Sinfonia.42 ■ 運命に翻弄された者

――――激化する争い。
 例えば争いを知らぬ者が見れば何が起こっているのかと疑いすら抱き、争いを知る者が見れば言葉を失い、常識が音を立てて崩れ落ちるような光景が、勇太と霧絵によって引き起こされていた。

「疾れッ!」

 霧絵が腕を振るえば、彼女の力によって物質化した怨霊が黒い刃となって中空を切り裂き、勇太へと肉薄する。その数は5本。追いかけるように次々と勇太が飛んだその場所からも勇太を追いかけるように伸び、勇太が方向を転換すれば黒い怨霊の槍もまたそれを追う。

 中空で振り返り、小さく舌打ちした勇太が手を翳す。

「光よッ!」

 円状に広がった白い光が勇太を守るように立ち塞がり、怨念の刃を防いでみせた。甲高い金属同士がぶつかり合うような音を立てて拮抗する。
 後方に飛ばされる形になった勇太はちらりと霧絵を見ると、中空を飛ばされながらも運動エネルギーを利用するかの転移する。霧絵の背中を正面に捉える形で後方に飛び、空中で勇太が腕を振るう。

「――見えてるわ」

 霧絵が腕を上へと振り上げると、怨念が霧絵を囲むように円状に広がり、勇太が放った神気の篭った念の槍を弾き飛ばした。

「そうなると、思ってた!」

 言葉を区切りながら、勇太はさらに転移すると霧絵の真上へと移動した。

「えぇ、私もそうだと思っていたわ」

「っ!? く――ッ!」

 空中に姿を現した勇太と、怨霊のそれに包まれた中から霧絵の視線が交錯する。同時に霧絵が放った怨念の槍が勇太へと真っ直ぐ伸びるが、勇太が辛くも転移を成功させて逃げてみせた。

 互いに再び睥睨し合うように距離を取り、二人は一時的に攻撃の手を止めて対峙した。

「……なぁ。あんた、どういうつもりだよ」

「どういうつもりって何かしら?」

「とぼけるなよ。あんたの攻撃はさっきからまるで……――」

「――手を抜いているようだ、とでも言いたいのかしら?」

 勇太の続きを紡いでみせた霧絵は、ふっと小さく肩をすくめた。

 確かに霧絵との戦いは苛烈だ。
 ファングと戦った時も、かつてこれまで戦ったどの相手よりも強力な力を有しているのは、勇太も感じ取っていた。だが、それでも何か――どこか手を抜いて攻撃を仕掛けているかのような節が見られる。

 ――時間稼ぎを目的としているのなら、百合を素直に通しただろうか。
 いや、それはあり得ないと勇太は最初の憶測を捨てる。

 ならば何故、こんなにも拍子抜けするような戦い方をしているんだという話になるだけだ。何度かの葛藤と疑問はいつまでも勇太の脳裏に焼きつき、ついにはそれを口にした。

 そんな勇太に対して返ってきたのは、霧絵が遠くを見つめる表情だった。

「……工藤勇太。思えば私達とアナタとの因縁は長く続いたものね。霊鬼兵として、百合のオリジナルとして、長く戦ってきた相手――宿敵と言っても良いのかもしれないわ」

「……何が、言いたいんだ」

「そう焦らないの、工藤勇太。
 ――ねぇ、アナタは自分の能力を呪った事はないかしら」

 その問いかけは、尋ねるような口調ではなく誰もが当たり前に抱いた感情をなぞるような、誰しもが通ってきた道だと告げるような、そんな口ぶりだった。思わず言葉を失った勇太へ、霧絵は答えなど訊かずとも解っていると言わんばかりに続けた。

「私達『虚無の境界』はね、そういう異能者が集まり、互いの深い傷や悲しみを背負った者達が世界を呪い、絶望した者達。私は――巫浄霧絵は盟主として彼らの為に率先して世界と戦いながら、皆を纏めてきたわ。でも、今回の戦いで多くの同胞が散っていったわ」

 静かに告げる霧絵の空気からは、奇襲をかけて戦いを再開しようという気配は感じられなかった。

 ただ霧絵は静かに続きを口にする。

「……いつからだったかしらね、世界を憎むようになったのは。私達は私達の生きる世界を欲していたのかもしれない。だからこの世界を――全てを無に帰すと、そう誓っていたのかもしれない」

 ――――もしも自分だったら、どうなっていただろう。
 勇太の脳裏にふとそんな疑問が浮かんだ。

 もしも自分が武彦と会わなければ。IO2と敵として出会っていたら。
 それよりも先に虚無の境界に接触されていたならば。

 自分は、一体どうなっていたのか。

 ありありと思い浮かぶ、自分がそちら側にいる姿。
 それはまるで、それが当然とでも言うような想像だった。

 確かに勇太には、霧絵達の境遇を全く理解出来ないという訳ではなかった。

 異能。
 一般的に知られていない力だからこそ、爪弾きされ、利用されるのだ。
 もしも『虚無の境界』がなかったとしても、なくなったとしても、第二・第三と彼らの跡を継ごうという者は出て来るかもしれない。

 ――それでも、勇太は止まるつもりなんてなかった。

 例え第二、第三と続いても、きっと勇太はまたそれを止めるだろう。
 どれだけ自分が傷ついてきたとしても、その根底に異能という力が原因にあったとしても、それでも他者を巻き込んで良い理由にはならない。

「だからって……。だからって、全て許されると思ってるのか……! 日本をメチャクチャにして、凜を巻き込んで……! それでも許されると思って――!」

「――えぇ、思ってないわ。だから、アナタがここにいる」

 憤りのままに声をあげようとした勇太へ、霧絵は相変わらずの口調で続けた。

「私は、もう止まれない。ここに来るまで、あまりにも多くを犠牲にしてしまった。彼らが望んだ未来を作り上げる為に――私は止まる訳にはいかない」

 ――語り合いは、もう終わりだ。
 そう言わんばかりに霧絵の周囲を怨霊が蠢き、霧絵からは今まで以上の圧倒的なまでの禍々しい力が溢れ出す。

 互いの実力は、ある意味では均衡を保っていると言えた。
 これまで互いに決め手に欠けた応酬を繰り広げてきたが、それほどまでに互いの力は近い位置にまで上り詰めていたと言えるだろう。

 僅か齢17にして『虚無の境界』の盟主たる霧絵とぶつかり合える程の高みへと辿り着いた勇太の実力を褒めるべきか。或いは、そうまでして上り詰めてもなお、未だ抜く事が出来ない霧絵の深淵たる実力の見て驚愕すべきかは、誰にも答えを出せないだろう。

 霧絵の胸の内に、ただただ世界を恨む憎悪があるばかりではないと推し量ることは出来た。それは確かに自分が歩みかねなかった道であり、気持ちが理解出来ない程に狂っているという訳ではない事も、勇太には判る。

「……確かに、あんたの言う通りだ。能力者――異物とも呼べるような俺達には、今の世界は酷く生き難くて、息が詰まるかもしれない」

 ――――だけど、と勇太は続けた。

「それでも、俺には守りたい人達がいる。守りたい生活がある。普通の高校生生活とか、貧乏な探偵の助手をする生活だとか……。守りたいモノが、多いんだ」

 神気を宿した勇太の力の余波が、室内の暗闇を押し返すように弾ける。

 闇と光、黒と白の世界。
 対極的な二人ではあるが、根底にある部分はどこか似ているような、そんな二人の意見は――この瞬間に決裂した。

「なら、止めて見せなさい」

「絶対に、止めてみせる!」

 二人の戦いが今、渾身の力を込めた一撃によって決着をみようとしていた。

 ◆ ◆ ◆

「――クソッタレ……ッ!」

 悪態をついた武彦が瓦礫の物陰に身を寄せながら弾丸の薬莢を全て落とし、リボルバーに弾丸を装填させた。

 ――「誰もいない街」。
 筋肉や臓器を彷彿とさせる赤々としたモノが瓦礫に飛び散り、張り付いては鳴動しているそれらにはもう目が慣れていると言って良いだろう。
 しかしそれはあくまでも、状況に対する整理がついたというだけに過ぎず、ことヒミコへの攻撃方法は未だに見つかっていなかった。

 撃ったはずの銃弾が虚空を貫き、にたりと笑ってみせる。
 ヒミコの狂気とも取れる世界で、ヒミコのテリトリーでの戦いというのは明らかに分が悪く、武彦自身も焦燥感に駆られつつあった。

「隠れんぼは楽しくないね」

「っ!?」

 目の前に姿を現したヒミコに瞠目しながらも、武彦は急いで横へと飛んだ。瞬間、武彦の立っていたその場所に向けられていた黒い銃口が火を噴き、瓦礫に穴を空けた。

 能力を跳ね返すという対異能者特化型かと思ってみれば、能力のない自分には銃を使って攻撃を仕掛けてくるのだ。これ程厄介な敵などいない。
 そんな事を考えつつも、武彦が再びヒミコの額を撃ち抜くが――ヒミコはニタリと笑ってそれを素通りさせてみせる。

「……チッ、どうなってやがる……」

 勢いのままに、もはや廃墟となっているマンションの中へと駆け込んで武彦が独りごちる。
 何度攻撃を仕掛けても、ヒミコの身体に攻撃が当たるはずがない。
 だと言うのに、ヒミコは実弾を撃って来るのだ。

 実体が見えない相手との戦いとも違う。実体があるにも関わらず攻撃が届かないという不可解さが、武彦の判断を狂わせる。

「アハハハ! 隠れてないで出て来てよ、ねぇ!」

 外からは狂気に満ちたヒミコの声が聴こえて来る。

「……チッ、何か糸口でも見つかればまだ反撃も出来るんだが……」

 外で叫ぶヒミコの声に苛立ちながら、武彦は再び独りごちた。

 先程までの戦いで分かった事と言えば、ヒミコはわざわざ建物の中にまで追いかけて来るような真似はしない、という事ぐらいだ。
 不意に姿を現しておきながら、建物の中にまでは深追いしないという慎重さがある。そのちぐはぐ具合もまたヒミコの奇妙な点とも言えるだろう。

 ――考えろ、考えろ……! いくらテリトリー内だからって自分に実体がないのなら、攻撃なんて出来るはずがない……ッ!

 必死に冷静になって頭を働かせようと試みる武彦だが、それでもすぐに答えが出るはずもなかった。

 幸いにも遮蔽物に姿を隠せる場所ではヒミコの攻撃は止む。
 だが、ここで時間を喰っていては霧絵達と対峙している勇太達と合流出来ないのだ。

 ――もしも勇太が相手だったなら、こういう攻撃方法も可能だろうが……――ッ!

 ふと、武彦の脳裏に一つの推測が浮かび上がる。

 ブツブツと自分の仮説を証明するように呟くと、武彦はポケットから潰れていた煙草を取り出し、咥えて火を点けた。

「……なるほど、そういう事か」

 武彦はにやりと口角をつり上げた。

「あんまり、ナメんなよ? 大人ってヤツを――ディテクターって肩書きを、よ」

 反撃の狼煙は、紫色の煙となって静かに虚空へと漂っていた。

 to be continued….

