万国共通。1度、身代金を払っただけで人質を解放してくれる事など、まずありません。5度6度と金を吸い取られた挙げ句、返って来るのは人質の死体……このままでは十中八九、そうなるでしょう」
 傭兵を廃業し、喫茶店を始めるつもりでいる。
 だが気が付けば、傭兵として物を言っている自分がいる。ヴィルは、苦笑するしかなかった。
「お、おねげぇいたします。あの若様を、助けてくだせえ……」
 現地人らしき1人の男が、泣きそうな声で哀願をしている。
 ヴィルが支部責任者と商談を始めようというところへ、この男が飛び込んで来たのだ。
「わしらに、いろいろと良くしてくれてる若様なんでさぁ」
「若様……」
 まさか、あの御曹司ではあるまい。ヴィルは、そう思った。
 誰であるにせよ、タッカー商会の幹部が産地視察の最中、武装グループに拉致されてしまった。
 それならば、ヴィルの為すべき事は1つしかない。
「お借りしますよ」
 立てかけてあった警護用の小銃を、ヴィルは手に取った。
 傭兵の仕事は、辞めるつもりでいる。が、戦う事まで止めるわけではない。

 武装グループの男たちが、明らかに怯え始めていた。
「そんなふうに、化け物を見るような目をされては心外ですね。傷付いてしまいますよ」
 穏やかに、ダグラス・タッカーは言葉をかけた。
 商会が懇意にしている村の、広場である。
 村人たちが一ヵ所に集められ、武装グループに囲まれて小銃を突き付けられている。
 こんな状況ではダグも、無抵抗で拉致されるしかなかった。
 抵抗をやめたダグに、武装グループの男たちはまず注射器を突き刺した。眠らせる、つもりであったのだろう。
 一向に眠くなどならずにダグは今、地面に座らされたまま、紅茶を啜っている。
 武装グループが、ダグの所望に応じて振る舞ってくれたのだ。
 何やら、いろいろと入っている。普通の人間がこれを飲めば、たちどころに眠りについて2、3日は目覚めないであろう。
「お、おい。眠いんじゃねえのか? 無理しねえで、寝ちまえよ」
 武装グループの男たちが、ダグに小銃を向けながら、そんな事を言っている。
「おめえが寝てる間に、身代金の交渉とか済ませてやるからよ……」
「へ、へへへ。おめえが無事に起きられるかどうかは、商会の連中の金払い次第だぜ」
「おら、とっとと寝ろよ。眠っちまえよ!」
 やはり、怯えている。
 ダグは、苦笑するしかなかった。
「お茶を飲んで、眠れるはずがないでしょう。一体何を入れたのか、よくは知りませんが……貴方たちが使うような毒物・薬物で、私の身体に影響を及ぼす事は出来ませんよ」
 眼鏡越しに視線を投げかけ、端正な口元をニコリと歪めてみせる。
「ブラックウィドーやイエローファットテールの毒に比べたら……こんなものは、ね」
 インド・ネパール国境付近で活動をしているグループである。
 タッカー商会の名前くらいは知っていたようだが、そこの御曹司がどういう人間であるのかは知らなかったようだ。
「だから、やめとけって言ったのに……」
 捕まっている村人たちが、口々に言った。
「その若様はな、お前さん方でどうこう出来るような御仁じゃないよ」
「イギリスから、お金持ちのボンボンが来る……くらいにしか、思ってなかったんだろうが」
「もうバカな事はやめて、俺たちと一緒にタッカー商会の下で働こう」
「だ、黙れ! 黙りやがれ裏切り者ども!」
 男の1人が、今にも小銃をぶっ放してしまいそうな剣幕で叫んだ。
「くそったれなタッカー商会のせいで、俺たちは仕事を無くしちまったんだぞ!」
「お仕事なら、いくらでも差し上げますよ。良い茶葉を作って売る、そのためには人手が必要です」
 ダグは一口、毒入りの紅茶を啜った。
「お忘れなきように……貴方がたに作っていただきたいのは、上質のダージリン紅茶です」
 そうではないものを、この村人たちはダージリン地方で密かに栽培していた。
 それが紅茶の販路に紛れ込んで流通している。武装グループの、資金源となっている。
 だから潰した。
 やり方は簡単だった。この地方の人々が真っ当に働いて生産している茶葉を、正当な値で買い取る。違法なものの栽培などという副業に手を出さずとも、生活してゆける環境を整える。
 その環境に適応出来ない者たちが、こうして無法な行いに走ってしまう。ダグにとっては、まあ想定内だ。
「紅茶なんか売ったって、大して儲けにならねえだろうが! 俺にはな、女房もいりゃあガキどももいる。金が必要なんだよ、ガキどもにまともな暮らしをさせてやれる金が!」
「御家族の事を思うなら尚更です。麻薬の栽培など、おやめなさい」
 ダグは言った。
「麻薬の利害は、大勢の人をたやすく殺してしまいますよ」
「利いた風な事を!」
 男がダグに小銃を向けた、その時。
 闘争の気配が、漂ってきた。銃声も聞こえた。
「な、何だ! 敵か!」
「馬鹿な、軍が動いてるなんて情報はねえ」
 武装グループの男たちが、慌てふためいている。
 誰か来たようだが軍ではないだろう、とダグは思った。銃声から判断するに、恐らくは1人か2人だ。
「まさか……ね」
 ダグは苦笑した。一瞬、とてつもなく愚かな事を期待してしまったのだ。
 聞こえて来る銃声は、馴染みある2丁拳銃ではなく小銃のものだ。彼が助けに来てくれた、わけではない。
「……自力で何とかするしかない、という事ですね」

 巧遅よりも拙速を尊ぶべき場合というものが、戦場には確かにある。
 機会を見出したなら、勢いに任せて攻撃に出る。時間をかけてあれこれと準備を整えるよりも案外、その方が上手くいったりする事が多い。
 だからヴィルは、武装グループに占拠された村へと単身、乗り込んで行った。
 こちらが身代金を携えていないと見るや、武装グループの男たちは、村のあちこちから容赦なく銃撃を浴びせて来た。
 いや。浴びせられる前に、ヴィルは小銃の引き金を引いていた。銃口が、様々な方向へと小刻みに揺れながら火を噴いた。
 民家の屋根の上で、塀の陰で、こちらに小銃を向けようとしていた男たちが次々と倒れてゆく。
 全員、腕または脚を撃ち抜かれていた。
 この程度の敵であれば、無力化するのに命まで奪う必要はない。人間、四肢のどれかが動かなくなれば、大抵は戦闘不能となる。
「人殺しが出来なくなっている……のかな、私は」
 ヴィルは苦笑した。
 傭兵を辞める、などという心境に至るまで自分が生きていられるとは、思ってもいなかったのだ。
 喫茶店を開きたいなどと、傭兵になりたての頃の自分が聞いたら、激しく嘲笑うだろう。
 コーヒーの味を教えてくれたアメリカ人傭兵は、中東某所で戦死した。武装勢力に殺されたのだ。
 仇を討つ機会はあった。その武装勢力が拠点としている村に、攻撃を仕掛ける機会はあったのだ。
 だが、出来なかった。
 村で、子供たちが無邪気に走り回っていたからだ。
 アメリカ人傭兵を撃ち殺した男が、その子供の1人を抱き上げていたからだ。抱き上げられた子供が、楽しそうに笑っていたからだ。
 親子かどうかは、わからなかった。
 自分にも子供がいる。ヴィルが思ったのは、それだけだ。
「私は、甘くなった……ただ、それだけだ」
 このまま傭兵稼業を続けていても、仲間の足を引っ張るだけだ。
 人を殺せなくなった傭兵など、喫茶店でも開いて、戦場のコーヒーを懐かしんでいるのがお似合いである。
 そんな事を思いながら、ヴィルは足を止めた。
 村の、広場である。
 武装グループの男たちが1人残らず、倒れていた。まるで芋虫のように弱々しく、のたうち回っている。
 全員、縛り上げられていた。ロープや鎖ではなく、糸のようなもので。
 細い、強靭な繊維。まるで蜘蛛の糸だ、とヴィルは思った。巨大な蜘蛛が、武装グループを1人残らず糸で包んでしまった。そんな光景である。
 その蜘蛛は、どこにいるのか。
「おや……誰かと思えば」
 声をかけられた。
 恐らく人質にされていたのであろう村人たちが、縛り上げられた男たちを、てきぱきと運び出して行く。
 それを指図していた1人の若者が、声をかけてきたのだ。
「知っている人が、私を助けに来てくれたような気がしていましたよ。貴方の方でしたか、ヴィルヘルム・ハスロ氏」
「御曹司……私を、覚えているのか?」
「私は言いましたよ。貴方にはいずれ、力を貸していただくと」
 御曹司が、にこりと笑った。
 ダグラス・タッカー。眼鏡の内側に絶大な憎しみを閉じ込め渦巻かせていた、あの少年とは、一見すると別人のようである。こんな笑い方が出来る少年ではなかった。
 何かを乗り越えたのだ、と感じながら、ヴィルは言った。
「傭兵は、辞めるつもりでいる。これからの私は、しがない喫茶店のマスターだ。御曹司に、何か力を貸せるとは思えないが」
「つまり戦闘の類ではなく、商売の方で力を貸していただけるという事でしょう?」
 秀麗で人懐っこく、だが油断のならない笑み。
 まさに、商売人の笑顔だった。
「茶葉の仕入れに来られたのですね。万事このタッカー商会にお任せを……極上のダージリンティーを、貴方のお店で売っていただきますよ」

