Chase

ざわ、と木々がざわめいた。
それがあまり良いものではないと感じたフェイトは、作り物の髪を押さえつつ視線を上げる。
「!!」
宙を舞うものがあった。例のクリプティッドだろうか。動きが早くて目で追うのもやっとというほどだ。
だが、どこかで見たような、そんな気もする。
「フェイト!」
直ぐ側にいたクレイグが名を呼んだ。ほんの数秒、フェイトの意識は過去の記憶を巡った。
その僅かな隙に、宙を舞う『何か』がこちらへと移動してきたのだ。
銃を対象に向けるが、その動きは一瞬だけ遅く、残像のみが視界に残る。
マズイ、と思った次の瞬間、自分の体が地を離れたことに気がついた。
流れる景色は、数メートルほど後ろ。
何か起こったのか理解できずにいると、傍で知らない声がした。否、知ってはいるが正体の知れぬ相手の声であった。
「手荒ですまない」
「え……!?」
白金の毛並みが目に入る。
おおよそ、この場には不釣り合いなモノであった。
犬――違う、俗にいう人狼だとフェイトは咄嗟に判断した。
だが、それ以上を考える時間は与えられなかった。
「おい、ユウタ!」
「…………」
再びのクレイグの呼び声に、フェイトは応えることが出来なかった。
目の前の人狼に当て身をされたのだ。
そして彼は、その人狼に連れ去られてしまう。
ほぼ同時に、クリプティッドらしき影も移動を始めた。
反対側に飛んだその影を追うのは、クレイグだった。
個人的感情ではフェイトを優先させたかった。だが今は、あくまでも任務中なのだ。
僅かな舌打ちを空気の乗せながら、彼は未だ正体が明らかではない影を追跡するために、走り続けていた。

 
「……あれ」
意識がゆっくりと浮上した。
薄ぼんやりとした視界にあるのは、見覚えのない天井である。
「気がついたかい」
「!」
ビクリ、と体が震えた。
それでぼやけた意識も急激にクリアなものになり、自分の体がベッドの上で仰向けになっていると自覚して、視線を動かした。どこか知らない、ホテルの一室へと連れ込まれたようである。
その先にあったのは、バルトロメオの姿だ。
軽い混乱が脳内で起こった。
意識を失う前、動きの早い影を見た。その直後、自分の体は何者かに抱きかかえられた。
ヒトではないが二足歩行には変わらず、だが、到底ヒトには似つかない姿の……。
「人狼……あんた、なのか?」
「だとしたら、キミはどうするんだい」
バルトロメオは、フェイトの言葉に表情を変えずにそう返してきた。
幾度か見た、余裕の笑みであった。
そして彼は、大きなベッドの端に右の手のひらを押し当て、僅かに体重を掛けてみせる。
当然、スプリングが沈む音がした。
「……っ」
フェイトは女性の格好のままであったので、足先にある彼の手に条件反射が出てしまい、僅かに震えを生んだ。
それを見て笑うのは、バルトロメオだ。
「怯えているね。心配せずとも、無粋なことはしないよ。……ただひとつ、答えをもらおうか」
「な、何?」
「キミは先程の影を、知っているね?」
「!」
バルトロメオの問いに、フェイトは明らかに動揺して見せた。
咄嗟に平静を装うことすら出来なかった。
「……あんたは、あれに関係があるのか?」
『関わって』いるのか。
そういう意味合いの言葉を返す。
震えた声音に目を細めつつ、バルトロメオは「ふむ」と言って一度姿勢を正す。
そしてくるりと踵を返してから、腰を下ろしてきた。
フェイトはそんな彼の行動に、胸騒ぎを掻き立てる。足元が沈み込んで、思わず自分の足を曲げて距離を取った。
「キミは実に風変わりだ。でもとても……興味を惹かれる。不思議なものだ」
遠回しとも取れるバルトロメオ言葉に、フェイトはどう返事をしていいものかと思った。
否、そんな余裕すら無いようだ。
彼の中で膨れ上がる焦燥感と脈打つ鼓動は、何の信号なのだろうか。
「――ああ、そうだ。キミの持っていた銃、勝手で悪いとは思ったけれど、調べさせてもらったよ。登録番号がボクの知る組織のモノでね」
「ッ!」
緊張が走る。
フェイトは素直に瞠目して、身構えた。
目の前の存在は、やはり『そちら側』の人間なのか。
「改めて聞こう。キミはあの異形を、知っているね」
再びの問いにフェイトが唇を開くのは、それから数十秒経ってからであった。

 

 

通信機は、切られたままだ。
移動しながら何度か通信を試みたが、反応はない。
通信相手であるフェイトの意識が落ちたままか、それとも彼を連れ去った本人――バルトロメオが意図的に切ったか。
「くそ、あいつ……ユウタに何かしてたらタダじゃおかねぇぞ!」
素直な感情を吐露しつつ走っているのは、影を追い続けているクレイグであった。
目を逸らしてしまえば、一瞬で見失ってしまうような動きのそれに、既視感がある。
数ヶ月前に、とある大きな研究施設を制圧した。
その場にいた強化人間と、動きがよく似ていたのだ。
「……よろしくねぇな」
そのよく似たものは、おそらく出処は同じなのだろうと彼は思う。
被験体の身体能力を無理矢理に引き出す『筋肉強化剤』は、特定の組織が作り出したものだ。
「要するに……俺らが抑えたのはほんの一握りって事か」
ぼそりと独り言を吐いた後、クレイグは足を止めて腕を上げた。そして手にしたままであった拳銃を宙に向けて、躊躇いもなく撃つ。予めサイレンサーを装着していたので、発砲音は極々抑えられたものであった。
移動を続ける影が、建物の壁の向うに消える数秒前。
クレイグが放った銃弾はその端を微かに捕えて、消えた。
彼は目だけでそれを確認してから、小さな端末を取り出して画面に視線を移動させた。赤い小さな丸印が、点滅しつつ移動している。先ほど撃ったものは実は発信機であり、端末はその行方を追うもののようであった。
「――こちらナイトウォーカー。目的変更。ただのクリプティッド事件じゃなさそうだ」
耳に手をやりながら、通信を取る。宛先は本部なのだろう。
「発信機をつけてある。データも送信してあるから、場所の特定を頼みたい。……ああ、頼む」
それだけを伝えると、彼はまた通信回路を変更してフェイトへと繋ぎ直した。
「フェイト、応答しろ」
電子音はするが、やはり反応はない。
思わず、表情が歪んだ。
それを誤魔化すために、クレイグは懐から取り出した煙草を口に咥えて、火を灯す。
ゆっくりと息を吸い込んで、同じように紫煙を吐き零した。
「あー……、そういや俺たち、休暇中だったんだよなぁ」
脱力したかのように壁に背を預けて、そんな独り言を漏らすと、小さく自嘲する。
車で移動中に緊急任務の通信が入り、そのまま行動が任務へと移ってしまった。同行していたフェイトは女装して囮作戦を決行させて、そのままの格好で連れ去られた状態だ。
「…………」
クレイグはフェイトを連れ去った人物の変貌を、目の当たりにしていた。
自分と対峙していたはずのバルトロメオが、チラリと視線を僅かに動かした直後にはその場から姿を消していた。視る能力が高いクレイグであってもギリギリと言っていいほどの速さで、『彼』はその身を変容させていた。
――狼に。
「つーかありゃ、ライカンスロープだな」
ふぅ、と再び紫煙を吐き零しつつ、そう呟く。
一般的に『狼男』や『人狼』などと呼ばれ知られる存在。
最初は影と同じ部類かとも疑ったが、彼の動きには無駄がなかった。抵抗もなく動けるということは天性から来るものだと考えて、クレイグは益々眉根を寄せる。
味方なのか、それとも新たなる敵か。
まだ、判断をつけられない。
そこまでの思考に繋げた所で、耳元に電子音が走った。
「……っ、ユウタ?」
ジジ、と音がしたが、返答はない。
だが回線が生きていると判断したクレイグは、背を預けていた壁から離れて歩き出した。
そして先程とは別の端末を取り出して、画面を見る。
どうやら、それは通信機を通して居場所を特定出来るものらしい。
一つ、大きな通りを挟んだ先にある高級ホテル。
そこに、緑の光がチカチカと瞬いている。その点滅が動く様子はない。つまりは、その場に居続けているということだ。
まるで、ここまで来いと言われているかのような感覚であった。
フェイトから発したものか、それともバルトロメオがそうしたのかは解らないが、何となく後者だろうと当たりをつけてクレイグは走りだす。
「挑発かよ……くそっ」
そんな言葉が漏れた。
任務で個別に行動する事は茶飯事であったし、慣れている。私情を挟むことなど以ての外でもあったし、クレイグ自身も割り切れていると思っていた。
だが、実際。
今の現状は何なのだ、と心で呟いてみる。
フェイトが自分の隣に居ない。
たったそれだけの事で、こんなにもざわざわとする。心が酷く掻き乱されていると自覚する。
「おいおい……この俺が嫉妬かよ」
まるで誤魔化すかのようにして、独り言が漏れた。
恋愛経験など数多と積んできたはずなのに、ここに来て一人の存在に打ちのめされている。
それを再確認させられているような気がして、益々内心がざわついた。
フェイト本人にそれを自覚させられるのであれば、まだ良かったのだ。
そんなモヤモヤとした思考を繰り広げていると、目的のホテルに辿り着いていた。そして彼は躊躇いもなくドアマンが開く入り口をくぐり抜けてフロントへと駆け寄り、荒い息を吐きながらバルトロメオの名をカウンターの向こうにいる女性へと発した。
身なりの整った女性は「少々お待ちください」と言って取り次いでくれていた。内線を使い連絡を取ると、「23階、211号室へどうぞ」とエレベーターの方角へと手を差し伸べつつの返事をくれた。
軽い礼をしてクレイグは移動を再開させた。
いつもであれば、女性にウィンクの一つでも飛ばせたはずだったが、今日はそれが見られない。それほど、今の彼には余裕が無いのかもしれない。
高速で、かつ滑らかな動きをするエレベーターに乗って、数秒後。
目的の階に着いた彼は、号室の案内をチラリと見た後、矢印の先へと足早に進んだ。
211号室。その扉の前に立ち、クレイグは銃を片手に開いている方の手を上げ、室内にいる人物を呼ぶためのインターフォンを押す。アンティークゴールドのフレームの中心に添えられたボタン式のそれは、妙に重かった。
「――やぁ、やっと辿り着いたのかい。遅かったじゃないか」
数秒置いた後、開かれた扉の向こうからはそんな明るい声が響いてきた。
クレイグはその声の主の額に自分の銃口を静かに当てて、低い声を発する。
「フェイトを解放しろ」
「いきなり物騒すぎじゃないかい。……心配しなくとも、彼なら奥にいる。本来ならキミなど迎え入れたくもないのだが、事情が事情だ。入りたまえ」
「…………」
バルトロメオの言葉は半分くらいで耳に留めて、招かれた室内へと歩みを進めた。
ふわふわとした高級な絨毯が敷き詰められた足元は、妙に落ち着かない。そんなことを思いながら辿り着いた先には、フェイトの姿があった。
「……ナイト、来てくれたんだね」
「フェイト」
ベッドメイキングされた状態の上で座り込んでいる姿を見て、まずは安堵した。これが乱れでもしていたらとても穏やかな気持ちではいられなかっただろう。
おそらくは連れ去った当時が気を失っていた状態だったので、運んだ先がベッドの上だったという理由なのだろうが、どうにも納得がいかない。女装のままでもあったからだ。
歩みを進めて、フェイトの頬に触れる。
「どこも怪我してねぇな?」
「うん、大丈夫」
フェイトはいつもどおりであった。
若干、疲れているようにも見えたが、色々と起こった中であるしそれは理解の範疇でもある。
取り敢えずの無事を確認できたクレイグは、自分の身をフェイトに寄せて額に唇を寄せた。
フェイトはそれに驚いてはいたが、拒絶をせずに受け入れている。
「全くキミたちは、遠慮という言葉を知らないのかな」
やれやれと肩を竦めつつ、バルトロメオが背後でそう言った。
それに過剰反応して再び銃を向けようとするのは、クレイグだ。
だが、それを止めたのがフェイトであった。
「……フェイト?」
添えられた手に、クレイグは表情を歪めて名を呼んだ。
すると側に居るフェイトが緩く首を振る。
「ナイト、彼は味方だよ」
「何言ってやがる。こいつはお前を攫ったんだぞ」
「それでも、銃を向けたら駄目だ。彼は、バルトロメオさんは俺達と同じ……IO2なんだよ」
「はぁ?」
フェイトの言葉はクレイグにとっては予想外すぎる響きであった。
俄に信じがたい、という表情が浮かび上がっている。そして、思わず本音が唇から零れ落ちる。
「イタリアに支部なんかあったかよ?」
「やれやれ、キミはいつでも失礼な男だな。……まぁ、いいだろう。ボクは正真正銘、IO2のエージェントだ。ここにそれを証明する手帳もある」
バルトロメオが差し出したものは、本部から発行されている写真とバッジが一緒になっている手帳であった。所謂、警察手帳のようなものだ。もちろん、フェイトやクレイグにも支給されているものである。
それをまじまじと見て、クレイグは大きくため息を吐き零した。
どうやら、間違いなどでは無いらしい。
「……俺達は、ここで起こってるクリプティッド事件を追って来た。アンタの目的も同じなのか」
「そうなるのかな。どちらかと言うと本来は観光が目的でもあったんだがね」
「昼間に言ってた『旅行』ってのは、嘘じゃなかったってわけか……」
がしがし、と頭を掻きつつ言葉を続ける。
フェイトに近寄った際にベッドに腰を下ろしていたのだが、そこで姿勢も崩して背中が丸くなった。
ようやく、緊張の糸が解れたといった所か。
「取り敢えず、俺が追ってたアレは問題が有り過ぎる。本部にも既に連絡済みだし、アンタは……」
「ここまで踏み込んでしまったんだ。今更、無かったことにしてくれとは言わないでくれよ」
クレイグの言葉を制してきたバルトロメオの声音には、強い決意のようなものがあるように思えた。
巻き込まれたというよりは自分から飛び込んだのだ。何かしらのプライドがあるのかもしれない。
フェイトとクレイグは互いに顔を見合わせた。双方困り顔であったが、やはりどうしようもない。同じエージェントである限りは記憶操作も通用しないだろうし、それ以前に行動を起こす前に本人に阻止されてしまうだろう。
「気は進まねぇけど、協力体制を組むしか無さそうだな」
はぁ、とまた長い溜息を吐きつつ、クレイグはそう言った。
そして顔を上げると、バルトロメオもフェイトもこちらへと視線を向けてきた。
「そろそろ本部から折り返しの連絡が来るはずだ。まずはさっきの影の行き先を突き止めるのが優先事項だろうな。……簡単には行かねぇだろうけど」
「ふむ。なかなか深刻な内容のようだ」
続けてのクレイグの言葉にバルトロメオが反応したあと、通信機には本部からと思わしき伝達が届く。
クレイグとフェイトはそれぞれに耳に手をやり、新たな指示を受け止めるのだった。

