休日出勤

 男子厨房に入らず、という言葉がある。男女差別的な意味合いで使われる事が多い。
だがもしかして、これを言い出したのは女性の方ではないのか、とフェイトは思わなくもなかった。
男に料理の手伝いなどされては、かえって邪魔だ、という事である。
台所仕事に集中している女性というのは、そう思えてしまうほどに鬼気迫っている。
八瀬葵が従業員として働いている喫茶店。
業務用厨房を覗き込みながら、フェイトはそんな事を思っていた。
本日は定休日である。
喫茶店のマスターは、買い付けに行っている。
葵は休日出勤。こんな時でなければ出来ない大規模な清掃を、あらかた終えたところだ。
今は当然、客はいない。
にもかかわらず厨房では、凄まじい勢いで料理が出来てゆく。
フェイトは、小声を発した。
「……弥生さん、よく来るのかな?」
「忙しい時とか、手伝ってくれる時もある……それより、あんたもよく来るよね」
葵が、茶色の瞳をちらりと向けてくる。幾分、冷ややかな眼差しではある。
IO2は暇なのか、と無言で問いかけられている。
フェイトは咳払いをした。
「あ、いや何か手伝える事ないかな……と思ったんだけど」
「それじゃ、ちょっと試食してみてくれる?」
キッチンを占領している女性が、そう言って微笑んだ。
明るく、優しい笑顔。それでもどこか鬼気迫っている、とフェイトは感じた。
弥生・ハスロ。マスターの奥方である。
子供たちを保育園に預けた後、新メニュー考案のためと言って店に現れるなり厨房に閉じこもり、料理を始めてしまったらしい。
おかげで葵が、キッチンの清掃に取りかかれず、少し困っていたようだ。
「ああ大丈夫よ葵君、お掃除は私がやっておくから……ほらキミも食べて食べて」
「は、はい……あの……新メニューって、これ? ですか……」
主婦らしい手際良さでテーブルに並べられてゆく料理を、葵もフェイトも呆然と見つめた。
「酢豚とか、あるんですけど……」
「こっちはカツ丼だ……弥生さん、これ喫茶店で出すの?」
「うっふふふふ。ハスロ家名物、タマネギの代わりにミョウガを使ったさっぱり系ロースカツ丼と、ターメリックの利いたピリ辛酢豚よ。お酒にも合うんだから」
「いや、だからここは喫茶店……ま、いいや。いただきます」
フェイトは手を合わせてから、箸を使い始めた。
カツ丼は今一つ。酢豚は、美味い事は美味いがやはり酒か白米のどちらかが欲しいところだ。
コロッケ蕎麦は、コロッケの中身が食べてみてもよくわからず気になる点を除けば、なかなかのものではある。
食べながらフェイトはしかし、おかしな既視感のようなものに襲われていた。
このような料理、もちろん食べるのは初めてである。だが、味わいと同時に感じられる何かに、フェイトは覚えがあった。
葵が、ぽつりと言う。
「弥生さん……マスターと、うまくいってないんですか?」
「おおい!」
フェイトは思わず叫んだ。葵の口に、コロッケを突っ込んでやりたい気分だった。
開店以来、フェイトが気にしていながら口には出せなかった事を、この八瀬葵という青年はあっさりと言ってのけたのだ。
弥生が一瞬、固まった。
「……何で……葵君は、そう思うのかな……?」
「何となく……ですけど……」
言いつつ葵が、焼き鳥をかじっている。
いくら何でも喫茶店に焼き鳥はなかろう、とフェイトは思った。
「これ、食べてると……何となく、そういう音が聞こえてくるんです……変な言い方で、ごめんなさい」
葵のその言葉で、フェイトは思い出した。既視感のような、この奇妙な感覚。
思いを寄せていた女性が、親友と結ばれた。
それを祝福しながらも、未練を捨てられない。祝福の言葉で未練を包み隠していながら、どこか隠しきれていない。
八瀬葵の、あの歌を初めて聞いた時の感覚だ。
あれと同じようなものを、この料理を食べていると、感じてしまうのだ。
弥生が、苦笑している。
「……葵君の彼女になる女の子は、大変よね。『音』だけで、何でもかんでも見抜かれちゃう。元カレの事なんかもねえ」
「……もしかして弥生さん、本当に……うまく、いってないの……?」
恐る恐る、フェイトが尋ねる。
弥生は明るく笑った。一見、明るい笑顔だ。
「そういうわけじゃないわ。彼はいつも通り、私に優しくしてくれて……って何か、のろけ話みたいになっちゃうけど」
こほん、と弥生は咳払いをした。
「とにかく。私がちょっと、落ち着いていないだけ。そうよ、おたおたする必要なんて全然ないんだから。女のお客さんにちやほやされたくらいで、舞い上がっちゃうような彼じゃなし」
弥生は明るく笑っている、ように見える。
「私がちょっと一方的に、変な事気にしちゃってるだけ。そうよ、何にも気にする必要なんてないんだから。彼が女のお客さんに優しくするのは当たり前、接客なんだから。仕事なんだから」
「あの弥生さん、それタバスコ……」
フェイトの言葉は、弥生の耳には届いていない。
グラタンらしきものにタバスコをどぼどぼと注ぎ、がつがつと食らいながら、弥生は呟いている。
「私が、やきもきする事なんてないのよね。奥さんなんだから、どんと構えてればいいのよ。彼がいくらモテたって、いくらモテモテだって、モテモテだって、もてもて、モテモテ、もてもて」
「弥生さん、落ち着いて弥生さん」
「……だから彼に! 客商売なんて! させたくなかったのよおおおおおッッ!」
弥生の絶叫が、店内に響き渡った。
心からの叫びなのか、それとも辛さで悲鳴を上げているのか、フェイトには判断がつかなかった。
「だってモテるに決まってんじゃない! あんなにイケメンで優しくて! って、ごめんね結局のろけになっちゃったけど!」
「……のろけ話でも何でも、聞きますから」
言いつつ葵が、お冷やを持って来た。
ウェイターらしくなってきた、とフェイトは思った。
「でも良かった……お2人が、うまくいってないわけじゃないんですね」
「……ありがとね、葵君」
弥生は水を飲み干し、息をついた。
「本当に……嫉妬って、嫌なものよね」
「……ええ。これほど嫌なもの、ありません」
葵の顔が一瞬、悲痛な翳りを帯びるのを、フェイトは見逃さなかった。
あの歌は、八瀬葵本人によって削除された。
だが1度、ネット上に放たれてしまったものを、完全に消し去るのは難しい。
現に『虚無の境界』は、あの歌を保存・確保している。構成員が、端末で再生出来る状態でだ。
そして、それはIO2も同様である。
新たに直属の上司となった男が、1度聴いておけ、と言ってメールに添付してきたのだ。
お前なら耐えられると思うが万一、精神の変調を自覚したら、俺に報告しろ。これを聴いておかしくなった奴が、IO2エージェントにも、いないわけじゃあない。
あの男は、そう言っていた。
弥生・ハスロならば、もしかしたら、あの歌を分析する事が出来るのではないか。
葵の歌に宿る、葵本人は忌み嫌っている力を、彼女ならば黒魔術方面から解析してくれるのではないか。
そして葵の力を、善き方向ヘと導いてくれるのではないだろうか。
フェイトはそう思ったが、出しゃばって言う事でもなかった。
「葵君は本当、頑張って働いてくれてるけど……辛くない? 彼、ああ見えて結構、容赦ないでしょ」
「マスターが一番、恐かったのは……」
葵が天井を見上げ、何か思い出すような仕種を見せた。
「先週の日曜だったと思いますけど……弥生さん、お昼時に手伝いに来てくれましたよね」
「葵君、小学生の女の子たちにモテモテだった」
「あ、あの時間帯より後です……ちょっと変な男のお客様がいて、弥生さん絡まれてたじゃないですか」
「あの禿オヤジね。お家で、奥さんにもお子さんにも相手にされてなさそうな」
「弥生さんが上手い事かわしてたから、まあ良かったですけど……もうちょっと長引いてたらマスター、あのお客様に暴力振るってたと思います……そういう音が、出ていました」
「本気で怒ると、割とシャレにならないからね。あの人」
「もう、しょうがないわねえ彼ったら。私の事になると、冷静じゃなくなっちゃうんだから」
弥生が一気に、上機嫌になった。
フェイトは、葵と顔を見合わせた。要するに自分たちは、のろけ話を聞かされているという事なのだ。
弥生がもう1度、咳払いをした。
「……まあ、私は充分に幸せと。要するに、そういう事なのよね。彼も危険なお仕事、辞めてくれたし。パパがいつも日本にいてくれるから、子供たちも喜んでるし。ごめんね2人とも? 変な話聞かされたり、変なもの食べさせられたり」
「いや、それは全然構わないけど……」
「あ~あ、何やってんのかしらねえ私ってば」
テーブルの上を眺めながら、弥生が呆れ返っている。
「酢豚に焼き鳥、エビチリ、よく見たらホッケの塩焼きとかあるじゃない。居酒屋じゃないんだから、まったく」
彼女の綺麗な指がパチッ! と高らかにスナップを鳴らす。
空中に魔法陣が生じ、そこから何だかよくわからない形をした生き物たちが出現した。
フェイトは思わず、スーツの懐に片手を入れた。が、拳銃はない。日本であるから常日頃、持ち歩くわけにもいかない。
「や、弥生さん! こいつらは……」
「私の使い魔よ。ああ大丈夫、ちゃんと躾けてあるから……あなたたち、私の失敗作を片付けなさい」
『わぁああい、めしだ、めしだ』
『ぐへへへへ、姐さんの手料理ぐへへへへへ』
使い魔たちが猛然と、テーブル上にあるものを平らげにかかる。
「もっとちゃんとした、喫茶店のメニューらしいものを作りましょうか」
弥生が軽やかに椅子から立ち上がり、自分の身体にエプロンを巻き付けた。
「何がいいかな……2人とも、何か食べたいものある?」
「お、俺は……ええと、何でもいいです」
葵が、ある意味最も相手を困らせる答えを口にしている。
フェイトは、特に考える事もなく注文をしていた。
「エビフライとか、出来る? 喫茶店のメニューかどうかは微妙だけど」
「……私が主婦のお仕事修行中の頃、勇太君に試食してもらったやつね。懐かしくもあり、恥ずかしくもあり」
「あれ、本当に美味しかったよ」
工藤勇太であった頃から自分は、この夫婦には厄介になりっぱなしである。
「もう1回、食べてみたいって思ってたんだ」
「ふふっ、じゃあ頑張って……あの頃の初々しい私に、戻ってみましょうか」
足取り軽く厨房へと入って行く弥生を、じっと見送りながら、葵がぽつりと訊いてきた。
「勇太君……って、あんたの事? 本名なんだ」
「まあね」
「何で、フェイトなんて名乗ってるの?」
「……格好付けてるだけさ」
それだけを、フェイトは答えた。
先輩風を吹かせて偉そうに語る話など、何もないのだ。

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風の明王

 蜘蛛の糸である。
鋼よりも強靭で、なおかつ凄まじい粘性を有する物質。
刃物で切断出来るものではない。が、この退魔の小太刀であれば。
「オン……ソンバ、ニソンバウン、バザラウンハッタ!」
俺は降三世明王の真言を唱え、印を結び、そして小太刀を抜き放った。
斬撃が、風のように一閃した。
全身に絡み付く蜘蛛の糸を、俺は綺麗に断ち切る事が出来た。
だが、必殺の斬撃には程遠い。
まだだ。この敵どもに勝つためには、もっと高速の斬撃が必要なのだ。そう、風のように。
風を、己のものにしなければならない。
地水火風それに天。これら五行の力を、俺たち一族は五大明王に無理やり当てはめて修練を積み、退魔の戦技を磨き上げてきた。
あらゆる戦いに、勝つためにだ。
勝たなければならない。勝たなければ、何も守れはしない。
俺は見回した。睨み据えた。
シューシューと糸を噴射しながら牙を剥き、おぞましく節足を蠢かせる生き物の群れ。
俺は小太刀を構えて今一度、真言を叫んだ。風を、念じながら。
実在するかどうかもわからぬ降三世明王に、風を求めながら。
空気が、俺の周囲で渦を巻いた。
疾風、あるいは旋風。
風が、俺の身体を包み込む。俺の身体と、同化してゆく。
風は俺になり、俺は風になる。
風のように動き、超高速の斬撃を繰り出す。そのためには、風になるしかないのだ。
無数の蜘蛛糸が、あらゆる方向から降り注いで来る。
一陣の風が駆け抜けるかのように、俺はその全てをかわした。
かわしながら、踏み込んだ。
小太刀が暴風の如く閃いて、斬撃の弧を無数、超高速で描き出す。
糸を噴く怪物たちが、その弧に触れて縦に、横に、斜めに、食い違ってゆく。
全て、真っ二つだった。
返り血、なのかどうかも判然としない体液が、俺の全身を汚してゆく。
死の汚れにまみれながら、俺は駆けた。
退魔の小太刀を振るい、斬撃の風を吹かせ続けた。
勝たなければならない。
その思いに満ちた俺の心の中で、黒髪がサラリと揺れた。
長い黒髪を舞わせながら、誰かが振り向き、微笑んでいる。俺に、微笑みかけてくれている。
俺の方など、振り向いてくれるはずのない人が。
「…………姫……」
俺は呟いた。決して届く事のない言葉。
それでいい。
俺はただ、戦うだけだ。勝つために。
そして、守るために。