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蝶とスズメバチ

それほど繁盛している喫茶店ではない。空いている席は、いくらでもある。
 なのに、その客は、断りもなくダグの向かい側に腰を下ろした。
 タブレット端末を撫でていた指を止め、ダグラス・タッカーは顔を上げた。
 テーブルの向こう側にいるのは、この国のどこででも見かけるような英国紳士である。ありふれた身なりをした、目立たぬ男である。
 そんな相手に対しダグは、眼鏡の奥で、思わず目を見開いた。
「父上……」
「顔を出せ、とは言わん。だが帰って来たのなら、連絡くらいは入れるものだ」
 タッカー商会総社長が、にやりと笑った。
「お忍び、というわけでもあるまい?」
「こっそり帰って来た、つもりなのですがね」
 ダグは、溜め息混じりに苦笑した。
「まさか……私の動きを逐一、チェックしているわけではないでしょうね?」
「そろそろ帰って来るだろう、と思っただけだ。インドで、いくらか大きな動きがあったようなのでな」
「勝手な事をしたペナルティは、お受けしますよ。解任するなり勘当するなり、ご自由に」
 地方支社の平社員にでも降格してくれれば楽でいい、とダグは思っている。
「前にも言ったが私は、しばらくはお前の好きなようにやらせるつもりでいる。今回の件にしても……お前には、よくやったと言っておきたい」
「……私は、個人的な復讐を果たしただけですよ。私怨を晴らすために、商会のお金を使い込んだのです。総社長として、許しておける事なのですか?」
「結果として、インドでの事業がやりやすくなった。あの一族が、この世から消えてくれたおかげでな」
 この父にとっては、妻の実家であり、仇でもあった一族。
 状況が許せば、自身の手で復讐を……という思いが、少しでもあったのかどうか。
(まあ……どうでも良い事ですけどね。今となっては)
「復讐に関しては、私に何か言う資格はない。まあ、そんな話をしたいわけではないのだ。ダグよ、お前が何から逃げ回ってこんな所にいるのか、私が知らぬと思っているわけではあるまいな?」
「……父上が何をおっしゃっているのか、理解いたしかねますが」
 ダグは目を逸らせた。
 父は、逃がしてくれなかった。
「明日のディナーパーティーには出席しろ。お前も、そろそろ社交界に名を売らなければならん。タッカー商会の、次期総社長としてな」

 社交界と無縁ではいられない。それをダグは、理解していないわけではなかった。
 欧州経済界の要人たち……タッカー商会としても良好な関係を保たなければならない人々が、集うパーティーである。顔は見せておかなければならないし、卑屈にならぬ程度に愛想を振りまく必要もある。
『お金持ちばっかりのパーティーで、俺みたいな貧乏人を晒しものにして面白がろうったって、そうはいかないぞ』
 スマートフォンの向こう側で、親友が言った。少なくともダグの方は、親友と思っているのだが。
 今は日本にいる。里帰り、ではなく仕事でだ。
『電話じゃわかんないだろうけど、こっちは今、仕事中なんだ。自家用ジェットとかで迎えに来られても行けないからな』
「貴方でなくとも良い仕事を、また背負い込んでしまっているのではありませんか? まったく日本人らしいと言うか」
『こちとら下っ端だからな、仕事選んでなんかいられないんだよっ!』
 爆発音と銃声が聞こえた。スマートフォンを片手に、彼はどうやら拳銃をぶっ放している。
『切るぞ! 生きてたら、後で電話する!』
「まあ、御無理はなさらないように……」
 などとダグが言っている間に、電話は切れていた。
 優秀なエージェントである。引っ張りだこで忙しいのは、まあ当然であった。
「タッカー商会で引き抜く、のは無理にしても……IO2ヨーロッパで確保しておきたい人材なのですがねえ」
「ダグラス様、衣装合わせのお時間でございます」
 初老の執事が、まるで学校に行きたがらない子供を諭すような口調で言った。
「お覚悟なさいませ。これはダグラス様が、お1人で勝ち抜かなければならない戦いでございましょう」

 昆虫や蜘蛛は、擬態をする。身を守るためだ。
 人間も擬態をする。他人を、騙すためにだ。
 蜘蛛やサソリよりも悪質な毒を隠し持った人々が、にこやかに語りかけてくる。
 経済界の要人、と言うべき人々。政府関係者もいる。
 適当に、適切に、挨拶を返しながら、ダグは思う。
 毒蜂、蜘蛛、サソリ……親愛なる様々な友達を、自分は人を殺すために利用している。
 彼ら彼女らよりも、ずっとたちの悪い毒を持ったこの人々をも、自分はこの先、利用してゆかなければならない。あちらとて、タッカー商会を大いに利用しようとしているのだ。
(利益をちらつかせるだけで、虫たちよりも簡単に操る事が出来る……わかり易い方々、なのですけどね)
 苦笑を隠すようにダグは、グラスを傾けた。
「お酒、飲めたのね」
 出席者の女性が1人、声をかけてきた。
「蜂蜜や樹液しか飲めないと思ってたわ……虫男さん」
 擬態した毒虫たちの中にあって、1羽だけ、蝶が舞っている。
 擬態せず、何を隠す事もなく、優雅に傲然と己を晒しながら。
 ダグは、そう感じた。
「貴女は……まさか、お酒を飲んでいるわけではないでしょうね」
「別に、お酒を飲みに来たわけじゃないわ」
 未成年である。確か、まだ19歳のはずだ。
「大学生が、いくらか早い社会勉強というわけですか? お酒はいけませんよ」
「貴方の顔を、見に来てあげただけよ」
 いくらか我の強そうな美貌が、ダグを睨みつけてくる。
 父方の、従妹である。ダグが主導するタッカー商会の現方針に、最も強く反対している、あの叔父の娘だ。
「元気そうじゃない? インドやチベットで、ずいぶん派手な事をしてきたみたいだけど……生きていたのね。お葬式に備えて泣いてあげる練習をしていたのに、無駄に終わって残念だわ」
「貴女の涙なんて、想像もつきませんよ」
 ダグは微笑んだ。
 幼い頃、この従妹には、ずいぶんと虐められたものだ。
 だが不思議と、母にはよく懐いていた。インド人である母に、純粋な白色人種である、この従妹がだ。
 彼女の涙をダグが見たのは、後にも先にも1度だけ。母の、葬儀の時だけである。
 音楽が、流れていた。ダンスの時間である。
 ホールのあちこちで、着飾った男女がペアを組み、音楽に合わせて優雅に身体を揺らしている。
 従妹が、すっ……と細腕を伸ばしてきた。
「昆虫の雌しか話し相手のいない男が……人間の女をエスコートする事なんて、出来る?」
「自信ありませんね。でも、試してみましょうか」
 ダグはその手を取り、優美な肢体を抱き寄せながら、くるりと回って見せた。
 少し激しい動きになったが、音楽には合っているはずだ。
「あら……意外に、様になっているのね」
「いいのですか? 私とダンスなど踊って……貴方のお父上が、きっとお怒りになりますよ」
「怒る事しか出来ない、無能な男よ」
 ダグを睨みながら、従妹は微笑んだ。
「貴方が総社長になったら……商会に、あの男の居場所はなくなるでしょうね」
「御安心を。権力を振りかざして、貴女の御家族を虐めるような事はしませんよ」
「家族ぐるみで、ずいぶんと貴方を虐めてあげたわ。仕返しをしたい、とは思わないの?」
「あんなもの、虐められたうちには入りませんよ」
 母が受けた仕打ちと比べれば。ダグは、心の中で付け加えた。口には出さなかった。
 が、この従妹には伝わったようだ。
「……おめでとう、と言っておくわ。お母様の仇、討てたのでしょう?」
「私は……ほとんど何も、していませんがね」
 全ては、日本から来てくれた彼のおかげである。
「素敵な人だったわ。身体1つで故郷を飛び出して、好きな人と一緒になって……私ずっと、あの人みたいになりたいって思ってたの。貴方みたいな、可愛げの欠片もない子供を産むのは嫌だけど」
「貴女が母親だったら、私も毎日が地獄でしょうねえ」
「貴方みたいなのが生まれないように、結婚相手はしっかり見極めないとねっ!」
 音楽に合わせて、従妹がダグの身体を振り回す。
 振り回されながら、ダグは思い出した。結婚、子供という話になると、記憶の奥底から浮かび上がって来る人物が1人いる。
 5年ほど前、スエズ運河で出会った、1人の傭兵。
 彼は、口でははっきり言わずとも間違いなく、愛する者を守るために戦っていた。
 自分は、愛する者を守れなかった。仇を討つ事しか出来なかった。
 誰かを守るための戦いなど、自分に出来るのだろうか。
 その思いを、ダグは即座に振り払った。
 タッカー商会の利益。それ以外に今、自分が守らなければならないものなど、ないはずであった。

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復讐の果てに

 欧米人こそが、諸悪の根源である。
 『虚無の境界』の者たちは、そんな言い方をしていた。
 世界各国で多くの人々が差別と貧困に苦しんでいるのは、かつてヨーロッパの白色人種が地球規模で行った侵略と植民地化が、そもそもの原因なのだと。
 そういう一面も、全くないとは言えないだろう。
 だが彼に言わせれば、現在に至るまで差別に苦しむ人々がいるような国には元々、差別を芽吹かせる土壌があったのだ。ヨーロッパ人の手が入ろうと入るまいと、それら国々の民は差別を行っていただろう。
 あの長老たちのように、だ。
 かの一族は、下位カーストの民を大いに虐げながら、宗主国イギリスと巧みに渡り合い、その地位を確固たるものにしてきた。
 インドという国で利権を得るために、あの一族と良好な関係を保たなければならなかったのは事実である。
 だが、それだけではない。
 彼が、植民地人の分際で尊大極まる老人たちの機嫌を取り続けなければならなかった、本当の理由。
 それは、かの一族の後ろ楯であった『虚無の境界』という組織の、あまりにも強大な力である。
 あの組織は、海を隔てた場所にいる人間を、近代兵器を用いずに殺害する力を持つ。
 生ける殺戮兵器を人間に化けさせ、様々な国の様々な場所に潜ませている。
 虚無の境界に1度、目をつけられたら、地球上どこにいても逃げる事は出来ないのだ。
 だから、従うしかなかった。従い続け、今までは上手くいっていた。
 だが、状況が変わった。
 ダグラス・タッカーが、まさか自身でインドへ乗り込み、決着をつけるとは思わなかったのだ。
 あの御曹司を甘く見ていた事は、認めざるを得ない。
 とにかく今は、イギリスから逃げ出す事だ。
 北海側の、とある港から今、小さな貨物船が出ようとしている。タッカー商会所有の船である。
 商会のとある事業を担当し、わざと失敗して多額の損失を出した。
 そのペナルティとして、商会役員から一介の貨物船船長へと降格されたのだ。
 これで、疑われず堂々と逃げる事が出来る。
 海外旅行という形で、家族はすでに逃がした。
 逃亡の船出にふさわしい、霧深い夜である。
 苦笑しながら彼は、船へと向かった。
 ちくり、と左手の甲が微かに痛んだ。
 小さなものが、カサカサと自分の身体を這い下り、霧の中へと消えて行く。蜘蛛、であろうか。
 何だかわからぬまま、彼はその場に座り込んでいた。
 歩く事はおろか、立っている事も出来ない。
 全身の筋肉が、強張り痙攣しながらも、弱々しく弛んでいる。
 息が、苦しい。
「……な……っ……?」
 悲鳴を上げる事も出来ないが、考える事は出来る。噂を、思い出す事は出来る。
 ここ何年かの間、商会関係者で、おかしな死に方をする者が何人も出ていた。
 暗殺説が流れるのは当然として、その黒幕がダグラス・タッカーではないか、と言われているのだ。
 あの御曹司が道楽で行っている、毒虫の研究。それが暗殺に活用されているのではないか、という荒唐無稽な噂話である。
 霧の中に、何者かが佇んでいた。
 初老の、英国紳士。長年の親友、と言っても良い人物である。
「お前を監視し続ける事が、私にとって、どれほど心の重荷となっていたか……理解出来るか?」
 その親友が、口調重く、語りかけてくる。
「ダグラス様に、お許しを乞え。こうなってしまった以上、私に言えるのはそれだけだ」
「お前……」
 もう1人、そこに立っていた。
 褐色の肌をした、細身の青年。黒い瞳が、眼鏡の奥から、冷たい光をじっと向けてくる。
「貴方が、あんな損失を出すはずがない……とは思っていましたよ」
 ダグラス・タッカーであった。
「逃げようとする人には、どうしても疑いが向いてしまいます。役員職に踏みとどまりながら、のらりくらりと立ち回るべきでしたね。そうすれば私も、貴方を疑わずにいられたのですが」