カテゴリー: 02フェイト, season3(紗生WR), 紗生WR(フェイト編) |

怪物への道

藤原秀郷の伝説に登場する大百足もかくやと思わせる、巨大な怪物である。
山を七巻き半、は大袈裟にしても列車数輛に匹敵しうる巨体が、今はぐったりと野晒しになっていた。
研究施設の近く、山中のいくらか開けた場所である。
完全に動きを止め、今や列車の残骸のようになっている大百足の上に、その少年は立っていた。
藤原秀郷を思わせる偉丈夫、ではない。美少女にも見えてしまう、細身の少年だ。
その細い身体を、学校制服のような黒衣に包み、両眼を青く炯々と輝かせている。
この少年が、俵藤太よろしく大百足を退治してしまったのだ。
殺されてしまったのか。
それならば仕方がない、と奈義紘一郎は思う。所詮、この少年に殺される程度の怪物でしかなかったという事だ。
それでも、予想外の作品であったのは事実である。
「が……A7の小僧あたりに制圧されているようでは、まだまだか」
「……あなたに、そんな言い方をされる筋合いはないな」
巨大な死骸と化した大百足の上から、青霧ノゾミがじろりと眼光を向けてくる。
いや、辛うじてまだ死骸ではなかった。
節くれだった巨体。その節々を凍らされて動く事も出来ぬ状態のまま、怪物は声を発した。
「お……お前になど、用はないのだ小僧……」
列車の残骸のような大百足の、どこに発声器官があるのかは不明だ。
「我が主は……私の神は、どこにいる……わかっているのだろうな! 貴様らには、我が神の御ために……力を尽くす、義務が」
「黙れ化け物……!」
ノゾミの両眼が、青く燃え上がった。
細い全身から、冷気が立ち上る。
少年の周囲に、霜となる寸前の、冷たい霧が生じていた。
「この無様な図体! キラキラ綺麗なダイヤモンドダストに変えられたくなかったら、少し黙っていろよ!」
「ふむ……怒り狂っているようだな、小僧」
僅かな顎髭を片手で軽く弄りながら、奈義は言った。
「理由は察しが付く。まあ安心しろ小僧……奴はな、あのような小娘に手を出す男ではない」
A7研究室の主任が現在、1人の少女を治療している。
治療、以外の事をするような男ではない。それは青霧ノゾミとて、頭ではわかっているはずなのだ。
それでも抑えてはいられない感情で、青い瞳を燃え上がらせながら、ノゾミは奈義を睨んだ。
「あなたにも言える事だよ奈義先生……少し、黙っていて欲しいな」
「ほう、黙らなければどうする。俺を凍らせて打ち砕き、ダイヤモンドダストに変えてみるか?」
奈義は、微笑を返した。
「いいぞ、やってみろ。お前たちがその気になれば、我ら人間などひとたまりもない。痛快な話ではないか」
自分たちの作り出した怪物に、惨たらしく殺される。科学者としては、むしろ誇るべき死に様である。
だが残念ながら青霧ノゾミは、奈義紘一郎の作品ではない。
奈義の作品と呼べるのは、踏みつけられている大百足の方だ。
こちらもまあ、思った以上の出来ではある。
「屑のような素材と思っていたが、存外そうでもなかったようだな。なかなかの怪物に仕上がってくれた……俺に使われてこそ、だがな」
「我が神を……」
死にかけている大百足が、言葉を発した。
「貴様ら、わかっているのだろうな……私が何のために、あの少年をここへ連れて来たのか! 貴様たちはな、あの少年を助けなければならんのだぞ!」
「怪物が、あまり人間の言葉をまくし立てるものではない。化け物としての格が下がる」
奈義は言った。
「つまらんお喋りが出来ないようにしてみるか。人間の言葉を失えば、お前は怪物として、さらに完璧に近いものとなる」
「貴様……」
「発声器官を切除されたくなければ黙っていろと、そう言っているのだ」
もはや死に体と言うべき状態の大百足を、奈義は見据えた。観察した。
ここまで巨大な怪物への変化を成し遂げるとは、奈義にとっても想定外であった。
ウィスラー・オーリエが、独力で行った変身ではあるまい。
あの『実存の神』と呼ばれる少年の力が、間違いなく作用している。
「実存の神か……あれも、なかなか興味深い怪物ではあるがな。残念ながら俺ではなく、あの男が持って行ってしまった。まあ奴に任せておけば、少な くとも成す術なく廃棄処分という事はあるまい。実存の神などという有難い存在ではない、何だかよくわからぬものに作り変えられているかも知れんがな」
「……それでも……構わん……」
大百足の声が、弱々しい。
奈義の思った通りではある。このような変身が、なんの代償もなく無制限に実行出来るわけがないのだ。
ウィスラー・オーリエは、消耗し尽くしている。
この巨体を維持するには、凄まじいエネルギーが必要なのだ。
今はA7研究室で治療を受けているはずの、あの少年と少女よりもウィスラーは今、いつ死んでもおかしくない状態にある。
だから青霧ノゾミに、あっさりと倒されてしまったのだ。
倒されながらも、ウィスラーは言った。
「頼む……あの少年を、助けてくれ……」
「ほう」
愛情友情の類ではあるまい、と奈義は思った。
「自己満足だな。ドゥームズ・カルト大幹部として、最後まで本尊を守り抜いたという」
「何とでもほざけ……大幹部として、出来る事が……私には他に……何も、ないのだ……」
列車の残骸を思わせる、死にかけの大百足。その全身がビキビキッ……と、ひび割れてゆく。
脱線車輌の如く横転し、腹部を見せている巨体。その腹部に、亀裂が集中している。
乾いた音が、響き渡った。亀裂が、弾けていた。
大百足の腹部で、外骨格が破裂していた。臓物が、どろりと溢れ出す。
いや、それは臓物ではない。
羊膜のようなものに包まれた、人体である。
奈義は歩み寄り、羊膜に似たものを素手で引き裂いた。
理系の人間にしては体格の良い奈義よりも、格段に筋肉の薄い、白く貧相な男の身体が現れた。
若い、金髪の白人。
辛うじて生きてはいる。うまい具合に、意識を失っている。
このままA2研究室に持ち帰り、好きなように改造する事が出来る。
「人間をやめているくせに、人間の心を捨てきれぬ愚かな男よ……だがな、その人間の心が、さらなる怪物への進化を促す事もある。興味深い事実を証明してくれたな、ウィスラー・オーリエ」
ぐったりと動かぬ白人の男を、奈義は荷物の如く担ぎ上げた。そして歩き出す。
「今のところ、お前はまだまだ有望な実験体だ。待っていろ、そこの青霧シリーズに負けぬ程度の怪物には仕上げてやる」
「何がシリーズだ……そんな呼び方をされる筋合いもない!」
さらさらと崩れゆく大百足の屍から、ひらりと敏捷に飛び降りつつ、ノゾミが叫ぶ。
振り向かず、奈義は応えた。
「図に乗るな青霧ノゾミ。貴様など、まだまだ十把一絡げなシリーズ物の一構成員に過ぎんのだよ。大きな口をききたいのならば、せめてこやつと戦って勝って見せろ……消耗しきった怪物ではなく、俺の手で完璧な兵器に仕上がったウィスラー・オーリエとな」
「上位研究員から、ボクたちホムンクルスへの命令なら……仕事として戦えと言うのなら、いいよ戦ってあげる」
言葉と共に、青く冷たい眼光が、奈義の背中に突き刺さって来る。
「ボクは、何とだって戦って見せる! そして証明するんだ。先生を守れるのは、ボクだけだって!」
ノゾミの言う先生とは無論、奈義紘一郎の事ではない。
「そのムカデ男はもちろん、あの緑色の目の男にも! 片目の女にも! クナイの中年男にも! ボクは負けない、誰が来ても先生を守って見せる!」
(それでいい……あの男に、思い知らせて見せろ)
心の中で、奈義は言った。声に出して伝える事でもない。
(ホムンクルスは、人形や愛玩動物などではない……怪物なのだと、生きた兵器なのだとな)

カテゴリー: 02フェイト, season8(小湊WR), ウィスラー, 小湊拓也WR(フェイト編) |

イケメンハンター、追憶と再会

緑色に輝く瞳は、まるでエメラルドが、悪しき生命を宿したかのようである。
その眼光が、城壁の上からレイチェル・ナイトを射竦める。
トランシルバニア地方の、とある古城。
その中庭にレイチェルは立ち、城壁の上の男と睨み合っていた。
「やるな、小娘……」
エメラルドグリーンの眼光を放つ、その男は言った。
すらりと優美な長身を、豪奢な貴族の衣装に包んだ男。年齢は、20代後半から30代の始め。外見通りであるならば、だ。
ニヤリと不敵に歪む、その顔は、凶悪で猛々しく、そして美しい。
「単なるサーヴァントに、ここまで手こずらされるとは思わなかったぞ。褒めてやっても良い、が……まさか、とは思うが貴様、俺に勝てると思っているわけではあるまい?」
微笑む口元で、キラリと鋭利な光を放つものがある。
鋭い、牙。吸血鬼の証であった。
「健気な頑張りに免じて、命だけは助けてやろう。さあ、そこをどけ……貴様の後ろにいる、その男。そやつの命だけは、気の毒だが見逃してやるわけにはいかん」
吐血で汚れた唇を噛み締めたまま、レイチェルは剣を構えた。悪を討つ、聖なるレイピア。
命尽きるまでこの剣を振るい、守り抜かなければならない人がいる。
レイチェルの背後で、石畳に片膝をついたまま立てずにいる、1人の神父。
「そこを……どきなさい、レイチェル……」
城壁の上の吸血鬼と、同じ事を言っている。こふっ……と血を吐きながらだ。
「あの男とは、私が決着をつけなければなりません……串刺し公の後継者たる、あの男とは」
「無理……無理よ、マスター……早く、逃げて……」
レイチェルも神父も、傷を負っている。レイチェルの方が、いくらかは軽傷だ。
傷の軽い者が、重傷者を守る。当然の事であった。
「ふん、ならば2匹まとめて死ぬが良い……」
緑眼の吸血鬼が、優雅に片手を掲げる。
その手首から、鮮血が噴き出した。そして荒波のように、あるいは炎の如く、禍々しくうねった。
紅蓮の炎にも似た真紅の波濤が、城壁上から中庭へと押し寄せる。巨大な、赤い怪物と化しながら。
吸血鬼の禍々しい血液で組成された、それは真紅の竜であった。

 

 

スズメの鳴き声が聞こえる。カーテンの隙間から、早朝の光が差し込んで来る。
呆然と、レイチェルは目を覚ましていた。
「マスター……」
ベッドの上で上体を起こしながら、ぼんやりと呟く。
また、あの夢を見た。西暦1700年代の、ヨーロッパにおける戦い。
夢の中で、心の中で、あの神父はまだ生きている。
それを思うと、涙が出て来た。
「マスター……ごめんなさい、マスター……」
真紅の瞳が、うるうると涙の中に沈む。
「あたし、マスターの事……忘れたわけじゃ、ないんです……マスターの生まれ変わり、絶対に探し出して見せます……」
レイチェルは涙を拭った。
「だけど、その……手の届きそうな所に今いるイケメンも、放っておけないわけで……」
たった今、夢に出て来たばかりの面影を押しのけるようにして、1人の青年の顔がレイチェルの脳裏に浮かび上がった。
あの吸血鬼と同じ、緑色の瞳。少年のような顔立ちは、20代の男性に対してはいささか失礼ながら、可愛いとさえ言える。
出会ったのは数日前、人ならざるものとの戦いの最中においてだ。
「あたしのバカ……何で、脅してでも名前とかアドレスとか訊いとかないのよう……」
IO2関係者である事だけは、わかっている。
もう1度会うには、どうすれば良いか。
「要するに……あれよね……」
朝のお祈りも忘れているまま、レイチェルは邪な思案をしていた。
「IO2の人が出て来るような事件……起これば、いいわけよね……」

 

 