ある種の蜘蛛は、小蝿やゴキブリを捕食してくれる、言わば益虫であるという。
戯言だ、と加賀見凛は思う。
家の中で、この生き物たちを目撃するくらいであれば、ゴキブリに徘徊される方がまだましだ。
「ふおおおおおおおおおおお」
朝の加賀見家に悲鳴を響かせながら、凛は硬直していた。パジャマを脱ぎかけたまま、動けなかった。
種類などわからない。とにかく、蜘蛛である。
8本足を薄気味悪いほど敏捷に動かしながら、畳の上を闊歩している。
蜘蛛糸に絡め取られたかの如く、凛は動けなかった。
恐怖で全身が麻痺している。叫ぶ事しか出来ない。
「あっがががががが蜘蛛がクモが、くくくくくくもがああああああ」
小さなパピヨン犬が、ひょこっと凛の部屋を覗き込んだ。
加賀見家の飼い犬、花である。
とてとてと部屋に歩み入って来た花が、ぱくっと蜘蛛を拾い食いしてしまう。
助かった、にもかかわらず凛は悲鳴を止められなかった。
「ぎゃああああああああ花ちゃん!」
「ああもう、うるさいねえ何やってんの朝っぱらから」
言ったのは花、ではなく母であった。ずかずかと息子の部屋に踏み込んで来る。
「とっとと着替えて朝ごはん食べちゃいな。お母さん仕事なんだから」
「おっおおおおおおお母様、蜘蛛がクモが」
「あんたって昔っから誰彼構わず喧嘩売ってたくせに、蜘蛛だけは苦手なんだねえ。で? どこにいるの蜘蛛なんて」
「はっ、花ちゃんが花ちゃんが」
恩人である飼い犬を、凛は抱き上げた。
「駄目だよ花ちゃん! いや確かにクモってのはカニの遠い親戚で、味も似たようなもんだって話もあるけど!」
抱き上げられ気遣われて、花が迷惑そうにしている。
母が、溜め息をついた。
「……いいから、早く朝ごはん食べて学校行きな。いつまでも花ちゃんにお世話されてないで」
「わ、わかったよ……」
花を解放しながら凛はふと、机に立てかけてあるものを見やった。
鞘を被った、小太刀。
祖母がくれた、あるいは押し付けてきた、銃刀法違反品である。
夢の中で自分は、これを振り回していた、ような気がする。
(退魔の小太刀……ねえ)
ゲーム内で、そんな類のアイテムを手に入れた事なら何度もある。
今、凛が思うのは、それだけだ。

「あー、まったく……変な夢ばっか見るなあ、もう」
学校からの帰り道。
友人数名と別れ、1人とぼとぼと自宅へと向かいながら、凛は呟いていた。
昨夜の夢が、ぼんやりと脳裏にこびり付いて消えてくれない。
それでいて、どんな夢であったのか、はっきりとは思い出せないのだ。
ただ、大量に蜘蛛が出て来たような気がする。悪夢であったのは間違いない。
物心ついた頃から、どうにも蜘蛛だけは苦手であった。
「何でだろうな~。蛇とかミミズとかは全然平気なのに……うん?」
凛は足を止めた。何やら見過ごせないものが、視界をかすめたからだ。
3歩ほど後退し、路地裏を覗き込む。
凛よりもいくらか年上、高校生と思われる少年2人が、殴り合っていた。
無言でだ。
無言で胸ぐらを掴み合い、拳を叩き付け合っている。
いや、拳だけでは済まなくなった。
1人がバチッ! とナイフを開いた。もう1人も、いつの間にか特殊警棒を手にしている。
「あー……ちょっといいかな」
凛は、声をかけた。
「てめーこの野郎とか、やんのかコラァ! とか声出した方がいいと思う。大声出さないと、何かこう……内にこもった感じの、悲惨なだけのブン殴り合いになっちゃうからさ。あと、さすがに刃物はやめといた方がいいと思うなあ」
「…………」
少年2人は、やはり無言だ。
叫ばず、喚かず、実に冷静に、殺し合いをしようとしている。
否。彼らの目には冷静さ、すらない。何の感情も宿していない両眼が、互いを見ている。
「おい、あんたら……」
声をかけようとして、凛は気付いた。
もう1人いる。少年ではなく、少女。
ブレザーの制服がよく似合う、美しい少女が1人、少年2人の殺し合いを楽しげに見物している。
「けんかをやめて~♪ ってとこなわけよ今。だからねえ、邪魔しないでくれる?」
その美貌が、にっこりと凶悪に歪む。
「ふたりをとめて~♪ ……なぁんて嘘嘘、止めちゃいやん。男2人が、あたしを巡って殺し合い! このときめく乙女心、中坊のガキにゃわっかんないかなぁあ」
「あんた……」
凛は見た。
少女が何気なく動かした繊手から、キラキラと微かな光が伸びているのを。
綺麗な五指の先端から、少年2人に向かって伸びた……それは、糸であった。
少年たちは今、糸で操られる人形と化しているのだ。そして、殺し合いをさせられている。
凛は呟いた。
「……蜘蛛の……糸……?」
「……へえ、見えるんだ」
少女の笑顔が、邪悪さを増した。
少年2人が、倒れて気を失った。まさに糸の切れた人形の如く。
つい今まで彼らを束縛していた糸が、少女の繊細な指先から伸びて漂い、キラキラと微かな光を散らす。
「こっちの坊やの方が、面白そう。ね、お姉さんとお人形遊びしよ? 君、お人形の役ね」
「何だよ、あんた……!」
わけがわからぬまま、凛は後方に跳んだ。
上空から、おぞましい気配が降って来たからだ。
それは凛の眼前で、長大な8本の節足を使って軽やかに着地し、牙を剥いている。
小柄な凛よりも一回りは巨大な、蜘蛛であった。
凛の身体が、硬直した。恐怖で、全身が麻痺している。
……否、恐怖ではない。いや恐怖には違いないが、それはこの巨大な蜘蛛に対してのものではない。
(何だ……これは……)
冷たく、それでいて激しく燃え盛るものが、凛の胸の内を満たして荒れ狂う。
かつて自分は、この得体の知れない感情のおもむくままに戦った。
この蜘蛛たちと……そして、彼らを戦力として使役する者たちと。
そんな事を、凛は思った。
心の内で、冷たく激しく燃え盛るもの……それは、殺意であった。
自分は今、殺意に支配されつつある。
凛にとっての、恐怖の対象。それは、蜘蛛ではない。
(殺意を……止められなくなった、俺自身……?)
小さなものが、足元に忍び寄って来る。何やら大きなものを口に咥えた、小型犬。
「花ちゃん……!?」
加賀見家の飼い犬が、可愛らしい上下の牙でがっちりと挟み込み、運んで来てくれたもの。
それは、鞘を被った小太刀だった。
中学生の少年と、小さなパピヨン犬。
両者をまとめて絡め取るべく、大蜘蛛が糸を噴射する。
風のように、超高速で切り刻むしかない。糸も、その発生源たる蜘蛛の巨体も。
頭の中に、わけのわからぬ言葉が浮かんだ。
それを、凛は口にした。
「オン……ソンバ……」
風が吹いた。
風が、自分と同化した。そんな事を感じながら凛は、
「ニソンバウン……」
花を左腕で抱き上げつつ、路面を蹴った。
疾駆。それと同時に、小太刀を抜く。花の口元に、鞘だけが残った。
抜き身の小太刀が、いくつもの弧を描く。
「バザラウン……ハッタ……」
蜘蛛糸が、切断されてヒラヒラと舞った。
大蜘蛛が、真っ二つになりながら体液をぶちまける。まるで、あの夢のように。
「やるじゃない、中坊ちゃん」
少女の、声が聞こえる。だが姿はもう見えない。
「その小太刀、まさかとは思うけど……ふふっ、確かめたいから生かしといてあげる」
「確かめる……って、何を……」
呆然と、凛は問いかけた。答えはなかった。
「俺の……」
両断された大蜘蛛の屍が、急速に腐敗し、崩れ、消滅してゆく。
これを、自分がやったのか。
あの意味不明な夢を自分は今、起きながら見ているのか。
「俺の……正体でも、調べてくれるのか……なら助かる、んだけどなあ……」
左腕には、鞘を咥えた小型犬。右手には抜き身の小太刀。
誰かに見られでもしたら、少し面倒な事になる。そこに思い至るまで凛は、今しばらくの時を要した。

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Hydrangea

ケーブルを差し出したはいいが見覚えのない雰囲気を持ち合わせる青年を前に、クインツァイトは首を傾げた。
「アンタ、新顔さん? ……でもどこかで見たような……ウチの事は、知ってるのよね」
「そんなに変わってないとは思うんだけど……でも、結構久しぶり、になるのかな。勇太です」
「え、あら!? そうなの!?」
クインツァイトは心底驚いているようであった。
工藤勇太は知っているが『フェイト』である彼を知らなかったからだ。
「あらまぁ……前から可愛らしい子ではあったけど、こんなに男前になっちゃって……。そう、今はもう働いているのね。よく来てくれたわね」
近所のおばさんが昔を懐かしむような、そんな反応で彼(彼女)はフェイトの手を握りしめて声を湿らせつつそう言った。
フェイトのほうはそんな店長の反応に若干、困惑気味だ。
「まぁ、その……研修で暫く日本にもいなかったし……。ご無沙汰してました。今はIO2でエージェントやってます。フェイトって名前で」
「なるほど、じゃあ今はフェイトって呼ぶわね。……IO2っていつでも忙しいイメージだけど、頼んじゃっていいのかしら」
「今日は休暇で……何となく立ち寄ってみたんです。なので個人的にお手伝いさせてください」
クインツァイトは意外にも順応性が高い、とフェイトは思った。どうやら勤め先ですら把握済みでもあるらしく、何処から情報を得ているのだろうとも思ってしまう。
彼(彼女)の場合は特殊なのだが。
そして改めて、依頼を受ける旨を伝えると、彼(彼女)は嬉しそうに微笑んでから「じゃあ、頼むわね」と返事をくれる。
「無理だけはしちゃダメよ」
「はい。あ、今回はミカゲちゃんとホカゲちゃんを指名します。挨拶もしたいし……って、ナギさんはいないのかな」
「あら、ホント。さっきまで本棚の方にいたのに」
銀髪の少年、ナギとはこの年齢になってからも顔を合わせている。
今日も会えればと思っていたようだが、本人の姿が見えなかった。
「まぁ、アレは風来坊だからねぇ。そのうち会えるわよ」
「うん、じゃあ……取り敢えずは行ってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
フェイトは少し残念そうにしながらケーブルを受け取り、クインツァイトの見送りの言葉を聞いてからダイヴを開始した。

 

「ようこそ、ユビキタスへ」
問題のエリアへと無事に降りることが出来たフェイトは、そんな言葉を背中に投げかけられ、ゆっくりと振り向いた。
金のツインテールにワインレッドのロリータ服。
人形を思わせる少女がその場に立ち、フェイトを出迎えてくれていた。
「えっと……ホカゲちゃん、久しぶり」
「ええ、本当に。この私を放って5年も音沙汰無しなんて、よくもやってくれたわね、勇太。……今はフェイトと呼んだほうがいいのかしら」
「なんか、その言い回しは色々とマズいよ、ホカゲちゃん……。まるで俺が君の彼氏でヒドい男みたいに聞こえる……」
「あら、そうかしら? 私と関わった以上、ちゃんとした応対をしてもらわないと困るのよ」
突飛なホカゲの言葉並びに、フェイトは思わず肩を落とす。
出会った頃から強烈な印象を残していた少女は、未だに何の変化も見られない。
「勇太さま、お久しぶりです。……ホカゲが失礼なことを言ってしまって、申し訳ありません……」
「あ、ミカゲちゃん、こんにちは。いや、俺の方は大丈夫だよ。2人に会えてよかった」
遅れて登場したのは、ホカゲの姉であるミカゲであった。
フェイトがそう返事をすると、二人の少女は同じようにし笑みを浮かべる。彼の言葉が嬉しかったのだろう。 可愛らしい反応を目にすることが出来て、フェイトも嬉しそうであった。
そして彼らはその場で、現状把握を始める。
「えーと、紫陽花が咲かないんだったよね」
「それなんだけど、『咲かない』っていうのは少しだけ語弊があるのよね」
フェイトの言葉に答えたのはホカゲだった。
彼女は立体マップを立ち上げ周囲の様子が解りやすいようにしつつ、言葉を繋げる。
「この緑色で囲まれているエリアが、今私達がいる場所で、エラーの出ている場所でもあるわけね。……で、お父様の方では確認できなかったかもしれないんだけど、一度は紫陽花は咲いていたのよ」
「うーん、でも今は何処にもそれらしいものが……あ、アレ、なんだ?」
「花弁のようですが……私が拾ってまいります」
フェイトはあたりを見回しつつそう言うと、視線の先に何かが不自然に落ちていると気づいた。小さく丸いものであったが、ミカゲはそれを花弁と判断して、取りに向かう。
「そういえば、これってエラーの一つなんだよね」
「そうよ。プログラムからのメッセージはlack……欠落って意味だけど、それが何なのか解らないのよね」
「つまりは、その欠落したものを突き止めれば、実行に至るってわけか……」
ホカゲが出してくれているマップを睨みながら、うーん、と唸るフェイト。
ヒントが少ない分、思考も難しいようだ。
「勇太さま、落ちていたものはやはり花弁でした。紫陽花の本来の花の蕾とされる部分ですね。よく見ると、周囲に落ちているようです」
ミカゲが拾い上げたものを手にして、掛け戻ってくる。
フェイトの手のひらにそれを乗せてから、落ちていた場所の先を指さしてそう言った。
「あら? データに少し変化があったみたい。断片ファイルが一つ無くなったわ」
「……じゃあ、拾って集めてみようか」
ホカゲの言葉を受け、花の蕾にヒントがあると思ったフェイトは、そう言いながら歩みを進めた。
ミカゲもホカゲも彼に遅れずに付いて行く。
花の蕾は、道なりに転々と散らばって落ちていた。
三人がそれぞれにそれを拾い集めていくと、数分後には大きな変化が訪れた。
フェイトの右手が淡い光に包まれる。
「やっぱりコレが解決の糸口……みたいだね」
数秒して光が拡散したあとに姿を見せたのは、紫陽花の一朶。
青紫色の綺麗なガクアジサイが、フェイトの右手に収まっている。
「紫陽花って確か、低木だよね。これをたくさん集めていくとそういう形になっていくのかな?」
「パターンを見る限りは、そのようですね」
「まだもうちょっと集めないとダメみたいね。地道にやっていきましょ」
そんな言葉を交わして、三人はまた蕾を拾い集め始めた。
その端から、僅かに道の色が明るく優しい物に変化していくのを、フェイトも双子たちも気づけずにいる。
「ねぇ、フェイト」
「なに?」
「IO2ってどんなところなの? 楽しい職場?」
ホカゲが足元の蕾を拾い上げながら、そんな言葉を投げかけてきた。
意外にも思えた質問に、フェイトは目を丸くする。
「……うーん、楽しいかと言われると微妙なトコだけど……。それでも俺のこの力が活かせてる……そういう意味では、良い職場かなって思ってるよ。内容は、主に霊的な調査と排除……そんな感じだね。見た目は洋画のスパイみたいな感じだけど」
「希望の丘では、そうありたいと仰っていましたものね……実現出来て、良かったですね」
ミカゲが嬉しそうに微笑みながら、そう言った。
希望の丘とは、フェイトが過去に作った一つのエリアである。現在は一般サーバーで特別な条件を満たすと辿り着けるボーナスエリアとして存在しているらしい。
「俺が植えた希望の木って、今はどういう役割果たしてるの?」
「プレイヤーへのご褒美アイテムが実るようになってます。職種によって違うので、多岐にわたるのですが……」
フェイトが問いかけてみると、ミカゲが別のマップを立ち上げてそう説明してくれた。希望の丘のマップであった。現在も2人ほどがそこで休憩をしている。
「運がアップ……しかも+5。こっちの人は攻撃力アップ……へぇ、こういうのって、なんかいいなぁ」
フェイトがマップを興味津々で眺めている。
自分が作った場でもあるために、活かせていることが嬉しいのだろう。
ミカゲとホカゲが、互いを見やる。そして言葉なく小さく微笑みあったのは、やはり嬉しいという気持ちの現れだ。
その場が幸福で満たされようとしている数秒後、数メートル先で場が乱れた。
電気が走ったような感覚に、フェイトも双子も表情を引き締めそちらへと目をやる。