 とめどなく涙が溢れ出すのは、悲しいからではない。ダグラス・タッカーは、そう思い込んだ。
 悲しみなど、弱者の感情だ。怒りの方が、まだましだ。
 だから自分は今、怒り狂っている。ダグは、そう思った。
 母の死に顔は、しっかりと目に、心に、焼き付けた。
 否、死に顔などなかった。
 美しかった母の全てが、エンバーミングのしようもないほどに潰れ、砕けていたのだ。
 原形を失った母が、物体として棺に収納され、埋められてゆく。
 その様を、ダグは睨み続けた。
 睨む両眼から、涙が溢れ出す。怒りの涙だ、とダグは思った。
「……復讐を、お考えですか?」
 1人の執事が、声をかけてくる。
 年配の、そろそろ初老になりかけた英国紳士。
 純粋な白色人種でありながら、ダグたち母子に、いろいろと良くしてくれた人物である。
 だからと言って信頼はするまい、とダグは思っている。
 本当に信じられる者などいない。母が、それを教えてくれた。
「……復讐は……何も、生まない……」
 涙を拭わぬまま、ダグは呻いた。
「仇など、討ったところで……母上は、喜んでくれない……生き返っても、くれない……」
 脳漿が、胃液が、憎しみで沸騰している。
 吐き気を覚えるほどの憎悪が今、ダグを苛んでいた。
「以上……これらを一言でも口にしたら、私は貴方を殺しますよ……!」
「復讐を、考えておられるのですね……安心いたしました」
 執事が言った。ダグは、耳を疑った。
「復讐の念を、憎しみを、生きる糧となさい。絶望して母上の後を追われるより、遥かにましです。私はそれを一番、心配しておりました」
「私が、復讐のために動く……そのせいで貴方は、タッカー商会での職を失うかも知れないのですよ」
「私は私で、そうならぬよう上手く立ち回って御覧に入れますよ」
 初老の紳士が、微笑んだ。
「そうしながら貴方のお手伝いをする、くらいの事は出来ます。この歳まで生きてきた男の力というものを……お若いダグラス様は、ご存じないのですよ」

 その力を、この執事はずっと貸してくれてきた。
 結果、あの一族を滅ぼす事が出来た。復讐は完遂した、と言っていいだろう。
 ただ1つだけ、確かめておくべき事がある。
「貴方は私の母が比較的、心を許していた、数少ない方々の1人です」
 虫毒で動けずにいる男に、ダグは語りかけた。
「投身自殺に見えるよう……母を、あの場所に導いた人がいるのですが」
「…………」
 男は何も応えない。
 辛うじて聞き取れる言葉を発する、事くらいは、まだ出来るはずなのだが。
「口をきけるうちに、私に教えては下さいませんか」
 ダグは長身を屈め、男と目の高さを合わせた。
「あと数分で、貴方の心臓は止まってしまいます。解毒薬を一応、用意してはあるのですが」
「……私……だ……」
 男が呻いた。
「私が、妻と共に……気晴らしにと声をかけ、貴方の母上を……あの屋上へと、誘い出した……その瞬間、彼女は砕け散り、落ちて行った……おわかりか? 虚無の境界に逆らえば私とて、それに私の家族も、同じような死に様を晒していたかも知れんのだぞ……」
「虚無の境界を恐れていた……それだけではないでしょう? 貴方が、あの長老方と手を結んでおられた理由は」
 眼鏡越しに、ダグは男を見据えた。
「あの国で貴方は、商会の知らぬ副業で、少なからぬ利益を上げていた」
「その程度の利権……正当な報酬というものだ!」
 死にかけながら、男は叫んだ。
「私はな、あの者どもに脅されて! おぞましい汚れ仕事をやらされていたのだぞ! その程度の見返りもなくて……やって、いられるか……!」
「…………」
 もはや言葉もなく、ダグは懐から注射器を取り出した。
 そして男の腕に、解毒薬を打った。
「貴方を、役員職に戻します。引き続き、商会のために働いて下さい」
「私を……許して、下さるのか……!」
 許しはしない。だから死ぬまで利用する。
 それをダグは、口には出さなかった。
 タッカー商会の、重役にまで上り詰めた男である。無能であるはずはなく、何よりも上り詰めるまでに拡げてきた独自の人脈がある。
 すでに終わってしまった復讐のために、それらを捨てるわけにはいかない。
「ダグラス様……私は、安心いたしました」
 初老の執事が、あの時と同じような事を言った。
「貴方様が復讐を終えられ、目的を失われ、抜け殻のようになってしまわれる……私はそれを一番、心配しておりました」
「復讐のためにだけ生きている……その間に何やらいろいろと、やらなければいけない事が増えてしまいましてね」
 ダグは軽く、執事を睨んだ。
「貴方の思惑通り、というわけですか?」
「たとえ復讐のためであろうと、貴方様には生き続けていただきたかった……それだけで、ございますよ」
 初老の紳士は、深々と一礼した。