真紅の瞳と金髪。修道服を着た、若い白人の女。
IO2日本支部の掴んでいた情報は、それだけだ。
その女が、複数の部下を使って、何かをしているらしい。
関係があるのかどうか現時点では不明だが、5~6歳くらいの子供が何人も、この近辺で行方不明になっている。
現場に遭遇する事が出来たのは幸運だった、とフェイトは思った。
「ひ……や、やめて……やめてくれよう……」
男が1人、コンクリートの床に這いつくばったまま怯えている。
一見、単なる不良かチンピラの類である。
この男がしかし、子供1人をさらって脇に抱えたまま、屋根の上まで跳躍した。フェイトの目の前でだ。
子供は、その場で救い出す事が出来た。
逃げる男を追って、フェイトはここまで来た。
広大な廃屋である。元々は倉庫か、あるいは工場であったのか。
「何だ……何なんだよ、おめえはよぉ……」
「それは、こっちの台詞なんだけどな」
ゆらりと右手を掲げたまま、フェイトは男に歩み迫った。
この右手に念動力を宿し、拳あるいは手刀を叩き込んだ。男の体内では何箇所も、複雑骨折と内臓破裂が起こっている。手応えで、それはわかる。
人間であれば動く事も出来ないであろう状態で、しかしこの男は、ここまで逃げて来たのだ。
「助けてくれ……お、俺ぁただ命令されただけなんだ……5歳くれえのガキどもを、さらって来いってよォ……」
「誰の命令なのかってのを訊いている。さっきから何回も」
言いつつフェイトは、男の髪を左手で掴んだ。
微かな悲鳴を漏らす男の口元で、ギラリと牙が光る。
「吸血鬼……か」
フェイトもこれまで、何度か戦った事のある者たちである。
「お前を吸血鬼にしたのは……金髪で赤い瞳の、白人のシスター?」
「な……何で、知ってやがる……」
吸血鬼になって日が浅いと思われる男が、あっさりと口を割った。
「俺、騙されたんだ……好き勝手に面白おかしく生きてけるだけの力をやるからって、あの女によぉ……」
「で、もらったわけだな。雑魚吸血鬼としての、中途半端な力を」
その中途半端な力を、この男に与えたのは誰なのか。
真紅の瞳、金色の髪をした、白人のシスター。
そう聞いてフェイトが思い浮かべるのは、数日前に出会った1人の少女である。八岐大蛇の眷属たる怪物を、たちどころに切り刻んで見せた異国の退魔業者。
確かレイチェル・ナイトと名乗っていた。
彼女であれば、下級の吸血鬼を複数、力で従えて悪事を働く程度の事は容易であろう。
「へ……中途半端な強さで調子こいてんのぁテメーも同じだぜえ」
フェイトに髪を掴まれたまま、男が態度を急変させる。
その言葉の意味は、すぐに明らかになった。
取り囲まれている。
フェイトの周囲で、この男と同じような風体の吸血鬼が十数体、牙を剥いていた。
「おめーはなァ、誘い込まれたんだよ! 俺らのホームになあああ!」
叫ぶ男の頭から手を離し、フェイトは跳躍した。飛びすさった。
とてつもなく剣呑な攻撃の気配が、襲い掛かって来たのだ。
「さあ、やっちまいなぁおめえら! ノコノコ俺について来やがった、このバカをよォー!」
喚きながら、男は砕け散った。
ズタズタに、切り刻まれていた。突然、襲い掛かって来た光によってだ。
閃光の鞭。言葉で表現すれば、そうなる。
「バカはあんた……IO2のエージェントに、ここを突き止められるなんて」
女の声。
優美な人影が1つ、光の鞭を揺らめかせながら、そこに佇んでいる。
身にまとっているのは修道服で、ベールからは、艶やかな金髪が溢れ出していた。
右手に握られているのはレイピア。細身の刃の輝きが閃光と化し、物理的な殺傷力を宿しながら、鞭の如く伸びたところである。
ベールの下では陰影が生じており、顔はよく見えない。端正な輪郭と、そして真紅に輝く眼光だけが見て取れる。
彼女がレイチェル・ナイトであるのか。それよりも先に、確認しなければならない事がある。
十字架だ。
いくつもの十字架が、シスターの周囲に立てられている。
子供たちが、イエス・キリストの如く磔にされていた。全員、意識を失っている。
「……その子たちを、どうするつもりかな?」
「捧げるのよ」
フェイトの問いに、シスターが誇らしげに答える。
「偉大なる串刺し公の末裔が、この国にお生まれになった……私たちは今、その御方をお捜し申し上げているところ」
「その末裔とやらは今、5歳くらいの子供なんだな」
緑色に輝く瞳を、フェイトは捕われの子供たちに向けた。
「つまり、その子たちは人違いってわけだ。連れて帰っても問題ないよな?」
「言ったでしょう? 捧げると……串刺し公の末裔に、この子たちの血を」
シスターが、牙を剥いて微笑んだ。
「末裔たる御方は今、人の身にてあらせられる。吸血鬼として……我らの帝王として、目覚めていただかなければならないのよ。邪魔はさせない!」
レイピアが、子供の1人に突きつけられる。
「動かないで、IO2エージェント。大切な生贄だけど……1人くらいなら、死んでもいいのよ?」
「お前……!」
懐から拳銃を抜こうとしながら、フェイトは動けなくなった。
そこへ吸血鬼たちが、迫り寄って来る。
シスターが、彼らに命令を下した。
「さあ、その男を切り刻んでおしまい!」
叫ぶシスターの右手から、レイピアが叩き落された。
横合いから、光の鞭が一閃していた。
「なぁるほど……あんたと間違えられてたのね、あたしってば」
シスターがもう1人、いつの間にか、そこにいた。
たおやかな右手で、細身のレイピアが揺らめいている。
「IO2の人たちが、やけに喧嘩腰で絡んでくるから……ま、IO2関係の事件を追っかけてたのは、あたしだけど」
可憐な美貌が、フェイトに向かってニコリと微笑む。
「貴方に会うためよ? イケメンヒーロー君」
「レイチェル・ナイト……」
再開を祝している場合でもなく、フェイトは左右2丁、拳銃を引き抜いてぶっ放した。
フルオートの銃撃嵐が、吸血鬼たちを片っ端から粉砕する。
その間、2人のシスターが睨み合う。
「いるのよねぇ……中途半端にバンパイアハンターやってるうちに、いつの間にか吸血鬼になっちゃう奴」
溜め息混じりに、レイチェルが踏み込んで行く。
形良い太股が、修道服の裾を割り開く。
「もちろんマスターの足元にも及ばないけど、一応は本物のハンターの力……しっかり味わってね」
「小娘……! 串刺し公の末裔が、お目覚めになれば! お前なんかああああああああ!」
絶叫と共に、女吸血鬼は砕け散った。
本物のバンパイアハンターの刃に、切り刻まれていた。

 

 

子供たちは全員、救助・保護された。
「一瞬でも疑って、悪かったと思う。ここは俺がおごるよ」
フェイトは言ったが、しかしレイチェル・ナイトは最初から、おごらせるつもりであったのかも知れない。あっという間にケーキを平らげ、今は紅茶を堪能している。
「い~ぃお店知ってんじゃない、フェイト君。デートなんかで、しょっちゅう来てんじゃないのォ? いろんな女の子取っ替え引っ替えしてぇ。ああん、あたしも日替わりイケメンとか揃えてみたいっ」
「……1人でしか、来た事ないよ」
フェイトは一口、アメリカンコーヒーを啜った。
知り合いの経営している喫茶店である。他人をもてなすような場所を、フェイトは他に知らない。
「まあでも確かに、女の子連れて来る場所じゃないかもね。店長さんも店員さんもイケメンで、んもうデートどころじゃないっつうの」
そんな事を言いながらレイチェルが、喫茶店のマスターに熱い視線を注いでいる。まるでハリウッド俳優のような、白人男性の店主。
「ん~、眼福至福……あれ、でもあの店長さん……どっかで見たような……」
「……一応言っとくけど、手を出したりするなよ。奥さんも子供もいる人なんだから」
そんなフェイトの言葉を、レイチェルはしかし聞いていない。
「あいつ……!」
何やら、血相を変えている。
「ど、どうした?」
「……いえ、何でもないわ。そうよね、そんなはずない……」
レイチェルが、謎めいた事を呟いている。
「あいつは……マスターとあたしで、倒したんだから……」

カテゴリー: 02フェイト, season9(小湊WR), レイチェル・ナイト, 小湊拓也WR(フェイト編) |

あやかし荘へ、ようこそ

「先を越されちまったな、お前に」
いつもそうだが、この男は、いきなり現れたと言うよりは、いつの間にかそこにいたという感じに声をかけてくる。
「IO2の獲物を横取りとは、やってくれるじゃないか」
「……俺は、何にもしてないよ」
工藤勇太は立ち止まり、だが振り向かなかった。
学校からの、帰り道である。
電柱の陰に、その男が立っているのは、振り向かずともわかる。
「俺はただ、仔犬を助けただけだよ。自慢するつもりはないけど」
「そのついでに、IO2がマークしていた能力者を片付けてくれたわけだな」
勇太が力を見せただけで、その能力者は勝手に死んでくれた。
「陰陽道やら呪禁道やらを中途半端にかじった、そこそこ厄介な相手でな。人死にが出る前に、俺が仕留めようと思ったんだが」
「遅いよ。人死に、出ちゃってるから」
金をもらって仔犬を虐めるような輩とは言え、犠牲者には違いない。
「ゴミのような連中だけが、上手い具合に死んでくれた。可愛い仔犬は助かった。めでたしめでたしって事にしとけ。仕事として見るなら、まあ及第点かな」
「何だよ、仕事って……念のため言っておくけど俺、IO2の仕事なんて、やるつもりないから」
「ふふん。お前がIO2に就職する、そいつぁ言ってみれば……UFO研究会か何かに、本物の宇宙人が入会するようなもんでな」
男が、わけのわからない事を言っている。
「そもそも勇太。お前、IO2の仕事ってのが、どんなもんだと思ってる?」
「バケモノ退治だろ。バケモノと戦いながら、まあ人助けもする。あんたが、俺を助けてくれたみたいに」
「バケモノ退治、か……俺たちはなあ、バケモノとか呼ばれてる連中とは基本、仲良くしたいと思ってるんだよ」
男がやはり、わけのわからない事を言っている。
「まあ仲良くは無理にしても、あの連中と上手くやってかなきゃいかんのは確かだ。うっかり戦争が起こらないように付かず離れず、なあなあで妥協しつつ共存共栄の道を行く。IO2ってのは元々そういう組織でな」
それなら尚更、自分には向いていない。勇太は、そう思う。
憎いと思った相手に対し、妥協する事など、自分には出来ない。昔からそうだ。
高校生になってからは、いくらか丸くなったのだろうか。
仔犬を虐めていた若者たちの事を、勇太は思い浮かべた。
中学生の時の自分であれば、あのような連中には手加減なしで念動力を食らわせていただろう。
それをしなかったのは、自分が丸くなったから……と言うより、あの少女がいたからか。
わん、と吠えられた。
小さなものが、勇太の足元にまとわりついて来る。
1匹の、仔犬だった。
「あれっ、お前……」
あの時の仔犬。間違いない。
勇太は身を屈め、頭を撫でようとした。
その手に、仔犬が噛み付いた。
飼い主、と思われる人物が、慌てて駆け寄って来る。
「こ、こらこら駄目だよ! 人を噛んじゃあ!」
小さな人影である。仔犬がもう1匹。勇太は一瞬、そんな事を思ってしまった。
小学生、いや中学生か。少年のようにも見えてしまう、女の子である。
ふわりとした金髪は、頭髪と言うよりは獣毛で、犬か猫の耳、のような形に跳ねている。
いや。それは本当に、耳なのかも知れない。
短パンを可愛らしく膨らませた尻からも、作り物とは思えない尻尾が、ふっさりと伸びている。
こんな少女が、そう何人もいるわけはない。
「あ……ええと、勇太さん? だよね確か」
相手も、勇太の事を覚えていてくれたようだ。
「良かった、また会えて! この子を助けてくれたお礼、しなきゃって思ってたんだ」
「お礼なんていいよ。それより……甘噛みの癖は、早めに直しておかないと」
右手に噛み付いている仔犬を、左手で撫でながら、勇太は言った。
「あと首輪とリードも付けないと、条例とかに引っかかっちゃうから。えー……柚葉さん、だっけ?」
「柚葉でいいよ。ボクは勇太ちゃんって呼ぶね!」
言いつつ柚葉が、勇太の制服の袖を引っ張った。
「じゃあ行こー!」
「……どこへ?」
「あやかし荘。みんな待ってるよ」
知る人ぞ知る、怪奇スポットの1つである。
「ボクの友達を助けてくれた人に、みんな会いたいってさ!」
「みんな……って?」
疑問を口にしながらも、勇太は引きずられて行く。
仔犬が、先導するように走り出す。
助けを求めるような気分になりつつ、勇太は振り返った。
電柱の陰に、男の姿はすでになかった。

 

 