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sinfonia.41 ■ 2人の少女のIdentity

――扉の向こう側から、戦いの音が聴こえて来る。
 凛は磔とも呼べるような状態にありながらも、この切迫した状況を心のどこかで楽しんでいた。その理由は一つである。

 勇太が自分を助けるシーン。
 さながら、凛がまだ子供であった頃に夢見ていたお伽話のような、王子様がお姫様を助けるシーンのそれが、今こうして自分の立場に訪れているのだ。――もちろん、この状況を楽しめる程の肝の太さを発揮した姫などいるはずはないが、そんな事は凛にとってはどうでも良い。

 大事なのは、このシチュエーションの主役が自分と勇太であるという事だ。

 凰翼島と呼ばれる小さな島の巫女。そんな生き方を続け、狭い世界の中で終わろうとしていた一生。鳥籠の中でしか生きられず、それを悲嘆するでもなく受け入れてしまっていた凛を、勇太は助けてくれたのだ。

 それは勇太にとっては当たり前な事で、凛にとっては奇跡としか呼べない内容であった。

 以来、凛は勇太の過去を教えてもらい、IO2に所属する決意をしたのだ。
 鬼鮫からの推薦もあり、異例の若さでIO2エージェント見習いとして東京へとやって来た凛は、誰よりも向上心が強かった。どれだけ厳しい状況に追い込まれても、気持ちが揺らぐ事もなかった。

 それは全て、自分が勇太を守る為だ。
 かつての恩を返したい、などという殊勝な心掛けもあるが、恋心を抱いていないと言えば嘘である。下心ありきで東京へとやって来た彼女にとって、今の状況は望んでこそいなかったものの、それでも舞台の上で描かれるような救出劇を望んでしまう。

 ――――そして、今。
 ゆっくりと凛の視線の先にある扉が開かれた。

 心細い気持ちだって確かにあったのだ。
 虚無の境界と呼ばれる、最悪にして最凶のIO2の仇敵。その盟主である巫浄霧絵によって拐かされ、このままでは自分は知りも信奉もしていない〈虚無〉の器とさせられるかもしれないという不安があったのだ。

 だからだろう。
 凛は扉の向こう側からやって来たのが百合だと気付き、一瞬であるが顔に落胆の色を浮かべつつも、ふっと――まるで安堵したかのように柔らかな笑みを浮かべて、百合をまっすぐ見つめて、告げる。

「チェンジで」

「……アンタねぇ……」

 不安は吹っ飛び、消え去り、ただ単純に落胆だけが残ったようだ。
 みるみる凛が頬を膨らませていく。

「何で百合さんが来るんですかっ! 空気読んでくださいよっ! ここは勇太が来て劇的に救出する場面じゃないですかっ!」

「あー、ハイハイ。どうせそんな事だろうと思ったわよ、ったく。でも、今アイツはそんな余裕はないわ。それぐらい、分かってるでしょう?」

 フン、とそっぽを向いて口を尖らせた凛に呆れた様子で百合が尋ねると、凛はにへらと笑ってみせた。
 しかし、その笑みは――――

「……もうっ、もうちょっとぐらい心配そうに駆け寄ってくれても良いんですよ。それに、結構しんどいんです、今も」

「な……ッ!」

 ――――薄暗い室内。
 燭台の上で揺れる炎が映し出した凛の浮かべた笑顔。その顔を歩み寄り、ようやく初めてまともに見る事が出来た百合には――明らかに何かをやせ我慢しているかのようにしか見えなかった。
 見れば、薄っすらと額や頬を汗が伝い、黒い髪が張り付き、肩で息をしているのか僅かに上下しているではないか。

「バカッ! くだらないこと言ってないで、早くそう言いなさいよ!」

「あはは……、すみません」

 悪態をついて凛を叱責しながらも、百合はそれが自分の失態であったと思い知る。凛は弱った自分を極力見せまいとするという、良く言えば自分を律する強さを持ち、その反面で強がり過ぎてしまう節があるのだ。
 勇太が命の危険に晒された時こそ取り乱していたが、こと自分の事になればそうなるようなやわな性格ではないだろうと、百合も心の何処かで理解していたはずだ。

「すぐにそこの魔法陣みたいなのから、アンタを移動させ――!」

「――ダメです。今私が動けば、虚無のエネルギーが周囲に溢れ、間違いなく危険な何かが起こってしまいます」

 慌てて凛を助けようとする百合であったが、それを制したのは凛自身だった。

「どういう、ことよ……」

「……〈虚無〉はすでに、私の身体に多少なりとも干渉を開始しています。要するに、今の私は〈虚無〉の器であると同時に、〈虚無〉がこの場所に現れないように抑えている蓋のような状況です。下手に動けば、間違いなく集まった〈虚無の残滓〉とも呼べるものが溢れ、この付近に悪い影響を及ぼしかねません」

「――……ッ、そんな……。じゃあ、間に合わなかったって言うの……?」

 百合の言葉に、凛は首を左右に振ると、告げた。

「違います。――〈虚無〉と私、どちらが勝てるか。これは私の戦いなんです」

「……え?」

 凛の言葉に、百合が言葉を失い尋ね返した。

「〈虚無〉とは恐らく、人の負の念――つまりは怨恨の念が人の形を成し、偽神の一柱となった存在でしょう。これを祓わない限り、例えそれが虚無の境界でなかったとしても、この惨劇が再び起きないとも限りません。
 しかし、今回の虚無の境界の行いによって、それがこの世界に流れ込んできたのです。これは――考え様によってはチャンスだと言えませんか?」

「な、何言ってるのよ……! たった一人でそれを打ち祓うなんて真似が出来る程、人の恨み辛みは浅くも弱くもないはずよ! 仮にも神の一柱になれる程の大きな力なのだとしたら、そんなものを相手にしたら、アンタの精神が保てるはずないじゃない!」

「……鋭いですね、百合さん。恐らく、私はこの〈虚無〉と戦っても、良くて相打ち。悪ければ――消滅するでしょう」

「――ッ!」

 凛の言葉に、百合の言葉が詰まる。

 百合の言葉はひどく真っ当な推測であり、正しかった。
 巫女として神気を操れるとは言え、ただの巫女にそこまでの事が出来るのかと言われれば、答えは――目に見えている。それは十二分に凛にも理解出来ているのだ。
 恐らく、この戦いで自分が出来る最善は、相打ちだ。悪ければ無駄死でもあるが、それでも〈虚無〉が具現化された際に弱体化出来るのは紛れもない事実である。

「……どうして、アンタがそこまでするのよ……!」

「守る為ですよ」

 絞り出すかのような百合の言葉に、はたして凛はあっさりと答えてみせた。

「この腐った世界を、守ろうっていうの? 命を投げ出してまで守ろうなんて、そんなの――」

「――いいえ、それは違います。私利私欲の為に、私は戦うんですよ」

 あっさりと、凛は告げる。

「私は守りたいんです。ただ一人の人を、そんな彼が愛した人々を、世界を、環境を。もしもそれを私の力で助力出来るのなら、それ以上の事はありません」

「……な、によ、それ……。だって、そうまでしたって、そこにアンタはいないかもしれないじゃない……!」

「えぇ、そうかもしれません。でも、それでも良いんです。彼を――勇太を守れるなら、私は自分の命を代償にしてでも構いません。それが、私が私で在る理由です。
 それに、アナタも同じ考えなんじゃないですか、百合さん?」

「――な……ッ、こ、こんな時に何言ってんのよ、アンタは!」

「私、百合さんなら勇太を守ってくれると思うんです。だから、もしも私がいなくなって勇太が悲しんでいたら、支えてあげてくださいね? 百合さんなら、百歩どころか億歩ぐらい譲れば、任せても良いと思ってるんです」

 ――今でも、辛い状況が続いているのだろうか。
 百合は凛の笑顔が引き攣っている事に気付きながらも、そんな凛の強がりを聞いていた。

「だからどうか。――――彼の事を、お願いしますね」

 その時の凛の顔を、きっと自分は一生忘れる事はないだろう。
 泣きそうな、それでいて満足気で、なのに不安があって、酷く引き攣った笑みだった。こんな時ぐらい、自分に任せろと格好良く笑ってみせるならいざ知らず、それにしてはあまりにも不格好な凛の言葉に、百合はぐっと歯を食いしばり、俯いた。

「―――――言って――――わよ……ッ!」

 俯いた百合が、その拳をきゅっと握り締めた。

 そして顔を上げ、キッと凛を睨みつけるように涙の溜まった双眸を向け、手を横に振った。

「バカ言ってんじゃないわよ、凛ッ!」

 ――――空間を、繋ぐ。

 強制的に、ほんの一瞬で凛を陣の上から移動させた百合は、凛を自分の真後ろに移動させると、その身体を絞っていた錠を彼方へと消し去り、陣を睨みつけた。

「な、何で……! こんな事したら――!」

「――勇太が好きって、言ったわよね。なら憶えておきなさい――」

 背中を向けたまま、百合は続けた。

「――アイツも私も、自己犠牲の上に成り立つ平和なんて、認めないッ! どんな結果になろうと、誰かがいなくなってしまう結論なんて、絶対に認めたりはしないわッ!」

「……百合、さん……?」

「神の残滓だか何だか知らないけどね、私は昔からこれだけは譲る気はないわ。――私の願う道を、歩むと決めた未来を邪魔するのは、例え相手が神であっても許さない。それが私の〈私たる所以〉――《アイデンティティ》よ。
 アンタは私に勇太を譲るって言ったけど、おこぼれで譲ってもらうなんて――冗談じゃないわ。この神の残滓とやらも時空の彼方に消し飛ばして、その上で正真正銘ケリをつける。私は自分の道を、自分で決めて自分で歩く。それだけはどんな状況であっても誰にも譲ったりはしないわ。
 色々話す必要もありそうだし、アンタの決断は立派だとは思うけど、こんな状況で悠長に喋っていられる余裕なんてないでしょうし。
 だから――」

 早口で捲し立てるように告げて、百合が振り返り――凛へと手を差し伸べた。

「――まずは、神殺しから始めるわよ」

to be continued,,,

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sinfonia.40 ■ 決戦―④

この世界には大別して3つの力が存在する。
 IO2ではこれらを、正負の2種と人為の1種によって括り分けている。

 まず〈正〉に当たるのは、一般的に神気と呼ばれる力だ。
 清浄、静謐、正道、聖。ありとあらゆる〈せい〉を、日本古来より縁のある陰陽道の〈陽〉となぞらえて表現した、〈正しき力〉といった意味だ。

 そして対立する〈負〉の力は、怨嗟や怨念といった〈負〉の要素を取り纏めて読んだものだ。
 腐敗、不和、不浄、不義。そうしたあらゆる〈ふ〉を、これもまた陰陽道の〈陰〉になぞらえて表現した〈負の感情〉といったところだろう。

 そうして最後に残ったのが、〈人為〉――つまりは人によって起こる力。
 そのどちらにも分類されない〈能力〉だ。

 ――――さて、これらの現実を知るIO2職員だからこそ、その衝撃はまさしく大きな物であった。
 目の前に映ったモニター映像。
 今回、ついに東京駅の下層でぶつかりあった『虚無の境界』の盟主――巫浄霧絵と、IO2に協力している一人の少年、工藤勇太の戦いを、百合の胸元についたピンカメラから送られてくる映像越しに見つめ、唖然としていた。

 本来、どんな〈能力者〉と呼ばれる存在であっても、先述された3種の内の1種だけに力は染まっていく。詰まるところ、人為の力である〈念動力――《サイコキネシス》〉の系統を操る勇太とて、〈人為〉の枠組みにある存在であって〈正〉と〈負〉の力のどちらにも所属していないはずなのだ。

 だが、勇太は今、自身の〈人為〉と〈生〉の力を組み合わせ、特徴的な白い光を伴った攻撃を以って霧絵の〈負〉の力と対峙しているではないか。

 有り体に言えば、そう。――有り得ない光景である。

 驚愕と共に徐々に沸いてきた希望が、IO2職員達に伝播していく。
 その光景を見つめながら、鬼鮫は柄にもなくサングラス越しにどこか遠くの情景を思い浮かべるように目を細め、誰にも聴こえない小さな声で呟いた。

「……今回の戦いが終わった時、勇太。お前は――もう普通の高校生だなんて言ってられやしねぇだろう。この戦いで、俺やディテクターが隠し通せる範疇をとっくに超えちまった。
 皮肉なモンだ。お前はこの戦いで英雄となると同時に――自由を失うかもしれねぇんだからな……」

 そこまで言って、鬼鮫はそれ以上を口にしようとはしなかった。
 ただそこにあったのは、かつて戦った強敵とも言える厄介なガキが、再び敵になるかもしれない可能性と、後輩として生きる可能性を描いた未来だ。
 正負のどちらにも染まり得る力だからこそ、鬼鮫はそのどちらもを危惧した上で若人の未来に想いを馳せるのであった。

 そんなIO2内での葛藤など知る由もなく、勇太と百合は見事に霧絵を翻弄して見せていた。

 禍々しい黒い怨念の塊は、時には武器となり、時には毒となってこの場所を覆い尽くさんとばかりに広がっている。その光景は――悍ましいものである。

 闇が闇以外を許さんとばかりに広がり、それを勇太が凛から預かった神気によって祓いつつ、霧絵に向かって反撃する。水の上に垂らされた油のインクがぶつかり合い、交じり合うかのように絡んでは、相殺されて消えていくような、力と力の均衡。