 

<encounter>

 


そんな文字が浮かび上がる。
「そう言えばスライムとか出るって……あれは、コボルトか?」
「ちょっと、全員手が空いてないじゃない! なんでこんな時に……っ」
ホカゲが言うとおり、三人が三人とも手に花を持っている状態であった。
せっかく集めた花弁を地面に置くというのにも躊躇いが生じて、反応がそれぞれに遅れる。ちなみにマップの立ち上げ等は彼女たちの言葉だけで起動が可能であり、手での作動は必要ないのだ。
「……っ、来ます!」
ミカゲの言葉を受け、フェイトは取り敢えず前に進み出た。
自分の体を盾にして彼女たちを守ろうと思ったらしい。
「フェイト、ダメ! 雑魚でも怪我するわよ!」
「勇太さま!」
双子たちの切迫した声が背中に飛んで来る。
取り敢えずはコボルトは一体だけ。噛みつかれる程度であれば何とかなるだろうと思いつつ、彼はその場に立ち続ける。
「――おい、無茶すんなってクインツァイトに言われてんだろ」
「え?」
横から突風が吹いたのと同時に、そんな声が聞こえてくる。
馴染みのある響きであった。
風は今にも襲いかかろうとしていたコボルトを空中で捕らえて、そのまま別の方向へと飛んで行く。
「……ナ、ナギさん……?」
「おう、久しぶり」
風の力の正体は、ナギの能力であった。
彼は三人とは別方向の道から現れ、左手には紫陽花を手にしている。どうやら一人で花弁を集めていたらしい。
「また勝手にウロついて……私達に許可取ってからにしてって言ってるでしょ」
「オマエに許可取ろうとしたら却下するだろうが。……先に降りて驚かせようって思ってたんだけどな、先に花弁が目についちまって……うっかり一人行動しちまってた。ほい、これも使えるだろ」
ホカゲがトゲ付きの言葉をナギに放った。どうやら彼女はナギが苦手らしい。
ナギはその対応に慣れているようで、サラリと返事をしたあと、フェイトに向き直り自分の持っていた紫陽花を彼に手渡した。
すると、他に集めていた花弁と重なり溶け合って、一つの低木となった紫陽花が彼らの足元に根付いた。
不思議な光景であったが、この場にいる限りではこれは当たり前の展開なのかもしれないとフェイトはこっそり心で思いつつ、感じたことを告げるために唇を開く。
「小さな花弁が集まって……なんだか、家族みたいだね」
すると、じわりと空気が変わって次の瞬間には雨が降り出す。
そして、辺りが青や紫色の紫陽花に囲まれ、あっという間にそれは広がっていった。
「うわ……すごい……」
素直な感嘆の言葉が漏れる。
ミカゲもホカゲも、そしてナギもフェイトと同じようにその場の光景に感動して、溜息を零していた。
「あ……エラー消えたわね……。欠落していたものはキーワードだったのかしら」
「勇太さまが仰っていた、家族、ですか……?」
「そうみたい」
再び呼び出したマップの右上部分に、『Family』との文字が刻まれている。
どうやらそれが、欠けていたものらしい。
「紫陽花の花言葉に関係してるのかな」
そういうのは、フェイトであった。
双子とナギが、彼の方を見やる。
「一般的には、『移り気』だけど、『家族団欒』っていうのもあるんだよ。それを忘れないでって、紫陽花が訴えてきてたのかもしれないね」
「なるほどなぁ……」
すんなりと言葉を受け入れて、しみじみとそんな返事をしたのはナギである。ヒトではないとは言え、彼はここのメンバーの誰より永くヒトの時代に生きている。それ故に感じ取るものにも深みがあるのだろう。
「まぁ……アレだな。俺らももうちょい距離詰めて仲良くしろって事なのかもなぁ」
「プログラムから私達へのメッセージ、だったのかもしれないですね」
「私とミカゲは仲良しなんだから、後はフェイトとそっちの男がちゃんとしてくれればいいのよ」
ホカゲはそんな事を言ってきた。言葉に棘がある割には、頬が僅かに染まっている。照れ隠しのための響きだったようだ。
フェイトもナギもそれを見て、肩を竦めつつ苦笑した。
「任務があるから頻繁に、というわけには行かないけど……なるべく顔見せるように努力するよ」
「俺もまぁ、マメに様子見に来るわ」
2人がそう言うと、双子はそれぞれに嬉しそうに笑ってみせた。
彼女たちの小さな寂しさが、形として現れたのかもしれない。フェイトはそんな事を思ってみたりもする。
「んじゃせっかくだし、記念に紫陽花バックに4人でスクショでも撮っておくかぁ」
「いいね、共有できる?」
「可能です」
そう言い合い、4人は紫陽花の前に並んで、スクリーンショットを撮った。
同時にそれはデータ化され、フェイトのアイテムボックスにも送信される。
「現実世界に戻っても閲覧可能ですので、宜しかったらご覧下さいね」
「ありがとう、ミカゲちゃん」
それから4人は他愛ない会話を交わして、もう暫く、と周りに広がる色とりどりの紫陽花たちを愛でて歩いた。
他人であるが、知らない人ではない。
気心の知れた仲間たちは、『家族』にも似た空気を醸し出しながら、時を過ごしていた。

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戦忍、目覚める

風を味方に付ければ良い。
加賀見凛は、そんな事を思った。
自分はもしかしたら、負けそうになって気が動転しているのかも知れない。
負けてはならない。負けたら、終わりだ。
刃を抜いての殺し合いであろうと、このようなサッカーの試合であろうと、勝負事というものは常にそうだ。
勝たなければ、ならないのである。
だから凛は、ボールを蹴った。
昨夜見た夢を、脳裏に蘇らせながら、ゴールを狙った。
夢の中で、自分は何者かと戦っていた。
木々の間を走り抜け、跳躍しつつ凛は、その敵に向かって手裏剣を投げた。
風の、方向、吹き方、強さ、全てを無意識下で計算しながら。
「風さん、頼む!」
念じ、叫びながら、凛は蹴った。
蹴られたボールが超高速で弧を描き、敵味方入り乱れるバイタルエリアを切り裂いて飛ぶ。
そしてキーパーの手をかすめ、ゴールに突き刺さった。
「うおおおお加賀見!」
「加賀見の凛ちゃんが、またやってくれたあ!」
クラスメイトたちが、大騒ぎをしている。
シュートを決めた本人は、しかし呆然と立ち尽くしたままだ。
「何だ……一体……」
風が、ボールを運んでくれた。凛には、そうとしか思えなかった。
手裏剣は、狙い通りに命中し、敵を仕留めてくれた。夢の中だったからだ。
ここは現実である。3時限目、体育の授業だ。
ボールが、まるで夢のように、思い通りの軌道を描いてくれたのだ。
自分の力ではない。凛は、それだけを思った。
「お前! やっぱ凄いよ加賀見!」
クラスメイトが2人3人と、駆け寄って来て大騒ぎをする。
「カガリンってさぁ、ここぞって時にやってくれるよなあ! 火事場のクソ力って奴!?」
「お前、帰宅部のフリして陰でこっそり鍛えてんだろ!」
「サッカー部に入れ! お願い、入って下さい!」
もはや試合どころではなかった。

 

「やれやれ……まいったぜ、今日は」
畳の上に寝転がったまま、凛は呟いた。
1匹のパピヨンが、相槌を打つように小さく鳴く。
加賀見家の飼い犬、花である。
「なあ花ちゃん……俺って一体、何者なんだろうな? 自分探しなんてものに興味はねえ、つもりだったんだけどな」
2階の自室で、凛はペットと会話をしていた。
何者でもない。単なる中学生男子、であるはずだった。
祖母に両親、それに犬が1匹。何の変哲もない一般家庭で自分、加賀見凛は暮らしている。
つい最近、であろうか。変わった事が、あったと言えばあった。
交通事故である。
数日の間、凛は病室で意識を失っていた。
親友を庇って暴走車に撥ねられた中学生、という事で美談になったらしい。今でも時折、マスコミ関係者が接触を求めてくる事がある。
そんな事より、あの日以来、何かがおかしい。
退院してから凛は、昨夜のように奇妙な夢を頻繁に見るようになった。
夢の中で、凛は手裏剣を投げた。刀を振るった。人を、殺した。
「うん、あれって……もしかして……忍者?」
ゲームで、忍者系のキャラクターを使った事くらいはある。
忍者に対する馴染み方など、その程度のものだ。夢にまで見るヒーロー、というわけではない。
そして夢だけではなかった。
今日の体育はサッカーだったが、先日はバスケットボールで、ダンクシュートが決まった。
忍術忍法の類としか思えない力が時折、発揮されてしまう。
あの事故に遭う以前は、そんな事はなかった。勉強と同様スポーツも、まあ可もなく不可もなしといった程度であった。
身体能力は、中学生男子としては低い方ではない。
何しろ小学生の頃は、荒くれていた。校内あるいは他校の悪童を相手に、喧嘩三昧の日々を過ごした。中学生の不良に、飛び蹴りを食らわせた事もある。
飛び蹴りは出来ても、あんなシュートを決めるような脚力が身につくはずはなかった。
「花ちゃんが生まれる、ずぅっと前なんだけどな……うちのテレビがボロくてよ。しょっちゅうガピーってなるのを、ばあちゃんがこう、斜め45度くらいの角 度でぶん殴るわけ。そうすっとまあ、ちゃんと映る事もあったんだけど……俺の身体、それと同じ? 車に轢かれたせいで体調すこぶる良くなっちまったのかな あ」
花が、わんと鳴いた。
お前は馬鹿だ、と言われたのだと凛は思った。
「ははは、まぁバカはバカなりに頑張らねえとな……ってなわけで俺、宿題やんねえと」
凛は机に向かい、教科書とノートを広げた。
勉強をするようになった。喧嘩もしなくなった。
小学校の時とはまるで別人ね、と母には言われた。感心されたのか、呆れられたのかは、わからない。
その母は本日、夜勤である。父も、クレーム対応が長引いて帰れそうにないという。
今、家にいるのは、凛と花の他には祖母だけだ。1階で、もう寝ている。
両親は昔から共働きで、凛は祖母に育てられたと言っても過言ではない。
少しは年寄りらしくしろ、と言いたくなるほど元気で口うるさい祖母だった。殴り合いに明け暮れる孫をどうにか更生させようと日々、老骨に鞭打っていたものだ。
その祖母が1度、倒れた。凛が、小学校6年生の時である。
祖母の入院中、凛は1度も喧嘩をしなかった。暴力を振るわなかった。絡んでくる相手には、わざと1発だけ殴られた。大抵の輩は、それで気後れしてくれたものだ。
自分は、願を掛けていた、つもりであったのだろうと凛は思う。
それが効いたわけでもなかろうが祖母は無事、退院した。凛が、小学校を卒業する頃である。
孫の卒業・進学と、祖母の退院を、加賀見家では同時に祝った。
その後しばらくして、今度は凛が交通事故で入院する事となる。
幸い、大した怪我ではなかった。
おかしな夢を見るようになったり、忍法のような事が時々出来るようになったりと、まあ変調と言えばその程度のものだ。
教科書の英文をひたすら訳しながら、凛はふと視線を動かした。
机の脇に立てかけてあるものに、どうしても目が行ってしまう。
鞘を被った、短めの日本刀である。最初は、玩具だと思った。
小太刀、というものであろう。忍者・アサシン系のキャラクターが、よく携えている得物だ。
凛が退院した時に、祖母がくれた。と言うより押し付けてきた。
御守りだよ、持っておいで。祖母は、そう言っていた。
加賀見家に先祖代々伝わるもの、であるらしい。先祖になど、凛は興味を持った事がない。
護身刀、と祖母が呼んでいたそれを、凛は手に取った。
意外に重い。人を殺せる武器の重さだ、と凛は思う。
本物のわけがない、と思って抜いてみた事がある。そして紙の束を切ってみた。
恐ろしいほど、よく切れた。
「この国は最近……銃刀法が、あんまり仕事をしてねえって事かなぁ。花ちゃん」
花は部屋の隅で丸くなり、寝息を立てていた。

 