和毛の塊に、勇太は襲われていた。
仔犬のような仔猫のようなものたちの群れ。それらが、全身にまとわりついて来る。
無数の毛玉が、全方向から勇太を押し潰しにかかっている。
柔らかな獣毛の中で窒息しそうになりながら、勇太は呻いた。
「うおおおおお……こ、これは一体」
「おや珍しい。すねこすりが、こんなに懐くなんて」
油すましが、顎に片手を当てながら言う。
「役行者様、以来かねえ」
「そう言えば、どっかで会ったかなあ。お前さん」
ぬっぺらぼうが、にやりと笑ったようだ。
「たまぁに、いるんだよねえ。人間なのに、妙にわしらと縁深くなっちまう御仁が」
「勇太ちゃんは、ボクらの友達って事だね!」
柚葉が、仔犬を抱きながら嬉しそうにしている。
あやかし荘、旧館の大広間である。
様々な妖怪が集まって、柚葉の連れて来た人間を検分しているところだ。
勇太が、絵本や漫画で見知っている妖怪たちも多い。
油すまし、ぬっぺらぼう、すねこすり。
ろくろ首が、大蛇の如く首を伸ばしてきて勇太を取り巻く。
「へぇ~、いい男じゃないか。うふふ、あたしのうなじを愛でておくれよぉ」
「兄ちゃん兄ちゃん、その緑色の目ん玉キレイだなあ。オイラのと交換しないか? 好きなの選べよう」
百目が、全身で瞳を輝かせながら、にじり寄って来る。
「何でぇ、肉の少ねえガキだなぁ。栄養が足りてねえ。もっとブクブク美味そうに太らなにゃいかんぞ若いんだから」
筋骨たくましい鬼が、勇太の頬をつまんで引っ張る。
他にも、一つ目小僧がいる。烏天狗に二口女もいる。一反木綿が、ひらひらと飛び回っている。
彼ら彼女らの中で最も偉そうにしているのは、1人の座敷童であった。
「ふふん。面白いもの拾って来おったのう、柚葉」
すねこすりの群れに埋もれた勇太を、興味深げに見据えている。
「何でも式鬼ども数匹を、たちどころに殺し尽くしたそうな……のう勇太とやら。その力、おぬし自身は忌み嫌うておろうが」
「まあ……そうですかね」
柔らかな毛玉の群れに、脛のみならず全身をもふもふと擦られながら、勇太は辛うじて声を発した。
「便利に使わせてもらってるのは、否定しませんけど……」
「便利なものとして受け入れてしまえ。どれほど疎んじたところで、おぬし、それとは一生付き合ってゆかねばならんのぢゃからな」
座敷童が、微笑んだ。
「何なら、わしらの同類として、ここに住んでみてはどうぢゃ? 空き部屋はないが、まあペンペン草の間で良かろ。同じようなのが1人住んでおる。仲良うするのぢゃぞ」
「俺……誰かと仲良くするの、苦手なんですよ」
言いつつ勇太は、押し寄せる和毛の中から無理矢理に顔を出した。
柚葉の顔が、間近にあった。
「勇太ちゃんは……ボクと、仲良くしてくれないの?」
「それは……」
勇太は言い淀んだ。座敷童は笑った。
「ま、仲良しこよしは無理にしてもぢゃ。わしらはの、おぬしら人間たちとは上手くやってゆかねばと思うておるのぢゃよ。なあなあで妥協しつつ、適当に平和にやってゆこうではないか」
「なあなあで……ね」
誰かが、同じような事を言っていた。
あの男の言う通り、例えばこの妖怪たちのような種族と人間との間に、争いが起らぬよう陰で力を尽くすのがIO2という組織の役割であるのなら。
(俺……IO2の仕事、やってみても……いい、のかな……?)
普通の高校生らしく、と言うべきか、進路や将来といった事に関しては漠然としか考えていない。
普通の生活がしたい、などと漠然と思っていた。
考えるまでもない事である。自分が、普通の生活など出来るわけがないのだ。
(俺……バケモノ、なんだもんな……)
「何はともあれ宴ぢゃ宴! 者ども、勇太のために酒と肴の支度をせえい」
座敷童が、手を叩く。
妖怪たちが歓声を上げ、酒宴の準備に取り掛かる。
「あの俺、未成年なんだけど……」
勇太の声は、すねこすりの大群に埋もれて消えた。

カテゴリー: 01工藤勇太, 小湊拓也WR(勇太編) |

タッカー家の天使

ドゥームズ・カルトの本部施設は廃墟と化し、月明かりを浴びている。
結果として本拠地の破壊には成功し、組織の主だった者たちも、あらかたは死んでくれた。
生き残っているのは自称・大幹部が1名と、末端の戦闘員が1名、死にかけた少年が1名。
組織としては、もはや終わったも同然である。
ドゥームズ・カルト撃滅の任務は、成功したと言っていいだろう。
フェイトは、そう思う事にした。
すぐ近くで、無言のまま佇んでいる男が、どう思っているのかは不明だ。
探偵と呼ばれる男。フェイトの、日本における上司である。
先程までは、フェイトの肩を借りて、ようやく立っている状態であった。
まずは、病院へ行くべきか。それともIO2日本支部へ帰還し、医療班の世話になるべきか。
ぼんやりと考えながら、フェイトは振り向いた。
大型自動車が1台、いつの間にかそこに止まっている。
ワゴン車……いや、装甲車と言っても良いか。
防弾仕様の分厚い車体に、見覚えのあるエンブレムが描かれている。
疲れたような溜め息が出てしまうのを、フェイトは止められなかった。
装甲ワゴンの扉が開き、運転者が軽やかに降り立つ。
小麦色の肌をした、欧米人の青年。すらりとした長身に、仕立ての良いスーツが嫌味なほど似合っている。絵に描いたような金持ちだ。
黒い瞳が、眼鏡の奥で、油断ならない眼光を孕んでいる。
ふっ……と一癖ありそうな微笑を浮かべながら、その青年は言った。
「遅くなりまして申し訳ありません。VTOL機か何かで飛んで来ようか、とも思ったのですがね……手頃な着陸場所が、見つかりそうにありませんでしたので」
「狭い国で悪かったな」
「お忘れなく。国土面積は、我が大英帝国の方が下なのですよ」
「はるばる大英帝国から、今回は何をしに来たのかな。この御曹司は」
「新商品をご紹介させていただこうと思いましてね」
ダグラス・タッカー。
IO2ヨーロッパのエージェントにして、タッカー商会の若社長。つまり二足の草鞋を履いているわけで、お坊っちゃまが金持ちの道楽でIO2エージェントをやっている、などと陰口をきかれているのではないかとフェイトは思っている。
思いながら、言った。
「もしかして……例の、強化スーツ?」
「そう、実は改良型が完成いたしまして……よく、おわかりですね? フェイトさん。テレパスの類をお使いになった、わけでもなさそうですが」
「ひょっとしたら、あれがまた必要になるんじゃないかって気がしてるんだ」
言いつつフェイトは、広大な廃墟と化した本部施設を、ちらりと見渡した。
この破壊をもたらした、巨大な怪物。
あれと戦うには、強力な装備が必要だ。
「これはまた……ドゥームズ・カルトを潰すために日本支部の精鋭が動いている、とは聞いていましたが」
同じく廃墟を見渡しながら、ダグラスが感心している。
「ずいぶんと派手になさったものですねえ」
「これは、俺たちがやったんじゃないよ」
他人が信じるはずのない話を、フェイトはしてみた。
「まあ嘘みたいな話なんだけど……馬鹿でかいムカデが、出て来てさ」
「ほう、それは私も見てみたかった」
言いつつ、ダグラスが軽く片手を掲げ、人差し指を立てる。
スーツの袖口から1匹のムカデが現れ、ダグラスの手を這い登り、人差し指に絡み付く。
「ムカデの毒というものはね、スズメバチやサソリと比べて軽く見られがちですが、なかなかどうして侮れないものなんですよ」
「そうかも知れないけどダグ、あんまりそういう事しない方がいいぞ」
フェイトは言った。
「あんた最近、テレビにも出てるだろ。女性ファンとか多いんだぞ。虫と仲良しなんてのが知られたら」
「そんな事よりフェイトさん。新しい強化スーツを貴方に試していただきたいところですが……そのお身体では、無理のようですね」
「まあ……な」
息をつきながらフェイトはつい、瓦礫の上に座り込んでしまった。もう立ち上がれない、と思った。
気力も体力も、限界である。
「ドゥームズ・カルトを潰す……その任務は、達成した。だけど、あんな組織の2つ3つよりもずっと厄介な化け物を……くそっ、仕留められなかった……」
フェイトの念動力をもってしても、かすり傷ひとつ負わずに悠然と去って行った、列車のような大百足。
あれを、どうあっても絶命させる必要があるか否かはともかく、放置はしておけない。
「治療のための人材を、連れては来たのですがね……」
「治療、って俺を?」
本部施設に殴り込む直前、応急処置的な治療をフェイトに施してくれた少女がいる。おかげで、この戦いを乗り切る事は出来た。
ダグラス・タッカーの伝手をもってすれば、彼女をここへ連れて来る事が、もしかしたら不可能ではないかも知れない。
フェイトはそう思ったが、
「私の患者は、その人ね……ふふん。見るからに景気の悪い顔をしているわ」
そんな言葉と共に装甲ワゴンから降りて来たのは、フェイトの知らぬ1人の女性であった。
ダグに似ている。フェイトはまず、そう思った。
インド人との混血である若社長とは異なり、純然たる白色人種である。
フェイトを観察する青い瞳は、しかしダグと同じく一癖ありそうな眼光を孕んでいた。
しなやかな細身に黒いワンピースを着用し、その上から、ロングコートのようでもある医療用白衣をまとっている。理系の装いが似合う肢体を、艶やかな金髪がサラリと撫でる。
年齢は若い。フェイトやダグよりもいくらか下、もしかすると未成年かも知れない。
フェイトは、訊いてみた。
「貴女は……IO2の、関係者の方ですか?」
「エージェントネーム・スフィア。治療のエキスパートよ」
「エキスパート……ですか」
言ったのは、ダグである。
スフィア、と名乗った娘が間髪入れず、彼を睨んで言葉を返した。
「何か文句でもあるの? いいからまず、そのムカデをしまいなさい」
「私の友達なのですよ。このムカデも、そちらのフェイトさんもね」
眼鏡越しの眼差しが、ちらりとフェイトに向けられる。
「彼は私にとって、だけでなくIO2という組織にとっても、かけがえのない人材です。くれぐれも……お医者さん遊びの人形のように扱うのは、やめて下さいよ」
「彼を玩具のように扱っているのはダグ、貴方の方ではなくて?」
スフィアが言った。
「わけのわからない強化服の開発に、商会のお金を注ぎ込んで! なおかつその実験台に、こちらのフェイトさんを使おうとしているのでしょう?」
青い瞳が、フェイトの方を向く。
「貴方の事は聞いているわ、フェイトさん。ダグと仲良くしてくれる、数少ない人。親族として、お礼を言わなければいけないわね」
「いえ……ダグラス社長には、良くしていただいてますから」
「何という他人行儀な事を言うのですか、フェイトさんは」
ダグが、悲しそうな声を発した。
スフィアが手を伸ばし、ダグの顔から眼鏡を奪い取った。
「日本人の礼儀正しさも、度が過ぎれば罪というものですよフェイトさん。私と貴方、もう随分と長い付き合いになると思いませんか? 私の方は、貴方と打ち解けたつもりでいるのですよ」
「ムカデに話しかけるな。それは俺じゃない」
「うっ……度が進んでいるわね。ダグ、また少し目が悪くなったのではなくて?」
スフィアが、奪った眼鏡をかけながら美貌をしかめる。
「私が、治療してあげましょうか?」
「そんな恐ろしい事はして下さらなくて結構ですから、眼鏡を返して下さい」
「彼女はあっちだ」
自分に話しかけてきたダグを、フェイトは無理矢理、スフィアの方に振り向かせた。

 

ダグラス・タッカーの、従妹であるという。
19歳。現役大学生でありながらIO2の委託職員、しかもエージェントネームまで取得している自称・治療のエキスパート。
そんな彼女にフェイトは今、ダグの言った通り、お医者さん遊びの人形のように扱われようとしているのか。
「あ、あの……一体、何を……?」
「大人しくなさい。医者の前の患者とは即ち、まな板の上の鯉……日本の諺でしょう?」
「そんな諺、ありませんよ……」
医者、とスフィアは言った。大学生の身分で、すでに医師免許を取得しているという。
装甲ワゴン内部。簡易寝台に横たえられたままフェイトは今、患者あるいは俎上の鯉として扱われていた。
うつ伏せのフェイトの背中に、綺麗な片手をかざしたまま、スフィアは首を傾げている。
「貴方……いえ、そんな……まさか……」
「お、俺の身体が何か」
フェイトは言った。
「変な事があるなら遠慮なく言って下さい。自分で言うのもあれですけど俺……確かに、普通じゃないんで」
「フェイトさん、貴方……もしかして1度、死んだ事がある?」
死ぬような目に遭った事なら、何度もある。それは別に、自慢げに語るような事ではなかった。
「ごめんなさい。私、本当に変な事を訊いているわね……何と言うのかしら。貴方の身体は1度、生命力の源のようなものを失っている……その直後に、誰か他の人の生命力を移植されている。そうとしか思えないのよ。生命力という言い方が適切なのかどうか、わからないけれど」
「……魂、ですかね」
魂を失った事ならある。その直後、フェイトに新しい魂を移植してくれた少女がいる。
「凄いな。そんな事、わかっちゃうんだ」
「スピリチュアルな分野も、それなりに勉強したから」
背中に柔らかな光が降り注いでいるのを、フェイトは感じた。
スフィアのかざした右手。美しく繊細な五指が、掌が、微かに……だが確かに、光を発している。
「気……ですか?」
「言っておくけれど、ゲームみたいに怪我を治したりは出来ないわよ。新陳代射を高めて回復を早める……私の気で出来るのは、せいぜいその程度」
淡い気の輝きをまとう繊手が、フェイトの背中をそっと撫でる。
「貴方の身体……その魂? を移植してくれた誰かと、まだ繋がっているわね。生命力を流し込んで無理矢理に治療を行った、そんな形跡が感じられるわ」
「そ……そんな事まで、わかっちゃうのか」
「まあ1度や2度ならともかく。そんな無理矢理な治療では、本当には回復しないわ。貴方の肉体……ボロボロだもの。今まで、随分と酷使してきたようね? 日本人は身体が壊れるまで働く民族だとは聞いているけれど」
言葉と共にスフィアの指が、鍼の如く背中に突き刺さってくる。
フェイトは、そう感じた。
「疲労が、沈澱して凝り固まっている……まずは、それを解きほぐすところから始めましょう」
スフィアの繊細かつ鋭利な指先が、気の光の帯びたまま、フェイトの背中と脇腹の中間あたりを穿つ。そして掻き回す。
表記不可能な悲鳴を、フェイトは発していた。