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傭兵と御曹司

日光に弱い。十字架に弱い。ニンニクに弱い。
 吸血鬼とは本当に、弱点だらけの怪物である。世の人々が必死になって、様々な弱点を後付けで想定したのだ。
 吸血鬼という種族が、それだけ人々に恐れられていた、という事である。
 そのような後付け設定の中に「吸血鬼は流れる水を渡る事が出来ない」というものがある。
 それが本当ならば自分は、この船から落ちたら死んでしまうのだろうか。
 ヴィルヘルム・ハスロは、ふとそんな事を思った。
 スエズ運河を往く、大型貨物船。
 所有者は、欧州経済界の重鎮・タッカー商会である。
 船1つを犠牲にする覚悟で、あの商会は、海賊をおびき出そうとしているのだ。
 その海賊の殲滅が、今回の仕事である。ヴィルの所属する軍事会社に、タッカー商会から依頼が来たのだ。
 幽霊海賊、と呼ばれている。
 いつ接舷されたのかわからぬうちに、いつの間にか船に乗り込まれている。気が付いたら、殺戮と略奪が始まっている。
 そんな事件が、スエズ運河では続発していた。タッカー商会の船も襲われ、被害が出ている。
 運河を避けて遠回りをすると、ソマリア沖で本物の海賊に襲われるという有り様であった。
 その幽霊海賊が、どれほどの敵であるのかは、戦ってみなければわからない。
 直接の戦い、以外の厄介事が1つあった。
 タッカー商会・総社長の子息が、周囲の反対を押し切って、この船に乗り込んでいるのだ。
 16歳。飛び級で大学に入った天才少年であるらしいが、そんな学歴が海賊との戦いで役立つとは思えない。
 お荷物を背負いながらの、厄介な戦いとなる。
 それでも、死ぬわけにはいかなかった。
 かつては、死ぬためにだけ戦っていた。死ぬ事を恐れない、どころか渇望さえしていた。
 今は違う。
「私は……臆病になってしまった、のだろうか?」
 甲板上でヴィルは、写真に語りかけていた。
 妻が、生まれたばかりの息子が、写真の中で微笑んでいる。
「私がいなくなったら、誰が君たちを守る……などと考えてしまうのは、思い上がりだろうか?」
「……守れるのですか。貴方は」
 いきなり、声をかけられた。
「失礼。声を出して写真と会話をする人が珍しく、つい話しかけてしまいました」
「それは、こちらこそ失礼。薄気味悪い思いをさせてしまったかな」
 ちらり、とヴィルは相手を確認した。
 褐色の肌をした、身なりの良い少年である。欧米人とアジア人の混血、であろうか。
 利発な少年である事は、その顔立ちを見ればわかる。
 利発さの下に、激しいものがある。それをヴィルは見て取った。いくらか暗い激情を、眼鏡で覆い隠している。そんな感じである。
 何者であるのか、ヴィルは何となくわかった。
「タッカー商会の、御曹司というのは?」
「私ですよ。貴方がた現場の人たちに厄介者として扱われるのは、承知の上です」
 御曹司が、にやりと笑った。不敵で、どこか陰惨な笑み。
「ダグラス・タッカーと申します。厄介者のダグ、とでも呼んでいただきましょうか」
「ヴィルヘルム・ハスロです。私も、死神のヴィルなどと呼ばれた事がありますよ。私の所属する部隊は必ず全滅し、私1人が生き残ってしまうのです」
「貴方1人だけが頭抜けて強かったという事でしょう。期待させて、いただきますよ」
 ダグの眼鏡の奥で、眼光がギラリと輝いた。
「何としても、海賊どもを殲滅して下さい。私の指揮下で、という形でね……海賊退治は私の実績、という事にさせていただきます」
「もちろん我々としては、正当な報酬さえいただければ何も文句はないが」
 ヴィルは言った。この正直過ぎる御曹司に、いささか興味が湧いた。
「……欧州経済界のプリンスとして将来を約束された身でありながら、そこまで貪欲に実績を欲しがるとは?」
「そのような約束、あって無いようなもの。私はね、1日も早く、己の地位を確固たるものにしなければならないのですよ」
 かつての自分が、ここにいる。ふとヴィルは、そんな事を思った。
「1日も早く、私は……商会の実権を、握らなければならないのです」
 全てを失い、ブカレストの裏通りで獣同然の生き方をしていた頃のヴィルヘルム・ハスロが、目の前にいる。
 このダグラス・タッカーという少年も、何かを失ったのだ。
 そうして生じた空隙が今、憎しみで満たされている。
 彼は今、復讐のためだけに、タッカー商会を掌握しようとしているのだ。
 復讐を否定する資格が自分にはない、とヴィルは思う。
 あの時、父親が現れなければ。自分は間違いなく、村人たちを皆殺しにしていただろう。
「ヴィルヘルム・ハスロ氏、先程の質問を繰り返させていただきます。貴方は御家族を守れるのですか? 御家族の傍にいてあげられない、傭兵などという仕事を……何故、始めたのです」
「私には、戦う事しか出来ない」
 答えながらヴィルは、空を見つめた。今は、この空だけが、日本にいる妻子と繋がっている。
「家族を守るために、養うために、この仕事をしている……はっきり言葉で言ってしまうと、何やら安っぽくなってしまうな。何か違う、という気もする」
「はっきりと言葉で、家族のため、などと言われていたら……私は貴方を、軽蔑していたかも知れません」
 呪詛のように、ダグは言った。
「私の父は……家族のために仕事をしている、などと言いながら結局……母を、守ってはくれなかった……」
「…………」
 何か応えるべきか、無言でいるべきか。
 そんな事で迷っている場合ではなくなった。
 不穏な気配が、周囲に生じたからだ。
「……伏せて!」
 ダグの頭を、左手で掴んで甲板に叩き付けるような、いささか乱暴な形になってしまった。
 そうしながらヴィルは右手で、大型の拳銃を振り回し、引き金を引いていた。
 嵐のようなフルオート射撃が、甲板上を激しく薙ぎ払う。そして、群がりつつあったものたちを粉砕する。
 骸骨、であった。
 一揃いの人骨が、迷彩柄の軍服を着用して動き回り、小銃を構え、こちらに銃口を向けている。
 そして骨のみの指で引き金を引こうとしながら、砕け散ってゆく。
 ヴィルに押さえ付けられた格好で伏せながら、ダグが呻く。
「これが、幽霊海賊……」
「御曹司、貴方を護衛する余裕はない……この船に乗り込んだ以上、自分の身は自分で守っていただく」
 ヴィルは言い放ち、少年を伏せさせたまま立ち上がり、状況を確認した。
 甲板上のあちこちで、戦闘が始まっていた。
 ヴィルの同僚たちが、幽霊海賊の不意打ちに上手く対応し、銃撃を行っている。
 軍服をまとう骸骨たちが、小銃をぶっ放しながら砕け散る。
 その数は、しかし一向に、減ったようには見えない。
 運河上に、霧が出ていた。
 貨物船を包む、その霧の中から、幽霊海賊が際限なく生み出されて来る。そのようにしか見えない。
「……死霊術の類か」
 ヴィルは呟いた。死者の類を、無限に召喚し続ける黒魔術。妻から聞いた事がある。
 その召喚者が、霧の中のどこかにいる。
 探し出し、倒さぬ限り、軍服を着た骸骨たちが際限なく補充され続けるのだ。
 探し出す余裕などないままに、ヴィルは跳び退り、甲板に転がり込んだ。
 その動きを、幽霊海賊たちの銃撃が追う。火花が爆ぜ、甲板に無数の銃痕が穿たれてゆく。
 それに追い付かれる寸前、ヴィルは起き上がりながら引き金を引いていた。
 ハンマーのようでもある大型拳銃が、火を噴いた。
 ヴィルに向かって乱射を行っていた骸骨たちが、ことごとく砕け、吹っ飛んで散る。
 その時には、間合いを詰められていた。
 至近距離。軍服姿の骸骨が4体、足音もなく襲いかかって来ている。全員、銃器ではなく大型のナイフを手にしている。
 4本の刃が、ヴィルに向かって一閃した。
 その1本を、ヴィルは左手で掴み止めた。ナイフの刀身ではなく、柄を握る骸骨の手を。
 そのまま強引に身を翻し、骸骨の身体を振り回す。
 振り回された幽霊海賊が、別の1体に激突した。
 一方ヴィルの右手は、鈍器のような大型拳銃を振るい、別のナイフを叩き落としていた。
 それと同時に、長い右脚が後方にブンッと跳ね上がり、背後にいた骸骨の手からナイフを蹴り飛ばす。
 体勢を崩した幽霊海賊4体に、ヴィルは大型拳銃を叩き付けた。
 ハンマーの如く重い銃身が、4つの頭蓋骨をことごとく粉砕する。
 その手応えを握り締めながら、ヴィルは引き金を引いていた。
 小銃をこちらに向けようとしていた骸骨たちが、銃弾の嵐に薙ぎ払われて砕け舞う。
「やるではないか……くっくくく、佳き素材を見つけたぞ」
 祭服を身にまとう、一見するとカトリックの神父のような男が、いつの間にか甲板に立っていた。
「貴様は最強の死霊兵士となるであろう。虚無の境界の戦力として、私が大いに活用してやろうぞ」
「虚無の境界……聞いた事はある。人類の滅びだの霊的進化だのと、大層な題目を掲げているようだが」
 新しい弾倉をグリップに叩き込みながら、ヴィルは言った。
「している事は単なる海賊行為。資金繰りに苦労しているのは、どこも同じというわけか」
「ソマリア沖の海賊どもに力を貸してやっているだけだ。我が、無限の力をな」
 神父風の男が、手にした十字架を掲げた。
 霧が、深くなった。
 その濃霧の中から、幽霊海賊の群れが現れ、甲板上に満ちた。
 そして神父風の男をしっかり護衛しながら、小銃をぶっ放してくる。
「くっ……!」
 ヴィルは、近くのコンテナの陰に隠れるしかなかった。銃撃の嵐が、傍らを激しく通過して行く。
「我が兵力は無限! さあ無駄な抵抗をしてみるが良い、弾が尽きるまでなぁーフハハハハハハ!」
 虚無の境界の術者が、勝ち誇っている。
 その笑いが突然、詰まった。 
 祭服をまとった身体が、倒れた。
 表情が、おぞましい笑顔のまま固まっている。血色を失った、青白い笑顔。
 低い、唸るような羽音を、ヴィルは聞いた。
 1匹の蜂が、顔のすぐ近くを通り過ぎて行く。大型の、獰猛な毒蜂。
 それが、ダグラス・タッカーの肩に降りて止まった。
「どれほど強大な魔力を持っていようと、所詮は人間の肉体……私の親友たちにかかれば、こんなものですよ」
 幽霊海賊は、1体残らず消え失せていた。まるで最初から存在しなかったかのように。
 蜂毒に倒れた術者の屍が、残っているだけだ。
「虫使い……」
 ヴィルは呻いた。
 インドの古代王朝に、毒虫を使役する魔術が存在し、現代に至るまで秘伝されているという。
 いや、魔術とは少し異なるかも知れない。妻は、そう言っていた。
「何にしても見事……文句のつけようなく貴方の実績だ、御曹司」
「そう……いう事に、させていただきましょうか」
 ダグの声が、微かに震えている。怯え、いや興奮か。
 戦いの場に身を置くのは、初めてだったのだろう。
 ヴィルの足を引っ張る事なく逃げ回り、身の安全を自力で確保したのは、大したものである。
 良い兵士になれる。ふと、ヴィルはそんな事を思った。
「先程、連絡が入りました。ソマリア沖の海賊は、IO2の方々が拿捕して下さったようです」
 ダグが言った。
「虚無の境界などと名乗る方々が最近、世界各地の反社会的勢力に食い込んで、タッカー商会の収益を脅かしてくれているようです。商会専属の用心棒としてヴィルヘルム氏、貴方を雇いたいほどにね」
「私には、今の会社を辞める理由がない」
 この少年は、商会の実権を握るために、商会の利益を守ろうとしている。
 復讐のためとは言え、己の成すべき事を冷静に見据えている。
 何を見据える事も出来ず、ただ暴れていただけの自分とは雲泥の差だ、とヴィルは思った。
「貴方には、またいずれ力を貸していただきたいと思っていますよヴィルヘルム氏」
 小さな親友を肩に乗せたまま、ダグは背を向けた。
「貴方は今まで、充分に戦い傷付いてきたのでしょうが……いずれまた、私のために戦っていただきます。その時までどうか、お命を大切に」