 正直に言って、百合に出来る事はなかった。
 毒のように広がった霧絵の力に触れれば、正気を失ってしまうだろうと本能が警鐘を鳴らしていた。

 勇太もそれを理解しているのか、百合には自分より前に出るなとだけ告げて先程から戦いを続けている。それでも勇太の態勢が不安定になる度に、〈空間接続〉を用いて勇太の身体を危機から脱しさせたりと、その支援力は絶大とも言えるだろう。

 ――強い、わね。
 素直に、百合は霧絵の実力を目の当たりにして心の中で称賛していた。

 圧倒的な力を持っていた事も、その姿に絶対的な何かを感じて崇拝するかのように付き従っていた過去もある。だが、ここまで本気で戦っている姿など、百合とて一度たりとも見たことはない。
 それはつまり、彼女が本気にならざるを得ない状況を作り上げ、そこまで追い込み、そして戦える存在がいるからこそ、訪れた状況だと言えるだろう。

 扱いが難しく、攻撃性に乏しい神気を自身の能力に乗せて攻撃へと転換する。
 そうする事で、多種多様に操れる怨念の力を武器にしている霧絵とあまりにも酷似していながら、しかし力の方向性は正反対の戦い。
 どちらが先に崩れてしまうのか、まさしくそれは神のみぞ知るというものだろう。
 それぐらい、互いの力は拮抗している。

 ――ならば、自分はどうするか。

「勇太、聞いて。私は隙を見て奥にいる凛を助けに行くわ。道を作れる?」

「危険だ。その先にあの力が充満しているかもしれない」

「だったら、それを含めてどうにかして」

「えぇっ!?」

 不意に近くで着地した勇太に無茶ぶりする百合に、勇太も苦い表情を浮かべた。

 確かに凛の状態も気になっている。
 これまでの情報から察するに、虚無と呼ばれる擬似の神とも呼べるような存在が降臨するには巫女の魂――つまり凛が必要になるのだろう。

 だが勇太が言う通り、今の霧絵がまき散らした力が凛の近くにも漂っているかもしれない以上、下手にそこへと進むのは危険極まりない。

 それをどうにかしろと言うのだから、どうやら百合は勇太が出す結論に従うつもりなのだろうが、それを信頼と取るか重責と取るかと言われれば、それすら勇太にとっても悩ましいところである。

 どうするか。
 悩んでいた勇太に答えたのは、他ならぬ予想外の人物であった。

「百合、そこには私の力も届いていないし、行くと良いわ」

「な……!?」

 霧絵。
 彼女自身が、巫女として攫ったはずの重要な駒に関する情報をあっさりと漏らしてみせたのである。
 これには勇太と百合の表情も驚愕に染まった。

「どういう、つもり?」

「どうもこうも、この戦いにおいて足手まといであるアナタがここにいても、しょうがないでしょう? どうせ隙を見て行くつもりなのでしょうし、それは言ったところで構わないわ」

「……安全だと言われても、信じられるだけの根拠がないわ」

「あら、以前は盲目的と言っても良いぐらい信じてくれたのに、残念ね。でも、答えは単純よ。儀式の間に私の力は邪魔にしかならない。それに、せっかくの巫女を傷つけて使い物にならなくなってしまったら意味がないでしょう?」

 それは確かに道理だ。
 当然、そうして弱点を晒す霧絵の不可解さは存在しているが、特に間違った理論という訳でもない。
 しかし、果たして信じて良いものか。
 それを判断しかねる、というのが百合の本音だ。

 ――それにしたって、どういうこと?
 攻撃の手を緩めてまでそんな言葉を口にした霧絵の行動に、百合は疑問を深めていた。

 罠に嵌めようというのであれば、攻撃の手を緩めずに戦っている素振りを見せて道を開く。そこを虚を突かれたかのように振る舞う方が確実であり、同時にそれはひどく霧絵らしい罠だと思えただろう。

 もともと、思わせぶりな口調であることは知っている。
 知ってこそいるが、特にそれをわざわざ疑われるような言い回しをするような性質は、霧絵には見られなかったはずだ。

 自分が仲間だったという点すら利用し、騙そうという霧絵の狡猾さか。
 或いは、ただの本音か。
 
 疑心暗鬼が生じつつある心境で、百合は躊躇っていた。

「――こうすれば問題ない!」

 その時だった。
 突如横合いから聞こえてきた声。

 神気をシャボン玉のように膨らませて百合の身体を覆ってみせると、勇太は唖然としていた百合に向かってサムズアップをして告げた。

「勇太オリジナル神気コーティング!」

「……ダサいネーミングセンスね」

「っ!?」

 はぁ、と溜息を吐きながら告げた百合に、勇太はショックを受けたようだ。
 そんな勇太には見えないように、百合は小さく笑った。

 ――いつもそうね。私が抱いた躊躇いや戸惑いを、いつもそうやって強引にでも打ち砕く。
 それが勇太なのだ、と。

「まぁネーミングセンスが壊滅的なのが今になって露呈したからって、別にどうという事はないわ。でもこれで進んでも大丈夫そうね」

「……ねぇ、百合さん。百合さん。ネーミングセンスも何も深く考えてなかったのは確かだけど……! 言い方とかあるんじゃないかな、って思うんだよね、俺!」

「……行って来るわ」

「あっ、ちょっと! 何で今ちら見したのさ! 残念な人を見るような顔して、何さ、それ!」

 もはや緊張感のかけらもない会話であった。
 百合も大声でツッコミを入れて張り合おうかとも思ったところではあったが、さすがに百合は外聞というものを気にする。
 どうやら戦いに熱中して目の前の少年は忘れてしまっているようだが、百合のつけたピンカメラ越しに、「工藤勇太のネーミングセンスについて」IO2でも評価が下ったなどと本人も思ってもいないだろう。

「……行くわね」

「あぁ。気を付けて」

 ゆっくりと歩いて行く百合が霧絵を警戒し、勇太もその姿を見送る。
 しかし霧絵は特に動くつもりがないようで、腕を組んで立ったまま百合を見送ると、勇太から向けられている視線に気付いて振り返った。

「どういうつもりだ」

「……素直に通した理由が、そんなに気になるかしら?」

「当たり前だ! 凛を攫ったのに信用出来る訳ない!」

「……えぇ、そうでしょうね。そう思うのは至極当然であって、何もおかしな事ではないわ」

 組んでいた腕を解いて、霧絵が勇太を正面に見据えた。

「ただ、……そうね。あの子をこれから始まる戦いに巻き込みたくはなかっただけ」

 刹那、霧絵の後方から真っ黒な怨念が噴き上がり、周囲を満たしていく。
 先程までは加減していたのだろうか。
 そう思わせる程の力の違いに、勇太は思わず目を瞠った。

「――さぁ、始めましょう。正と負。二つのどちらが、この世界を統べるのか。その戦いを、決着を。私達はつけなくちゃならない」

 巫浄霧絵の本気が、ついに勇太に牙を剥こうとしていた――――。

to be continued…

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sinfonia.40 ■ 決戦―③

勇太と百合の二人が東京上空から東京駅内部へと潜入した、その数分後。
 真っ暗な夜闇によって包まれた東京の街を、けたたましい音を立てて数台の車が闇を切って走っていく。
 それらの車は四輪駆動型の少々角ばった印象を与える黒塗りの車で、お世辞にも一般乗用車とは言い難いような姿であった。

 闇を切るように走り抜ける車のそれぞれに乗った搭乗者達の表情は、まさに真剣そのものといった具合である。
 だが、そんな中。一台の車だけがそういった緊張とはまるで無縁だと言わんばかりに窓から紫煙を吐き出していた。

 運転しながらも口に咥えた煙草。闇の中にぼうっと浮かび上がった紅点と、ジリジリと巻紙が燃える音。舞い上がった紫煙は僅かに開かれた運転席の窓から夜空へと舞い上がり、そのまま風に乗って消えていく。
 彼らが走り去ったその場には、排気の臭いと煙草の残り香だけが取り残されている事だろう。

 そうして、黒塗りの車はついにその目的地へと辿り着いた。
 同時に車の後部から下りた男女数名が武装したまま周囲を見回し、警戒を顕にした。かけっぱなしのエンジン音が鳴り響き、ヘッドライトによって照らされた道路。
 そこには、うぞろと奇妙な音を立てて黒い塊が姿を現し、光を浴びては闇の中へと隠れるように後ずさる。

 東京を襲った魑魅魍魎。
 それらが牙を剥こうと試みたのだが、ヘッドライトの光は彼らにとっては〈嫌なもの〉であったらしい。

 そんな中、少しばかり遅れてやってきた車が停まり、車のドアから一人の男が降り立った。

 黒いロングコート。
 その下には黒塗りのスーツを着用しているらしく、まるで闇に溶けてしまいそうな気さえする。
 口に咥えた煙草からは変わらずに紫煙が舞い上がり、その煙草を携帯灰皿に押し込むと、最後に肺に残っていた紫煙を吐き出した。

「……やるか」

 また一本、クシャクシャになった煙草の箱を軽く振って口に咥えると、眉間に皺を寄せながら男――武彦は煙草に火を点けた。

 眼前に広がったのは、さながら海外の建物を彷彿とさせるような大都市の有名な駅――東京駅。
 夜闇の中にぽっかりと浮かび上がるように煌々とライトに照らされたその場所は、ライトアップされたテーマパークの城のようにすら見える。

 コートの内側にかけたホルスターから、少々歪な形をした銃を右手に構えると、武彦は口に咥えた煙草を指で挟んだまま歩き出し、入り口に歩み寄る。
 瞬間、物陰に隠れていた黒い何かが武彦に跳びかかり、そして――轟ッと音を立てた銃の銃口が火を噴き、魑魅魍魎が霧散する。

 ――手荒い歓迎だ。
 口に咥えた煙草を歯で押さえながら口角をあげて、武彦は更に肉薄するそれらを撃ち抜いていく。
 入り口にこれだけの魑魅魍魎を配備しているのは、恐らくは牽制の為だろう。弾が無駄になっている気しかしない武彦は苦い表情を浮かべた。

 恨み辛み、憎しみ悲愴に未練、怨念。
 人の世は酷く仄暗い怨嗟の声によって成り立っている。
 詰まるところ、魑魅魍魎はいくらでも現れ、生者を自らの側に引き落とそうと手ぐすねを引く。

 それらを銃弾によって撃ち抜く所業というのは大した苦労ではないが、際限なく湧き出るとなれば話は別だ。
 こんな状況にあっても、銃弾一発あたりで文字通りに飛んでいくお金を考えれば苦い表情すら浮かべかねないのが現実であった。

 ――故に、武彦は呟く。

「露払いだ。頼むぜ」

「分かりました」

 その一言に答えると銀閃を残して魑魅魍魎を斬り裂いた。

 いつから、何処から現れたのやもしれぬ少女。
 茶色い髪にはさくらんぼを彷彿とさせるヘアアクセによって留められ、まだあどけなさの残る顔とは裏腹に、冷ややかな声で返事をした。背中にかけられた赤い柄に手をかけ、直剣を背中にした姿は、その可愛らしい顔立ちとは似つかわしくない戦士の表情であった。

 ふっと身体を傾け、前傾に疾走る。
 煌めいた銀閃が、光を反射させる波模様が黒一色の塊を切り裂き、道を開いた。
 少女――萌の剣は名刀と呼ばれる部類のものであり、破邪の力を持っているようだ。剣閃によって撫ぜられた魑魅魍魎は霧散し、一切の怨嗟を残さない。

 ――やれやれ、最近の若いのは優秀なのが多いな。
 その光景を咥えた煙草をじりっと鳴らして紫煙を吐き出しながら見つめていた武彦は、心の中でずいぶんと年寄りめいた言葉を呟いていた。

「行きましょう」

「あぁ」

 東京駅内部――いや、正確に言うならば虚無の境界の懐であり、特異能力『誰もいない街』の中へと足を踏み入れる。

 今回、阿部ヒミコの対策として戦いに出たのは武彦の萌の二人のみであった。
 物量で押すにはヒミコの能力は強力過ぎる上に、同じ能力者であればそれを逆手に取った戦法で攻められかねない。