昼間、授業中ですら、教科書を眺めていると眠くなるのだ。
夜間に英文など読んでいたら、寝入ってしまうのは当然であった。
机に突っ伏し、半ばいびきのような寝息を発していた凛は、花の鳴き声で目を覚ました。
「んー……何だよ花ちゃん、起きて勉強しろってか?」
花が、尻尾を振りながら凛を見上げている。くりくりとした黒い目が、何かを訴えている。
この小さなパピヨン犬が、人間にはない能力で一体、何を感じ取ったのか。やがて、凛にもわかった。
庭の方から、何やら不穏な物音が聞こえて来る。
あまり上手ではない忍び足と、小声の会話。
凛は少しだけ窓を開け、庭を盗み見た。
夜闇の中で、人影が2つ、蠢いている。両親が帰って来た、わけではなかった。
「静かにしねえか、バカが!」
「だ、だってよぉ……何か、変なもん踏んじまったよう」
「何でぇ、ただの花壇じゃねえか。クソが、こんなとこに花なんざ植えやがって!」
「お、おめえこそ静かにしろよ。この家の連中、起きちまうぞ」
「起きたら起きたで構わねえだろうが。何のためにナイフ持って来てんだよ!」
男2人組の、泥棒。窃盗犯、あるいは強盗。
警察を呼ばなければ、と凛は思い、スマートフォンを手に取ろうとして、やめた。
警察に任せよう、という考えが、頭の中から消し飛んだ。
2人の男が、花壇を踏み荒らしていたからだ。
祖母が大切に育てている、花壇だった。
「てめえらぁああああああ!」
深夜だと言うのに大声を出しながら、凛は2階の自室から飛び降りた。
普通に、着地する事が出来た。
「な、何だてめえ……!」
2人組が狼狽しながらもバチッ! とナイフを開く。
「この家のガキか! 大人しくしてりゃあ金盗るだけで勘弁してやったのによォー!」
1人が、躊躇いなくナイフを突き込んで来る。
凶器を持った男たちを、家に入れるわけにはいかない。1階では、祖母が寝ているのだ。
負けるわけにはいかない。凛は、それだけを思った。
戦いには、必ず勝たなければならない。勝たなければ、守れないのだ。
刃の閃光が、顔面のすぐ近くを通過して行く。
まるで通行人を避けるように、凛はかわしていた。
素人の振り回す刃物である。
夢の中で、小太刀を振るい手裏剣を撃ち込んで来る、あの敵たちと比べれば、攻撃と呼べるほどのものですらない。
そんな事を思いながら凛は、傍で前のめりになっている男の足を蹴り払った。
転倒した男の顔面を、間髪入れずに踏みつけた。足首をグリッと抉り込み、体重をかけた。
足の裏で、男の悲鳴が潰れるのを、凛は感じた。
「て……てめ……」
もう1人が、ナイフを持ったまま怯んでいる。
怯んだ隙を逃さず凛は踏み込み、跳躍し、右足を突き込んだ。
あの時、中学生の不良に喰らわせた時以来の、会心の飛び蹴りだった。
吹っ飛んだ男が、塀に激突し、ずり落ちる。
さらに蹴りを喰らわせようとした凛のズボンに、花が食らいついた。
「……俺は……!」
夢から覚めたような気分に、凛は陥った。
だがここは、あの夢の中ではない。
2人の男が、鼻血と涙と悲鳴を垂れ流しながら逃げ去って行く。それを凛は、呆然と見送るしかなかった。
「何だ……何だよ、俺……どうなっちまったのかなぁ、花ちゃん……」
花は答えてくれない。ズボンの裾に噛み付いたまま、黒い目で凛をじっと見上げるだけだ。
あの護身刀を部屋に置いたままで本当に良かった、とだけ凛は思った。
手元にあれば間違いなく、今の2人に対し、抜いていただろう。   

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争乱を運ぶ青い鳥

 店主ヴィルヘルム・ハスロと同じ、エメラルドグリーンの瞳。さほど高級品ではない、黒のスーツ。
一見すると、休憩中の若いサラリーマンである。
IO2エージェントをサラリーマンと呼べるかどうかは、よくわからないのだが。
とにかく馴染みの客である、その緑の瞳の若者が、コーヒーを啜った。
「……うん。申し訳ないけど俺、紅茶の味はよくわかんない。このお店は、アメリカンコーヒーが1番だな。アメリカ暮らしが長いせいかも知れないけど」
「またアメリカにでも行っていたのかと思いましたよ。ずいぶん久しぶりですよね?」
「まあ色々と忙しくてさ……今も、そうだよ。ほら、新聞やニュースでもやってる」
「……例の、見立て殺人?」
自殺か他殺か判然としない、奇妙な人死にが続出していた。
犠牲者の大半が、若いサラリーマンと就職活動中の学生で、死因はほぼ全てが失血。手首や首筋から大量の血液を抜き取られた状態で、しかも自宅ではなく屋外で発見される場合がほとんどであるという。
この世で最もおぞましい生き物たちの所業を思わせる死に様だ。
「うん。吸血鬼を気取ってそういう事件を引き起こす連中、いないわけじゃないんだけど」
IO2の若者が、いくらか言い澱んでいる。
「そういう奴らの犯行なら当然、IO2じゃなくて警察の領分なんだけど。見立て、じゃない可能性が、ちょっとね」
「……本物の、吸血鬼の仕業であると?」
「ヴィルさんは覚えてるかな。俺たちが久しぶりに会った時、戦った連中」
吸血鬼を信仰する集団。忘れられる、わけがなかった。
「あいつらの残党だか同類だかが、どうも日本で動き回ってるらしいんだ。それと、この事件が関係あるのかどうかは、まだわかんないけどね」
「関係があるとすれば……あの者たちが、関わっているとすれば。これは私がやらなければならない事、貴方がたIO2に押し付けるわけには」
「気持ちだけ、もらっとくよ。ヴィルさんは、そんな事より、このお店をしっかり守るべきだと思う」
若いIO2エージェントが、店内を見回した。
「コーヒー豆やお茶っ葉の宅配まで始めたんだって? ますます忙しくなるじゃないか。わけわかんない殺人事件なんかに、関わってる暇はないと思うな」
空のコーヒーカップを卓上に置いて、彼は立ち上がった。そして千円札を出す。
「ごちそう様。お釣りはいらないよ、とか1度はやってみたいんだけどな」
「駄目ですよ。はい、700円のお返しになります」
レジを打ちながら、ヴィルは微笑んだ。
「ありがとうございました。そう、もう1つ言っておきましょう……お帰りなさい」

 

若い頃、外国を回った事がある。
いささか治安に問題のある地域ばかりを選んだのは、自分を試すためか。いわゆる、自分探しの旅であったのか。
ただ単に自分が愚かであったからだ、と工藤弦也は思っている。
平和な祖国を飛び出し、殺す自由と殺される自由に満ちた、まさしく獣の生活を経験した。
おかげで嗅覚は鋭くなった。
ガラス越しに、不穏な臭いを感じ取ってしまう。
その店の前で、弦也は思わず足を止めてしまった。
古めかしい感じの、洒落た喫茶店である。
看板に刻まれた店名は『青い鳥』。
ここか、と弦也は思った。会社のOLたちが、黄色い声で噂をしている店。
だが見たところ男性客も多い。この喫茶店が、喫茶店として普通に評価されているという事だろう。
店主、と思われる人物から、弦也は目を離す事が出来なかった。
こうしてガラス越しに店内を覗き込んだだけで、弦也の嗅覚に触れてくるものを発している店主。
欧米人の男性である。整った顔立ちと、無駄なくスリムに鍛え込まれた身体つきは、ハリウッド俳優を思わせる。
なるほど女子社員が騒ぐわけだ、と弦也は思うが、それ以上にこの店主は尋常ではない。言葉では表現し得ない何かを、その秀麗な容貌の下に隠している。
人間の皮を被った、何か。
弦也は思わず、そんな事を思ってしまった。
もう1つ、思う事がある。
「さて……どこかで、会った……かな?」
のんびりと思い出している場合ではなかった。
店主と話し込んでいた1人の男性客が、こちらを向こうとしている。
「おっと……まさか、あいつがいるとは」
いくらか慌てて、弦也はその場を立ち去った。
何かが、視界をかすめた。
店の入り口の脇に取り付けられた、小さなカードラック。
ショップカードが何枚か入っていて、客や通行人が自由に持って行けるようになっている。
1枚、弦也は手に取った。
そうしながら、足早に歩み去る。
店主と話し込んでいたのは、1人のIO2エージェントであった。
弦也の知り合い、と言うか甥である。
自分の昔の職場に、親族がいる。気まずいわけではないが、何となく落ち着かないものだ。
まるで、あの頃の自分自身を見ているかのように。
今の工藤弦也は、IO2エージェントではなく、しがないサラリーマンである。
営業回りの最中だ。
新規の得意先になってくれるかも知れない会社に、これから向かうところである。
外資系のIT関連企業、であるらしいが詳しい事はわかっていない。
「さりげなく調べてこい……って事だろうな、きっと」
苦笑しつつ、弦也は思う。
今、通り過ぎて来た『青い鳥』の店主。弦也の、嗅覚のみならず記憶にまで触れてくるものがある。
一瞬、左肩が疼いた。目立たないが、微かな傷跡が残っているのだ。
獣の徘徊にも似た、あの旅の最中。果たして何年前であったか、とにかくルーマニアで1人の少年兵と出会った。
「……まさか、ね」
自分の考えを一笑に付しながら、弦也は『青い鳥』のショップカードを見た。
「あいつが、まだ生きてたとしても……まさか日本で、喫茶店のマスターなんて」
紅茶・コーヒー豆の宅配も承ります。そんな一文がある。
宅配。何か違法な商品を売買するための暗号か、と弦也は思った。

 


閉じ込められた、と弦也は感じた。
もう遅い。ここは社屋の入り口ではなく、すでに応接室である。
得体の知れない巨大な怪物に、呑み込まれたようなものだ。消化される前に脱出しなければならない。
怪物の腹を、切り裂いてだ。
「どうぞ、コーヒーをお飲みになって」
女性社長が、にこやかに言う。見た目は美しい、白人の女性である。
曖昧な笑みを返しながら、弦也は言った。
「社長はご存じですか? このところ少しばかり物騒な事件が相次いでおりまして」
「ふふっ、人なら毎日いくらでも死んでおりますわ。それよりコーヒーお飲みになって」
「新人サラリーマンとか、就活中の学生とかがね、何人も死んでいる。血を抜かれてね。全員……説明会とか面接とか、僕みたいに営業の仕事とかで、1度は御社に足を踏み入れています」
「コーヒーをお飲みになって、冷めないうちに」
「前の職場にいた頃からの、良くない癖でね。いろいろ調べちゃうんですよ、そういう事」
「どうぞコーヒーを」
「1つ訊きたい……血って、そんなに美味しいのかな?」
「コーヒーを……大人しく飲んで、眠っていれば! 楽に死ねたものを!」
女性社長が牙を剥いた。頬が裂け、美しい顔がちぎれ飛び、人間ではないものの本性が現れた。
「意識あるまま引き裂かれ、苦しみながら死ぬのが望みか! よかろう、苦痛と絶望の悲鳴を上げながら、その血を我らに捧げるが良い!」
「……吸血鬼、か」
溜め息混じりに、弦也は苦笑して見せた。
「漫画とかに出て来る美形の吸血鬼って、なかなか居ないもんだよね」
「ほざけ!」
この会社の社員たちが、応接室に雪崩れ込んで来た。
全員、頬を引きちぎって牙を剥き、吸血鬼としての正体を露わにしている。
「さあ、その男を引き裂いて存分に血を啜るが良い! この世で最も気高く邪悪なる御方に、近付くのだ!」
白人美女の外見を捨てた女吸血鬼の号令を受け、吸血鬼たちが一斉に弦也を襲う。
「……やるしか、ないのか」
踏み込み、身を捻り、拳を捻じ込みながら。弦也は急速に、あの時の自分に戻りつつあった。
そうしないと、この力が覚醒してくれないのだ。
「使いたくないんだよ、この力は……嫌な事、思い出すから!」
全身の捻りを得た右拳が、襲い来る吸血鬼の左胸に突き刺さった。
拳とは、打つものではなく突き刺すもの。空手の師匠は、そう教えてくれた。
肋骨をへし折り、心臓を殴り潰す。その手応えを握り締めながら、弦也は後ろ向きに左足を跳ね上げた。
後方から食い付いて来た吸血鬼の左胸に、その蹴りが叩き込まれる。
粉砕の感触が、靴の裏から生々しく伝わって来る。
「白木の杭とか、銀の弾丸とかじゃなくてもいいから……とにかく心臓を潰す。もしくはっ」
3体目の吸血鬼の、額か眉間か判然としない辺りに、弦也は左肘を打ち込んだ。
「第3の目……その部分を、正確に直撃する事」
吸血鬼3体が、弦也の周囲でザァーッと崩れ落ち、灰のような粉末状の屍に変わってゆく。
「吸血鬼って連中を倒すには、それが一番。前の職場で、教わった事さ」
4体目以降の吸血鬼たちが、その粉末を蹴散らし、襲いかかって来る。
弦也は身構えた。構えただけで、まだ何もしていない。
なのに吸血鬼たちは、砕け散っていた。粉々に、切り刻まれていた。
室内の空気が、激しく渦を巻きながら刃と化し、吹き荒れたのだ。
「ぐっ……!」
弦也の全身で安物のスーツが裂け、鮮血が霧状にしぶく。
「私はね……任意の場所に、真空の刃を発生させる事が出来るのさ」
女吸血鬼が笑いながら、皮膜の翼を揺らめかせる。
その姿は、言うならば四肢を備えた巨大なコウモリだ。おぞましく微笑む顔面は、猿か狼に近い。
「この世で最も気高く邪悪なる御方より、授かった力……私は、そう解釈しているよ。お前の命、あの御方に捧げてやる! 血は私がもらうけどねえっ!」
よろよろと壁にもたれながら弦也は、ざっくりと裂けた己の二の腕に舌を這わせた。
「……血なんて、美味しくないぞ」
「ほざけ!」
女吸血鬼が、皮膜の翼を激しく羽ばたかせる。
空気の刃が、吹きすさぶ……寸前。
そうではない、一陣の風が吹いた。風であり、閃光でもある。
それが、女吸血鬼の顔面に突き刺さった。第3の目、の位置だ。
「満月の夜でもないのに、その力を使える……吸血鬼としての生き方を、受け入れてしまったのだな」
その男が、いつ応接室に入って来たのか、弦也にはわからない。
とにかく、投擲の動作を終えた右手を、男はゆっくりと下ろした。
「一口でも血を吸ってしまったら……私も、お前のように」
「ぐっ……が……お、お前は……」
女吸血鬼の、第3の目に、深々とナイフが突き刺さっている。
「いや……あ、貴方は……何故! 人間どもに与して、我々を見捨てるのですか!」
「眠れ」
喫茶店『青い鳥』の店主である。
ハリウッド俳優を思わせる秀麗な顔が、沈痛な翳りを帯びたまま女吸血鬼に向けられている。
「吸血鬼に、最も必要なもの……それは安らかな眠りだ。私はお前たちに、それだけを与えてやれる」
「血を……あの時……血を、吸い……さえしなければ……」
女吸血鬼の、巨大なコウモリのような異形の肉体が、サラサラと粉末状に崩れてゆく。
「人間で……いられたのに……」
新しい得意先になってくれたかも知れない会社を、自分は潰してしまったのだろうか。
そんな事を考えながら弦也は、喫茶店の店主に声をかけた。『青い鳥』のショップカードを、かざしながら。
「……ありがとう。最高の、宅配サービスでしたよ」
「荒仕事を承っている、わけではないのですけどね」
優雅に苦笑しつつ店主が、包装されたコーヒー豆のパックを差し出してくる。
弦也が、このビル宛に宅配を依頼しておいたのだ。
「受取人の方は……工藤弦也様、でよろしかったでしょうか? あの時は互いに、名乗りもしませんでしたね」
「君は……」
弦也は、よろめいた。いささか出血が多い。
「……そうか、やっぱり……君だったか」
「ヴィルヘルム・ハスロと申します。当店の宅配システムをご利用いただき、ありがとうございました」
「……何で、日本で喫茶店なんか」
「あれから色々とありましてね。そんな事よりも、病院に行きましょうか」
ヴィルヘルム・ハスロが、肩を貸してくれた。
「さあ、しっかりして下さい。この程度の出血、どうという事もないでしょう……貴方は、血の気が多いのですからね」
「……あれから、だいぶ丸くなったよ」
そんな事を言うのが、弦也は精一杯だった。