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英国紳士の戦い

害虫は、どの国にもいる。それは紛れもない事実である。
「一般に害虫とされている生き物たちの中にはね、扱い方次第では人間の役に立つものも多いのですよ……まあ扱うだの役立てるだのと傲慢な言い方になってしまうのは仕方ありません。人間と虫が仲良くしようとするならば、まずはそこから入る事になってしまいます」
 語りながら、1人の若者が、ゆっくりと路地裏を歩いている。
 仕立ての良いスーツに身を包んだ、細身の青年。肌は小麦色、顔立ちは整っており、欧米人かアジア人か判然としない。
 知的な眼鏡の内側では、鋭く不敵な眼光が、静かに冷たく輝いている。
「貴方たちは、どう扱っても……何かに役立てる事など出来そうにありませんねえ」
 路地裏のあちこちで横たわる男たちに、青年は哀れむような声をかけた。
 かつてイギリスの植民地であった、某発展途上国。
 その首都の、最も治安の悪い一角に今、彼はいた。
 ダグラス・タッカー。
 イギリス経済界の重鎮・タッカー商会の、御曹司である。
「虫以下、と申し上げてよろしいでしょうか?」
「うっ……ぐ……貴様ぁ……」
 20名近い男たちが、倒れている。
 ただ1人、立っている男が、後退りをしながら言った。
「IO2の犬か……それともタッカー商会の手先か……」
「両方ですよ。日本では『二足の草鞋』などと言って、あまり誉めていただけない場合が多いのですがね」
 間違いなく懐に拳銃を隠し持っているであろう男に、ダグは足取り軽く、歩み寄って行った。
「まあIO2エージェントとしても、タッカー商会の正社員としても……貴方がた『虚無の境界』を放置しておくわけにはいかないのですよ。
 まるで害虫の如く、この組織の者たちは世界各国あらゆる場所にいる。
「ふ……この国は、貧しい……」
 男の呟きが、笑いに、そして叫びに変わってゆく。
「民は、滅びを望んでいる……絶望そのものの、生からの脱却を! そして新たなる霊的進化を、この国の民は望んでいるのだ! それほどの貧困、絶望! 全て貴様ら欧米人が元凶なのだぞ!」
 叫びと共に、男の手に拳銃が握られた。
 向けられてくる銃口を見据えたまま、ダグは軽く、左手を動かした。
 引き金が引かれる寸前で、拳銃は男の手からこぼれ落ちた。
 それを拾おうともせず、虚無の境界の男は硬直している。固まったまま、小刻みに震えている。
「なっ……何だ、これは……貴様……ッッ」
「私の親友たちからの、プレゼントですよ」
 左手を掲げたまま、ダグは答えた。
 優美な五指の先端から、辛うじて目視出来るものが伸び、男の全身を縛り上げている。
「その強度は、同じ太さの鋼鉄の5倍……ですが、これを人間の道具として実用化するのは至難の業です。何しろ彼らは肉食ですからねえ。大量に飼っておくと、共食いを始めてしまうのですよ」
 だからダグが、説得と言うか懇願をしなければならなかった。
「渋々ながら、彼らは私の個人的な研究施設で、人間の道具として生きる事を了承してくれました。結果、私はこうして彼らの武器を譲り受ける事に成功したのです……蜘蛛の糸という、自然界最強の物質をね。まあ最強は言い過ぎかも知れませんが、こうして貴方がたの動きを止めるくらいの事は出来ます」
 蜘蛛の糸から作り上げた、特殊繊維。
 それによって縛り上げられた男たちが、路地裏のあちこちに転がって、苦しげに呻いている。まさに、蜘蛛に捕われた虫の如く。
「……お見事でございます、ダグラス坊ちゃま」
 声がした。
 初老の英国紳士が、そこに立っていた。タッカー商会本家の使用人で、ダグ個人の腹心とも言える人物である。
「その呼び方……そろそろ、やめていただきたいものですが」
「これは失礼をいたしました。アフタヌーンティーの準備が整っております、が……その前に御報告を」
 英国紳士が一礼し、声を潜めた。
「政府要人の方々とも繋がりがある、だけではありませんな。民間のあらゆる分野に入り込み、密着しております……この国はほとんど、虚無の境界に乗っ取られていると申し上げてよろしいかと」
「国そのものが、虚無の境界を受け入れてしまったと。そういう事ですか」
 植民地時代、大英帝国に搾取され尽くし、貧しいまま独立してしまった国である。
 その貧困に、人々の絶望に、虚無の境界は巧みにつけ込んで来た。
 このままでは国そのものが、かの組織の前線基地と化す。
 その事態を防ぐ手段を、ダグは1つしか見つけられなかった。
「この国にタッカー商会の支社を建てるのは至難の業……ですが、やらなければ」
 支社を作り、雇用を生み、経済を活性化させる。そして国を豊かにする。人々の心から、虚無の境界を受け入れてしまうような絶望を取り除く。
 ダグは思う。
 この国を貧困に追い込んだ英国人の1人として、それにIO2職員として、自分がやらなければならない事だ、と。

「タッカー商会は慈善団体ではない。それは、おわかりでしょうな」
 叔父が、苛立ちを露わにしている。
「あのような貧しい国に、一体どれほどの投資をなさるおつもりか?」
「貧しい国を富ませるために行うのが投資というものですよ、叔父上」
 にこやかに、ダグは答えた。
「貧しい人々が豊かになる事で、自然に我々も豊かになってゆく。商売とは、経済とは、そうあるべきと、この若輩者は考えております。青臭い事を、と貴方がたはお思いでしょうね叔父上、それに父上」
 タッカー商会の総社長たる父親と、その片腕である叔父。そこに自分を加えた3名が、和やかなティータイムなど過ごせるわけがない。
 そう思いながらダグは、優雅にティーカップを傾けて見せた。
 父は、何も言わない。喋っているのは、叔父だけだ。
「まさしく青臭さの極みですな。貧しい者どもに富を分け与えたところで、我々が得るものなど何も」
「そこを、もう少し考えていただきたいのですよ。当商会の、重役の方々にはね」
 この叔父には、毒殺されかけた事もある。思い出しながらダグは言った。
「世界には、貧しい人たちの方が圧倒的に多いのです。そういった方々がお金持ちになって、タッカー商会で買い物をして下さるようになれば。少数の裕福なお客様だけを相手にするよりも、莫大な利益を見込めるとは思いませんか?」
「子供の理屈だ! そのようなもの!」
 叔父が激昂し、テーブルを叩くように立ち上がる。
 そこでようやく、父が声を発した。
「アジアにおける取引状況と流通が、何やらおかしな具合になりかけていたようだが回復し、正常な商売が出来るようになった。お前がチベットで良い仕事をしてくれたおかげだな、ダグラスよ」
 あれはIO2エージェントとしての仕事であってタッカー商会とは関係ない、とダグは言ってしまいそうになった。
 それに、自分は何も大した事はしていない。
 彼の力があってこそ、辛うじて成功という形で完遂する事の出来た任務である。
 翡翠色の瞳をした、日本人の若者。
 彼の実直さと行動力は、発展途上国における新たな市場の開拓には、大いに向いている。
(商人というものはね、私のように腹黒いだけでは務まらないのですよ……貴方ならきっと、大勢の新しいお客様を引っ張って来てくれるでしょうにねえ)
「お前はアジアで実績を示した、という事だ」
 この場にいない若者に、ダグが心の中で語りかけている間。父は、勝手に話を進めていた。
「もう少し、思うようにやってみると良い。結果さえ出せば誰も文句は言わん。そうだろう?」
「……せっかくの実績が台無しにならぬよう、気をつける事ですな!」
 捨て台詞を残し、叔父は去って行った。
 その背中を見送りながら、父が言う。
「……あれは、まだマシな方だ。お前に協力的な態度を見せている者たちの中にこそ、本当の敵がいる。私はそう思う」
「叔父上は、正直な方ですからね」
 貴方よりも、という言葉をダグは呑み込んだ。
 母を、守ってはくれなかった。
 この父に対しては、どうしても、その思いを拭う事が出来ずにいる。
 それをダグは、表情には出していないつもりではいる。が、父は言った。
「お前にとっては私も、母親の仇という事になってしまうのだろうな」
「……母上の話はやめましょう。何を語ったところで、生き返って下さるわけでもなし」
「たとえ、仇を討ったとしてもな」
 気付かれている、とダグは思った。
 自分が、密かに商会内部を調べ、母の死の真相を探ろうとしている。それに、この父は気付いている。
「復讐に意味はない、などというのは私個人の考えだ。お前はお前で……先程も言ったが、思うようにやってみると良い。繰り返しになるが、お前には七光に頼らぬ実績があるのだからな」
「父上……」
 ダグがそんな声を発している間、父は立ち上がり、叔父とは別方向に歩み去り始めていた。
「お前はチベットで、立派な仕事をやり遂げてくれた。親として、誇らしく思う……これは私の、偽りのない気持ちだ。こんな事を言える機会が、この先あるかどうかわからんからな。1度だけは、はっきりと言っておく」
 息子の返事を恐れるかの如く足早に、父は去って行く。一方的に、言葉を残しながら。
「お前は私の誇りだ、ダグラス」

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聖夜の来訪者

 クリスマスである。
 ハロウィンほどではないが、人外のものが人間の世界へと紛れ込みやすい時期である。
 にしても珍妙過ぎるものを、アデドラ・ドールは発見してしまった。
 イブに浮かれる、ニューヨークの街並。
 その一角で、白い小さなものが2匹、ちょこまかと動き回っている。
 2匹の仔犬、に見える。
 アデドラは目を凝らした。アイスブルーの瞳が、仔犬たちをじっと見つめる。
 仔犬ではなく、人間の子供に見えた。
 5歳くらいの、東洋人の男の子が2人。兄弟であろうか。お揃いの白い和装を身にまとい、小さな身体で大きな風呂敷包みを背負っている。
 東洋人にしては、片方は赤毛、片方は金髪である。
 その髪をはねのけるように獣の耳がピンと立ち、風呂敷包みの下では、豊かな尻尾がふっさりと揺れていた。
 作り物ではない、本物の耳と尻尾。
「あに者あに者! くろいのとか目があおいのとか、いっぱいいるよー。こわいよー」
「おおおおおお落ち着くのだ留意。ここが、あめりかという国なのだ。チーズケーキとアップルパイとカップケーキとバーゲンダックの国なのだ」
「まちがえて鬼ヶ島に来ちゃったんじゃないかなー」
 不安そうにしている、幼い兄弟。
 人間ではない、にしても北米大陸土着の妖怪・精霊ではないだろう。東洋から流れて来た何かだ。
 人間では有り得ない魂の香気が、ふんわりと漂って来る。
「美味しそう……なのかしら」
 美味かどうかはともかく、珍味であるのは間違いあるまい、とアデドラは思った。
 2匹の仔犬、のような兄弟が、不安そうにしながら、とてとてと駆け去って行く。
 アデドラは、後を追ってみる事にした。