 要するに、この状況において戦うべき条件をクリアしているのは武彦と萌という、得物こそあれど能力がないピュアファイターのみ。鬼鮫が今回、IO2の中枢として動きを封じられてしまっている以上、純粋な経験値と戦闘能力を鑑みてもこの二人以上の適任者はいないと言えたのである。

 そんな二人が、ついにその異界へと足を踏み入れた。

「……こいつは、酷いな……」

 忌々しげに呟いた武彦の隣で、萌はあまりの光景に口を手で押さえた。

 ――――それは正しく、呪われた世界とでも言うべきだろう。

 まるで大災害に遭ったかのような崩れかけた廃墟が建ち並び、現在の東京以上の崩壊の様相を呈した街がそこには広がっていた。空は赤く、廃墟となったビルにはまるで人体の筋肉を貼り付けたかのような赤々とした何かが張り付き、真っ赤な血のような液体を流している。
 景色の気味の悪さも然ることながら、何より鼻についたその血の臭いと腐臭が醜悪さを増しているようだ。特に仕事柄、そういった臭いを嗅いだ事のある二人にとっては、嘔吐感が込み上がるような感覚が腹の底からせり上がってくる。

「萌、動けるか?」

「……呑み込みます」

 ぐっとせり上がってくる嘔吐感と共に、一度深く息を吸い込み、まるで水を飲むかのようにゴクリと喉を鳴らして飲み込む。これは一種の悪臭対策であり、これをする事で多少臭いに対する感覚を麻痺させる事が出来るのだ。
 幾分かは楽になったのか、萌が目尻に涙を溜めながら周囲を見やり、その光景に今度は顔を顰めた。

「悪趣味、ですね」

「報告によれば『誰もいない街』ってのは荒廃した都市のような場所であって、夜の街って話だったはずなんだが、な。異能力者の能力ってのは精神状態やその他の要因によって多少なりとも変化があるはずだ」

「でもこれじゃあまるで――」

「――あぁ。何か巨大な肉体を造ってすらいるように見えるな」

 萌の言葉に続く形で、武彦は周囲にこびりついて鳴動している肉塊を見やる。腐臭を放ってこそいるものの、どうやらこれらは生きているようだ。心臓の鼓動のような規則的な動きでこそないが、先程から鳴動する度にその触手めいた先を動かし、侵食を広げているらしい。

 それにしても、と武彦は改めて周囲を見回した。
 何処かにいるのだろうが廃墟があちこちに建ち並んでいる以上、見つけるのは骨が折れるだろう。
 時間を稼がれかねないこの状況で、ヒミコが大人しく隠れていては厄介だ。

 ポケットからサーモグラフ機能のついたサングラスを取り出し、武彦はそれをかけて周囲を見渡した。が、その結果は期待出来るものではなかった。

「やっぱり、か」

 武彦の口から確信していた事態への愚痴が零れた。
 案の定とでも言うべきか、鳴動している肉塊もどうやら温度を放っているらしく、サーモグラフィーにはその輪郭がくっきりと残ってしまっていた。
 流れ出る血のような何かも温度を持っているのか、そのせいで視界は最悪だ。

 サングラスを外した武彦が嘆息すると、ほぼ同時に。
 その場にいた萌が武彦の後ろに向かって飛び出した。

 唐突な萌の動きに瞠目した武彦であったが、ここでようやく背後にいたソレの存在に気付き、振り返った。
 萌の振り下ろした刀が真っ白な服を着た少女を両断したところで、しかしそれはゆらゆらと揺れて何もなかったかのように佇んで、ニタリと口角をあげた。

『いらっしゃ――帰れ――い、ようこそ――死ね――私の――私だけの――世界へ』

 それは酷く気味の悪いか細い声と野太い怨嗟が混じる声であった。

 幻影と思しき少女――ヒミコが、二人の前に姿を現した。

to be continued…

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sinfonia.39 ■ 決戦―②

東京駅上空を、規則的な空気を叩きつける音が響き渡った。
 眠らない街東京も、今では電力の供給も途絶えて真っ暗な闇が広がってすらいる。そんな闇の中にくっきりと姿を晒しているのが東京駅だ。

 外観はさながら洋館を彷彿とさせる造りの東京駅は、外部からのライトアップによってくっきりとその輪郭を闇の中へと浮かび上がらせ、まるで闇の広がる海にぽっかりと浮かび上がっているかのような光景であった。

 上空を飛んでいるヘリコプターの中で勇太と百合の二人が、手を絡ませて顔を見合わせる。
 頷き合った二人は闇の広がる海へと身体を投げ出した。

 轟々と風を切る音。
 くっきりと浮かび上がったその目的地へと向かってまっすぐ落ちていく二人が次の瞬間、真っ暗な暗闇に呑み込まれて行く。

 二人の姿を未だ空を漂っていたヘリコプターから見下ろしていた武彦が、ヘッドセットのマイクを口元に近づけて二三言だけ告げると、それに応えるかのようにヘリコプターは夜の闇へと吸い込まれていくように東京駅を離れて行った。

 ――パシュン、と独特な音を立てて開かれた空間。同時にそこから勇太と百合が姿を現した。
 東京駅ホームの上空に現れ、二度、三度と現れては消えてを繰り返して着地した。
 重力に晒されて落ちていたその態勢から着地を綺麗に決めるのは困難であったが、勇太が何度かのテレポートを利用して働いていた速度を相殺してみせたのだ。

 着地と同時に二人は背中を合わせ、周囲を警戒する。
 周りは瓦礫すらなく綺麗なものであったが、非常灯や僅かな灯りだけが暗闇を切り裂いたその空間は、今まで何度か訪れた事のある二人にとっても不気味さを拭い切れない光景だと言えた。

 静寂と暗闇が同居した不思議な空間の中で身構えた二人は、しばしの硬直から視線を左右へと向けると、ゆっくりと立ち上がった。

「てっきり中に誰かしらいるかと思ったけど、拍子抜けね」

 肩口まで伸びた髪は手櫛で一度だけ通した百合が嘆息しながら呟いた。

「どう思う?」

 何を指しての問い掛けなのかは分かりにくい、たった一言の質問を勇太が口にする。
 しかし百合はその短い単語から、勇太が何を聞こうとしているのかを悟ったようだ。

「……恐らく、他の連中がいても足手まといになると踏んだ、といった所かしら。エヴァの言う通り、ヒミコの能力で入り口を覆っているなら、ここに来られる人間は限られるはずだし。もしくは、ここを知られているとは思っていないから油断したか、だけど……」

「間違いなく前者だね」

 可能性ある二択を口にしながらも、百合もまた勇太の答えに同意する。
 虚無の境界を牛耳る幹部クラスであるエヴァやファングといった戦力がこれまでに姿を現している以上、もはや霧絵が信頼している幹部はいないと思っても良いだろう。そう百合は判断している。

「多分地下だって言ってたはずだから、線路に出てみよう」

「えぇ」

 勇太に返事を返した百合は、走り出す勇太の後をついて駈け出しながらもちらりと勇太の横顔を見つめた。

 焦燥と怒りが混在するような、勇太の表情。
 そんな表情をしている勇太を初めて見たのかもしれないと思うと、百合としても多少の不満が生まれる。

 もしも自分が凛の立場だったなら、勇太はこんな顔をしてくれたのだろうか。
 そんな疑問が浮かぶが、百合はそんな自分に自嘲気味に溜息を吐いた。

 まるで普通の少女のような自分の感覚。
 自分をそういう場所へと連れて来てくれたのは、他ならぬ勇太だ。
 それ以上を望むというのは些か罰当たりなのではないかとすら思えてしまう。

「ねぇ、勇太」

「ん?」

「……この戦いが終わったら、どうするの?」

「へ? な、何さ、急に」

 あまりにも脈絡のない百合の質問に勇太の顔から一瞬ではあるが怒りや焦燥が消え、百合が知っているいつもの表情が戻る。

 ――あぁ、そうだ。この顔だ。
 いつも自分に向けられる、ちょっとだけ情けないような、頼りないようなこの表情が百合の惹かれた相手なのだ、と実感する。

「……そうだなぁ。学校行かなくちゃ」

「……アンタねぇ。こんな状況で学校なんて言ってる場合なの?」

 東京中を壊滅近くにまで追いやった今回の一件を前に、学校に行くなどという答えが返ってくるなどとは思わずに百合が呟いた。「あぁ、そっか」と今更ながらに気付くようなこの少年に惹かれている自分に、何度めかの自嘲が込み上がる気がした。

「百合はどうするのさ?」

「私は……」

 ――自分はこれが終わったらどうなるのだろうか。
 思わず百合は自分に振られた質問の答えに迷ってしまった。

 成り行きじみた勢いで勇太達と協力し、虚無の境界と戦ってはいるものの、自分も元々はそっち側の人間だ。
 そんな自分に、この少年と共に歩くべき明るい未来はあるのだろうか。
 そんな疑問が浮かび上がる。

「……くだらない事言ってないで、探しなさいよ」

「自分から振っておいてそれ!?」

 少なくとも、今はこうして肩を並べて走っていられる。それだけで十分なのかもしれない。
 そう思えてしまった百合は、釈然としない表情を浮かべながら並走する少年の背中を叩いた。

 駅のホームを一通り見回した二人は、建物の支柱となっていたその場所にあった一つの扉を蹴り開ける。
 『STAFF ONLY』というそのプレートに今更躊躇するつもりなど毛頭ない。

 扉を蹴り開けた二人は、その向こう側に続いていた一つの階段を見つけて顔を見合わせた。

「……多分この中だね」

「えぇ。行きましょう」

 奥から漂ってくる何者かの気配に二人は確信した様子で頷き合い、奥へと足を進めた。

 薄暗い通路を抜けた先にある重厚な造りの扉は、不思議な紋様が赤いペンキによって描かれていた。
 その紋様を見た勇太が眉をぴくりと動かした。

「……このマーク、どっかで見た事あるな……」

 記憶を掘り下げて勇太が唸る。
 確か勇太が以前見たのは、ここと同じような薄暗い場所だった。

 だが、どれだけ記憶を掘り返してみてもまったく同じ紋様を見た記憶には行き着かない。
 夢の中で見たような、そんな気さえしてくるような気がして勇太はかぶりを振った。

「どうしたの?」

「思い出せないんだよなぁ……。でも、何か嫌な予感がする」

 遠い遠い夢の中で見たと思えてならないその紋様を、勇太はもう一度だけ改めて眺める。それでも浮かんで来るものはなかったのか、気持ちを切り替えてドアノブへと手を伸ばした。

 鈍い音を立てて扉が開かれる。

「――ッ! 百合!」

 途端、百合の手を握った勇太がテレポートをして姿を消すとほぼ同時に、二人の立っていたその場所に真っ黒な槍状の刃が突き刺さった。
 コンクリートをあっさりと穿ってみせたその硬度と形状に、すぐ近くに飛んだ勇太はそれが何なのかを思い出し、出処と思しき闇を睨み付けた。

 連続する炎が広がる音と共に通路の壁で松明が火を灯していく。
 真っ暗だったその部屋は、建物を支える白い支柱が幾つもあるだけの長方形の広い部屋だった。

 そしてその柱の一角――黒い槍の出処から、カツリと硬く乾いた足音が鳴らされた。

「……まさか直接中に入って来るなんて、ね」

 涼やかな物言いの艷やかな声が残響となって響き渡る。
 独特な緑色の髪をした女性。黒いドレスを身に纏った異形の主がゆっくりとその姿を現した。

「……巫浄霧絵……ッ!」

 目の前に現れたその女の名を、勇太は口にする。

 対して、その名を呼ばれた霧絵は相変わらずの不気味な余裕を孕んだ笑みを浮かべていた。
 同時に、炎に揺らされて四方に広がっていた霧絵の影から、おどろおどろしい真っ黒な闇が浮かび上がり、霧絵の身体を包み、守るように浮遊していく。