カテゴリー: 02フェイト, 小湊拓也WR(フェイト編), 工藤弦也 |

鮮血の邂逅

海外へ出て、1つわかった事がある。日本にいたのでは絶対、わからなかった事だ。
「日本ってさ……いろいろ言われるけど」
熊のような手が、掴みかかって来る。掴まれる前に弦也は踏み込み、拳を叩き込んだ。
ボクシングで習った、ダッキングの技術。パンチは、日本武道で言う「縦拳」に近いものになった。親指側が上に向いた拳を、一直線に打ち込む攻撃。
それが、男の顔面を直撃した。
ぐしゃり、と凄惨な手応えが伝わって来る。握り締めながら、工藤弦也は言った。
「冗談抜きで良い国だと思うよ。いや本当に」
熊のような男が、沈むように倒れてゆく。凶悪な髭面が、ほとんど原形をとどめていない。
弦也よりも頭1つ分は大柄で、体重は倍近くあるだろう。
その巨体が、小柄な日本人の足元に沈む様を、他の男たちが呆然と見つめている。
身なりも体格も貧相な日本人の若造が、捻り潰される。そんな光景を予想・期待していたのだろうが。
「……お前らみたいな連中、いないからな」
倒れた男の屍から、弦也は拳銃を奪い取った。
その事態に、他の男たちがようやく気付いたようだ。
「てめえ……!」
全員、一斉に小銃を構える。
その時には、弦也は引き金を引いていた。小刻みに銃口を揺らしながら、何度も。
小銃をぶっ放そうとしていた男たちが、ことごとく倒れてゆく。
その人数よりも、引き金を引いた回数がずっと多い。何発も外してしまった。
「……性に合わないな、やっぱり」
弦也は、拳銃を放り捨てた。
ボクシングや日本武道、だけではない。日本にいた時は、一通り学んだ。柔道、剣道、空手、合気、レスリング。
こうして海外を歩き回るようになってからは、銃の撃ち方も一応は覚えた。
今回のように武装した多人数が相手であれば、いくら性に合わなくとも使わざるを得ない。
武装勢力。
これが存在しない日本という国の希少価値を、弦也はしみじみと思い知らされているところである。
ここルーマニアという国では、何年も前に革命が起こったらしい。
その革命が上手くいったわけではない事は、この男たちのような輩が我が物顔で動き回っているところを見ても明らかだ。
武装勢力。
共産主義の素晴らしさ、らしきものを声高に唱えながら、しかしやっている事は弱者に対する暴虐である。
姉に暴力を振るっていた男たちと、大して違いはしない。
そう思いながら弦也は、ちらりと視線を動かした。
暴虐の餌食となりかけていた者たちが、木陰で身を寄せ合い、震えている。
幼い男の子と、いくらか年上の女の子。姉弟、であるようだ。
姉が、弟を守るため、男たちに身を捧げようとしていた。
それを見ただけで、弦也の脳裏では、あの記憶が鮮明に蘇ってきたのだ。
思い出しただけで、あの体質が覚醒してしまう。
制限を解除された身体能力……いわゆる「火事場の馬鹿力」を、己の意思で発揮してしまう体質。
当然、代償は必要となる。あの男を叩きのめした時も、そうだった。
あの男は入院したが、弦也自身も1週間ほど、まともに身体を動かす事が出来なかった。姉が、下の世話までしてくれた。
だから弦也は、ひたすらに身体を鍛えた。様々な格闘技を学んだ。
制限を失った力を使っても壊れない肉体を、作るために。
力を、出来る限り自身への負荷なく、相手のみに叩き込む。その技術を身につけるために。
武装勢力という連中は、その技術を試す実験台として、最適ではあった。害虫駆除と同じような感覚で、いくらでも狩る事が出来る。
いくら狩っても、まさしく害虫の如く、どこからか湧いて出て来る。この国では果たして軍がまともに機能しているのか、と思えるほどにだ。
地面に投げ出してあった携帯無線機を、弦也は担ぎ直した。ショルダーバッグに、辛うじて入る大きさだ。
型はいくらか古いが、若干の改造を施してある。海外で1人で行動するには、まず情報が生命線となるからだ。
昨日、これでルーマニア国軍の通信を傍受した。
前大統領派の武装勢力が、とある軍高官の家族を誘拐したという。軍の部隊が、救出のため動いてはいるらしい。
弦也は姉弟に背を向け、歩き出した。行く手に広がる、森林地帯へと向かってだ。
「そっちへ……行っては、駄目……」
怯える弟を抱き締めながら、幼い姉が、どうにか聞き取れる声を投げてくる。
「悪魔が、いる……森の中に、悪魔のお城が……」
耳を貸さず、弦也は足を速めた。
姉と弟、などというものを見ていたくはなかった。

 

茂みの中に、死体が転がっている。
迷彩の軍服を着た、恐らくは武装勢力ではなくルーマニア国軍の兵士。
こんな森の中なら、埋葬の必要もないだろう。獣や虫が片付けてくれる。
弦也がそんな事を思った瞬間、風が来た。冷たい風にも似た、攻撃の気配だった。
何か考える前に、弦也は身を反らせながら後退していた。刃の閃光が、眼前を通過する。
ナイフだった。
兵士の死体が、いつの間にか起き上がってナイフを構えている。
いや、まだ辛うじて死体ではないようだ。
弦也よりも、いくつか若い。少年兵である。まだ高校生くらいの年齢ではないのか。
軍服と同じく迷彩模様を顔に塗りたくってはいるが、いくらか幼げながら整った顔立ちは隠せていない。苦痛の形相と、生気に乏しい顔色もだ。
両眼だけが、最後の力を振り絞るかの如く輝いている。獰猛に燃え盛る、エメラルドグリーンの眼光。
弦也は、とりあえず会話を試みた。
「ええと……この国って徴兵制、だったかな?」
「…………旅行者か」
徴兵されたのかどうか定かではない少年兵が、言った。
「見ての通り、この国は……観光には、適していない……早急に立ち去ってもらいたいな」
「そうしたいのは山々だけど、怪我人を見つけちゃったからな。放っておくのは後味が悪い」
1歩、弦也は近付いた。
少年兵が、よろめくように後退りをする。ナイフを構えたままだ。
「近寄るな……!」
「ちょっと訊きたい事があるんだ。悪いけど、軍の通信を傍受させてもらった。治安状態を知りたいからね」
ナイフが来たら、蹴りで受けなければならない。手で受け流そうとして、うっかり手首でも切られたら終わりである。
「軍のお偉いさんの家族が、さらわれたんだって? 救出作戦も、どうやら失敗したらしいじゃないか。武装勢力に撃退されて退却中……いや、君は逃げ遅れたのかな」
少年兵は、答えない。
ナイフを握ったまま木にもたれ、意識を失っていた。
放っておけば、本当に死体になってしまうだろう。
この少年が軍人ではなく武装勢力の類であれば、放っておかずにとどめを刺しているところだ、と弦也は思った。

 


父に、母に、弟に、もしかしたら一瞬だけ会えたのかも知れない。
うっすらと、ヴィルヘルム・ハスロは目を覚ました。
自分が、どうやら生きている。それが少しずつ、わかってくる。
森の中だった。
倒れている、と言うより寝かされている。
すぐ近くでは男が1人、岩の上に腰を下ろして携帯無線機を弄っていた。
「何だ、もう意識が戻ったのか……見た目より頑丈だね、君は」
東洋人だった。ヴィルよりも3つ4つ年上と思われる、若い男。
「さすが軍人さんは、僕なんかとは鍛え方が違うなあ」
微笑んでいる。
これほど優しく、これほど柔和で友好的で、これほど油断のならない笑顔を、ヴィルは見た事がなかった。
「また君たち軍の通信を盗み聞きさせてもらった。誘拐犯の連中、どうやらアジトを変えたみたいだね」
軍の通信を、盗聴されている。この男を生かしておくわけにはいかない。
ヴィルは跳ね起き、そして気付いた。
自分の身体に、包帯が巻かれている。
「手当てを……して、くれたのか?」
「応急処置だよ。軍へ戻って、ちゃんとした治療を受けた方がいい……と言いたいところだけど」
東洋人の青年が、ちらりと森の奥を見やった。
「連中の新しいアジト……この先にあるんだろう? 君は逃げ遅れたわけじゃなく、1人で戦おうとしている」
「……貴方には、関係のない事だ」
「そうだね、僕には関係ない」
無線機の入ったショルダーバッグを担ぎ直しながら、男は立ち上がった。
「それはそれとして、さあ行こうか」
「……何を言っている」
ヴィルは睨んだ。
緑色の瞳が、若い東洋人に向かって険しい光を放つ。
「早く立ち去れ。手当ての礼だ、殺さずにおいてやる……私の気が変わる前にアジアへ帰れ、中国人。それとも韓国人か」
「日本人だよ」
油断のならぬ笑顔の下で、男が牙を剥いた、とヴィルは感じた。
「もちろん僕も早く帰りたい。平和な祖国のありがたみってものを、痛感しているところでね……だから、さっさと済ませよう」

 

あまり豊かな国ではないためか、学術調査などは行われていないようだ。
とにかく、遺跡である。
ルーマニア建国以前、どころかローマ帝国の支配がこの地に及ぶよりも昔、恐らくは神殿として建てられたものであろう。
鬱蒼と茂る森林地帯の奥、どれほどの規模で広がっているのか、一見しただけではわからない。
古びた、石造りの宗教施設。
発見まで、いくらか時間がかかってしまった。もう夜である。
満月の光が煌々と降り注ぐ、太古の神殿。
その中枢部、石の大広間の全域に、武装した男たちの屍がぶちまけられている。
とあるルーマニア軍高官の家族を誘拐した、武装勢力。この遺跡に立てこもり、だが弦也と少年兵が到着した時には、すでにこのような様を晒していた。
「化け物……このバケモノがぁあああああああ!」
叫びながら小銃をぶっ放していた男が、砕け散った。
超高速で宙を泳ぐ何かに、打ち据えられていた。
幾本もの鞭、いや触手。
そんなものたちを全身から生やした、何だかよくわからぬ姿をした巨大な生き物が、大広間の中央に鎮座している。無数の触手を、鞭の如く高速躍動させている。
弦也は左右それぞれの手で1本ずつナイフを握り、構え、一閃させた。
とてつもなく重い手応えが、帰って来た。
高速で襲い来る触手たちが、弦也の斬撃にことごとく弾き返されて宙にうねり、即座にまた襲いかかって来る。
軍用ナイフでも切断出来ない触手。むしろナイフの方が、ボロボロに刃こぼれを起こしていた。
「貴方は、日本の……軍関係者、なのか?」
弦也の後ろで少年兵が、弾を撃ち尽くした小銃にすがりついて座り込み、苦しげに呻いている。
「かなりの戦闘訓練を受けているようだが……貴方ほどの手練、旧ソ連軍の残党にもいない」
「ちょっとした特異体質でね。それを活かすために、空手やら剣道やら色々やったよ」
ローマ帝国以前の先住民族が、神として崇めていた存在……なのであろう怪物が、なおも執拗に触手を叩き付けてくる。
鉄屑も同然のナイフ2本で防御し弾き返しながら、弦也も呻いた。
「ナイフってやつは意外に、使い勝手が良くないな。剣道の応用でいけると思ったんだけど……ところで君、傷口が開いちゃったんなら退却した方が良くはないかな」
手負いの少年兵に、弦也は声をかけた。
「何しろ応急処置しか済ませていない。逃げるのは別に、恥ずかしい事でも何でも」
「……逃げるのならば、最初から来たりはしない」
弦也の背後で、少年兵がゆらりと立ち上がった。
「力を貯めるのに、時間がかかってしまった……その時間を稼いでくれた事、感謝する」
立ち上がった身体が、空を飛ぶように跳躍していた。負傷兵の動きではない、と弦也は思った。
「君は……」
「今夜は、満月だ……!」
崩れかけた壁から射し込む月明かりの中、少年兵は微笑んだようである。
獣が牙を剥くような微笑。泣き顔、にも見えてしまう笑顔。
月光に後押しされたかの如く、少年兵は急降下してゆく。
それは着地と言うより墜落、あるいは空中から地上への突進であった。
触手が全て、ちぎれた。
それらの発生源であった怪物の巨体が、ズタズタに砕け散った。粉砕に等しい微塵切りである。
着地した少年兵が、風をまといながら佇んでいた。
空気が、彼の周囲で渦を巻いている。
それは、真空状態を作り出す旋風であった。大規模なカマイタチ現象が、巨大な怪物を切り刻んだのだ。
勝ち誇った様子もなく、少年兵は言う。
「……私も、特異体質だ」
「そうみたいだね……何にしても、お見事」
旅に出て良かった、と弦也は思った。
わけのわからない体質を覚醒させてしまった人間が、自分1人だけではないと知る事が出来た。
それはともかく、人質である。
大広間の片隅で、幼い男の子と、その母親らしき女性が、抱き合って怯え震えている。
誘拐された、軍高官の家族。
もう大丈夫ですよ、と言葉をかける事もなく、少年兵がそちらを見つめている。
睨んでいる。
緑色の瞳が、餓えた獣の眼光を漲らせていた。
非力な母子を、捕食の対象としてしか見る事が出来ない両眼。
「うっ…………ぐ…………ッッ!」
少年兵が、牙を食いしばっている。
苦しんでいる、のであろうか。何に苦しんでいるのかは、わからない。
とにかく救助対象である母子から、獣の目を逸らさせてやる必要はありそうだ。
「君……」
弦也は声をかけた。
少年兵が牙を剥いたまま、ギロリと振り向いてくる。
その顔面に、弦也は拳を叩き込んだ。この少年なら、思いきり殴っても壊れる事はなさそうだ。
「貴様……何をするかあああああッ!」
怒号と共に、少年兵が食いついてくる。もはや人間の歯ではなく、獣の牙であった。
それが、弦也の左肩に突き刺さった。
鮮血が噴き上がり、少年兵の顔面を汚した。迷彩模様に、返り血が混ざった。
「そうか……力を使うと、血が欲しくなるのか」
食らい付いてきた少年兵の身体を、弦也はそっと抱き締めていた。
抱き締めた身体が、震えている。嗚咽の震えだった。
「僕は、こう見えて血の気が多い方でね……いいさ、いくらでも吸うといい」
「……………………!」
迷彩と血と涙で、少年兵の顔はグシャグシャに汚れ乱れた。
弦也の肩に食いついたまま、しかし溢れ出す鮮血を啜りもせず、彼は無言で泣きじゃくっている。
ただ、抱き締める。
弦也がしてやれる事など、他にはなかった。