 

装甲ワゴンの中から、面白い悲鳴が聞こえてくる。
「やられているようだな、フェイトの奴……」
フェイトの上司が言った。探偵と呼ばれる伝説のエージェントらしいが、ダグに言わせれば、探偵と言うよりは暗殺者だ。
「ああ見えて彼女、腕はまあ確かです。貴方も治療してもらってはどうですか」
この男が負傷を隠しているのは、見ればわかる。
「フェイトさんに負けず劣らず、忙しく働いていたのでしょう。おかげでIO2ジャパンも……かなり、風通しが良くなったようですね」
IO2日本支部の幹部・重役が、何人も行方不明になっている。
探偵と言うよりは殺し屋である、この男が、密かに動いた結果だ。
「日本支部の腐敗は、うんざりするほど根深い……」
彼は言った。
「あらかた片付けはしたがな。とてつもなく腐った根がまだ何本か、どこかを通って……恐らくは虚無の境界と繋がっている」
言いつつ、サングラス越しにダグを見やる。微かに、笑ったようだ。
「これほど腐りきったIO2ジャパンを、アメリカ本部や欧州各支部はどう扱うのかな」
「貴方やフェイトさんら現場のエージェントに咎めが及ぶ事はないでしょう。ドゥームズ・カルト壊滅は、貴方たちの功績なのですからね」
IO2アメリカ本部もしくは英国支部から監査官が派遣され、日本支部を指導する。体制の見直しや人員整理を行う。そんな話も、ダグの耳には入って来る。
「ですがアメリカ本部の方々に、あまり偉そうな事を言う資格はありません。IO2ヨーロッパも、清廉潔白には程遠い有り様です。おかげで私どもタッカー商 会が、いろいろと融通を効かせる事が出来るわけですが……まあ要するに、腐敗しているという点においては、どこも似たり寄ったりというわけです」
「我々には関わりのない話だな」
フェイトの上司が言った。
フェイトでも同じ事を言うだろう、とダグは思った。
「上層部がどうであれ、俺たちはただ現場で仕事をするだけだ」
「私は思うのですがね……いっそ貴方が、IO2ジャパンの統帥権を握ってしまってはどうです」
「悪い冗談だ」
探偵と呼ばれる男が、背を向けた。
「フェイトに伝えてくれ。我々に咎めが及ぶ事はない、と言っても貴様は別だ……ペナルティを覚悟しておけ、とな」

カテゴリー: 02フェイト, season8(小湊WR), ダグラス・タッカ―, 小湊拓也WR(フェイト編) |

狂者の遺産

「悪いねえ。嫁入り前の女の子に、こんな格好させちゃって」
『気にしないわ。お医者さんに身体を見せるようなもの』
培養液槽の中で、少女がスピーカー越しに応える。
『……あたしに力をくれたのは、伊武木先生だものね』
「医者とは違うよ。俺は、君を実験台にしただけさ」
黒蝙蝠スザク。
かつて伊武木リョウの開発した新薬に適合し、人外の力を得た少女である。
あの頃スザクは、まだ十歳にも満たぬ幼子であった。
行き場のない憎悪の念を、小さな身体いっぱいに溜め込み、くすぶらせていた。
そんな少女だったからこそ、常人の肉体には猛毒にしかならない新薬に耐え、人外の能力を獲得したのである。
『伊武木先生に会うのも、久しぶりね……』
「頼ってくれて嬉しいよ。ずいぶんと手ひどく、やられたもんだな? 応急処置的な治療は受けているようだが」
スザクの肉体を調べてみたところ、数時間前まで致命傷に近い深手を負っていた事がわかった。
傷そのものは治っていた。何者かが、スザクの体内細胞を無理矢理に活性化させ、傷を塞いだようだ。
「傷は塞がっても、ダメージは溜まっている……身体のあっちこっちにガタが来てるよ。今までずいぶんと、無茶な仕事ばかりやらされてきたんだな」
優秀な戦闘員・破壊工作員として、便利に使われていたのだろう。虚無の境界にも、ドゥームズ・カルトにも。
「いい機会だ、その身体を徹底的に修理しておこう。しばらくは治療液の中で、ゆっくり休むといい」
『……訊かないの? 何が、あったのか……』
スザクが言った。
『あたしと一緒にいた廃棄物のバケモノや……あの子の、事も』
「何が起こったのか、大体の流れは知っている」
もう1つの培養液槽に、ちらりと視線を投げながら、伊武木は応えた。
某県の山中に建てられた、とある製薬会社の研究施設。その一室である。
2つの培養液槽が並んでおり、その片方にスザクは閉じ込められていた。
『先生、あの子を……助けて、くれるのよね?』
「出来るだけの事はする。助かるかどうかは、本人次第さ」
もう1つの培養液槽。その中に、未熟児の人体標本にも似た弱々しい生き物が浮かんでいる。
かの実験体A01、によく似た少年。
肌は培養液に溶け込んでしまいそうなほど白く、海藻の如く揺らめく髪もまた老人のように白い。
目を閉じた、その表情は、安らかな死に顔のようでもある。
この培養液に浸すのがあと1分でも遅ければ実際、命尽きていたところであろう。
その白く弱々しい肉体は今、最低限の生命活動を、辛うじて維持している。が、長くは保たない。
このまま放置しておけば、1日か2日で死に至る。寿命を迎えたホムンクルスと同じく、培養液の中で腐ってゆく事になる。
それを、スザクに告げるべきなのか。自分が医者であれば告げているであろうか、と伊武木は思った。
『先生、お願い……』
培養液ではなく治療薬で満たされた槽内に、スザクは涙を漂わせた。
『あたしの身体……使える所、使ってくれていいから……』
「本当は知っているんだろう。君の肉体のどの部分も、この子に移植する事は出来ない」
伊武木は言った。
「この子に適合する血と肉と臓器を持った人間は、この世でただ1人……まあ、今はそんな事を言っても仕方がない。とにかく君は休みたまえ。一眠りして目が覚める、少なくともそれまでは、この子を保たせて見せる」
『先生……お願い……』
スザクの声が、弱々しくなってゆく。
『その子を……助けて……』
彼女が身を浸している治療薬には、睡眠薬成分も含まれている。
そうでもしなけば、この少女は眠ってはくれないだろう。

 

 

「俺は結局、あんたの尻拭いをさせられてる……と。そういう事でいいのかな? 父さん」
この場にいない相手に語りかけながら、伊武木は培養液槽を見上げた。
中にいるのは実験体A01、の比較的ましな複製品に過ぎない。これが誕生した頃には、父はもうこの世にいなかった。
だが、あの男の研究が残したものの1つである事に違いはない。
「尻拭いと言うか、遺品整理と言うか……とにかく、あんたが死んでもう随分と経つのにな。俺はまだ当分あんたに付き合わされなきゃならないらしい。勘弁してくれよ、まったく」
酒でも飲みたい気分だった。
目の前で培養液に浸されているのは、酒肴代わりにしては味気ない、少年の貧弱な細身である。
隣の槽内にいる美少女ならともかく、と思わなくもないまま伊武木は思案した。
この少年は、もう長くはない。あと1日か2日で生命活動が停止し、その後は培養液の中で腐り果ててゆく運命である。
このまま何も手を加えなければ、の話だ。
実存の神などと呼ばれ有り難がられていた、脆弱な生き物。この白く細い肉体に適合する血肉と臓器を持った人間は、世に1人しかいない。
成長した実験体A01……あの緑眼の青年である。
彼がここにいて、うまい具合に意識でも失ってくれていれば、自分は移植手術を行っていただろうか。医師ではない伊武木でも、この研究施設の設備を使えば、出来ない事ではない。
幸か不幸か、あの青年はここにいない。となれば、出来る事は何か。
この少年を安楽死させ、腐り始める前に埋葬してやる事か。
父の遺品とも言える、白い脆弱なる肉体を、伊武木はじっと観察した。
この少年を、この少年のまま生かし続ける手段はない。
見たところ5歳前後の、この弱々しい肉体を、6歳、8歳、10歳と普通に成長させてゆく事は、もはや出来ないのだ。
この少年のままでは、だ。
「違うものに、作り変える……しかない、か」
呟きながら伊武木は、自分が笑っている事に気付いた。
「おいおい、今何を言った? 俺。人間を、違うものに作り変える? いやまあ人間じゃあないんだが」
神として扱われていた少年に、伊武木は暗い笑顔を向けていた。
「あんたがやってた事と、丸っきり同じじゃないか。なあ父さん」
神の肉体を収めた培養液槽に、軽く片手を触れる。
伊達に『実存の神』などと呼ばれていたわけではない。この少年、確かに凄まじい能力を秘めている。
いわゆる超能力だけを見れば、成長したA01をも上回るかも知れない。
能力の器たる肉体の方が、寿命を迎えつつあるのだ。
脆弱な器を、いくらか強固なものに作り変える。研究者であれば当然の発想だ。
よろり、と伊武木は歩き出した。酒を飲んだわけでもないのに、足元が覚束ない。
そして、酒を飲まずにはいられない。
素面で出来そうな作業ではなかった。
「俺は……」
この場にいない父親に語りかけようとして、伊武木は口をつぐんだ。
俺は、あんたと同じ。
わざわざ口に出して呟く事でもなかった。

カテゴリー: 02フェイト, season8(小湊WR), 小湊拓也WR(フェイト編), 黒蝙蝠スザク |

Chase

ざわ、と木々がざわめいた。
それがあまり良いものではないと感じたフェイトは、作り物の髪を押さえつつ視線を上げる。
「!!」
宙を舞うものがあった。例のクリプティッドだろうか。動きが早くて目で追うのもやっとというほどだ。
だが、どこかで見たような、そんな気もする。
「フェイト!」
直ぐ側にいたクレイグが名を呼んだ。ほんの数秒、フェイトの意識は過去の記憶を巡った。
その僅かな隙に、宙を舞う『何か』がこちらへと移動してきたのだ。
銃を対象に向けるが、その動きは一瞬だけ遅く、残像のみが視界に残る。
マズイ、と思った次の瞬間、自分の体が地を離れたことに気がついた。
流れる景色は、数メートルほど後ろ。
何か起こったのか理解できずにいると、傍で知らない声がした。否、知ってはいるが正体の知れぬ相手の声であった。
「手荒ですまない」
「え……!?」
白金の毛並みが目に入る。
おおよそ、この場には不釣り合いなモノであった。
犬――違う、俗にいう人狼だとフェイトは咄嗟に判断した。
だが、それ以上を考える時間は与えられなかった。
「おい、ユウタ!」
「…………」
再びのクレイグの呼び声に、フェイトは応えることが出来なかった。
目の前の人狼に当て身をされたのだ。
そして彼は、その人狼に連れ去られてしまう。
ほぼ同時に、クリプティッドらしき影も移動を始めた。
反対側に飛んだその影を追うのは、クレイグだった。
個人的感情ではフェイトを優先させたかった。だが今は、あくまでも任務中なのだ。
僅かな舌打ちを空気の乗せながら、彼は未だ正体が明らかではない影を追跡するために、走り続けていた。

 

 

「……あれ」
意識がゆっくりと浮上した。
薄ぼんやりとした視界にあるのは、見覚えのない天井である。
「気がついたかい」
「!」
ビクリ、と体が震えた。
それでぼやけた意識も急激にクリアなものになり、自分の体がベッドの上で仰向けになっていると自覚して、視線を動かした。どこか知らない、ホテルの一室へと連れ込まれたようである。
その先にあったのは、バルトロメオの姿だ。
軽い混乱が脳内で起こった。
意識を失う前、動きの早い影を見た。その直後、自分の体は何者かに抱きかかえられた。
ヒトではないが二足歩行には変わらず、だが、到底ヒトには似つかない姿の……。
「人狼……あんた、なのか?」
「だとしたら、キミはどうするんだい」
バルトロメオは、フェイトの言葉に表情を変えずにそう返してきた。
幾度か見た、余裕の笑みであった。
そして彼は、大きなベッドの端に右の手のひらを押し当て、僅かに体重を掛けてみせる。
当然、スプリングが沈む音がした。
「……っ」
フェイトは女性の格好のままであったので、足先にある彼の手に条件反射が出てしまい、僅かに震えを生んだ。
それを見て笑うのは、バルトロメオだ。
「怯えているね。心配せずとも、無粋なことはしないよ。……ただひとつ、答えをもらおうか」
「な、何?」
「キミは先程の影を、知っているね?」
「!」
バルトロメオの問いに、フェイトは明らかに動揺して見せた。
咄嗟に平静を装うことすら出来なかった。
「……あんたは、あれに関係があるのか?」
『関わって』いるのか。
そういう意味合いの言葉を返す。
震えた声音に目を細めつつ、バルトロメオは「ふむ」と言って一度姿勢を正す。
そしてくるりと踵を返してから、腰を下ろしてきた。
フェイトはそんな彼の行動に、胸騒ぎを掻き立てる。足元が沈み込んで、思わず自分の足を曲げて距離を取った。
「キミは実に風変わりだ。でもとても……興味を惹かれる。不思議なものだ」
遠回しとも取れるバルトロメオ言葉に、フェイトはどう返事をしていいものかと思った。
否、そんな余裕すら無いようだ。
彼の中で膨れ上がる焦燥感と脈打つ鼓動は、何の信号なのだろうか。
「――ああ、そうだ。キミの持っていた銃、勝手で悪いとは思ったけれど、調べさせてもらったよ。登録番号がボクの知る組織のモノでね」
「ッ!」
緊張が走る。
フェイトは素直に瞠目して、身構えた。
目の前の存在は、やはり『そちら側』の人間なのか。
「改めて聞こう。キミはあの異形を、知っているね」
再びの問いにフェイトが唇を開くのは、それから数十秒経ってからであった。