「せっかく来てくれたけど、残念ね。退場してもらう事になるなんて」

 腕を組むように胸元で折り曲げ、右腕だけを勇太に向かって伸ばした霧絵の言葉と同時に、霧絵の周囲を漂っていた黒い怨霊の塊が勇太に向かって襲いかかる。

 怨念を具現化させて攻撃するという霧絵の攻撃は、エヴァの霊鬼兵としての能力に酷似しているが、その威力は比にならない。
 肉薄する怨霊の塊を前に百合が反撃を試みようと動き出すと同時に、勇太がそれを手で制した。

 ――そして、勇太が片腕を振るう。

 眩い光が帯状に広がり、肉薄していた怨霊達と衝突する。
 そして次の瞬間、霧絵によって放たれたその怨霊達は、まるで霧散するかのように中空で消滅していった。

 その光景に表情を変えた霧絵に向かって、勇太は口を開く。

「……あんたは。あんただけは、俺も許せそうにない」

 たくさんの人々を恐怖のどん底に叩き落とし、苦しませ、この東京を――勇太の住む街を破壊した罪。

「巫浄霧絵。俺はあんたを許さない……ッ!」

 百合とエヴァ、そして止めに入ってくれたファング。
 さらには凛までもを巻き込み、今もなお苦しめているという数々の罪。

「……神気を操れるようになった程度で、ずいぶんと強気ね」

 それらを償いもせず、悪びれもせずに佇むその姿が、勇太には許せなかった。

 ――今まさに、長年に渡った宿命の対決の火蓋が切って落とされようとしていた。

to be continued…

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sinfonia.38 ■ 決戦―①

「東京駅の内部を捜査してみましたが、それらしい場所は特に見当たりませんでした。引き続き捜索を続けますが、今のままでは時間ばかりが浪費されてしまう可能性があります」

 萌の報告を聞いていた鬼鮫とその横に立っていた武彦は、目の前に浮かび上がった映像を見つめながら嘆息した。

 東京駅。
 確かに龍脈の流れを押し曲げ、東京駅の内部に何かしらの仕掛けがある可能性は高いが、萌らエージェント達が捜査を開始して以来、今のところ手掛かりらしい手掛かりは見つかってはいなかった。

 襲撃を予定していた夜が迫る。
 一切の手掛かりがないのでは、それすらも無意味となってしまいかねない、そんな状況に鬼鮫は忌々しげに舌打ちした。

「ハズレ、か……? それとも、情報が偽物だったってのか」

「いや、それはないだろうな」

 鬼鮫の言葉に横合いから武彦が口を挟んだ。

「恐らく、能力者の索敵能力やらを伏せる為の結界でも張ってあるんだろう。いずれにせよ、あまり時間は残されていない。可能性としてここしかない以上、前情報がないからって二の足を踏んでる時間はねぇよ」

 どうにか勇太を一日休ませる事は出来たが、その表情は決して明るくはなかった。
 百合に付き添わせ、暴走して勝手に行かないように監視させているが、それだっていつまで保つかは分かったものじゃない。

 時間は刻一刻と迫っている。
 タイムリミットまで、一分一秒でも無駄にして良いはずがない。

「勇太の能力なら、思念に介入出来るはずだ。こうなっちまった以上、俺達が直接乗り込むしかない」

「危険です。もしもこれが罠だったら……」

「『虚無の境界』に、罠を張って悠長に待つ時間なんてねぇだろう。あれだけ大々的に動いて、幹部と思しき連中も散った。捨て身でかかってきたのは向こうも同じだ。罠の可能性は低い」

 萌の言葉を遮り、武彦が推論を述べる。

 情報が偽物であるという可能性は確かに否めないが、極めてその可能性は低い。
 推測された東京駅も、不気味な程の沈黙を保っていた。

(――東京駅は、そう。まるで、ゴーストタウンにでもなってしまったような……あ……)

 萌は思い出す。
 先行して調査に出た萌達は、確かに東京駅の内部を隈なく捜査した。
 その結果、人っ子一人いない空間が出来上がっていたのだ。

 人がいない空間。
 そしてそこには、あの街中を跋扈していた魑魅魍魎の姿もなかった。

(……おかしい、ですね。どうしてあの場所だけ、あんなにも静寂が包んでいたのか。東京内部のおおまかな処理は済んだはずです。でも、未だ建物の内部には潜んでいるというのが常です。なのに、東京駅はそれすらもいなかった……)

「おい、萌。何かあったのか?」

「あ……、いえ。ただ……――――」

 鬼鮫に声をかけられた萌が、早速東京駅内部の様子を改めて説明した。

「……どう思う、ディテクター」

「どう、も何も。明らかに何かが影響しているんだろうさ」

「ですが、空間干渉の機器は一切の反応も見せてませんでしたし、それらしい場所も――」

「――空間干渉じゃなくて、アナタ達が入ったその東京駅そのものが偽物だった、という可能性もあるわ」

 萌の言葉を遮るように告げられたのは、部屋へと入ってきた楓の言葉だった。
 その後ろには、相変わらずエヴァを引き連れ、勇太と百合の姿もある。

「どういう、事ですか?」

「詳しくは彼女から聞いてみると良いわ。エヴァ・ペルマネントさん、お願い出来る?」

 楓に言われ、後方にいたエヴァが赤い瞳を伏せる。

「……境界の能力者に、一人。『誰もいない街』という能力を持つ能力者がいるわ」

 エヴァは静かに口を開く。
 その能力は、正しくその名が示す通りであった。

 世界を拒絶した一人の少女が、擬似的な世界を作り上げ、まるで現実の風景と折り重なったような鏡面世界を作り上げる。
 その能力を理解していない限り、気がつけば鏡面世界に連れて行かれてしまう。
 その景色や建物は、能力者の調整一つによって瓦礫の街にも綺麗な街にも変貌する。

「……って事は、時間稼ぎの為に踊らされたって考えるのが妥当か」

 鬼鮫の言葉に萌が歯噛みする。
 実力で妨害するのではなく、世界をずらす事で時間を稼がれた可能性がある。
 それはある意味では最も最適なやり方であり、エージェントの萌としても聞き捨てならない屈辱だ。

「どうすれば突破出来る?」

「あの子の――ヒミコの能力は『入り口』を介さなければ突破出来るわ。つまり――」

「――俺と百合の能力なら、行けるんだな?」

 沈黙を保っていた勇太が口を開く。
 その緑色の双眸には決意と覚悟が湛えられ、一晩の休息によって疲労は取れたと思われるが、凛を連れ去られた焦燥から表情は硬い。

「……そうなるでしょうね。『入り口』を介さずに駅の内部に侵入さえすれば良い訳だしね」

「でも、それでは部隊を送り込むにはリスクが高いのでは――」

「――俺と百合で行く」

「無茶です! まだ残党がどれだけいるかも把握出来ていないのに――!」

「――それなら心配はないわ。あの人の――巫浄霧絵の性格を考えれば、そんな大事な場所に人を連れて行ったりはしないわ」

「……アナタは敵です。信用しろと言うのですか……?」

 萌の言葉に反論したエヴァへ、萌が鋭い視線を投げかけて尋ねる。

 どんな経緯があったかは伝聞しただけであり、萌は知らない。少なくとも敵であった以上、信用するには足らない。
 そう言わんばかりに萌はエヴァを睨みつける。

 どれだけ優秀だとしてもまだ萌は若く、敵であったエヴァを利用するという考えにはどうにも至れないらしい。
 そうした機微を見抜いた武彦が口を開こうとするが、その前に勇太が口を開いた。

「萌、エヴァは大丈夫だよ」

 そんな言葉が予想外であったのは、萌だけではない。
 エヴァもまた、そんな言葉を投げかけられて目を瞠り、勇太へと振り返る。

「……フフ、信用するの? 彼女の言う通り、私は敵だった存在、よ」

「敵だった、だろ? 今は違う。それに嘘をついているようには見えないからな。
 今はそんな押し問答より、凛の事だ。
 草間さん、俺と百合で行かせてくれないか」

「……もう俺が止めたって、どうせ行くんだろうが」

 勇太の言葉に武彦が呆れながら嘆息し、勇太の言葉を肯定する。
 危険だと訴えようとした萌が口を開きかけるが、武彦が手を挙げてそれを制してみせる。

「そのけったいな能力者は任せて、お前達は行け。後のフォローは俺達がしてやる」

「……行こう、百合」

「えぇ、分かったわ」

 武彦の言葉を聞いた二人が、早速とその場を後にした。
 その光景を見ていた鬼鮫が、先程から閉じていた口をゆっくりと開いた。

「……まるで昔のお前だな、ディテクター」

「まぁ、な。アイツは少しばかり俺に似てるからな。こういう場面で止めたって、アイツは聞いたりしねぇよ。
 さぁ、俺達もいよいよ大詰めって訳だ。動くぞ」

 いよいよ東京駅への襲撃作戦が開始される。

 タイムリミットまで、残り27時間を切った――――。

◆ ◆ ◆

 ――――それは永い時でありながら、過ぎてみれば一瞬の出来事のようであった。

 知らない人が死ぬ。
 仲間が死ぬ。
 敵を殺す。
 仇敵を殺す。

 そして、また怨嗟は続く。

 浅い眠りから醒めた男は、サングラスを手に取ってその瞳を覆った。

 いつからだろう。
 何処からだっただろう。

 今となっては、そんな過去へと想いを馳せる事もなくなった。

「どうしたの?」

 一人の少年が不安げな言葉を尋ねる。
 だがその少年に一切の感情は伴っていないような、そんな気さえする口調だ。

 ただ尋ねただけ。
 そう称するのが相応しい。

「……別に何でもねぇさ」

「……そう」

 短い言葉のやり取りだ。
 それは信頼の証でもあり、不干渉の関係性の証明でもあった。

 長い長い旅路の、その終わり。
 それが今、彼らには見えているのだから。

「ねぇ、全部が終わったら、その時は――――」

「――希望を口にするな。絶望した時に、心が折れるぞ」

「……そう、だね。ごめん」

 少年に向かって、男は告げる。

 それは何度も、何度も。
 自分が経験してきたその全てを物語っていた。

 希望は潰えてしまいそうで。
 それでも終われない。

 いつだったか、自ら諦めた事もあった。
 それでも世界は、彼の〈能力〉は。
 そんな彼を無理やりにでも立ち上がらせてきた。

「……だが、そうだな。全部が終わったら……――――」

 気が緩んでいたのかもしれない。
 それは彼が――宗が決して口にしない、未来への展望。
 願望だった。

「……うん。ボクはずっと一緒にいるよ」

 淡々とした口調。
 疲弊し、擦り切れてしまった心の持ち主である少年だったが。

 その表情は、ずいぶんと久しぶりに見た柔らかなものだった。

「さぁ、俺の見た事のない未来を見せてもらおうか」

 宗は呟く。
 決戦の火蓋が切って落とされようとしている。

 それら全てが、果てしない岐路へのターニングポイントになるのだ。

to be continued…

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sinfonia.37 ■ 長い夜

「私はもしも勇太がアナタの凶行を止める為に私に向かって死ねと言うなら、それを受け入れるつもりです」

 ――それが、信じるという事ですよ。
 自分の眼を真っ直ぐと見つける、藍色がかった黒い双眸の持ち主に、霧絵は言葉を呑み込んだ。

「……それはつまり、溺愛している、とでも言いたいのかしら?」

「さぁ、それはどうでしょうね……」

 先程までの断言する態度から一変して、凛は磔にされている中空で自嘲気味に笑いながら言葉を濁してみせた。

「……世界を見せてくれた。生きる望みを与えてくれた。半ばヤケクソ気味に、自分の死を受け入れようとしていた私に、勇太は色々なものを与えてくれました。望みを失い、絶望に慣れる為に自らそうした道を歩こうとする私に、彼は前を向く力を与えてくれたのです。
 それはただの愛だの恋などと、まるで一時の感情の麻薬のような快楽を与えてくれるものではなく、もっと深く、もっと大きな想いとなって私の中に芽生え、息づいている。
 これを『溺愛』などという言葉で表すのは不本意で、でも自分以外から見れば確かに溺れているかのようにも見えてしまうでしょうね」