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名無しのエージェント

テーマパークである。仕事でなければ、こんな所へ来たりはしない。
親子連れやカップル等で、いささか鬱陶しいほど賑わっている。
男1人で来ている客など、見たところ弦也くらいのものである。
こんな所へ、一緒に来るような相手もいない。
誰かと一緒に来たい、などと思った事もない。
「……なんて言っても、負け惜しみにしかならないかな」
工藤弦也は苦笑した。
少し離れた所では、着ぐるみのウサギが、子供たちに風船を配っている。
ウサギだけでなく猫もいる。犬もいる。カエルや熊、牛に象もいる。鳥らしきものもいる。
様々なぬいぐるみに身を包んだ人々が、あちこちで客に愛想を振りまいていた。
中身は学生アルバイトか、あるいはテーマパークのスタッフか。
自分も彼らの同類と見られているのかも知れない、と弦也は思う。
漫画に出て来るマフィアかSPのような、黒のスーツ。それにサングラス。
街中であれば、いかにも怪しい。
テーマパークの中であれば、アトラクションの一部と思ってもらえるかも知れない。
とにかく、これも仕事である。
虚無の境界の関係者が複数、このテーマパークの内外で動いているらしい。
テロリストのやる事は決まっている。人が大勢集まる場所で大惨事を引き起こし、己の存在をアピールする。それだけだ。
爆発物や危険薬品は発見されなかった。
だが虚無の境界は、そんなものに頼らずテロを決行する事が出来る。
それに対応・対抗するために、IO2という組織はある。
「に、しても……僕みたいな下っ端エージェント1人に、テロ対策を丸投げとは」
苦笑している場合ではなかった。
あちこちから、悲鳴が聞こえてくる。
絶叫マシーンの類ではない。
楽しげに賑わっていた客たちが、今は恐慌に陥り、逃げ惑っている。
着ぐるみの動物たちから、だ。
作り物であるはずの熊が、大口を開いて牙を剥き、凶暴に吼えている。
その口の中に、人間の顔はない。
本物の牙が光り、本物の舌がうねり、本物の唾液が飛び散っている。
着ぐるみであるはずの、牛が本物の角を振り立て、象が本物の鼻を振り回す。
動物と言うより怪物と化した着ぐるみの群れが、逃げ惑う人々に襲いかかっていた。
「中の人などいない、ってわけか!」
弦也は駆け出した。ある過去を、思い出しながらだ。

 

顔面を踏まれた。人の顔を、平気で踏みつけるような男だった。
「やめて! 弦に乱暴しないでよお!」
姉が悲鳴を上げている。
倒れた弦也の顔面を踏みにじりながら、男がそちらを向く。
「俺だってよぉ、こんな事ぁしたくねーんだよ。だから、な? あと3万でいいんだよ」
「だから今月もう、お金ないって言ってるじゃない……こないだの5万だって、まだ返してくれてないし」
「おいおい冷てぇ事言うなよお。愛しい彼氏が困ってんだぜ? ここは女の愛を見せるとこじゃねーのかよぉお」
男が、とりあえず弦也を踏みつけから解放し、姉に歩み迫って行く。
「俺、君の事愛してるよぉー? 世界で一番、君が好き。だから、な? 3万」
男無しではいられない姉である。そして、この手の男ばかりを引き当てて来る。
「勘弁してよ。今月、ほんとにお金なくて」
泣き言を漏らす姉の口元に、男が拳を叩き込む。
「やめろ……」
鼻血まみれのまま、弦也は身を起こし、声を発した。
「姉貴に……手を……出すなぁ……っ」
「あ? まぁだ何か言ってんなぁこのクソガキがああああ!」
怒鳴り、殴りかかって来ようとする男に、弦也の方から突っ込んで行った。
頭突きを食らわせた。蹴られた。蹴られた。踏まれた。踏みにじられた。その足を掴み、引っ張った。男が倒れた。飛びついた。噛み付いた。殴った。噛み付いた。殴った。殴った。殴った。拳の感覚がなくなった。構わず殴った。
姉が泣きながら抱きついて来るまで、弦也は止まらなかった。

 

あの時、弦也の中で確かに、何かが目覚めたのだ。
何が目覚めたのか、弦也自身にも、よくわかってはいない。
「とにかく、あの時の事を思い出すだけで僕は……!」
弦也は跳躍し、空中で身を捻った。すらりと伸びた右脚が、超高速で弧を描く。
泣き喚く小さな男の子を食いちぎろうとしていた熊の顔面に、その回し蹴りが叩き込まれていた。
被り物であるはずの熊の頭部が、生々しいものをビチャビチャと飛散させながら砕け散る。
あの時の事を思い出すだけで弦也は、いわゆる『火事場の馬鹿力』を思い通りに引き出せるようになった。
もちろん、その馬鹿力で自分の身体が壊れないよう充分に鍛えてはいる。
「それでも乱用していると身体がボロボロになるらしいからね……手早く終わらせるよ」
首から上が失せた怪物の屍、その近くに弦也は着地した。
着地した足で路面を蹴り、踏み込んで拳を突き込む。
猫の着ぐるみ、に見える怪物が、抱き合って悲鳴を上げるカップルを、鋭い爪で一緒くたに斬殺せんとしている。
その爪が振り下ろされる寸前、弦也の正拳突きが怪物の胴体に突き刺さった。
肋骨をへし折り、生体の内容物を潰し穿つ、その手応えを握り締めながら弦也は言い放った。
「君たちが本物の猫や犬なら、こんなふうに叩きのめす事なんて出来ない。だけど虚無の境界が大量生産した、可愛くもない怪物の群れなら……いくらでも!」
象の鼻が、背後から大蛇のように巻き付いて来る。
それを振りほどこうとせず弦也は、後ろに立つ巨体を背負い、前方に投げ飛ばした。路面に叩きつけた。
象の着ぐるみ、のような姿をした怪物が、砕け潰れて広がった。
すぐ近くで、着ぐるみの怪鳥が翼を広げ、クチバシを一閃させる。
日本刀のようなクチバシが、弦也の首筋を襲う。
その瞬間、怪鳥が砕け散った。粉々に、切り刻まれていた。
弦也は何もしていない。
「……張り切り過ぎだぜ、工藤」
先程、子供達に風船を配っていたウサギが、そこにいた。
着ぐるみの太い両手に握られているのは、今は風船ではなく、2本のクナイである。斬撃用の大型クナイが、左右一対。
「程々にしとかないと、お前……次の日筋肉痛、どころじゃ済まないぞ」
「君か……」
このウサギは、虚無の境界の怪物ではない。本物の着ぐるみである。中に、人が入っている。
アルバイト学生でもスタッフでもない、何者かが。
弦也は、とりあえず訊いてみた。
「何をやっているんだ、こんな所で……いやまあ、僕1人じゃ頼りないって事なんだろうけど。NINJA部隊の隊長さん自ら、下っ端エージェントのサポートとはね。ご苦労な事で」
「何を言ってるのかわからんな。俺は単なるウサギちゃんだ」
言葉と共にウサギが身を翻し、左右のクナイを閃光の速度で振るう。
転倒した少女を長い舌で絡め捕えようとしていたカエルが、硬直した。着ぐるみのようなその身体が、だるま落とし状に幾重にも食い違い、輪切りとなって崩れ落ちる。
「まあ……ほとぼりが冷めるまで、ちょっと遊園地でアルバイトをな」
「……経理課のお局様に手を出したっていう噂、本当だったのか」
「だって俺、てっきり婚活失敗しちゃった口だと思ってたんだよ。まさか旦那がいるなんて思わないだろ」
ウサギが言い訳をしながら、襲い来る怪物たちを滑らかに斬り刻む。
それを横目に、弦也は駆けた。
若い両親と幼い娘。親子連れ3人が、巨大なワニに襲われている。
被り物、に見える頭部が大口を開き、本物の牙を剥く。
その牙の前に、若い父親が立ちはだかった。懸命に両腕を広げ、妻と娘を背後に庇っている。自分の身体を、楯にしている。
その身体がワニの牙に引き裂かれる寸前、弦也の手刀が上から下へと一閃した。
怪物が、真っ二つになった。ワニの着ぐるみに似た巨体が、左右に倒れて様々なものをぶちまける。
その凄惨な光景を目の当たりにしながら、若い父親が呆然と言った。
「あ……あり……がとう、ございます……」
「……あまり無茶をしない方がいい。貴方は、言わば一家の大黒柱でしょう?」
彼の後ろで抱き合う母娘に、弦也はちらりと目を向けた。
「家族のために貴方は、身を犠牲にするよりも……生きなければ」
「いやあ、その……私、いわゆる専業主夫でして」
俯き加減に、父親は言った。
「今は、妻に食べさせてもらっています……こういう場面で、格好つけるしかないんですよ私。生きてたって、家族の負担にしか」
「パパ!」
幼い娘が、父親に抱きついた。
「パパ……こわかったぁ……」
泣きじゃくる娘を、父親が困惑しながら抱き締める。
一家の稼ぎ主であるらしい母親が、弦也に向かって頭を下げる。
姉も、定職に就いていない男と結婚した。駆け落ち・家出も同然の結婚だった。今は音信不通である。
「お前」
残敵掃討を終えたウサギが、声をかけてくる。
「……そろそろエージェントネームの1つも貰ったらどうだ。何なら俺が考えてやろうか」
「気持ちだけ頂戴しておくよ。君が単なるウサギさんであるように、僕は……ただの工藤弦也でいい」
答えながら、弦也は空を見上げた。
弦也、あるいは弦。そんなふうに呼んでくれた人は、もう傍にいない。
(幸せに……なってる、よね? 姉貴……)

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雨宿り

小雨の続く東京。
クラクションの響く歓楽街。表通りの光、裏通りの影。
その狭間に響く銃声を知る者は、ごくまれだろう。
水たまりが、軽いステップにはじけ水滴を飛ばす。一瞬の間を置いてそこへ落ちるのは、野良犬のミイラだ。
車のライトが一瞬だけ、人影を映し出した。まだわずかに幼さの残る青年だが、その目は険しく敵を見据える。
曲がりくねった裏路地から、また一匹のミイラ犬が飛び出してくる。青年は正確に狙いを定め、引き金を引いた。
命を司る心臓、視界を司る目玉を撃っても、この手のアンデッドには意味がない。まずは無力化のために爪……足を狙い、続いて牙を折るべく鼻面に狙いを定める。
自分の身体がくずれるのも構わずに飛びかかるそれに、青年は目をすがめた。
「……すまない」
30センチほど後方へ、テレポートを行う。犬のあぎとは、ガチンと空を噛んだ。
そこを銃身で殴り飛ばす。犬の骨が砕けるのが分かった。元々乾燥し切って脆くなっていたのだろう。鉄で殴られれば、ひとたまりもない。
倒れて動かなくなった犬に、赤の首輪がつけられているのを見て青年は唇を噛んだ。
「ひどいな……」
どこかから連れ去られ、盾、あるいは矛としてミイラにされてしまったのか。
哀れな犬の存在は、一方では吉報でもあった。敵意を持つ攻撃者、あるいは守護者がいるのなら、その先にあるのは誰かの秘め事だ。
「近づいては、いるんだろうな」
青年は濡れた手の甲で顎を拭い、拳銃をホルダーに仕舞う。
そして、犬のためにしばし合掌し、街の闇へ姿を消した。

 
――――

 

まだ小学生だった頃。
同い年の子どもが主人公の物語を読んで、大人は私たちの事を何も分かっていない、なんて思ったのを、ふと思い出した。
ぽつり、と、雨が落ちる。
「わ……」
天気予報も見ずに飛び出してきた。雨だと知っていれば、せめて傘ぐらい持って出たのに。
「ちょっともう、何なの……」
スマホをいじってSNSを起動させる。
現在地の写真を添えて、簡単な文章を投稿。
『今夜 泊まれるとこ 探してまーす』
軽率かもしれない。ふと危険への意識が頭をよぎる。だが親への怒りが勝った。
自分がひどい目にあえば、それだけでいいあてつけになるだろう。
――悪いのはあっちなんだから。
いつものくせで、自分を正当化する。少しはこっちも悪かったことはわかっているのだ。だが、認められるほどできた人間ではない。
『雨降ってきた~~』
弱音を隠すように、そんな投稿をする。すぐに幾つかの慰めのコメントが飛んでくる。
雨脚は強くなる一方で、しかし雨宿りできる場所は見つからない。
「……画面越しじゃ助けにならないのよ」
ポツンと呟いた彼女に、ふと、傘が差し向けられた。
「え?」
立っていたのは優しげに微笑む女性だった。
「傘、よかったらいかが?」
「……あの」
「お困りでしょ?」
そういって優しく微笑む彼女に、敵意は見いだせなかった。
信用していいのだろうか。
見たところふつうの女性、それもどちらかと言えば品の良さそうな婦人である。
「放っておけなくて」
こちらの警戒心を見抜いたのか、彼女はまた微笑みかけた。
「ただの、おばさんの……そうね、老婆心かしら」
信用ならないのなら来なくてもいい、と、彼女は言った。
「勝手なお節介だもの」
それで、彼女の手を取ることに決めたのだ。
「ママと、喧嘩してるの」
ばつが悪くて思わず目を背けると、婦人はくすくすと笑った。
「そのぐらいの年頃にはよくあることよ」
さぁ、いらっしゃい、と。
その手を疑うことはできなかった。