 疲れたので一眠りしていたら、5年が経過していた。
 5年前の騒動で消耗した力は、充分に回復した。
 完全に目覚めたとなれば、まずは、あの少年をおちょくりに行くべきであった。
 が、彼はいなかった。
 知り合いの妖怪たちに尋ねてみたところ、どうやら海を越えて「あめりか」という国に行ってしまったらしい。
 羅意も、国名だけは聞いた事があった。少し前、この国から「ぺるり」とかいう男が日本に来て大騒ぎになった事がある。
 あの頃と違って、今は飛行機というものがある。弟と共に、姿を消して忍び込んだ。
 そして今、ニューヨークの街中にいる。
「あに者あに者、あいつどこ行っちゃったのかなー」
「うーむ。さっき少しだけ、あやつの匂いが」
 羅意は、鼻をひくつかせてみた。
 先程ほんの一瞬だけ、あの少年の匂いを感じたような気がした。気のせいだったのか。
 この国は、とにかく広い。人間1人を匂いだけで捜し当てるのは、どうやら至難の業である。
 人が多い、だけではない。人ではないものたちも大勢、棲んでいる。
 先程ちらりとだけ見かけた、あの青い瞳の少女のように。
「さっきのあれは何だったのかなー」
 留意が言った。
「なんだか、あね上たちと感じがにていたのだ」
「うん、あいつらと同類だな。長生きしてるくせに全然、年を取らない」
 鬼のような姉たちを思い出しながら、羅意は腕組みをしてうんうんと頷いた。
「ああゆうのを『わかづくり』と言うのだぞ。この国にも、いるのだなあ」
「あに者はものしりなのだ! そうか、わかづくりかー」
「そう、若作りだ! わっかづくり、わっかづっくり」
 この国に姉たちはいない。いくらでも叫ぶ事が出来る。留意も唱和した。
「わっかづっくり、わっかづっくり♪」
「わはは、わっかづっくり、わっかづっくり! じょしかいばっかで、おとこもいない♪」
「楽しそうな歌……今度、あたしにも教えて欲しいわ」
 涼やかな、あるいは冷ややかな声。
 羅意も留意も、凍り付いたように固まった。
 青い瞳の少女が、そこに立っていた。
 まるで雪女のように白い、ぞっとするほど美しい顔立ちが、凍り付いた兄弟に向けられている。
「心配しないで、歌の内容まではわからないから……あたし、日本語わからないから」
「そ、それは重畳なのである」
 流暢な日本語を話しているようにも聞こえるが、きっと気のせいだと羅意は思う事にした。
「貴方たち、迷子?」
 細身を屈め、小さな兄弟と目の高さを合わせながら、少女は言った。
「誰かを捜しているようだけど、お父さん? お母さん?」
「わ、我らは迷子ではないのだぞ」
 言いつつ羅意は、小さな鼻をひくひくとさせてみた。
 先程と同じだ。覚えのある匂いが、微かに漂っているような気がする。この青い瞳の少女から、漂い出しているように思えてしまう。
 彼女は、あの少年と接触した事があるのではないのか。
「人をさがしているのは、まちがいないのだ」
 留意が、懐から1枚の写真を取り出して少女に見せた。
「この者をさがしているのだ。まいごなのは、こやつのほうなのだ」
「何か知っているなら、我らに教えると良いのだぞ」
「……見た事ないわね」
 写真を見ながら、少女が首を傾げている。
「お役に立てなくて、ごめんなさい」
「き、気にする事はないのだぞ。では、我らはこれにて」
 そそくさと立ち去ろうとする羅意・留意の眼前で、突然、風景が歪んだ。
 空間が、激しく歪んでいた。その歪みが、恐ろしい怪物の顔面を形作って牙を剥き、兄弟を威嚇する。
「ひぃー!」
 羅意も留意も、ひしっと抱き合って悲鳴を上げた。
「貴方たちは美味しそう、仲間に欲しい……そう言ってるわ」
 青い瞳の少女が、言葉と共に手を伸ばして来た。
 ほっそりと可憐な五指が、羅意と留意の頬をむにーっと摘んで引っ張った。
「本当に美味しいかどうかは、あたしが確かめてあげる」
「おいひくない! おいひくないのら!」
 おたおたと暴れながら、羅意は泣き叫んだ。
 ひんやりとした指先で兄弟の頬を摘み捕えたまま、少女はすたすたと歩き出していた。
 引きずられながら、羅意も留意も悲鳴を上げるしかなかった。
「たべられるぅー!」
「どどどこへ行くのら、我らには用事が、人捜しが」
「よく聞こえないわ」
 容赦なく兄弟を引きずりながら、少女は言った。
「あたし、若作りのおばあちゃんだから……耳が遠くて」

 兄弟から取り上げた写真に、アデドラは見入った。
 間違いない。写真の中央で、いささか困惑したような笑みを浮かべているのは、彼である。
 5年前だと兄弟は言っていた。はっきり言って、今とあまり変わっていない。
 写真には、兄弟も映っている。他にも様々な男女が、5年前の彼を中心に集まり、楽しそうにしている。
 明らかに人間ではない者も何名かいた。そういった存在と、どうやら彼は昔から縁があったようである。
 ちなみに彼は今、IO2の任務でインドに行っているらしい。
「ようアディ。その写真は?」
 父が、写真を覗き込んできた。
 IO2で教官職を務めている、大柄な黒人男性。その豪放な感じが、アデドラの本当の父に似ていなくもない。
「お父さん、これ……彼」
「ほう……日本にいた時のか。何だ、あんまり変わってねえなあ」
「残念だったわね、アディ」
 お腹の大きな女性が、そう言って笑った。
 この黒人男性の妻、すなわち母である。来月、年明けの頃に子供が生まれる。アデドラの、弟か妹である。
「今日のパーティー、お目当ての彼が来られなくて」
「お目当て……なのかしらね」
 アデドラは肯定も否定もしなかった。確かに、彼の魂はいずれ自分のものにする。
「お、おい、そりゃどういう意味だアディ」
 父が、うろたえている。母が、笑っている。
「彼ならいいじゃない。アディとお似合いだと思うわ」
「うぐぐ……あの野郎、いつからアディと知り合ってやがったんだ」
 遠い昔、こんな空気の中にいた事がある。アデドラはふと、そう思った。
 クリスマスパーティーである。
 父の部下であるIO2職員たちが大勢集まり、あちこちで談笑している。
「きっ教官、何なんすかその子は!」
 その1人が、近付いて来た。
「こここんな可愛い子、養女だなんて反則っすよぉお! あ、どうも初めまして、お父さんの部下です。あいつの同僚です。あの……とっておきのコスチュームがあるんで着てみませんか? わざわざ日本から取り寄せたんですよお、魔法戦姫◯◯◯のクリスマス限定バージョン」
「はっはっは、てめぇーは黙ってローストチキンでも食ってろお」
 父が、その部下の口に鶏肉の塊を突っ込んだ。
 遠い昔にも、父がいた。母がいた。弟や妹もいた。
 アデドラは思う。自分は、失われてしまったものの代わりを求めているのだろうか。だから、この家に引き取られる事を承諾したのか。
(だとしたら……未練、よね)
「ねえ……ところで、あの子たちは誰?」
 母が言った。
 パーティーのご馳走を、凄まじい勢いで平らげている生き物たちがいる。
「うまし、チキンうまし! ローストビーフうまし、ポテトうまし」
「あに者あに者、あんまりたべるとケーキたべられなくなるのだ」
「ケーキは別腹なのだ!」
「あね上たちとおなじ事いってるのだ」
 2匹の仔犬、のような男の子。とりあえず美味いものを食べさせて幸せな気分にさせれば、魂の味も良くなるだろう。
 その食いっぷりを、父と母が眺めている。
「日本人……かしらね。どこから迷い込んで来たのやら」
「まあ楽しんでるようだし、今夜はうちに泊めてやろうぜ」
「お料理、足りるかしら……」
 招かれざる客をも、この両親は受け入れてしまう。
 受け入れるべきではない客の応対は、アデドラが務めなければならないという事だ。
 邪悪、としか言いようのない気配が、家を取り囲んでいた。

 IO2において近年、最も活躍著しい部隊の主だった面々が、呑気にクリスマスパーティーなどを開いている。
 まとめて皆殺しにする好機である。
 にもかかわらず男たちは、パーティー会場となった家に押し入る事が出来ずにいた。
 放火しようとしても、火はすぐに消えてしまう。小銃をぶっ放しても、銃弾はガラス1枚割る事なく、ぱらぱらと地面に落ちてしまう。
「くそっ、どうなってやがる!」
 男の1人が、罵り文句を吐いた。
 それに、何者かが答えた。
「結界よ……あたしも今、気が付いたんだけど」
 青い瞳の少女……アデドラ・ドールである。
 男たちが即座に小銃を構え、少女を取り囲んだ。
「小娘、貴様……人間ではないな」
「IO2に喧嘩を売るだけあって、そのくらいの事はわかるのね」
 この男たちが何者であるのかは、どうでも良かった。IO2に恨みを持つ組織など、いくらでも存在する。
「この結界とやらは、貴様の仕業か!」
「そうよ……と言いたいところだけど」
 敵意を持つ者による攻撃・干渉だけを遮断する。そんな都合の良い能力を、アデドラは持っていない。
「魂を奪う……あたしに出来るのは、ただそれだけ。でも貴方たちの魂なんて欲しくないわ」
 アイスブルーの瞳が、夜闇の中で、微かな光を発した。
「だから帰って。今日だけは、見逃してあげる」
「……撤退!」
 なかなか統制の取れた戦闘集団のようである。指揮官らしき男の一声で全員、夜闇に紛れるように姿を消してしまった。
 彼らへの関心も、アデドラの中では消え失せていた。
「どこへ行くの」
 振り返らず、アデドラは声をかけた。
 小さな生き物が2匹、音もなく逃げようとしながら、怯えすくんでいる。
 日本犬の、仔犬だった。
 身を寄せ合って震え上がる2匹を、空間の歪みで出来た人面たちが、牙を剥きながら取り囲んでいる。
「なかなかの結界だったわね」
 アデドラは声をかけた。
 仔犬たちが、言葉を発した。
「な、何の事だかわからないのだ」
「あに者あに者、いぬがしゃべってはだめなのだ」
「そ、そうだった。何の事だかわからないワン」
 結界で、いくらか力を消耗したのだろうか。あるいは、この仔犬こそが、兄弟の真の姿であるのか。
「……この写真、返すわ。大切なものでしょ?」
「そ、それは焼き増しなのだ。よろしければ差し上げるのだ」
「そう、ありがとう。もらっておくわね」
 2匹の仔犬を、アデドラは両腕でひょいと抱き捕えた。
「差し上げるのは写真だけである!」
「聞こえないわ。あたし、若作りのおばあちゃんだから耳が遠いの」
「ねにもってはだめなのだ、ますます老けるのだー!」
 わめく仔犬たちを、アデドラはきゅーっと抱き締めて黙らせた。
「おおアディ、何やってるんだ。こんな所で」
 父が出て来た。
「お父さん、クリスマスプレゼント……あたしの欲しいものくれるって、言ってたわよね」
 仔犬2匹を細腕でがっしり捕えたまま、アデドラは言った。
「あたし、犬飼いたい……」
 捕われの仔犬たちが、クゥン……と悲しげに鳴いた。

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黄金の夢

カリフォルニア・ゴールドラッシュ。
 後世そう呼ばれる事となる、狂乱の時代。
 アメリカ全土から大勢の人々が、金鉱を求めて、この地に集まって来た。
 そんな流れ者の探鉱者たちの中に、アデドラ・ドールの両親もいた。
 父は、身体が大きく、少し荒っぽく、だが優しい男だった。
「お前はこんなに可愛いのに、俺みたいな貧乏人のとこに生まれちまって……」
 それが、父の口癖だった。
「待ってろよアデドラ、もうちょっとで金が出る。そうすりゃ俺は金持ちの大旦那、お前はお嬢様だ! 貧乏人の娘じゃない、本物の貴婦人だぜ」
 そんな夢のような話を、目を輝かせながら本気で口にしていた父。
 親分肌で、坑夫の集落では顔役として慕われていた父。
 その父が、採鉱中の事故で命を落とした。
 坑夫たちは父を慕ってはいたが皆、金鉱をあてにして、ぎりぎりの生活をしていた。働き手を失った一家の面倒を見る余裕など、誰にもなかった。
 だからアデドラの母は、苦渋の選択をしなければならなかった。
 いや違う、とアデドラは思う。母に選択をさせたのではない。自分で、決めた事だ。
 母だけではない。幼い弟と、妹もいる。家族のためにアデドラが出来る事など、1つしかなかった。
 だから、人買いが集落にやってきた時、自分から名乗りを上げたのだ。
 母はアデドラを抱き締め、長い間、泣いていた。
 金が出たら、買い戻してやれるから。坑夫たちは、そんな頼りない事を言って慰めてくれた。