「惚気話を聞く気はないけど?」

「いいえ、巫浄霧絵。アナタは聞かなくてはなりません」

 再び表情が変わり、真剣な眼差しで凛は霧絵へと言い放つ。

 ――こんな戯言、無視してしまえば良い。
 冷静な、至っていつも通りの霧絵ならばそう切り捨てただろう。
 だがそれが出来なかった。

 あの、ファングの死に際の一言が。
 凛のまっすぐな言葉が、どうしても過去の自分を揺り動かしてしまう。

 そのせいで、つい霧絵は思い出してしまう。
 自分が、どうしてこの修羅の道へと足を踏み入れなくてはならなかったのかを。
 自ら世界を呪い、虚無へと還ってしまえば良いと願うに至ったのかを。

 だから霧絵は、背中を向けて歩き出そうとして開きかけたその足を再び閉じる。
 まっすぐ向けられた凛の視線に対峙した。

「……私が聞かなくてはいけない理由。そんなもの、あるのかしら?」

「アナタは、あまりにも私に似ている」

 凛の言葉に霧絵の眉がぴくりと動き、目を細めた。
 そんな霧絵の反応に気付きながらも、凛は言葉を続けた。

「絶望の淵で長い時間を過ごし、世界を呪い、死さえも受け入れようとした。アナタはそういう意味で、私に似ています」

「……ハッ! まさか、あのオリジナル――いいえ、工藤勇太が現れなかった私を憐れむつもり?」

 フザけるな、侮るな。
 そんな気持ちを笑い飛ばすように、霧絵は凛に向かって告げる。

 さっきまでの惚気話の延長だとしたら、とんだ時間の無駄だ。
 再び歩き出そうかというところで、凛の「そうではありません」という静かな、それでいてその名の通り、凛とした表情が霧絵の足を地面に縫い付けた。

「『虚無の巫女』。そして、私の扱う神気とあまりにも似た、言うなればアナタの使う怨霊の力。それらの言葉に加えて、私がアナタに感じた奇妙な親近感。
 アナタも、私と同じ一人の巫女の立場だったのではないのですか?」

 凛の言葉に霧絵が僅かに目を瞠る。
 それらの情報から、自分の出自を推測したという凛の勘は、あまりにも的確に霧絵の過去を露見させた。

 そんな霧絵の動揺に気付き、凛は確信する。
 自分の推測は間違いではなく、確実に当たっているのだろう、と。
 そして同時に、霧絵の狙いを見抜いた。

「……悲しい人ですね。行き場のない終着点を、自らの命を天秤に乗せて委ねる。
 悲しく、あまりに愚かな選択です」

「何を言って……――」

「――虚無の降臨」

 霧絵の言葉を遮るように、凛が口を開いた。

「……恐らく、『虚無』とは神の化身ではなく、一つの思念の集合を指す言葉なのでしょう。恨みや憎悪、嘆きに叫び。そういった負の感情の集合体が生み出した、一つの産物。まがい物の神。それが虚無ですね」

「――……ッ!」

「そして、それを降臨させるには媒介が必要。『虚無の巫女』とは、その器となる存在、というところでしょう……。
 では何故、アナタがその器になろうとしなかったのか。私にはそれが今、ようやく理解出来ました」

「……黙れ……」

「『媒介』が神の力を得て定着すれば、もう取り返しはつかない。だけどこの陣――これは制限を施す陣。アナタは虚無を止める方法を残しながら、虚無を喚び出そうとしている」

「……黙れ……!」

「自分がただ降臨させるだけでは虚無はきっと消せない。だからこそ、アナタは私という器を必要とした。毒物を扱う者が解毒剤を持つように、アナタは自分が死ねば虚無が消えるという解決方法を残したかった。
 制限つきの陣をわざわざ描き、そうする事で全てを壊してしまわぬ方法を、その道筋をどうしても残す必要があった――!」

「黙りなさい!」

「――アナタは! ……アナタは今でもまだ、誰かに止めてもらいたがっている。
 自分ではすでに引き戻せない位置にいるから、誰かにそれを委ねたがっているだけの、ただの憐れな人です」

 凛の言葉と同時に、薄暗い室内には沈黙が流れた。
 ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎が、影だけを伸び縮みさせる。
 霧絵はいつもの涼しげな表情を苦々しく歪ませ、俯いていた。

「……私は、虚無をコントロールする為にこれを用意し、アナタという器を欲した。ただそれだけよ」

「……それは、失敗します。勇太がそれを見逃すはずがありません」

 凛が穏やかな声で、霧絵の言い訳を一蹴してみせる。
 その声に、霧絵が一体どんな表情を浮かべたのか。
 凛にはそれが見えなかった。

 背中を向けて歩いて行く霧絵を見送りながら、顔をあげる僅かな瞬間に見えた霧絵の表情に、哀しげに目を伏せた。

「……勇太。アナタなら、きっと……」

 先程、一瞬だけ見えた霧絵の顔。
 それはどこか、憑物が落ちてすっきりとした、晴れやかな表情のような気がした。

 一方、凛との会話を終えた霧絵が薄暗い廊下を歩いていると、不意にその足を止めた。

「今更顔を出して、一体どういうつもり?」

 暗闇の奥から歩いてきたのは、黒いスラックスに黒いドレスシャツを着た一人の男。
 先日勇太が傷を負った際、武彦と言葉を交わしていた男――宗であった。
 ポケットに手を突っ込んだまま、目元にはサングラスをかけている。

「なぁに、いよいよクライマックスという訳だ。その顛末でも見届けてやろうかと思って、な」

 地面だけ見れば冗談めいた言い方ではあるが、その口調は実に淡々としたものであった。
 霧絵と対峙するように、宗は足を止めた。

「……まさか、とは思うが。情に流されて自分の進むべき道を見失う、なんて事はねぇだろうな」

「愚問ね。私が自分の道を今更踏み外すとでも?」

「……そうだな。少なくとも、俺はその光景をこれまでに三度、目の当たりにしてきたんでな」

 宗の言葉に霧絵の眉がぴくりと動いた。

「……そんなに長い付き合いだった憶えはないのだけど?」

「そりゃそうさ。今回はまだ見てないから、な」

 相変わらず、何を言っているのか分からない男だ。
 霧絵は宗に対して訝しむ。

 この男との出会いは、唐突だった。
 突然自分達の研究に協力すると申し出て、事ある毎に姿を現してきた。

(……宗。一体、この男は何者なのかしら、ね)

 今までは、ただの狂人の一人だろうと当たりをつけていた。
 深く関わらないのだから、それで良いだろう、と。
 だがここに来て、霧絵は今更ながらにこの男の存在に疑問を抱いた。

 何故ならこの場所は、今まで虚無の境界の誰にも告げておらず、自分だけが秘匿してきた場所だ。
 何食わぬ顔をして姿を現したこの男に、正直に言えば驚きを禁じ得なかった。

「……そういえば、宗。アナタが言っていたアレは、一体どうなったの?」

「アレ……?」

「『筋書き通りのセオリー』、だったかしら。たまに口にしていたでしょう?」

 宗はよくその言葉を口にしていたのだ。
 未来を予見する能力者かと尋ねた事もあったが、それは違うと首を横に振られてしまったのは今も憶えている。

 霧絵の言葉に宗はくつくつと込み上がる笑いを噛み殺すかのように、肩を上下に揺らした。

「――そうだな。今回のお前の行動は、『最高の筋書き』だ」

「……なら良いわ」

 短く告げてその場を去っていく霧絵を肩越しに感じ、宗は壁に腰掛けるとサングラスを外した。

「……本当に、今回ばかりはうまくいってもらわねぇと、な。
 頼むぜ、勇太」

 ――――小さく、誰にも聞こえない声で宗は呟いたのであった。

to be continued…

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sinfonia.36 ■ 覚悟と決意

「――……ッ、ここ、は……?」

 凛はゆっくりと瞼を押し上げ、周囲を見回した。

 視界から得られた情報は、真っ暗な倉庫を彷彿とさせる奇妙な広い部屋であるということ。
 身体は黒く蠢く実体のある靄によって縛り上げられ、足元には幾重にも重なった円に八角形が囲まれ、その中央には五芒星が描かれている陣が書き上げられている。
 その外側には周囲には蝋燭が灯した炎をゆらゆらと揺らしていた。

 幸い首だけは動かせるおかげで多少の情報は得られた。
 まだ思考は鈍っているが、ここに連れて来られた記憶ははっきりとしている。

(……これは、陰陽陣……?)

 改めて視線を落とした凛が、地面に描かれた陣を見やる。

 足元に描かれた陣は、陰陽道で使われるものだ。
 宗派や系統は違うが、陰陽道と神道は近しい形態を取っている。
 そのおかげとでも言うべきか、凛は足元の陣が何であるかを理解したのである。

 身体を縛っているこの黒い靄が一体何かは分からないが、いずれにせよ霧絵の手中に落ちてしまったのは明らかだ。
 とにかく抜け出そうと試みた凛が神気を操り、術を施そうと試みた。

 ――しかし、凛は驚いたような表情を浮かべて目をむいた。
 身体を操ろうと試みても、意識と行動が剥離しているかのような感覚に襲われて言うことを聞いてくれない。

(この感覚は、まるで……――!)

 凛の背中を冷やりとした悪寒が駆け抜けた。

◆ ◆ ◆

「――つまりは、この東京駅。ここに虚無の祭殿とやらがあるだろうと踏んでいる」

 IO2東京本部へと帰ってきた武彦ら一行は、早速鬼鮫と楓に会議室の一室を利用して状況を説明していた。

 逸る気持ちを抑えつつ、武彦が鬼鮫や楓らに状況を説明している姿をじっと見つめながらも、勇太は焦燥感に駆られて歯を食い縛っていた。
 そんな勇太の滅多に見せない苛立ちに気付いた百合が、答えを導き出すべく静かに口を開いた。

「龍脈を捻じ曲げて、東京駅に集結させている。そんな真似が本当に出来るの?」

「出来るわ」

 横合いから声を挟んだのはエヴァであった。
 同意を示すように楓が「そうね」と返事をしながらその言葉に頷き、言葉を続けた。

「龍脈とはそもそも、この日本という島国を流れる力の流れ。古来から龍脈は霊の通り道と呼ばれたり、神の歩いた跡であるとも言われたこともあるの。神聖視されていたのも事実よ。
 そんな龍脈を用いた巨大な術式を使ったとされる文献も残っているわ」

「途方も無い与太話にしか聞こえんが、な」

「与太話だなんてとんでもないわ。
 ただ、もしもそこの霊鬼兵――エヴァさんが言う『虚無の祭殿』というものが存在して、龍脈を操って術を成功させるつもりなら、護凰さんはまだ無事よ」

 楓の言葉に勇太の表情に浮かんでいた険しさが、僅かに緩和された。

「どういうことだ?」

「龍脈はその名の通り、とでも言うべきかしらね。生きているような動きを見せるのよ」

 質問をした武彦へ楓が説明を続けた。

 龍脈の力の流れは、まるで人間の脈のように強弱の流れが生まれていた。
 それは俗に言う潮の満ち引きと同じように。

 余談ではあるが、世界的な規模で展開されているIO2がそれぞれの国に支部を置いている理由は、そういった国の調査も兼ねているのである。
 神秘的な現象を宿した国は少なくなく、国によっては伝承や物語のように語り継がれている不可思議な現象を調べるという側面もあり、日本の調査も例外ではない。

 そういった経緯から、日本の龍脈はかつてより注目されていたと言うべきだろう。

 そんな龍脈の効果的な利用方法は、実際は語られていない。
 文献が消失したのか、はたまた後世に残すべきではないと先人が判断したのかは定かではないが、少なからずリスクを孕んだものであるからだ。

「リスク……?」

「えぇ。あまりにも強大過ぎる力であって、それでいて脈動するような不安定な要素である事。この二つから、龍脈を有効活用しようというIO2の当初の計画は頓挫したわ」

「でも、使われた過去があるんじゃ……?」

「多少の恩恵を得る程度なら特に問題はないわ。それこそ、人がいうパワースポットであったりなんかもそんな類であって、霊力・神力なんかは流れやすいみたいだしね。でも、流用のレベルが企業規模なんかになれば、あまりにもピーキー過ぎて使い物にならないのよ」