 

単純なことを、少女は理解していなかった。
世界を動かすルールを、すべて自分が知っているわけではない。
自分の思わぬところで、予想すらできないような動機を持って、人は動く。
それに気がつけるのは、災厄が己に降りかかってきたときだけなのだと。

 

やがて日が陰り、あたりは薄暗くなる。
たどり着いた先は、少し寂れた洋館だった。だがその古びた姿は欠点とはならず、かえってレトロでシックな雰囲気を醸し出している。
「少し、悲しいところなの」
女性は気恥ずかしそうに言った。
「だから、家出の助けにでもなれればね、それだけで嬉しいのよ」
ガスランプに灯がともり、暗い廊下を浮かび上がらせた。赤い絨毯が、やや黒く変色している。壁は煤けていて、黒い。
それでも不思議と恐怖は覚えなかった。どこか懐かしさすら感じる、そんな気がしたのだ。
「ところで、お嬢さん。あなた彼氏さんとか、いらっしゃるのかしら?」
不意に、婦人はそう尋ねた。
「いえ……、てか、いたら頼ってます」
「そうよね」
くすり、と、みたび婦人は笑った。
その笑みに、ゾッとする凄みが乗った。
ようやく少女は、己の思い違いに気が付く。だがもう遅い。
「息子がいるの、私」
婦人は張り付いたような笑顔で、言葉を続けた。
ずるり、ずるりと、何かがはいずる音がする。
どうして気が付かなかったんだろう。どうして警戒しなかったんだろう。
「それでもしよろしかったら、なんだけれど」
ぎぃい、と、低い音を立てて扉が閉まる。
その向こうで、ガシャン、と、施錠音がした。
「息子の奥さんに、なってあげてくれないかしら?」
現れたのは、白骨のむき出したミイラだった。それが、よたよたと歩いてくる。
現実味はいつまで経っても訪れなかった。これはただのサプライズではないのか。来客を驚かせようという、婦人のただの楽しみではないのか。
だって現実にこんなこと、起こり得るはずがない。
生きた人間によって招かれる恐怖ならば想定していた。だがこの、意味不明の恐怖は何だ?
少女は悲鳴を上げることすら忘れていた。
目の前で起きていることが、いつまで経っても腑に落ちない。
「ね? すてきな息子でしょう?」
女性はうっそりと笑みを深くした。
「だけど、気をつけて。うちの子、気に入らないとすぐ、食べちゃう癖があるようだから」
少女の目前で、ミイラが乾いた筋肉をギチギチ鳴らしながら、のろのろと口を開いた。
そのときだった。
ガラスが粉々に割れる音がした。一人の人影が飛び込み、ミイラの頭を打ち抜く。
「しっかりするんだ!」
青年の声で、少女ははっと我に返った。
その目の前で、一発、また一発と、銃口が火を噴く。青年は正確に、ミイラを粉々にしていった。肩、胴、脚……
「やめてぇええ!」
婦人の金切り声が響く。婦人は我を失って青年に殴りかかった。だが青年はそれを軽い動きで回避し、女性の鳩尾に深々と突きを放つ。
「少し、お静かに」
静かな怒りを込めて、青年はうずくまって気を遣った婦人を見下ろした。
「……君、無事?」
少女はただうなずくことしかできなかった。
「ならいい」
青年は端末を取り出し、どこかへ連絡を取る。
そして少女に短く、言った。
「家に帰って、親を安心させてやれ」
世界は広く、少女の知り得ない思惑が散在している。
まるで雨のように降り注ぎ、身を凍えさせる悪意に、少女はまだ、幼さ故に耐えられない。
だから今はまだ、巣立ちを望みながら、誰かの屋根の下で雨宿りを。

 
――――

 

それから数日後、少女はかつての平穏を取り戻した。
青年とミイラ、婦人にまつわる記憶は失せている。
だがふとした折りに、奇妙な感覚を覚えるようになった。
まずは恐怖――この世に存在する悪意への、底知れぬ恐怖感。
そしてそれと反目するように、自分を救ってくれた英雄的存在への、安堵だった。

カテゴリー: 02フェイト, 椎堂アキラ | タグ:

再会は紫とともに

IO2エージェントに も休暇はある。当然フェイトにもそれは割り当てられていたが、あまり有意義に使えているとは言いがたい。部屋で一日中本を読んだり、天気が良ければカフェ などで新聞を読んで過ごしたり。明らかに何か明確な目的を持って過ごしたことなど数えるほどしかないだろう。
本日も特定の目的などない。ただ冬場にしては暖かい陽気だったため、コンビニでドリップ式の珈琲と軽食と新聞を買い、公園のベンチに腰を掛けた。最近は コンビニの珈琲も本格化してきていて、手頃な価格で気軽に購入できるから助かる。一口飲み込めば、身体の芯に染み入るような暖かさ。少し暖かい今日はアイ スコーヒーにするか悩んだが、結局ホットを選んでしまった。一気に飲みきったら暑くなってしまうかもしれない。
ベンチにカップを置き、フェイトは新聞を広げた。今日は休暇であるためいつもの黒尽くめではない。童顔であるために高校生に見られてしまうこともあるのだが……平日の昼間から、遊んでいるならともかく新聞を読んでいるのだ、誰かに誤解されて咎められることはないだろう。
公園とは言っても遊具のある公園ではなく、真ん中に噴水が有り、木々を背にしてベンチが配置されているようなゆっくりとできる空間だ。花壇などもぽつぽつとあり、小さな子どもと母親が、しゃがみこんで冬の花を見ていた。

 


「ねぇねぇ瑠璃ちゃん、あの子ちっちゃくて可愛いー!」
「そうね」

 


(……?)
聞き覚えのある声が聞こえた気がして、フェイトは新聞から顔を上げた。すると噴水近くを通過しようとする二人の少女のうち、肩口で髪を切りそろえた子の 方と視線が絡んだ……一瞬。だがその少女は何事もなかったかのように、連れの長い髪の少女に視線を移して急かす。フェイトに気がつかなかったのだろうか?
「そんなに急かさなくても……あっ!」
急かされた長い髪の少女が視線を動かす。そしてその緑色の瞳とフェイトの緑色の瞳が合って。フェイトが心中で「やっぱり」と思うと同時に彼女が声を上げた。

 


「わー! フェイトさんだ! フェイトさんでしょ? 格好が違うから、一瞬高校生くらいの人かと思っちゃった! 今日はお休みなの?」

 


タタタタッ……言葉を紡ぎながら小走りで走ってくる長い髪の少女――斎・緋穂の背後でもう一人の少女――斎・瑠璃が額に手を当てている。瑠璃にしてみれば、気づかないふりをしてフェイトをやり過ごしたかったのかもしれない。
「お久しぶりです。緋穂さん。ええ、今日は休暇をもらってて……お二人は『お仕事』ですか?」
2人は中学生のはずだ。平日の昼間、学校に行かずに出歩いているとしたら、理由は十中八九それだろう。
「うん、そうなの! この先で――」
「緋穂」
流れで口を滑らせそうになった妹を、いつの間にか近づいてきていた瑠璃が遮った。守秘義務があるのだろう、フェイトとてそれはわかっている。口を滑らせ そうになった緋穂がいつも迂闊なのか、それとも同業者とも言える顔見知りのフェイトに対してだからそうなったのか……後者だと思うと少し嬉しさを感じる。
瑠璃の方は明らかに早くこの場を離れたがっているように見えた。斎家(じぶんたち)にとってIO2エージェントが味方ではないことを強く意識しているからだろう。フェイトは少しの間考えて。
「俺は今日、休みです。今日は『エージェント』ではないんです。だから、そんなに警戒しないでもらえるとありがたいです」
「……一度会ったくらいで簡単に信用出来ないわ」
まあ瑠璃のその言葉も尤もである。思わず苦笑を浮かべそうになるフェイト。対照的に緋穂は彼の隣のベンチに腰を掛け、嬉しそうに笑んだ。
「じゃあ、今日のフェイトさんはただの私のお友達だね!」
いつの間にか緋穂にお友達認定されていたことになんとなく笑みそうになりつつ、頷く。
「緋穂、行くわよ」
だが瑠璃はそれをよく思っていないようで……そう告げて歩き出してしまった。
「瑠璃ちゃん、待ってよ!」
緋穂が慌てて腰を上げる。フェイトは急いで新聞を畳み、コーヒーを飲みほしてレジ袋へと押し込んだ。そしてなんとなく緋穂の後を追う。
「なんでついてくるのよ」
前を向いたまま、瑠璃が言う。
「俺は緋穂さんの友達だから、友達のことが気になって」
緋穂の同意を求めるように顔を向けると、彼女は「ねーっ」と可愛らしく笑んだ。
「――」
「手出しはしませんよ」
なんとなく瑠璃の表情が想像できてそう付け加えると、彼女はそれ以上何も言わなかった。それを同行許可ととって、フェイトは双子とともに公園の奥へと進んでいった。

 



公園の奥。人々が行き交う場所から木々の間を進んでいった先。常ならばあまり人が立ち入らない場所。こういう場所が夜になると恋人たちやそれを覗く者、それを狩る不届き者などの巣窟になることをフェイトは知っている。
「……!」
二人の後をついて進んでいくと、濃い霊気を感じた。恨みの念と無念さ、怨嗟が入混じったそれを、もちろん緋穂も感じているのだろう。今度は彼女が先頭に立ち、進んでいく。
「ここだよ」
彼女が示した樹の下、ボロボロの男女がうつ伏せと仰向けに横たわり、言葉にならない唸り声を発している。もちろん二人は霊体だが、どういう経緯でその姿のまま霊体にならなければならなかったのかは想像がつく――二人でいたところを『狩られた』のだ。
しかしそれだけにしては『念』が強すぎる。明らかに対話ができない状態なのは、フェイトにもわかった。
「瑠璃ちゃん、樹の足元にふたり。負の念が暴走寸前になってるから、浄化はたぶん無理。楽にしてあげて……」
「わかったわ」
表情を崩さない瑠璃と対照的に、緋穂は今にも泣き出しそうだ。彼女は、この霊達の心を感じ取っているのだろう。泣くのをこらえながら、結界を張っている。何かできることはないだろうか、フェイトはそっと、男女の記憶に触れてみようと試みた。

 

(――!?)

 

一瞬見えたのは和服の女性。そしてその先は紫色に染まって――。

 

これと似た体験をしたことがある。以前双子と一緒に仕事をした時だ。若手俳優に恨みを持つ女性からも、同じ色が見えたのを覚えている。あれは何だったのだろう、双子は何か知っているようだったが、あの時深く踏み込まなかったせいで気になってはいた。

 

「――行くべきところへ逝きなさい。また、生きるために」

 

呪(しゅ)を唱えた後に瑠璃が符を手にした右手を差し出す。符から迸る霊力が、男女を包み込み、蹂躙していく。強制的に消滅させるしかない現状、男女は耳が痛くなるほどの悲鳴を上げている。
(確か……)
フェイトは斎家の双子のデータを頭の中で探す。防御や感知に長けているのが緋穂で、攻撃や退魔に秀でているのが瑠璃だったはずだ。恐らくこの男女の悲鳴 も、緋穂のほうが強く感じ取っているはず。けれども瑠璃は誰よりもそれを知っているからだろう、時間はかかるが符一枚で十分そうだったのに、追加で二枚、 符を取り出す。
(できるだけ速く終わらせようとしているのか)
緋穂の心に負荷がかからないよう、瑠璃は自分のできる範囲で片割れを守ろうとしていることが、はたから見ているフェイトにもわかった。
(今回は手出しの必要はなさそうだね……でも)
やはり見てしまったものは伝えねばならぬだろう。

 


飲み物でもおごりますよ、労いの言葉とともにそう声をかけ、自販機で買った暖かいココアとカフェオレを手渡した。無邪気に礼を言いつつ受け取る緋穂、不本意そうながらも一応礼を述べる瑠璃。それぞれ個性が出ている。
「一つ、謝らなきゃならないんです」
瑠璃と緋穂が並んで座ったベンチの端に腰を掛け、フェイトは自分用の缶コーヒーを開ける。
「手出しはしないって言ったけど、あの霊達の記憶に触れてしまいました」
「えっ……黙ってればばれないのに!」
ココアを両手で持った緋穂がフェイトを見上げる。その隣で瑠璃が「馬鹿ね」と言った。
「見えたものを私達に伝える必要があるから、あえて口にしたんでしょ?」
「ああ」
瑠璃の指摘にフェイトは頷く。そして缶コーヒーを一口飲んだ後、ゆっくりと口を開いた。

 


「紫色だった」

 


「……!」
告げると、双子の動きが止まる。
「この前と同じ紫色。心当たりはあるんだろう? ――教えてもらうことは?」
「……IO2に知られるわけにはいかないの」
瑠璃が唇を噛みしめる。
「あのね、おばあさまの願いなの……だから、私達が決着をつけなくちゃいけなくて、先にIO2に見つけられると――」
「緋穂! しゃべりすぎよ!」
悲鳴のような瑠璃の声が緋穂の言葉を遮る。緋穂はしゅん、とうなだれてしまった。フェイトは少しの間、ふたりを見ていた。なにか、大きなものを背負っているのだろう。
「俺は、今日はIO2エージェントじゃない。信用してもらえるなら、少しでもいい、聞かせてほしい」
真摯な声で告げ、そして。
「でなければ、IO2エージェントとして『紫』について調べ始めてしまうかもしれないよ?」
意地悪だろうか。その言葉に緋穂は慌てて顔を上げ、瑠璃は深く唇を噛みしめる。
「瑠璃ちゃん……私はフェイトさんを信用してるよ。私達だけじゃ、難しいって瑠璃ちゃんもわかってるよね? だって斎家にも内緒で――」
「緋穂!」
鋭く片割れの名を呼んで、瑠璃は少しの間沈黙した。そして。
「……私達のおばあさまとその親友、二人の願いを叶えるために、私たちはある組織と対峙してる」
その言葉が、瑠璃が折れた証。わずかでもフェイトを信用したということだ。
「組織の名前はね、五芒遊会(ごぼうゆうかい)っていうの。ずーっとずーっと長い間潜伏してきた組織なんだけど……おばあさまの親友はこの組織のやり方を 変えようとしていて、おばあさまは亡き親友の願いで組織を壊そうとしたけれど……それを叶える前に亡くなってしまったの」
緋穂がゆっくりと、言葉を選んでいく。
「そこには色の名前を冠した幹部がいるんだ。だから、紫は『藤の紫(ゆかり)』と呼ばれる幹部が関わっているだろう……って私たちは考えているんだ」
「五芒遊会……」
フェイトはその名を口にしてみる。新興宗教のように能力者の組織は増えては消えていくので移り変わりが激しいけれど、今まで聞いたことのない名前だった。
「ふたりはこれからも、その組織と戦っていくの?」
「おばあさまの遺した願いだから」
「向こうからしたら私達が邪魔なんだよ。私達の情報はあっちにつたわっているけど、こっちにはまだ殆ど情報がないのに、いろいろ仕掛けてくるもの」
瑠璃が言外に「当たり前でしょ」と言っているように聞こえた。ぷーっとほっぺたを膨らませた緋穂からは「仲良くできないのかな」なんて思いが見え隠れしていて。
「……そうか」
立場上、おおっぴらに協力するとも言い出せずに、フェイトはそれだけ告げた。