 

 

通信機は、切られたままだ。
移動しながら何度か通信を試みたが、反応はない。
通信相手であるフェイトの意識が落ちたままか、それとも彼を連れ去った本人――バルトロメオが意図的に切ったか。
「くそ、あいつ……ユウタに何かしてたらタダじゃおかねぇぞ!」
素直な感情を吐露しつつ走っているのは、影を追い続けているクレイグであった。
目を逸らしてしまえば、一瞬で見失ってしまうような動きのそれに、既視感がある。
数ヶ月前に、とある大きな研究施設を制圧した。
その場にいた強化人間と、動きがよく似ていたのだ。
「……よろしくねぇな」
そのよく似たものは、おそらく出処は同じなのだろうと彼は思う。
被験体の身体能力を無理矢理に引き出す『筋肉強化剤』は、特定の組織が作り出したものだ。
「要するに……俺らが抑えたのはほんの一握りって事か」
ぼそりと独り言を吐いた後、クレイグは足を止めて腕を上げた。そして手にしたままであった拳銃を宙に向けて、躊躇いもなく撃つ。予めサイレンサーを装着していたので、発砲音は極々抑えられたものであった。
移動を続ける影が、建物の壁の向うに消える数秒前。
クレイグが放った銃弾はその端を微かに捕えて、消えた。
彼は目だけでそれを確認してから、小さな端末を取り出して画面に視線を移動させた。赤い小さな丸印が、点滅しつつ移動している。先ほど撃ったものは実は発信機であり、端末はその行方を追うもののようであった。
「――こちらナイトウォーカー。目的変更。ただのクリプティッド事件じゃなさそうだ」
耳に手をやりながら、通信を取る。宛先は本部なのだろう。
「発信機をつけてある。データも送信してあるから、場所の特定を頼みたい。……ああ、頼む」
それだけを伝えると、彼はまた通信回路を変更してフェイトへと繋ぎ直した。
「フェイト、応答しろ」
電子音はするが、やはり反応はない。
思わず、表情が歪んだ。
それを誤魔化すために、クレイグは懐から取り出した煙草を口に咥えて、火を灯す。
ゆっくりと息を吸い込んで、同じように紫煙を吐き零した。
「あー……、そういや俺たち、休暇中だったんだよなぁ」
脱力したかのように壁に背を預けて、そんな独り言を漏らすと、小さく自嘲する。
車で移動中に緊急任務の通信が入り、そのまま行動が任務へと移ってしまった。同行していたフェイトは女装して囮作戦を決行させて、そのままの格好で連れ去られた状態だ。
「…………」
クレイグはフェイトを連れ去った人物の変貌を、目の当たりにしていた。
自分と対峙していたはずのバルトロメオが、チラリと視線を僅かに動かした直後にはその場から姿を消していた。視る能力が高いクレイグであってもギリギリと言っていいほどの速さで、『彼』はその身を変容させていた。
――狼に。
「つーかありゃ、ライカンスロープだな」
ふぅ、と再び紫煙を吐き零しつつ、そう呟く。
一般的に『狼男』や『人狼』などと呼ばれ知られる存在。
最初は影と同じ部類かとも疑ったが、彼の動きには無駄がなかった。抵抗もなく動けるということは天性から来るものだと考えて、クレイグは益々眉根を寄せる。
味方なのか、それとも新たなる敵か。
まだ、判断をつけられない。
そこまでの思考に繋げた所で、耳元に電子音が走った。
「……っ、ユウタ?」
ジジ、と音がしたが、返答はない。
だが回線が生きていると判断したクレイグは、背を預けていた壁から離れて歩き出した。
そして先程とは別の端末を取り出して、画面を見る。
どうやら、それは通信機を通して居場所を特定出来るものらしい。
一つ、大きな通りを挟んだ先にある高級ホテル。
そこに、緑の光がチカチカと瞬いている。その点滅が動く様子はない。つまりは、その場に居続けているということだ。
まるで、ここまで来いと言われているかのような感覚であった。
フェイトから発したものか、それともバルトロメオがそうしたのかは解らないが、何となく後者だろうと当たりをつけてクレイグは走りだす。
「挑発かよ……くそっ」
そんな言葉が漏れた。
任務で個別に行動する事は茶飯事であったし、慣れている。私情を挟むことなど以ての外でもあったし、クレイグ自身も割り切れていると思っていた。
だが、実際。
今の現状は何なのだ、と心で呟いてみる。
フェイトが自分の隣に居ない。
たったそれだけの事で、こんなにもざわざわとする。心が酷く掻き乱されていると自覚する。
「おいおい……この俺が嫉妬かよ」
まるで誤魔化すかのようにして、独り言が漏れた。
恋愛経験など数多と積んできたはずなのに、ここに来て一人の存在に打ちのめされている。
それを再確認させられているような気がして、益々内心がざわついた。
フェイト本人にそれを自覚させられるのであれば、まだ良かったのだ。
そんなモヤモヤとした思考を繰り広げていると、目的のホテルに辿り着いていた。そして彼は躊躇いもなくドアマンが開く入り口をくぐり抜けてフロントへと駆け寄り、荒い息を吐きながらバルトロメオの名をカウンターの向こうにいる女性へと発した。
身なりの整った女性は「少々お待ちください」と言って取り次いでくれていた。内線を使い連絡を取ると、「23階、211号室へどうぞ」とエレベーターの方角へと手を差し伸べつつの返事をくれた。
軽い礼をしてクレイグは移動を再開させた。
いつもであれば、女性にウィンクの一つでも飛ばせたはずだったが、今日はそれが見られない。それほど、今の彼には余裕が無いのかもしれない。
高速で、かつ滑らかな動きをするエレベーターに乗って、数秒後。
目的の階に着いた彼は、号室の案内をチラリと見た後、矢印の先へと足早に進んだ。
211号室。その扉の前に立ち、クレイグは銃を片手に開いている方の手を上げ、室内にいる人物を呼ぶためのインターフォンを押す。アンティークゴールドのフレームの中心に添えられたボタン式のそれは、妙に重かった。
「――やぁ、やっと辿り着いたのかい。遅かったじゃないか」
数秒置いた後、開かれた扉の向こうからはそんな明るい声が響いてきた。
クレイグはその声の主の額に自分の銃口を静かに当てて、低い声を発する。
「フェイトを解放しろ」
「いきなり物騒すぎじゃないかい。……心配しなくとも、彼なら奥にいる。本来ならキミなど迎え入れたくもないのだが、事情が事情だ。入りたまえ」
「…………」
バルトロメオの言葉は半分くらいで耳に留めて、招かれた室内へと歩みを進めた。
ふわふわとした高級な絨毯が敷き詰められた足元は、妙に落ち着かない。そんなことを思いながら辿り着いた先には、フェイトの姿があった。
「……ナイト、来てくれたんだね」
「フェイト」
ベッドメイキングされた状態の上で座り込んでいる姿を見て、まずは安堵した。これが乱れでもしていたらとても穏やかな気持ちではいられなかっただろう。
おそらくは連れ去った当時が気を失っていた状態だったので、運んだ先がベッドの上だったという理由なのだろうが、どうにも納得がいかない。女装のままでもあったからだ。
歩みを進めて、フェイトの頬に触れる。
「どこも怪我してねぇな?」
「うん、大丈夫」
フェイトはいつもどおりであった。
若干、疲れているようにも見えたが、色々と起こった中であるしそれは理解の範疇でもある。
取り敢えずの無事を確認できたクレイグは、自分の身をフェイトに寄せて額に唇を寄せた。
フェイトはそれに驚いてはいたが、拒絶をせずに受け入れている。
「全くキミたちは、遠慮という言葉を知らないのかな」
やれやれと肩を竦めつつ、バルトロメオが背後でそう言った。
それに過剰反応して再び銃を向けようとするのは、クレイグだ。
だが、それを止めたのがフェイトであった。
「……フェイト?」
添えられた手に、クレイグは表情を歪めて名を呼んだ。
すると側に居るフェイトが緩く首を振る。
「ナイト、彼は味方だよ」
「何言ってやがる。こいつはお前を攫ったんだぞ」
「それでも、銃を向けたら駄目だ。彼は、バルトロメオさんは俺達と同じ……IO2なんだよ」
「はぁ?」
フェイトの言葉はクレイグにとっては予想外すぎる響きであった。
俄に信じがたい、という表情が浮かび上がっている。そして、思わず本音が唇から零れ落ちる。
「イタリアに支部なんかあったかよ?」
「やれやれ、キミはいつでも失礼な男だな。……まぁ、いいだろう。ボクは正真正銘、IO2のエージェントだ。ここにそれを証明する手帳もある」
バルトロメオが差し出したものは、本部から発行されている写真とバッジが一緒になっている手帳であった。所謂、警察手帳のようなものだ。もちろん、フェイトやクレイグにも支給されているものである。
それをまじまじと見て、クレイグは大きくため息を吐き零した。
どうやら、間違いなどでは無いらしい。
「……俺達は、ここで起こってるクリプティッド事件を追って来た。アンタの目的も同じなのか」
「そうなるのかな。どちらかと言うと本来は観光が目的でもあったんだがね」
「昼間に言ってた『旅行』ってのは、嘘じゃなかったってわけか……」
がしがし、と頭を掻きつつ言葉を続ける。
フェイトに近寄った際にベッドに腰を下ろしていたのだが、そこで姿勢も崩して背中が丸くなった。
ようやく、緊張の糸が解れたといった所か。
「取り敢えず、俺が追ってたアレは問題が有り過ぎる。本部にも既に連絡済みだし、アンタは……」
「ここまで踏み込んでしまったんだ。今更、無かったことにしてくれとは言わないでくれよ」
クレイグの言葉を制してきたバルトロメオの声音には、強い決意のようなものがあるように思えた。
巻き込まれたというよりは自分から飛び込んだのだ。何かしらのプライドがあるのかもしれない。
フェイトとクレイグは互いに顔を見合わせた。双方困り顔であったが、やはりどうしようもない。同じエージェントである限りは記憶操作も通用しないだろうし、それ以前に行動を起こす前に本人に阻止されてしまうだろう。
「気は進まねぇけど、協力体制を組むしか無さそうだな」
はぁ、とまた長い溜息を吐きつつ、クレイグはそう言った。
そして顔を上げると、バルトロメオもフェイトもこちらへと視線を向けてきた。
「そろそろ本部から折り返しの連絡が来るはずだ。まずはさっきの影の行き先を突き止めるのが優先事項だろうな。……簡単には行かねぇだろうけど」
「ふむ。なかなか深刻な内容のようだ」
続けてのクレイグの言葉にバルトロメオが反応したあと、通信機には本部からと思わしき伝達が届く。
クレイグとフェイトはそれぞれに耳に手をやり、新たな指示を受け止めるのだった。

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ピノキオ、あるいはフランケンシュタイン

被害が最も甚大であった、オレゴン州のとある町。
今は、ほとんど廃墟である。住んでいる人間が全くいないわけではないから、辛うじて町とは呼べるか。
チュトサインに踏み潰され、復興がほとんど進んでいない地域の1つである。
そんな場所でも、子供たちは元気に走り回っていた。
「助けて! 助けてー!」
元気、と言うより必死だ。
黒人の、女の子と男の子。女の子の方が、いくらか年上のようである。
姉弟であろう。姉が、弟の手を引いている。
泣き叫びながら逃げ惑う、幼い黒人の姉弟。
2人は、追われていた。警官を満載した、1台のパトカーにだ。
男の子が、転んだ。
女の子が、弟を助け起こそうとして身を屈める。
2人を足元に庇う格好で、その少女はふわりと立ち止まった。
東洋人である。
ほっそりと優美な、いささか起伏に乏しい身体を、緑色のワンピースに包んでいる。そんな細身に、艶やかな黒髪がサラリとまとわりつく。
端麗な顔立ちは少しだけ、微笑みの形に歪んでいるようだ。
真紅に輝く左右の瞳が、迫り来るパトカーをじっと見据えている。
東洋人の美少女と、幼い黒人の姉弟。3人をまとめて轢き殺す、寸前でパトカーは止まった。
「ほう……こいつは、こいつは」
警官たちが降りて来た。
4人。全員が、白人の男である。
「チャイニーズか? コリアン? それとも」
「ジャパニーズ・ヤマトナデシコ? こいつぁたまんねえなあ」
品性のかけらもない笑みを浮かべながら、警官たちが歩み迫って来る。
少女は、とりあえず訊いてみた。
「……この子たちを、どうするつもりだったの?」
「知りてえか、なら教えてやるよ。おめえの身体になあ」
警官の1人が、そんな事を言いながら、制服のズボンを脱いでいる。
「色付きのメスガキどもぁなああ、俺たちのコイツを咥え込んで鳴いてりゃいいんだよ犬みてえによォ」
少女は応えず、白い細腕をヒュッ……と跳ね上げた。
警官の下腹部で、丸出しになったものが弾けて潰れ、飛び散った。
表記不可能な悲鳴を発しながら、その警官は倒れ込み、のたうち回り、絶命してゆく。
「てめえ……!」
他3名の警官が、拳銃を構えた。
拳銃を握る彼らの手が、ひしゃげた。
血まみれの拳銃が、高々と宙を舞う。
「このアメリカは、侵略で作られた国……貴方たちの遺伝子には、侵略者の本性が眠っている。こういう状況だと、露わになるのよね」
右手に握ったものを海蛇の如く揺らめかせながら、少女は微笑んだ。
長大な、鞭である。
打ち据えられ叩き潰された右手を押さえながら、警官3名が悲鳴を上げて尻餅をつき、あるいは倒れて転げ回る。
彼らに、少女は優しく言葉をかけた。
「軽蔑しているわけではないのよ? 貴方たち白色人種には、むしろ感謝しているわ。侵略と殺戮の歴史を綴りながら、地球上に差別と戦争と貧困の種を蒔き続けてくれて……本当に、ありがとう。虚無の境界としては、とてもやり易いのよね」
言葉と共に、たおやかな右手を跳ね上げ、鞭を振るう。
警官たちを見つめる真紅の両眼が、淡く輝く。
念動力が、鞭に流れ込んで行く。
半ば肉体的技量、半ば念動力で操られた鞭が、音速を超えながら宙を切り裂き、警官3名を薙ぎ払った。
3人が、吹っ飛んで倒れ、動かなくなった。全員、首がおかしな方向に伸びている。
少女は、東洋人らしい平坦な美貌を少しだけ顰めた。
今日はいささか調子が悪い。調子の良い時は、人間の首の3つか4つは綺麗に刎ねてやれるのだが。
こんなふうに念動力を武器に流し込んで戦う少女が、あと2人いた。1人は、金属の杖を得物としていた。
念動力を宿した棒術で、石柱さえも粉砕する、豪快な戦いを得意としていたその少女が、死んだ。
死んだ、と言っていいだろう。植え付けられていた魂を粉砕され、人形に戻ってしまったのだ。
「そう……あの子、死んでしまったのよね」
レディ・エム。
3人まとめて、そのように呼ばれている。
3人のレディ・エムの、1人が倒された。
だからと言って、他2人が行うべき事に変更が生ずるわけではない。
幼い黒人の姉弟が、可愛らしく恭しく跪いて少女を見上げ、両手を合わせている。
イエス・キリストではなく、レディ・エムを礼拝している。
「おやめなさい。私は、神でもなければ救世主でもないのよ」
レディ・エムは細身を屈め、子供たちと目の高さを合わせた。
「あなたたちと同じ、小さな人間……だから、共に歩んで行きましょう。大いなる霊的進化への道を」