 楓が手元の端末を操作し、モニターに映像を映し出した。

「そもそも工藤クンが持っている『能力』と、巫女であった護凰さんが扱う『神気』の力の違いは分かるかしら。
『能力』とは即ち、能力者の〈干渉力〉が物体や身体の外側に向かって発動したもの。結果として物を動かしたり出来るという訳。
 空間移動なんかは原理が分かっていないけれど、基本的にはそれと同じ部分が見つかっているわ。
 だけど、護凰さんが使うような神気に〈干渉力〉は存在していないの」

「……そうか。つまり、自分が〈発する側〉ではなく、〈受け取る側〉にいる、ということか」

「その通りよ。つまり、そういった力はその〈場〉にある力によって結果が大きく左右されてしまう。
 龍脈を使うとするなら、龍脈の力が大きくなる満月の夜――つまり、3日後の夜がタイムリミットになるでしょうね」

「それでも、早い方が良いに決まってる……ッ」

 ギリッと歯を食い縛って口を開いた勇太に視線が集まるが、楓が「ダメよ」と一言でその言葉を一蹴してみせた。

「このところ、連戦が続きすぎているわ。
 今言った通り、〈干渉力〉を使う能力者であるあなた達の最大の敵は疲労による集中力の崩壊だわ。一日、しっかり休みなさい」

「こんな状況でそんなこと――!」

「――それとも、護凰さんはそんなに弱い女の子だったかしら?」

 楓が遮った言葉に勇太が詰まる。

「……まぁ、少なくとも弱くはないわね」

「だな。なんせ勇太を追ってIO2に入っちまうぐらいだし、な」

 百合と武彦が楓の言葉に同意し、緊迫した空気がわずかに緩んでいく。

 凛は強い。
 それは腕っ節や能力云々ではなく、あくまでも意志の強さという点で、だ。

 かつて凰翼島で勇太と出会った頃。
 護りの巫女として短い生涯を受け入れていたのは、諦念によるものではあったかもしれないが、それでも凛は精一杯に役目を全うしようと考えていた。

 その後IO2に入り、外の世界を知った。
 勇太を追うという決意を胸に、彼女はこの東京へと出て来たのだ。

 普段の態度からつい忘れがちではあるが、凛はそういった芯の強さを持っている。
 心が折れてしまうことなど、凛に限ってはそれはないだろう。

「……東京駅の内部を調べる偵察を放つ。明日の夜までに情報を収集させる。
 襲撃は明日の夜だ」

 鬼鮫の言葉に、勇太もまた静かに頷いたのであった。

◆ ◆ ◆

「気が付いたのね」

 カツカツとヒールを踏み鳴らす音。
 艶っぽい色香をまとった大人の女性の声に気付いた凛は、ゆっくりと視線の先を睨みつけた。

「……巫浄霧絵、ですね」

 蝋燭に揺らされた炎に照らし出された声の主を見つめ、凛が弱々しい声で呟いた。
 その声に霧絵は嘲笑や冷笑を浮かべるでもなく、ただ真っ直ぐと受け止めるように視線をぶつけて返した。

 しばし視線を交錯させ合い、先に沈黙を破ったのは霧絵であった。

「怖くないのかしら? それとも、気付いていないのかしらね。
 その足元に描かれたのは――」

「――降霊の一環、ですね。それもかなり高位存在を喚び出す為の」

「……気付いていてなお、その涼やかな表情という訳ね」

 僅かに目をむいて、霧絵は凛に心の中では賛辞を送っていた。

 身体には、すでに自分を侵食する何かが入り込んでいることなど気付いているだろう。
 それでもなお、恐怖に、怒りに狂って喚くでもなく、ただまっすぐ自分を睨み付けてくる少女。
 身体を縛られ、身動きすら出来ない立場でありながら、どうしてそうも平然としていられるのか。

(……諦めた、とは思えないわね)

 その瞳を見つめ、霧絵がそう判断する。
 今なお自分を睨みつけるその双眸には、希望の光が宿っているのだ。

「――私が怖がらないことが、そんなに残念ですか?」

 心情を見抜いたかのような凛の言葉に、霧絵はふっと笑みを浮かべた。

「……正直に言うと、そうね。その通りだわ」

「そうでしょうね。私も恐らく、アナタの立場にいたらそう思うでしょうから」

「理由を教えてくれるのかしら?」

「簡単なことです。私はただ、信じて待てば良いだけですから。だって――」

 あっさりと、勿体ぶるでもなく凛は告げる。

「――ヒロインのピンチには、主人公が必ずやってくるんですよ?」

 あまりにも現実離れした言葉に、霧絵も思わず唖然とさせられてしまった。
 そんな霧絵を気にするでもなく、凛は続けた。

「そういう時、ヒロインはただ信じて待っていれば良いのです。それが王道であると、私はこの東京で学びましたから」

 間違った知識だ。
 勇太がもしこの場にいたなら、まず凛に向かってツッコミを入れているだろう。
 そんな姿を思い浮かべて、凛はくすりと小さく笑った。

「信じて待つ。もしも裏切られたら、どうするというの?」

「その時は、私が裏切られてしまう程度の人間だったという事でしょうね」

「……ずいぶんと簡単に自分を見限っているのね」

「いいえ、そうならない為に自分も相手を信じてますから。
 それに、私はもしも勇太がアナタの凶行を止める為に私に向かって死ねと言うなら、それを受け入れるつもりです」

「……ッ、何を言って……――」

「――それが、信じるという覚悟ですよ、巫浄霧絵」

 それは鋭く、まっすぐ突き刺さる言葉であった。

 襲撃の前夜。
 対面する二人の巫女。

 それぞれの長い夜が始まろうとしていた。

 to be continued…

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sinfonia.35 ■ 闇の巫女、霧絵

――それは、争いに疲れた一人の男と、まだ世界を知らなかった一人の少女との出会いから、全てが始まった――

 ――時は遡る。

 世界各国で未だ続く紛争。
 政権への不満が爆発し、誰かが引鉄を弾いた事から始まった戦争。
 国家間での折り合いがつかず、表立ってマスメディアには取り上げられはしないものの、戦争が続いていた頃だった。

「――日本って国は平和で良い所だ。
 あぁ、俺はなんて馬鹿だったんだろうな……。戦場に立って戦いたいなんて夢を見て、俺はその故郷を捨てちまった。おかげで、今こうして日本のことばかりを思い出しちまうんだ」

 とある小国での戦争に、傭兵として参加していたファングに向かって一人の東洋人が呟いた。

 それは、自分達を雇っていた本軍が自分達を見放し、戦地に置き去りにした夜のことだ。
 火を点ければ敵に見つかる可能性がある。
 その為に真っ暗な森の中で、鬱蒼とした木々の下で小休止している最中だった。

 本来なら会話ですら自分達の命を脅かしかねない愚行だ。
 それでも男たちは、そんな言葉を皮切りに次々と故郷の話を口にした。

 自分達がいるのは死地であり、もうすぐ真っ黒な死神が鎌首をもたげながら這い寄って来るだろう。
 そんな尋常ではない状況故に、だろうか。或いは、腹を括ったとでも言うべきだろうか。

 半ばヤケクソめいた想いで、男達は戦場で死ぬ自分達に悔いが残らぬように、それぞれに故郷や家族に向かって言葉を口にしていた。

 ――そんな中、ファングだけが沈黙を貫いていた。

 寡黙な男ではあったが、ファングとて想いは一緒だ。
 だが彼には、帰るべき故郷も、帰るべき家族の温もりも存在していなかった。
 だからこそ、彼だけが語ろうとはしなかった。
 語るべき言葉が見つからなかったのだ。

 そんなファングに、故郷への想いを口にした一人の若い東洋人が歩み寄った。

「なぁ、ファング。俺の故郷に一緒に行ってみないか? 小さな山間の村で、経済的な発展を遂げた日本らしくはねぇんだがよ。長閑で平和で、良い所なんだ」

 男の言葉に、ファングは逡巡して頷いた。

 ――生きていれば。
 そんな安請け合いの返事ではあったが、それでも東洋人の男は嬉しそうに頷き、ファングに故郷を語った。

 それから数時間後。彼らは皆、命を落とした。
 たった一人、ファングだけを除いて。

 ――――日本へとやって来たのは、それが理由だった。

 飛行機と長距離バスを乗り継ぎ、一時間に一本あるかないかというバスに乗って、ファングは東洋人の男の遺髪とドッグタグを手に握り締めながら、浅い眠りの中であの夜を思い出していた。

 男が言う通り、そこは実に閑散としているが美しく、不便ではあるが趣のある小さな村だった。
 山間に囲まれ、都市部に行くにも一日をかけて往復するハメになりかねないような、そんな不便な場所に村はあった。

 拙い日本語を駆使して、ファングは東洋人の男の家族を探した。

 今までファングは、同じ部隊にいた者達の故郷に遺髪や遺品を届けるなんて真似はしなかった。
 自分もまた戦場に生きる人間であり、血に染まった男だ。
 そんな人間が現れて、良い顔をされる訳もないだろうと感じていた。

 同時に、そんな弔いに一切の意味も見出していなかった、と言うべきだろう。

 家族はすぐに見つかった。
 名前を出した途端に、村の人間が訝しげに自分を見上げつつも案内してくれたのだ。
 遺髪と遺品を渡し、死ぬ前夜に語らった様子を伝えると、家族は「あの馬鹿が……」と呟きながら涙を流し、遺髪とドッグタグを掻き抱くように崩れていく。

 その姿を見つめていられずにすっと目を逸らしたファングは、その先に見た不思議な人々の列に目を奪われ、同時に目を瞠った。

 ――そこには、たった一人の少女を神輿のような、それでいて檻のような何かに入れて進む人々。
 それを拝んでいる人々の姿があったのだ。

 もちろん、民族によって宗教的な行動はいくらでも見てきた。
 ファングとて、そんな光景に驚いた訳ではない。

 ファングの視線は、その檻に閉じ込められた少女の目に向けられていた。

 ――その姿は、まるで戦場の少年少女と同じ。
 何も希望も夢もなく、ただただ生きているだけの人形然としていた。

 ――――それが、巫浄霧絵とファングの邂逅だった。

 向かい合い、睨み合う二人。
 手を伸ばせば届く位置にまで近付いていた霧絵のその姿に、かつての面影を重ねて見たファングは小さく笑みを浮かべた。

「……そう、泣くな。それが貴様の、選択、なのだろう……」

 無表情で立っている霧絵の手は、黒い怨念が具現化した刃に包まれてファングの腹部を貫通していた。
 無表情の相手に向かって「泣くな」と告げたファングの言葉に、霧絵の瞳から一筋の涙がつつっと頬を伝った。

「……泣いてなんていないわ。耄碌したのね、ファング。ずいぶんと歳を取ったんじゃないかしら」

「……あぁ、そうだろうな。傭兵としては長く戦い過ぎ、もう前線に戻る事もない。
 幕引きを貴様がしてくれると言うなら、それも悪くないだろう……」

 言葉を締め括るか否かといったところで、ファングが吐血した。
 そんなファングの口から流れ出た血に視線を落とし、霧絵は僅かに肩を揺らした。

「……俺も、あの少年に賭けてみるとしよう……。貴様が止められて欲しい、と」

「……裏切るの?」

「いいや、俺は裏切らん……。お前が望んだ未来を、お前が望まぬ狂気で歪まぬように祈るだけ、だ……」

 ぐらり、と身体が揺れ、巨体が後方へと傾き、倒れていく。
 霧絵は慌てて手を引き、逆の手でファングの身体を掴もうと腕を伸ばすが、それは虚空を切り、ファングはそのまま後ろに倒れてしまった。

 地面に倒れたファングの姿が、人間に戻っていく。
 霧絵はその姿を見てぐっと奥歯を噛み締めながら、しばし呆然とその場に佇んでいた。

◆ ◆ ◆

「――【虚無の祭殿】は、この東京のどこかにあるわ」

 IO2東京本部。
 両腕に対霊鬼兵拘束用の呪符を巻かれたエヴァが、武彦と勇太、そして百合に向かってそんな曖昧な言葉を口にした。

 この期に及んでまだ隠し立てするのかと苛立ちを顕にした勇太が詰め寄ろうとするが、百合がそんな勇太の腕を引っ張り、制止した。

「……エヴァ。どこかってどういう意味?」

 百合が勇太を制止しながら尋ねると、エヴァは目の前にあった地図を顎で示した。

「東京都23区。その主要区とも呼べる位置をその姿を上空から見ると、円状に広がっているのは分かるわね。その場所に多くの怨霊を操り、多くの血を流した。
 それによって、『場を整える』のが今回の騒動の本当の目的だったわ」