 


【了】

 

■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■

【8636/フェイト・-様/男性/22歳/IO2エージェント】

 


■         ライター通信          ■

この度はまたのご依頼ありがとうございました。
好きに書いて良いというお言葉を頂いたので、好きに書かせていただきましたがいかがだったでしょうか。
フェイト様と双子の絡みは書いていてとても楽しいです♪
五芒遊会という組織については、異界の「五芒遊会について」をご覧いただければ、現在のふたりが知っている情報がわかると思います。
また、物語内でフェイト様は非番なのでIO2の人間じゃないから内緒にしておくよというような意味のことを言っておりますが、実際にどうするかはご本人にお任せいたします。

この度は書かせていただき、ありがとうございましたっ。

カテゴリー: 02フェイト, みゆWR |

剣士たちのお仕事

その男は、物として扱われていた。
大柄な全身を拘束衣でがんじがらめにされたまま、立てたベッドのような形状の台車に縛り付けられている。まるで荷物だ。
台車を押し進めているのは、2人の係員。
その周辺を警護しているのは、黒いスーツに身を包んだ5人の男。全員、拳銃を携行したIO2エージェントである。
うち1人が、フェイトだった。
「……あんた、今度は何をやらかしたんだ」
「お仕事よ。ちょいとばかり、頑張り過ぎちまってなあ」
荷物の如く運ばれながら、男がニヤリと笑う。
白い牙が見えた。歯ではなく牙だ、とフェイトは思った。
「おめえさんも頑張ってたようじゃねえか? 停職中だってのに、給料の出ねえお仕事をよ」
「そうとも、給料は出ない。だから仕事じゃないよ。俺の、自己満足さ」
停職明けのフェイトが、最初に拝命した仕事。それが、この男の警護である。
筋骨たくましい身体を縛る拘束衣は、人間用のものではない。ジーンキャリア用の特殊素材製品だが、それでも果たして、この男の動きを本当に封じておけるものなのか。
この男が万一、拘束衣を引きちぎって暴れ出すような事があれば、即座に射殺する。それがフェイトの、今回の任務だ。
霧嶋徳治。それが、この男の本名である。
それはしかしフェイトにとっての工藤勇太と同じで、ここでは誰もそうは呼ばない。
エージェントネーム・鬼鮫。
精鋭揃いと言われるIO2日本支部において、最も危険な男。大勢のエージェントに、そう認識されている人物だ。
「……おめえさんの妹もな、頑張ってたぜえ」
鬼鮫が言った。
「停職喰らってる兄貴の分まで、なんて事ぁ口にゃ出さねえがな。ありゃ間違いなく2人分の仕事はしてた。立派なもんだぜ? もう俺が教える事なんざぁ何にもねえ」
「……あいつにも、迷惑かけちゃったからな」
フェイトのいない間、この鬼鮫と組んで仕事をする事も多かったようである。
「で、鬼鮫さん……あんたは一体、何をやらかしてこんな」
「言ったろ? 頑張り過ぎたって」
懲罰房へと護送されつつある男が、にやりと牙を剥く。
この男が頑張り過ぎたという事は、少なからず人死にが出たという事だろう。
人死になら自分も出している、とフェイトは思った。
それも、任務の巻き添えで死なせたという類のものではない。
「俺が、インドでやらかした事を調べてもらえば……俺だって、懲罰ものだよな」
「はっはっは。おめえさんが懲罰房行きなんて事になりゃあ、あいつが黙っちゃいねえ。ここの職員だろうが何だろうが誰彼構わず叩ッ斬って、愛しい兄貴を助けに来るだろうぜ」
「兄貴……ね」
兄と呼ばれるような事など、自分は彼女のために、何もしていない。してやれる事が、何かあるのだろうか。
あの少女が望んでいるもの。それは復讐である。
それに可能な限り力を貸してやるのは良いとして、結果、上手く復讐を遂げてしまった場合。彼女は、IO2エージェントを続けるのか。辞めてしまうのか。
IO2エージェントではない、イオナの姿というものを、フェイトは時折、想像してみない事もなかった。

 

 

「お兄様、お兄様ってば! もう、起きて下さい!」
布団を剥ぎ取られた。
「お休みだからって寝過ぎです! 規則正しい生活をしないと、明日からのお仕事に響きますよ」
「……………………誰?」
目を覚ますと同時に、フェイトはそんな言葉を発していた。
寝ぼけ眼に映るのは、自分よりも5、6歳は年下の少女である。
可憐な美貌に、海賊のような黒のアイパッチが痛々しい。
その顔が、ずいとフェイトに近づけられる。緑色の隻眼が、じっと睨み据えてくる。
「妹の顔を忘れるくらいに寝ぼけるなんて。まずは冷たい水で、お顔を洗って下さい」
「妹……」
誰だ、などと訊くまでもない。目の前にいるのはイオナである。寝ぼけた頭でも、そのくらいはわかる。
「え……と。何で、イオナが……ここに、いるのかな……」
「兄妹なんだから、一緒に住むのは当たり前でしょう」
22歳の独身男と、15歳の少女である。いくら兄妹でも、当たり前に同棲するのはどうなのか。
そう思いかけて、フェイトは気付いた。そもそも自分たちは、本当に兄妹なのか。
「朝ごはん作っておきましたから。洗い物は、しておいて下さいね」
言いつつイオナが、くるりと背を向けた。艶やかな黒いポニーテールが、勢い良く舞った。
「私、行きます。今日バイト早番だから……はい、二度寝しないようにっ!」
部屋を出て行こうとしながら、イオナがもう1度振り向いた。
布団の中に沈みかけたフェイトを、エメラルドグリーンの隻眼が射すくめた。

 

 

「おかしい……何かが、おかしい」
ぶつぶつと呟きながら、フェイトは街を歩いていた。別に、行きたい場所があるわけではないのだが。
朝飯は、白米のご飯と味噌汁と目玉焼きと焼鮭だった。普通に美味しかった。
「あいつ、料理なんて出来たのか。普段、錠剤とかで栄養摂ってるのに……ここ最近は、ちゃんとしたものも食べてるみたいだけど……いやいや。そういう事じゃなくて、何かがおかしい」
「はい。悩み事ですかぁ? 迷える御主人様」
声をかけられる、と同時にフェイトは取り囲まれていた。エプロンドレスを可憐に着こなした、美少女たちに。
メイド喫茶の客引き。以前も、同じような事があった。
あの時は、イオナが一緒だった。今日は、フェイト1人である。
「お悩みの心、悲しい心、傷付いた心、私たちが癒しちゃいまぁす♪」
「というわけでぇ、さまよえる御主人様お1人ごあんなぁあい」
メイド姿の少女たちが、左右からフェイトの腕を取って歩き出す。
「あ、いや……別に、悩んでるわけでも傷付いてるわけでも」
などと言いつつフェイトは、先日の鬼鮫のように連行されていた。

「お帰りなさいませぇ、御主人様……」
明るい声を出しながら、イオナが硬直していた。
いくらか胸を強調するデザインの、エプロンドレスである。こんなものを着ていると、いささか凹凸に乏しい体型も、それなりには見える。
フェイトはつい、そんな事を思ってしまった。
黒髪のポニーテールに純白のカチューシャという組み合わせは良いとして、片目を潰す黒のアイパッチは、客の心を癒す仕事をしている身としてはどうなのか。そんな事も、思ってしまう。
「お兄様……どうして、こんな所に……」
「……うん。それは、こっちの台詞なんだな」
フェイトは、そう言うしかなかった。
「バイトって、これの事だったんだ……」
「……私、ちゃんと言いましたよ」
「あら何、イオナちゃんのお兄様なんですかぁ?」
メイドたちが一斉に、華やいだ声を発する。
「あ、そう言えば似てますねえ。可愛い系のイケメン御主人様♪」
「イオナちゃんってば、こんな素敵なお兄様と1つ屋根の下で暮らしてるワケ? 就業規則違反よっ」
「うちの兄貴なんて、ただの引きこもりデブなのにい」
「はいはい、私生活を持ち込まないように。ここは御主人様たちに夢を見ていただく場所なんだから」
バイトリーダーと思われる年長者のメイドが、ぱんぱんと手を叩いた。
「今ここにいらっしゃるのは、イオナちゃんのお兄様ではなく私たちの御主人様。というわけでぇ」
「お帰りなさいませ御主人様!」
メイドたちの声が、重なった。
圧倒されるまま、フェイトは4人掛けの席に座り込んだ。
圧倒されるまま、フェイトはオムライスを注文していた。朝飯を食べて、まだそれほど時間が経っていないと言うのにだ。
「お待たせいたしましたぁ、御主人様♪」
オムライスを運んで来てくれたのは、イオナである。持たされたのだろう、とフェイトは思った。
メイドとして完璧な営業スマイルを浮かべながら、イオナはケチャップを手に取った。
「それじゃ覚悟はいいですかぁお兄様、じゃなくて御主人様。ラブラブパワー注入いきますよぉ~」
「やめてくれー」
悲鳴を上げるフェイトに、イオナの『美味しくなる呪文』が炸裂していた。

 

 

呪文が効いたわけでもなかろうが、美味いオムライスであった。
朝食がまだ腹に残っていたが、苦しい思いをする事もなく、フェイトはがつがつと平らげてしまった。
「ふう……これ、美味かったよ。メイド喫茶だからって、偏見があったわけじゃないけど」
「当店のシェフお勧めの一品でございます、御主人様」
言いつつイオナが一礼し、声を潜める。
「それで、あの……お兄様に、シェフを御紹介したいのですが」
「シェフを呼べってやつ? メイド喫茶で美食家を気取るつもりはないんだけどな」
「いえ、ぜひ紹介させて下さい。私、そのシェフと……お付き合い、していますので」
イオナが何を言っているのか、フェイトは一瞬、理解出来なかった。
「えー、お付き合いって……ああ、お料理とか教わってるって事? 確かに俺、イオナがあんなに料理出来るなんて思わなかったもんな」
「そうではなくて、お付き合いしているんです私……デートとか、したり」
「何だってぇえええええええ!?」
店内で、フェイトはつい大声を出してしまった。
「お、おい誰なんだ一体! 事によっては、事によっては」
許さないぞ、などとフェイトは言ってしまいそうになった。
何かがおかしい、と朝から思っていた。なんの事はない、自分が一番おかしいのだ。
「落ち着いてください、お兄様。オムライス食べてわかったでしょう? きちんと手に職を持った、仕事の出来る人です……どうぞ、こちらへ」
イオナの言葉に導かれ、シェフは現れた。
純白のコックコートに、筋骨隆々たる胸板や腹筋の形が浮かび上がっている。
凶猛な顔面が、フェイトに向かってニヤリと牙を剥いた。
人間を捌いて料理してしまいかねないシェフの巨体に、イオナが少し恥ずかしそうに寄り添ってゆく。
「紹介します、お兄様。私の大切な人……当店の、鬼鮫料理長です」
「イオナ嬢の兄上でごぜえますか。早速のお控え、ありがとうござんす」
「いや、控えてないから……って言うか、控えるって何を」
フェイトの言葉を無視して、鬼鮫は一方的に仁義を切った。
「包丁一本さらしに巻いて旅から旅へ修業の身なれど、オーナー様の御厚意を賜りまして板場を任せていただいております。姓は霧嶋、名は徳治、また の名を鬼鮫と発します、しがない渡世料理人にござんす。腕を磨いて添い遂げる、それまで待ってておくれと言えりゃあいいが、しばしの別れも耐えられず…… イオナ嬢に尻ひっぱたいてもらわにゃあ包丁も握れねえ、未練な男でござんす。へえ、どうかお赦しなすって」
凶猛な顔を、ぽっ……と赤らめながら鬼鮫は、悪鬼のように力強い腕でイオナの細身を抱き寄せた。
「お兄様と……お呼びして、よろしゅうござんすか?」

 

 

「いいわけないだろぉおおおおおおおッッ!」
叫びながら、フェイトは目を覚ました。
IO2日本支部、事務室である。パソコンの近くで、フェイトは机に突っ伏していた。
おぼろげに思い出す。ちょっとした書類を、作らなければならないのだ。
ちょっとしたデスクワークの最中に、フェイトは力尽きていた。書類関係の仕事は、やはり苦手だ。
「停職中も仕事をしていたようだな、お兄様。疲れが、溜まっているのではないか?」
イオナが、お茶を持って来てくれた。
エメラルドグリーンの隻眼が、フェイトに向かって、冷ややかな輝きを湛えている。
「うなされていた、だけではない。突然、叫び出したり笑ったり……大丈夫なのだろうな? お兄様」
「俺……笑ってた?」
「にやにやと、下品に……な」
氷のような刃のような視線に耐えながら、フェイトはお茶を啜った。
「あのさ、イオナ……鬼鮫さんと、もしかして付き合ってたり……する?」
「もちろん、付き合っているとも」
イオナは、さらりと即答した。
「鬼鮫師範は、私に付きっきりで剣撃戦闘を指導してくれる。早く懲罰房から出て来てもらわなければ、腕が鈍る一方だ」
「そういう意味か……」
安心してしまった理由が、フェイトはわからなかった。

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