 

 

「そう……あの子、死んでしまったのね」
呟いてから、レディ・エムはふと思った。
あの子、とは一体誰の事なのか。
3人いるレディ・エムの誰か1人を『あの子』などと呼び、他者として認識する。そんな事は、今までなかった。
3人、全てが自分であった。
3人いた自分の1人が、失われた。そこでレディ・エムは気付いたのだ。
失われた1人は、自分などではない。他者という、独立した存在であったのだ。
(あの子は、私とは違う……私も、あの子たちとは違う……)
今まで抱いた事のない思いが、少女の胸中で渦巻いた。
「……私は……誰……?」
呟きながら、レディ・エムは目を閉じた。
そのような疑問など、どうでも良くなってしまうほどの陶酔感が、全身を心地良く麻痺させている。
天にも昇るような、という表現がある。それに最も近い状態ではないか。
単なる比喩ではない。聴く者を、物理的にも昇天させてしまいかねない力が、この歌にはある。
1人の少年が、舞台の上で美声を披露していた。
聖母を讃える内容の歌が、会場に集まった人々を、昇天寸前の状態に至らせている。
隣の席では、身なりの良い富裕層の老人が、幸せそうに微笑みながら涙を流している。今にも往生を遂げてしまいそうだ。
満席であった。チケットは、1日で完売したという。
広い会場の全席を満たす客たち全員が、目覚めの来ない安楽の眠りに陥ってしまいそうである。
陥ってしまわぬよう、舞台上の少年は懸命に力を制御している。
音楽の都ウィーン。
レディ・エムがここを訪れた目的は、この少年である。神童、楽聖と呼ばれる、世界的な天才ボーイソプラノ。
そして、欧州経済界の要の1人とも言える銀行家。
虚無の境界が欧州で行っていた、とある研究への金の流れを、見事に断ち切ってくれた人物でもある。
排除するか、味方に引き入れるか、それを決めるためにレディ・エムはウィーンを訪れた。
挨拶代わりにチケットを入手し、こうして歌を聴いている。
甘く見ていた事を、レディ・エムは認めざるを得なかった。
うっすらと、目を開いてみる。
少年が、歌で聖母を讃えながら、こちらを見ていた。
茶色の瞳が、炎にも似た眼光を宿している。
その瞳が、じっとレディ・エムに向けられている。
気付いているのだ。この楽聖は。
虚無の境界が日本で、ある1人の若者を付け狙っている。
その若者が、この楽聖にとっていかなる存在であるのか、一応の調べはついている。
(……私を……殺すの?)
レディ・エムは、真紅の瞳で見つめ返した。眼差しで、問いかけた。
この少年が、力を解放して歌えば、一体どれほどの事が起こるのか。
会場を満たす客たちは全員、目覚めの来ない眠りに就く事になるだろう。
自分はどうか、とレディ・エムは考えた。魂を植え付けられた分身に過ぎない身で、その力に対抗する事は出来るのか。
良くて相討ち。また1人のレディ・エムが、消えてしまう事になる。
残る1人は今、アメリカにいる。災害からの復興が思うように進まぬ大国を、虚無の境界に取り込むべく、暗躍している最中である。
1人はアメリカ、1人はアジア、1人は欧州。そんなふうに分かれてしまった。
虚無の境界の勢力伸張が、最も順調に進んでいるのがアメリカ。最も苦戦を強いられているのがアジア、と言うか日本においてである。
かの『東京怪談の国』と比べて幾分は与し易しと思われた欧州にも、しかしこの少年がいる。
安らかな滅びの力を有する楽聖。
その力を制御しながら、少年はレディ・エムから視線を外し、何事もなく歌い続けている。
今は何も考えず、この歌を堪能する時であろう、とレディ・エムは思う事にした。
(いいわ。ウィーンには、ただ観光に来た……という事にしておきましょう)

カテゴリー: 02フェイト, season8(小湊WR), 小湊拓也WR(フェイト編) |

銃弾の行方を

事態の発生を誰が正しく把握していたかと問われれば、恐らく誰しも把握はし切れていない筈だ。IO2と雖も、気が付いた時には既に手遅れと呼べる状況にまで事件は悪化していた。
東京都にはそれなり以上の規模があるIO2の支部が置かれているが、その支部を以てして「お手上げ」だった。
事件について判明していることは一つ。現在時間軸への、別時間軸からの干渉。それによる、現在時間軸の崩壊が始まっている、とだけ。対処をしろと命じら れて、さて何から手を付けたらいいのか。とかく突然現れる物体や、前後の脈絡なく始まる事件や、そうした諸事に追われて支部は上から下までてんてこまいと いう有り様である。
そんな中で、”フェイト”のコードネームを持つ青年が血相を変えて廊下を駆けだしたとして、果たして誰が気に留めただろう。
彼は知っていた。この事態の中心になっている人物が誰なのか。何をしでかしたのか。
そして、待っていた。
その人物からの連絡があるのを、じっと。
彼の情報端末には、メッセージが一文だけ送られてきていた。感情を窺わせないそれはただ住所だけを記載したもので、けれども差出人の名前を見れば確信は容易だ。
差出人の名前は、藤代響名。
――IO2が未だ全容を把握していないこの現在時間軸の崩壊、その一端を担う主犯の女性の、それだ。
だが、”フェイト”はそれを周りの誰にも告げない。否、今は工藤勇太と。本名で呼ぶべきだろう。
彼は一直線に、ある建物へと駆け込んだ。雑居ビルを改装した、古びたそれは、錬金術師の工房となっている。工房の主である男と、仕事上の相棒であり義弟でもある青年が二人、飛び込んできた勇太にそれぞれ視線を向けた。
「お前さんとこにも行ったか、連絡」
告げたのは男。藤代鈴生。響名の夫であり、工房の主たる錬金術師だ。片目を覆った眼帯に手を触れて彼は言い、
「…ヒビ…」
複雑そうにその名を口にしたのは青年の方。東雲名鳴。見た目は全く似ていないが、連絡主であり、事件の主犯である「藤代響名」の双子の弟。
三者は視線を見交わし合った。やがて嘆息をしたのは、鈴生である。
「…止めてやるか」
「そうですね――このままだと、この時間軸に致命的な影響が出ます」
IO2も恐れている事態だし、個人的に、勇太もまたそれを恐れていた。タイムパラドックスの発生。それによって何が起きるかは、誰にも分からない。誰も気づかぬうちに「今」が変わってしまうのか。或いは。
「下手すると世界が滅ぶよなぁ」
呑気な口調でとんでもないことを口にしたのは鈴生で、名鳴が隣で深々と溜息をつく。
「我が妹ながら何てもん作りやがる」
「さすが俺の愛弟子だ」
「言ってる場合ですか…」
呆れて言いつつ、勇太は肩から力が抜けるのを感じる。世界がどうこう、なんて深刻な事態を、ここに居る二人は恐らくそんな風に真剣には考えてはいまい。 そんなことよりも、自分の双子の片割れが、最愛の女性が、間違った道へ進もうとしているのを、当たり前に叱りに行こうとでもするかのような気軽さで。
二人を見ながら勇太は、ここに至るまでのことを、改めて冷静に思い返していた。

 

 

――あいつの作ったモノはな。ルンペルシュテルツキン。
――”今、ここでは無い場所”への干渉を可能にする魔道具、人造の悪魔だ。

 

 

IO2嫌いの錬金術師と名高い鈴生にどういう訳か気に入られた勇太は、何度か彼らと遭遇するうち、鈴生の妻であり、名鳴の妹でもある女性――藤代響名が 何を作り、何を目指したのかを既に聞き知っている。この事態の中心となる彼女は、「過去を無かったことにすることが出来る」、時間に干渉することの可能な 魔道具を作成してしまったのだ。
予兆はあった。起きたはずの事件が消えてしまう、あったはずの物がなくなる、あるはずの無い物が出現する。些細な事件はIO2でも把握はしていたのだ。 それら全てがまさか、「時間への干渉」という大規模な影響を有する魔道具の起こしている現象の余波だなどとは、思いもしない。
事情を説明された勇太だけが、IO2の中でただ一人、それを把握していたが、彼は周囲には何も告げなかった。その事実を打ち明けてくれた鈴生が、”フェイト”ではなく「工藤勇太」という一個人を常に尊重していたから、その敬意に彼もまた報いたいと考えたからだった。

 

 

さて、現状、「現在時間軸」への影響がIO2でも把握できる程の規模になりつつある中、勇太がこのビルへやって来たのは理由があった。「ルンペルシュテ ルツキン」、かの魔道具は現在「未完成」なのだと言う。そして、未完成であるが故に、その魔道具は不安定なのだとも。暴走しかけているのだと、錬金術師で ある鈴生はそう推測していた。
「そろそろあいつもじれて、無茶してでも『完成』させようとするだろうなァ」
彼は酷く軽い調子でそう告げたが、勇太はその言葉に背筋をこわばらせる。
「ルンペルシュテルツキン」の完成に必要な最後のパーツについても、彼は聞き知っていた。藤代鈴生。響名の夫である彼の、残されたもう一つの眼球が、最後のパーツだ。それを、響名は奪おうとしている。
響名の名前で通知された住所を、通知されたメッセージを、勇太は改めて掌の情報端末に写しこんで見直す。ただ場所だけを告げるそれが、勇太だけではなく鈴生と名鳴にも知らされたのであれば、その意図は明らかだった。

 

 

強く吹く風は彼の短い髪を嬲った。雑居ビルの屋上で、近付き始めた低気圧に晒されて曇天は重苦しい。
「我が嫁にしちゃぁ、洒落た場所を選んだもんだ」
煙草を燻らせる男は言って、右眼を覆う眼帯に触れる。その下の眼窩は、かつて悪魔に奪われた名残だけを押し留めている。
その「悪魔」が、彼らの見据える場所に居る筈だった。建設途中で放置された公営の体育館。その巨大な空洞の中に。否、本来その建物は既に、完成している筈だったのだ。にも拘らず、今この時間軸に、建設途中の姿で現れ、放置されている。
(時間が)
――”フェイト”というコードネームで呼ばれる青年には、知覚が出来ていた。
時間が歪んで、その影響が現在時間軸に、最早見える形で表れ始めている。
それも全て、彼らの目指す「悪魔」、否、錬金術の産物である人造悪魔。「ルンペルシュテルツキン」の仕業であることを、彼らだけが把握していた。
「さて、じゃ、行くか」
「え、スズも来るのかよ」
「俺は無茶しない程度に頑張るさ。ああ、勇太」
鈴生は錬金術師だ。身体能力には全く期待できない。その彼は、不意に、勇太を呼んだ。何ですか、と顔を向けると、放り投げられたのは色眼鏡だった。勇太は”フェイト”として、IO2のエージェントとして行動する時にはサングラスをつけているが、それと似ている。
「…ええと?」
意図は読めないが、彼がこの場面で寄越すからには、彼の作った「魔道具」であろう。そう考えて問えば、はぁ、と嘆息して、鈴生は渋々と言った様子で解説をしてくれた。
「俺の作るもんの特性は知ってるな」
「『絶大な効果を得られる代わり、致命かつ非可逆の代償を要求する』ですよね」
運命の逆転、時間遡行、死者の蘇生すら可能とするが、代わりに苛烈な代償を要求するのが彼の作る道具の特性だ。それは「呪い」と言い換えても良い。かつ て、右眼を悪魔に奪われた時、彼が得た呪い。本来であれば、彼の道具にはもっと異なる特性が発現するはずだったのだと言う。
「これ、代償は何ですか」
先にデメリットを確認したのは、その彼の特性を知るが故であった。
「すまん。ぶっちゃけると俺にも何が奪われるか分からん」
ぞっとして、勇太は手渡された眼鏡を見下ろす。――代償が何か、分からない。
「『ここではない時間軸の可能性』を代償にするんだ。未来か、過去かも分からんが。お前さんが持っていたかもしれない、あるいはこれから身に着けるかもしれない可能性、能力、才能。その中のどれかが犠牲になる」
「…可能性…?」
「ルンペルシュテルツキンに対抗する道具の代償としちゃ、皮肉だな。あれも元ネタの物語じゃ、『未来の可能性を代償にする』悪魔だから」
呟いて彼は、だから使うかどうかはお前の判断に任せる、と苦笑した。その苦笑を見、生唾を飲みこんで、それだけの危険性のある魔道具を勇太に託した彼の 内心を思う。軽薄そうな言動ばかりの男性だが、決して不誠実ではない。それがこうも不確かな代物を寄越してくると言うのは、相応以上の覚悟があるのだろ う。
「――得られる効果は?」
にい、と、その瞬間にそれでも鈴生が笑ったのは。
彼が錬金術師であり、己が作る道具への矜持が、呪いを得てさえ微塵も損なわれていないが故のものだった。