「『場を整える』?」

「えぇ。日本全国の主要都市を襲っているのも、必要ではあったけれどカムフラージュの一環でしかないわ。全ては、気の流れを誘導する為だもの」

「気の、流れ……?」

 武彦の問いかけに淡々と答えたエヴァへ、今度は勇太が問いかけた。

「詳しい話は聞いていないけれど、必要だとは聞いていたわ。恐らく東京のどこかに【虚無の祭殿】を作る為に、わざわざ行った行為だったんでしょうね」

「……嘘じゃないんだろうな」

「疑っても構わないけれど、そうしている間にアナタ達のお友達が巫女となって死ぬだけよ」

 睨みつけた勇太へ、エヴァはどこ吹く風とでも言わんばかりにあっさりと答えてみせる。

 エヴァが協力する。
 そんな言葉を聞いて、一応はIO2東京本部へと戻って来た勇太達一行であったが、今でもエヴァのその態度には懐疑的であった。
 そもそも、エヴァが協力する意図が一切解らないのだ。

 だがエヴァの心情は、すでに虚無の境界の成就には向けられておらず、正直なところを口にすれば、混乱していると言うべきだろう。

 勇太によって語られた言葉の一つ一つ。
 それに、ファングが自分にそうしろと言っていたあの言葉。

 それらが、エヴァの心情を揺り動かしていた。

 だからこそ、エヴァは今、それら全てを投げ出すように口を滑らせていたのである。
 何がどちらに傾くのか、皆目見当もつかないこの状況で、エヴァは混乱しつつも全てを投げ出すような心情でいた。

 そんなエヴァの気持ちを一切知らず、勇太と百合、それに武彦が地図を見つめて唸る。
 闇雲に探しに行けば、それこそ時間のロスだ。
 今は一刻も早く、【虚無の祭殿】を特定しなくてはならなかった。

 焦りで思考がまとまらない勇太であったが、そんな勇太の横で武彦が突如ハッと何かに気付き、近くの職員に日本地図を用意するように声をあげた。

 何事かと様子を見ていた勇太達の前で、武彦が持ってきた日本地図に赤ペンで線を走らせ、その次に黒いペンで☓印を記入していく。

「……そう、か。そういう事か……!」

「く、草間さん……? 何か分かったんですか……?」

「あぁ。勇太。龍脈だ」

「龍脈……?」

「日本の中心部を走るとされる龍脈を、襲撃しながら意図的に歪ませるんだ。そうする事で、大地に流れた力を強引に捻じ曲げ、東京に呼び込んでいる。
 東京の襲撃された地区で、最も激しかった場所をこうして囲めば……」

 武彦がペンを走らせ、それらを囲む。

「……八角形……?」

「龍脈を呼び込む形と言われる八角形だ。そしてその中心は――ここだ」

 武彦が中心点となっているその場所をペンで囲む。

 そこに書かれていたのは――――。

「――東京、駅……!」

to be continued….

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sinfonia.34 ■ 闇

切迫した空気の中で、霧絵とファングの二人の視線が交錯する。

 未だ迷っているエヴァの手を引いてこの場を離れていく勇太ら一行の迷いや焦燥をその広い背中に一身に受けたファングは、ただ強い相手との戦いでも傭兵としての日々でも得られなかった、奇妙とも言える温かな感覚に口元を緩めた。
 その姿に霧絵はピクリと眉を動かした。

「……悪いけど、アナタに関わっている暇ないわ、ファング。せっかく巫女を手に入れたのに、付き合っていられる程に悠長な状況じゃないの」

「行きたければ行けば良いだろう、盟主よ」

 ファングの言葉に霧絵がさらに眉間に皺を寄せた。
 これは一種の作戦であり、巫女である凛を捕らえた霧絵を逃がす心算で先ほどの演技をしてみせたのであれば、ファングは策士であると言わざるを得ないだろう。

(――それは、ないでしょうね)

 脳裏に浮かんだ都合の良い妄想を霧絵はあっさりとそう断じた。ファングという男は、お世辞にもそんな策を講じる男ではない。
 その霧絵の判断を肯定するかのように、ファングは続けた。

「行けば、俺とあの小僧達をまとめて相手にする事になるだけだがな」

「……エヴァが私を裏切る、とでも?」

「その通りだ。ヤツは元々こちら側に堕ちてはいない。染まってしまっただけだ。俺達とは違う」

 ファングはエヴァという少女を思い浮かべながら、本来のファングの実力を出せる獅子型合成獣の姿へと身体を変えていく。

 エヴァ・ペルマネント。
 彼女は元々、ファングや霧絵とはあまりに違う位置にいる存在だ。

 世界に絶望し、全てを呪い、そして虚無へと還してしまいたいと願う復讐者。
 こんな世界は本来の姿ではないと嘆き、虚無こそが唯一の救いであると信じる狂信者。
 ただ世界を破壊してみたいと願ったり、強い者と敵対し、力を誇示したいという危険思想者。
 そのどれかが、虚無の境界に行き着いた者達だ。

 しかしエヴァは違った。
 生きる方法も解らず、彼女自身が求めた世界はファング達の言う〈こちら側〉には存在しない。
 彼女はただ生きたいと願い、力を渇望し、そして世界を知らない憐れな少女だ。

 そんな子供を、ファングは多く見てきた。

 一人の傭兵として世界を回っていた頃、生き方が解らずに死んでいく戦争孤児は腐る程にいた。
 生きる為だけに銃を構え、自分に向かって鉛弾を撃つ子供達もいた。
 そんな子供達は誰もが眼に希望を灯さず、ただ生きる為だけに、その為だけに他者の命を奪おうとしていたのだ。

 同情はした。
 殺さずに救ってやれないかと逡巡もした。
 だがファングは、そんな陳腐な優しさを振り撒かず、せめて苦しまぬように一思いに殺す事で子供達をこの不幸の連鎖から解き放ってきた。

 それが自分に出来る唯一の救いであると、そう自分に言い聞かせながら。
 だがエヴァは違う。

(……工藤勇太、か……。不思議な男だ)

 世界に絶望した復讐者。それは自分もまたその一人だとファングは気付いている。
 そんな相手にすら、あの少年は手を差し伸べようとすらするのだ。

 きっとエヴァなら――まだこちら側に来ていない彼女ならば、あの少年との出会いは一つのターニングポイントになるのではないか。
 あの不思議な少年ならば、そんな一つの道標になってくれるのではないか。
 そう、ファングは期待してしまう。

「……奪うことで救ってきたというのは〈こちら側〉の考えだ。だがエヴァ・ペルマネントはまだ引き返せる。ヤツならばまだ、陽の当たる世界で生きる事が出来るだろう」

「ずいぶんと饒舌じゃない、ファング。アナタらしくもない」

「あぁ、そうだろう。俺らしくなどないだろうな――」

 神経を逆撫でするような口調で霧絵が告げた言葉を、ファングはあっさりと呑み込んでみせ、口角をあげた。獅子の口元がニヤリと横に広がっていく。

「――その言葉はそっくり貴様に返してやろう、盟主……――いや、霧絵よ」

「……ッ」

 ファングの言葉に、霧絵の表情は明らかに歪んだ。
 そうして名前で呼ばれたのはいつ以来だったか。あるいは、盟主として君臨する何年も前の頃以来だろうか。

「世界を怨み、悪意を力にすることで貴様は今を築き上げた。全てを繰り返さぬようにと、その一心で世界を敵に回した。
 そんな貴様が、未来ある若者達の未来を塗り潰すという事実に気付いていない訳ではあるまい」

「……何が、言いたいの……?」

「今もまだ貴様は迷っているのだろう、霧絵よ。何故今まで虚無を使って来なかったのか。巫女が見つかっていなかったとは言うが、あの少女が巫女である可能性など、〈2年前〉から気付いていたではないか」

「確証がなかっただけよ」

「自分を偽るな、霧絵。貴様はずっと迷っていた。自分を止められる何者かが現れるまで、ずっとだ」

「……フザけたことを言わないでもらいたいわね。私は待ってなんて――」

「――ならば何故、俺にあの少年を殺せと今まで命じて来なかった」

 ファングの言葉に霧絵がわずかに肩を揺らし、目を瞠った。そんな様子に構うことなく、ファングはそのまま続けた。

「あれから数年。あの少年をわざわざ泳がせるなど、虚無の境界の盟主としてはあり得ない。サンプルを手に入れた以上、あそこまでの才能の塊を放置しておくなど、ただの失策でしかなかろう。俺に命じれば、いつだって不意を突いて殺せたはずだ。
〈2年前〉のあの凰翼島であの巫女を見つけたのも、あの少年を監視だけしろと告げた貴様の命令だったはずだ。隙があれば殺せたはずだ」

「それはディテクターが同行していたから――」

「――いいや、違う。殺せてしまっては、もう貴様は止まれないからだ。だから貴様は、あの少年に託した。成功か失敗か。自分だけではあまりにも大きく、重くなってしまった天秤がどちらに傾くのかを」

 ファングの突き付けた言葉に、霧絵はついに臍を噛むような思いで俯いた。
 同時に周囲から焼け焦げたコンクリートの匂いを運んでいた風がピタリと止み、一瞬の静寂が訪れた。

「……やめて。アナタに何が分かるっていうの?」
『――邪魔をするな』
《壊せ、潰せ、全てを虚無へ》
【憎い、憎い憎い憎いッ!】

 それは同時に、間延びしたテープのような声、少女が歌うような声。そして怨嗟を撒き散らした声となって、霧絵から放たれた。
 先ほどまで止んでいた風が作り上げた沈黙の中で、同時に奏でられた声。声の発信地に佇んだ霧絵がクククッと笑い声をあげながら、顔だけをファングに向けた。
 霧絵の身体を渦巻いた黒い帯が人の顔を象るように歪み、それぞれの声の主と思しき顔を作り上げ、ぐるぐると回る。

 ――その光景はあまりにも。
 極めて異常で、危険だとファングの本能が警鐘を鳴らした。

◆ ◆ ◆

 一方、突然のファングの登場によって混乱しながらも、凛を優先してその場を離れた勇太達。
 百合の〈空間接続〉の能力を利用してその場から離れた勇太達であったが、一行の表情は暗い。

 凛が攫われた。
 この状況に落ち着いてなどいられるはずもなかったのだ。
 同行していたエヴァの肩に勇太が掴みかかった。

「……くッ」

「答えろ。凛は何処にいるッ?」

 鬼気迫る形相で勇太がエヴァを睨み付けて声をあげた。
 突然の勇太の変化に戸惑いながらも百合が勇太を止めようと手を伸ばすが、その手を武彦が止めた。

「……恐らく、祭殿よ」

「さい、でん……?」

 聞いた事のない単語を耳にした勇太が尋ね返すと、エヴァは嘆息して勇太の手を振り払った。

「……【虚無の祭殿】と呼ばれる場所よ」

「ちょっと待ちなさい、エヴァ。一体どういうこと? 【虚無の祭殿】なんて聞いたことないわ」

「ユリは知らないでしょうね。そもそも〈虚無〉が何かも分かっていないんだから」

「そんな事はどうでも良いッ! 凛の居場所を教えろッ!」

「落ち着け、勇太」

 エヴァの淡々とした物言いに苛立った様子で勇太が声をあげるが、武彦が静かにそれを制止した。不服げな様子で武彦へと振り返った勇太であったが、武彦は静かに首を左右に振った。

「……エヴァ・ペルマネント。もう〈虚無〉は覚醒めようとしているのか?」

「明主様の言う通り、〈巫女〉がいれば、よ」

「事態は少なからず一刻を争う状況って事か」

 武彦が嘆息する。
 まさかここにきて凛が攫われ、利用されかけるなど予想だにしていない状況としか言いようがなかった。

「……事態は一刻を争う。その場所を答えてもらうぞ」

「別に構わないわ」

「……え?」

 武彦の言葉にあっさりと答えたエヴァの言葉に、思わず勇太が目を瞠った。

to be continued…

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