「後悔は、していないのかい?」
 馬車に揺られながら、男が言う。身なりの良い、紳士風の男。
 だが、その目の奥で冷たく輝く毒蛇のような眼光を、アデドラは見逃さなかった。
 馬車の中でアデドラは今、この毒蛇のような男と2人きりであった。
 自分は、この男に買われたのだ。何をされても受け入れ、受け流すしかない。
 そう思い定めながら、アデドラは答えた。
「後悔したら……あたしを、帰してくれるの?」
「意味のない質問だったな」
 毒蛇の視線が、アデドラの全身を舐めた。
「君のような美しいお嬢さんを、金のために手放すとは……まったく愚かな連中だ」
 男が、嘲笑う。
「そうまでして、この地にしがみつこうとする……出るかどうかもわからぬ黄金に、しがみつこうとする。まったく哀れな者どもだ。黄金など我々の手にかかれば、いくらでも生み出せると言うのに」
 毒蛇のような眼光が、ギラリと強まった。
「だが我々は、それをしない。黄金などよりも、ずっと価値あるもののために……お嬢さん、君が必要なのだよ」
「あたし、どこへ連れて行かれるの?」
 男が何を言っているのか全く理解出来ぬまま、アデドラは訊いた。
「どこへでも行くし、何でもするわ……わけわかんない話で不安にさせるの、やめて欲しいんだけど」
「君の行く先は、永遠だ」
 わけのわからぬ話を、男はやめてくれなかった。
「大勢の男の相手をさせられる、とでも思っているのだろう? そんな事はないから安心すると良い。我々の目的は、君の肉体ではなく……その美しい魂と生命そのもの、なのだよ」

 インディアンの少年がいた。
 彼は白人の集団によって家族を殺され、その復讐に燃えていた。生きて復讐を成し遂げたい、と思っていた。
 黒人の若者がいた。
 彼は奴隷仲間を助けるために白人の地主を殺し、逃亡中であった。
 同じように虐げられている大勢の黒人を、1人でも多く助けたい、と願っていた。生きて、戦い続けなければならなかった。
 白人も、いないわけではなかった。開拓民の若い男女。苦難を乗り越えて結ばれたばかりであり、これからも生きて幸せを掴みたいと願っていた。
 他にも、大勢の人々がいた。人種も年齢も、様々だ。
 皆、生きたいと願っていた。
 その願いが、アデドラの中に容赦なく流れ込んで来る。
 何をされても受け入れ、受け流す。そう思い定めた、つもりでいた。
 受け流す事など出来ぬまま、アデドラの心は今、打ち砕かれそうになっていた。
 声が、聞こえる。
「思った通りだ。これは、素晴らしい器になるぞ」
 毒蛇のような目をした、あの男。どうやら仲間がいるようだ。
「荒れ狂う魂を、生命を、余さず受け入れる器。探し出すのに、苦労したぞ」
「これで、出来る……今度こそ、完成する」
「いいぞ、これだけの人間の命を使えば……」
「我らの手で、作り上げる事が出来る……賢者の石を!」
 洞窟であった。
 岩場の上で、その男たちは嬉しげな声を発している。地下一面で燃え盛る炎を、見下ろしながら。
 その炎の中で、インディアンの少年と黒人の若者が、開拓民の夫婦が、他大勢の人々が、苦しみ叫びもがきながら灰に変わってゆく。
 アデドラは、洞窟の天井から鎖で吊られていた。
 痛々しく吊り下げられた少女の細身に、形のないものが群がり、ぶつかって来る。無理矢理に入り込んで来る。燃え盛る炎の中から噴出する、様々な思念の嵐がだ。
 生きたい。ただ、それだけの思念だった。
(お父さん……お母さん……)
 両親を、アデドラは思った。幼い弟と妹を、懸命に思い浮かべた。
 豪快で頼もしい父の姿が、美しくたおやかな母の笑顔が、愛くるしくはしゃぐ弟と妹が……アデドラの頭の中で、無惨に押し潰されてゆく。
 インディアンの村に押し入り、銃をぶっぱなして殺戮に荒れ狂う、白人たちによって。
 仲間を救うために鎖を振るい、地主を叩き殺さんとする、黒人の若者によって。
 荒野の岩陰で、嵐をやり過ごしながら愛の営みにふける、若い男女の切なく狂おしい思いによって。
 あらゆるものがアデドラの中で荒れ狂い、溢れ出した。
 吊られた少女の周囲で、洞窟の中の風景が歪んだ。その歪みが、いくつもの人面を成した。
 毒蛇の目をした男が、その仲間たちが、岩場の上で何やら慌てふためいている。
 いくつもの人面が、彼らをズタズタに食いちぎった。
 凄まじい不味さだけを、アデドラは感じていた。

 どのようにして洞窟から脱出したのかは、覚えていない。
 とにかくアデドラは、とぼとぼと帰り道を歩いていた。
 集落へ帰る。出来る事は、それしかなかった。
「お母さん……」
 父はもういない。が、母は優しくアデドラを迎えてくれるだろう。弟と妹も、飛びついて来てくれるだろう。坑夫たちも、自分の帰りを喜んでくれるだろう。
 自分には、帰る場所がある。
 そう思いながら、アデドラは足を止めた。
 集落が、燃えている。
 母も、弟と妹も、坑夫たちも、木の杭に縛り付けられていた。
 皆、酷い姿をしていた。生きていないのは一目でわかる。
 杭に縛り付けた屍を、儀式めいた手つきで切り刻みながら、踊り狂っている者たちがいる。
 インディアンの集団だった。
 ここは元々、彼らの村だったのだ。
 ある時そこへ、探鉱者の一団が押し入った。
 殺戮に荒れ狂う白人たちの姿が再び、アデドラの脳裏に甦った。
 黄金の夢に取り憑かれた、白人の探鉱者たち。その先頭に立って銃をぶっ放しているのは、アデドラの父だった。
 これで、この土地は俺らのもんだ。ここから出る金は、俺らのもんだ。待ってろよアデドラ、もうちょっとで俺は金持ちの大旦那、お前はお嬢様だ! 貧乏人の娘じゃない、本物の貴婦人だぜ。
 そう言いながら父は嬉々として、インディアンの母子を撃ち殺していた。
 正当な報復が今、行われた。それだけの事なのだ。
 自分に、誰かを憎む資格はない。
 そう思いながらアデドラは、辛うじて生きていた自分の心が死んでゆくのを、ゆっくりと感じていた。
 荒れ狂うものたちを、心に繋ぎ止めておく事が、出来なくなった。
 生きたい。魂が欲しい、生命が欲しい。
 それら声にならぬ叫びが、少女の全身から溢れ出す。
 風景が歪み、おぞましい人面を成し、凶悪に牙を剥いた。
 踊り狂っていたインディアンたちが、アデドラに槍を向け、弓を引き、斧を構えている。
 魔女。そう叫んでいる彼らに、人面の群れが襲いかかる。食らいつく。
「不味い……」
 魂の味を、アデドラは心で、全身で、感じていた。

 旅、などという格好の良いものではない。
 アデドラ・ドールは、ただ彷徨っていた。荒れ狂うものを、心の内に閉じ込めたまま。
 それらの求めに応じて時折、人の魂を奪い食らった。結果として人助けになった事も、ないではなかった。
 アデドラ自身は、どうでも良かった。心が死んだまま、魂の不味さだけを感じながら、彷徨い続けた。
 カリフォルニア・ゴールドラッシュの時代から150年以上を経た、ある時。
 ペンシルバニアの森の中で、アデドラはその若者と出会った。
 翡翠の色の瞳が、じっとアデドラを見つめている。
「読めないわ……何も、見えない」
 思った事を、アデドラはまず口にしてみた。
「暗く、汚く、濁っていて……何も、見えないわ」
「汚く濁ってる、か……そりゃそうだ。俺、バケモノだから」
 若者が、苦笑している。
「だから、俺なんかには近付かない方がいい……家に帰りなよ、お嬢さん」
 帰る場所など、とうの昔に失われている。
 そう言おうとしたアデドラだったが、口から出たのは別の言葉だった。
「……帰るわ。貴方と一緒に」
 何故そんな言葉が出たのかは、アデドラ自身にもわからない。
 ただ、見えたのだ。若者の、翡翠色の瞳の奥に。
 暗く、汚らしく濁り渦巻くものに押し隠されながらも、懸命に輝こうとしている何かが。
 瞳と同じく、美しく翡翠色に輝こうとしている、何かが。
 それを見たい、とアデドラは思った。思った事を、口にした。
「……あたしに見せてよ、貴方の魂を」

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『かいぶつ』の昼下がり

今年の夏は猛暑が続くらしい。とは、どこかで聞いた。
 そんな言葉は、『今年』でなくとも、毎年、もう数年、数百年と聞いてきたというのに、人間達はこぞってその話題に食らいつく。
「まるで蟻のよう……!」
 東雲杏樹は、手にしたスコーンを太陽へと掲げ、さも新しい発見をしたかのように両目で違う、宝石を詰めたような瞳を輝かせた。
 無限の時間の今は東京、猛暑と言われるこの夏の一日を、杏樹は友と認めたもう一人の長い時を過ごす、アデドラ・ドールと共に過ごしている。
 見た目だけで杏樹とアデドラ、二人の雰囲気を見てしまうならば、幼い、けれど優雅な家系の少女達だろうと、誰もが思うであろう。
 昼間に貸しきられたようなカフェの特等席を陣取った二人は、高価なアンティークのティーカップに上質な紅茶と、メイプルシロップやトッピングの数々が美しい茶菓子を口にしているのだから。
 そんな、所謂『上質な』カフェにおいて、二人は珍しい客ではあったが、上手く『父や母を待つ為にここに来て良いと言われた』とでも言っておけば怪しまれずに、ただの上客として『上質な』店員のもてなしを受けることができたのだ。
 自然界で起きる熱、という現象。それを人は『暑い』と言うが、杏樹もアデドラも、さほどそれを意識しないで生きてゆける。
 この場所が日当たり良くとも、クーラーの効いたカフェ内であるからという意味ではない。
 杏樹は長きを生きる妖怪として。アデドラは魂を食らうものとして、互いに『人ではない何か』としてこの世を観察することが出来たのだ。
「そうですね、小さな蟻……それは脆弱ですが、この世界になくてはいけないもの……」
「あら! それは大切、じゃあこのスコーンのひとかけらでもあげてみようかしら!」
 二人の少女は日の光りを浴びて美しく輝いていた。
 それはもう、まるで神か精霊のように。
 互いに身に纏うはゴシックロリータの甘い、お菓子のような姿。杏樹は深いあじさいのような瞳と、蜜色の瞳をもって、アデドラはクールなアイスブルーの瞳を光りにさらす。
 一皮むけば人間の一人や二人、いともたやすく命を奪える力を持った少女達は天使の囁きのような会話を紡いで楽しんでいた。
 こと、杏樹はジョークを楽しむ傾向にあったし、アデドラはそれを微笑みながら見ていることが多く、彼女達の言葉遊びは尽きない。
「働き蟻にスコーンは大きすぎます。ちょっとだけ蜜を垂らせば、きっと皆満足してくれるはずです」
「そう? でも蜜ばかりあげていると蜜のあるところを覚えて、また来るとおもうけれど?」
 犬のように、一度ではなく何度も、餌をやり続ければ蟻とて餌のある場所を覚え、またやってくるであろうとアデドラは言う。丁度、人間が金のなる木を見つけて群がるように。
 聞いて、杏樹は目を丸くして答えた。
 今の発言はまるで、アデドラがまた来て欲しい蟻が居ると言わんばかりの発言だと、そう言いたいのであろう。丸くした瞳には興味の色が浮かんでいる。
「いいんです、また来たければそれで」
「尽くすのね」
 アデドラの回答に杏樹は笑った。
 少女のように、女の含み笑いを乗せながら。
「そういうわけではありません。ちゃんと来てはいけない蟻さんがきたら、追い払いますよ」
 今度はアイスブルーの瞳を、輝かしい泉の如き慈悲を湛えて、アデドラが笑った。
 この少女の笑顔は本当に美しく、怖いと杏樹はふいに思う。
 蟻とは、矢張り人間、ないし人間に値するなにかであろう。尽くしたい者には尽くす、だが、それはまたアデドラの所にその『者』が戻ってくるように、小出しにして、毒のように侵食した愛情を捧げるという意味合いでもあるのだ。そこに、他人。『来てはいけない蟻』の入る隙間は無い。
「いいことだと思うわ。きっと蟻さんもアデドラの優しさに惚れこむはずよ」
 美しさの中に潜む毒を、杏樹は恐怖したが、反対に愛しもした。
 こういったアデドラのような友人は嫌いではない。
「本当に? 本当にそう思っています?」
「あら、疑わないで、これでも正直に生きている方なのよ」
 まるで友人同士の恋の話をしているようだった、いや、実際物事の本質においては『している』のだろう。
 好意をもった何かに対しては甘く、時にほろ苦く接する。これは二人共似通った習性だ。
「でも、だから、甘いだけではダメ。時には苦いコーヒーもあげないと……でしょう?」
 杏樹は言った、そしてアデドラも白い頬にほのかな色を灯しながら頷くのである。

 時を遡って二人の出会いを思い出そう。だが、その出会い話は別段に変わった出来事ではない。
 例えていうなら、彼女らの外見のように、年頃の少女達が出会い、互いにその感覚の領域を確かめ合い、意気投合するそれとほぼ同様と言えるであろう。
 ただし、杏樹とアデドラの場合は、子供らしい感性とは違い、人ならざる者の気配、お互いの気高く、しかし禍々しくもある一面に触れたからである。
 東京の人ごみの中、魑魅魍魎から悪魔の化身、神の化身までを垣間見ることが出来る世界で、杏樹はアデドラと出会い、その無垢なまでの愛らしさ、そしてその中に含まれるほんの少しの残忍さを垣間見た。
 同じく、アデドラは杏樹の、少女の姿をしているわりに凛々しいまでの高潔さ、人目を惹くゴシックロリータの愛らしさからは想像もつかないほどの底知れない闇を覗き、肩が触れることすら奇跡と思われるこの都会で言葉を交わしたのだ。
 恋人同士の約束でもなければ、前世からの親友でも全く無い。
 それでも、二人は子供のように出会い、意気投合し、茶会を開くまでに至ったのである。

 彼女達二人にはふさわしくも、おぞましい、昼間を選び、都内でも有名なカフェの一角を陣取る。贅沢なお嬢様のような光景だが、杏樹もアデドラも紛れも無い人外。人ではない何か、だ。
 太陽の光りをその身に浴び、宝石のように(実際に本物の宝石をあしらっているのかもしれなかったが、互いにそういった野暮なことは聞くことは無かった)輝く衣を纏っての贅沢な時間、交わされる言葉はしかし、恋の話や友人、学校の日常ではなく、この世で出会った恐ろしくも華麗な話である。
「それで、アデドラの大好きな蟻さんはどんな蟻なのかしら?」
 身を乗り出して、杏樹が問う。
 彼女もアデドラも紅茶を好むが、そのカップに口をつけているのはどちらかと言うと黒髪に静かな少女であることが多い。
「蟻……とは言わないかもしれません……しいて言うなら……」
「言うなら?」
 お互い、人ではないと分かっているから、アデドラの反応は杏樹にとって『意外』という言葉以外のなにものでもなかった。
 永久に続くかと思われる二人の命は、だからこそ、人が理解しえぬほどに孤独であるのだ。
「杏樹には何も無いのですか? 蟻とは言いませんが、なにか一つ、面白いものは……?」
 杏樹の問いに、アデドラは同じく問いで返した。
 表情は杏樹よりアデドラの方が薄い印象が強く、柔らかな銀の髪を蝶のようになびかせる少女とは違い、黒髪の少女は人形作家の作った最高傑作の如き表情で興味を語る。
「面白いもの……それってとても大切なもののこと?」
 生きていく中で、自分達は様々な人間の死を目撃し、時に落胆し、そして狂気におぼれたことすらある。これからも続く未来、そんな短い時を生きる他の『何か』に心を移すのだろうか。
 杏樹は、はたと考えて、唇に指を置いたかと思うと、すぐに何かを思いついたように小さく微笑んだ。
「面白い、のかは分からないけど、確かに今は大切なものを見つけたわ」
「……ふふ、正直ですね。あたしもです。あたしも……同じ」
 今までは世の中の一つの命を蟻、とも例えた人ならざる彼女達、けれど、心の中には互いに一つの宝石を持つようになったようで、相手の姿を思い起こしたのか、本当に、まるで恋でもするかのような表情で、静かな朱を浮かばせるのである。
「どんな『大切』ですか?」
「あら、私が言ったらアデドラも言いなさいよ?」
 光の下で行われる、子供の秘密会議のような光景。唇を耳に寄せて、そっと囁かれるのは二人の宝物の話だ。
「しいて言うなら、月と星の魔法石……かしら? ほら、言ったわ。アデドラの番よ」
 大切なものが人間であるのか、または人ならざる何かなのかは分からなかったが、たった六文字で伝えられた情報に、アデドラは「少ない説明ですね」と、零れ落ちるような笑みで肩を笑わせる。
 杏樹はどちらかといえば、もっと大胆不敵で、こういった話はあっけらかんとするものだと思っていたと、アデドラはそう言いたいが、そこは互いに少女の心も持ち合わせる者同士、秘密会議は続いていく。
「そうですね、杏樹の例えに乗るなら……運命を司る緑柱石。とでも言えるでしょうか?」
「……ふうん、随分とご大層な表現ね」
「杏樹の表現も素敵です」
 二人は大切な物を交換しあった親友のように、赤くなりながらも顔を近づけ、内緒話に花を咲かせた。
 相手の『大切』がどんなものであるのか、探り合うよりは、互いに見つけた幸せがあるという現実を喜び合うように。他の話は一切せずに、その溶けてしまいそうな表情で全ての気持ちを察するのである。

「美味しいお紅茶……素敵な時間……」
 まだ日は空に浮かび、杏樹とアデドラの幸せを眺めている。だが、手元のティーカップから飴色の飲み物がなくなった時、二人の秘密会議は終了となってしまうのだ。
「これで終わるわけではないわ。でしょう?」
 白磁のティーカップをテーブルに置き、アイスブルーの瞳を空に向けたアデドラへ、杏樹は言った。
「また、こんな日を過ごせることを楽しみにしています、杏樹」
「私もよ、アデドラ」
 二人に時間という概念はとうに無いのだから。
「そろそろ行かなきゃ、お会計は二人で、ね」
 外見が少女であるということに矢張り変わりなく、二人は秘密会議を終えると同時に、入ってきた時と同じような嘘をつき、金銭を払い、カフェを後にする。
 もう少しで父と母が指定の場所に迎えに来るから。とでも言えば、カフェの人間は矢張り、金銭に見合った笑顔で送り出してくれるに違いない。
 作り物のような、整った少女が二人、並んでカフェを後にする。
 最後に、杏樹はアンティークの巻き時計を途中で眺め、そんな彼女をアデドラは微笑ましく確認した。
 人間の多いこの世界を歩くには時計という、時間を計るものが役に立つものだ。
(月と星の魔法石……一体どんな方なのでしょう?)
 なにも、杏樹は今しがた話した『大切』に会いに行くとは言っていないが、彼女が時計を気にする姿はどこか、少女より女じみていて、アデドラはその姿に軽い愛おしさすら感じるのだ。
 別れの挨拶はせずに、貴族が挨拶を交わすような、スカートの端を持ち上げ、軽いおじぎをして。背を向けたならば、次の秘密会議についての日程と、大切なものへの沸きあがる感情が止まらない。
(あたしも会いに行きましょう……)
 折角、この大切な気持ちを分かち合う仲間が出来たのだから、沸きあがる感情のままに、顔を上げて行くのも良いだろう。
 何もかもが作り物のような、アデドラの表情にも太陽が降りてきた。
 人の世は醜くもあり、淀んだ世界ではあったが、小さな光りは彼女達の心の中の優しい宝石となって輝き続けるのだ。

END

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