 

 

建物の内部は不気味な程に静まり返っている。びゅうびゅうと、吹き抜ける風だけが物悲しげな音を立てていた。見上げた先、勇太は人影を見とめて、眉を下げた。
視線の先、くみ上げた鉄骨の上に危なげもなく立つ女性が一人。――血筋の故に身体能力は並の人間よりは高いのだと、彼は知っている。藤代響名。旧姓、東雲響名。
「…意外。IO2の連中連れて来ると思ったんだけど」
その彼女の方も勇太を認識した様子だった。呟きは風の音にも紛れずにしっかりと勇太の耳にも通る。彼は見上げた先の女性に、苦笑を投げた。
「俺、そんなことしそうに見えた?」
「クソ真面目なタイプだからなぁ」
「…それを期待されてたのなら、期待に沿えなくてごめん、っていう所かな」
言いつつ、勇太はじりじりと位置を変える。隣に居た名鳴が嘆息した。
「お前、勇太にまで住所を送ったの、その辺期待してやったのか」
彼女は――苦笑した様子だった。
「…ううん。自分でもよく分かんないや。メイ、分かる?」
「お前に分かんないことが俺に分かるかよ」
「双子なのにねぇ」
「双子に何を期待してるんだお前は馬鹿か。…あーもう、さっさと馬鹿な真似は終わりにして家に帰るぞ馬鹿ヒビ。スズがどんだけ心配してると思ってんだ」
「そのスズさんは何処なのよ。あの人の眼、分捕りに来た積りなんだけど」
いっそ軽薄な程の調子で言われて、勇太の方が言葉を呑んだ。名鳴は、彼もまた良く似た軽い調子で肩を竦めるだけだ。
「あいつと素手で喧嘩したらまず間違いなくお前が勝つだろ。ハンデだ」
何よそれ、と彼女が口を尖らせる。が、名鳴の方は彼女の応え等聞いてはいなかったようだ。その言葉を残して、彼の姿が掻き消える。消えた、ように見え た。実際には床に、彼がそこを蹴りつけた痕跡が残っていたから、人ならざる身体能力を持つ彼が、人ではありえない勢いで踏み込んだのだと知れる。彼がそう 判断する間にも、頭上で幾重にも鈴を重ねて鳴らすような音が響いて、次の瞬間には名鳴の身体が弾かれ、床に叩きつけられるかと見えたが、寸でで彼は受け身 をとって転がる。見上げた先、骨組だけの鉄の上に立つ響名の周囲には何も見えない。否。既に「それ」は別の場所へ移動している。名鳴が反射だけで転がり、 床を連続して目に見えぬ何かが穿ち、コンクリートが細かく噛み砕かれていく。何か巨大なものが、床を破砕しているように見えた。「それ」の正体が目には見 えない事だけが異様であった。
勇太の――テレパスである彼の感覚にも「それ」の正体はわからない。ということは、あれは。
(感情を持たないもの。魔道具の仕業!)
断じて、彼もまた破砕の咢が迫るのを飛びのき、かわす。そのまま睨みあげた先、響名に向けて銃を向けたが、
「無駄よ」
彼女の宣言の通り、鉛弾――それもIO2謹製、対霊・対魔術特化型の術が施されたもの――が呆気なく彼女の眼前で弾かれる。響名は左手を翳し、面白くなさそうな表情で告げた。
「…スズさんの。師匠の指輪が、あたしを護ってる。24次元分の圧縮世界の防壁。それを突破するだけの何かが無いと無駄よ」
その左手、薬指に輝くものに、勇太は心当たりがあった。在り過ぎる程に。
(――結婚指輪!)
藤代鈴生の持っていたそれとよく似たデザインの、シンプルな指輪。だとすると効果は。
(…藤代さんの持ってた方は確か『一度だけ全攻撃を、発生まで遡って無効化』だったよな)
だが、響名のそれは攻撃を受けても傷付く気配もない。事実先程一度、名鳴の攻撃を弾いたのはそれの効果であろう。それに、
(あれが藤代さんの作ったモノだとしたら)
強力すぎる効果と引き換えに苛烈な代償を要求されるはずだ。
問うような勇太の視線に気づいたのだろう。響名は、その場に余裕綽々、と言った様子で、しかし矢張り表情は面白くなさそうなままで腰をおろし、足を揺らし、
「代償が気になってる、って顔ね? 教えてあげよっか。代償はね」
しかし言葉を喰うように、名鳴が再び、鉄骨を足場に彼女の背後に迫っていた。攻撃が無駄に終わることを察していてか、今度はただ、そこに立つだけだ。

 

 

「勇太は知らないんだな。俺が教えてやるよ。…代償はな、『藤代鈴生を愛し続ける事』だ」

 

 

――瞬間。
勇太は呆気にとられた。もっと苛烈な代償を想像していたのだが、それはあまりにも。あまりにも。
だが、浮かんだ感情を手繰るだけの猶予など与えては貰えない。再び迫ってきた「気配」に、勇太は再び転がり、回避を選択した。攻撃対象が認識できない上 に、何が起きているのかが分からない。彼の見る視線の先、砕けたと思ったコンクリートが、まるで動画を逆回しするかのように「復元」しているのも見える。 壊れて、再生して、それを繰り返しているのだ。
「…『ルンペルシュテルツキン』…?」
まさか、今眼前にあるモノがそうなのか。
勇太の告げた名前にまるで呼応したかのように――モデルとなった物語の悪魔の性質を考えれば、それはあながち外れてもいないだろう――破壊の中心に、薄らと人影が浮かび上がる。輪郭は細く、上背の高い。男女のどちらともつかない体躯に、長い黒髪。そして。
――右側だけの眼球と、何もない左の眼窩に、勇太は声を呑んだ。あれは。あれが。
(藤代さんが、『過去において』奪われた眼球…)
そして今という時間軸において、残った眼球をこの悪魔は奪おうとしている。
「響名さん、それが本当に、あなたの願いなのか!!」
思わず、だった。勇太は叫んでいた。響名が、彼をじっと見下ろす視線を感じて更に。
「彼を傷付けるのが、あなたの」
「違うわ!」
反発は思いの外に強い。言葉を遮られ、勇太は目を瞠る。見守る先、響名が震えているように見えたのは強い風の故の錯覚だろうか。
「あの人のためよ」
立ち上がり、彼女がじっと勇太を見据える。
「…あの人の過去を変える。あの人の特性が『生贄』になった契機を。過去において『悪魔に眼球を奪われた』という事実を――あたしが作ってしまった『ルンペルシュテルツキン』を、完成させることで、『無かったことにする』」
勇太は、思わず後ずさった。支離滅裂だ。
藤代鈴生が過去に眼球を奪われたのは、今まさに勇太の目の前に顕現しようとしている「ルンペルシュテルツキン」の仕業だ。
その過去を否定する為に。
彼の眼球が奪われ、能力が歪んだその事実を否定する為に。
(そのために今の藤代さんの眼球を奪って、ルンペルシュテルツキンを完成させる…完成させて願うことが、『ルンペルシュテルツキンを生み出したことそのものの否定』…?)
響名は狂っているのではないか。そう思ったのだが、彼の見遣る先、狂気に近い程強い感情はあっても、怒りとも苛立ちともつかぬ感情に覆われたその顔には紛うことなき理性がある。
「…ヒビ、お前、自分が無茶苦茶言ってる自覚はあるのか?」
名鳴も同様の感想を得たのだろう。彼が問えば、響名は顔を覆った。
「自覚はある。でも、そもそもあたしがこんなものを作りさえしなければ良かったのよ!!」
だから。
「だからせめて、完成させる。完成させたうえで、何もかも否定するわ!」
「それは駄目だ」
改めて確信を得た勇太は、先のそれより幾らか落ち着いた声でその言葉を否定することが出来た。眼前、顕現したルンペルシュテルツキンの方を睨む。
「――俺だって、後悔している過去なんて山ほどある」
口には出さないが、IO2に入ってからその手にかけた人間だって、居た。決して誰も傷付けずに生きてきた訳ではないし、むしろ得てしまった能力ゆえに他人を傷つけた事なんて幾らもある。その中には、今なお傷を残す人も居る。
自分のせいで、愛する人が傷付いてしまった、その過去を変えたい。響名の願いは痛い程に分かる。
だが、だからこそ。
「…俺はあなたを否定するよ」
ルンペルシュテルツキンを破壊する。
勇太は銃口を、その悪魔へと向けた。

 

 

工藤勇太は、”フェイト”は、決して順風満帆の人生を歩んだとは言い難い。過去においては実験体とされ、望まぬ能力を得、長じては能力に振り回されるこ とも多々あった。得た力を誰かを守る為に使いたいとIO2に属してからも、組織の性質上、決して綺麗な事ばかりではなかった。
それでも彼は、自分が「今」「ここ」にある事だけは、後悔も否定も、する積りは微塵もない。
過去を乗り越えてきた。その痛みを超えて今があるのだから。

 

 

銃弾は届かない。相手はそもそも「時間を自在に移動する」存在なのだから至極当然であろう。銃弾が届いたと思った刹那には、悪魔の気配は背後へ移動して いる。だが、勇太はそのまま、振り返りもせずに銃口を背後へ向けて撃ちぬく。それもまた、届かない。背後で跳弾の音だけが響いた。
(やっぱり、無理か)
時間という、超え難い壁が厳然として存在している以上は。
「無駄よ。それは時間を超えられるモノなのよ。人間の認識能力で――『現在』という点でしか時間を把握できない認識で、干渉なんて出来ないわよ」
それでも勇太は銃撃を続ける。全ての銃弾を吐き出しきっても尚、人造の悪魔の姿は揺るがない。唯一、名前を呼んだことによってその場に存在が確定していたため、「何処に居るのか」だけは視認が出来たが、それだけだ。
だが。
勇太は息をひとつ落としただけだった。念動力も及ばず、相手は無機物――人型を象っているが――なのでテレパスの影響も覚束ない。彼に出来るのは、後は。

 

 

(…代償が何になるのかは、不確定、か)

 

 

それだけが引っ掛かりはしたが、勇太は懐から取り出した眼鏡をかける。
――この選択をもまた、何れ後悔するのかもしれず。
それでも「今」「ここ」においては、それを最善だと信じて。
そして彼はリボルバーの銃弾を、念動力でもって一息に入れ替える。細かい作業と雖もルーチン化しているから、少し意識を向けるだけでそれは直ぐに完了す る。装填の終わった銃口を、再び「ルンペルシュテルツキン」へと向けた。なまじ人の形をしているがゆえに、テレパス能力で他者の気配を鋭敏に感じ取れる勇 太にとっては強烈な違和感を覚えさせる、その姿へ。
「無駄だって言ってるのに」
「さぁ、どうだかな?」
響名の言葉はどこか諦めを含んだもので、背後に立った名鳴の言葉は酷く静かだ。それを聞きながら、勇太は引鉄を引く。その瞬間に、自分自身の能力を、銃弾に上乗せして。
その力の名は念動力。
認識できる対象に、見えざる力で干渉する、超能力。
(認識できるものならば)
勇太は目を閉じ、再度開いた。異能を付与された代償に、不自然で鮮やかな緑を纏う瞳が輝き、銃弾に上乗せされた念動力が「対象」を抉るのを確かに勇太は感じ取った。

 

 

――その眼鏡の効果は。
――『時間の認識を一時的に可能にする』だ。

 

 

脳裏を過るのは、先の鈴生の説明だ。確かに眼鏡をかけた視界、勇太はほんの一時的にだが、時間をも俯瞰する力を得ていた。尤も、人間の処理能力では、ほんの一時、無数に折り重なる過去と未来とを確認するので精一杯ではあったが。しかし。
折り重なる時間を壁のように纏った悪魔へ確かな一撃を与えるには、それで充分だったのだ。

 

 

銃弾に。正確に言えば銃弾に上乗せされた勇太の念動力、超常の力を以て、「ルンペルシュテルツキン」に風穴が空いた。空の眼窩を持つ左眼が貫かれ、人型を模したそれの動きが不意に止まる。座り込んでいた響名が立ち上がり、そんな、と小さく呟いた。だが。
その声に、安堵の色を感じたのは果たしてテレパスを有する勇太だけだっただろうか。

 

 

ビル風が凪ぐ。曇天からはいつの間にか、光が差し込みはじめていた。時空の歪みに引き摺られていた異常気象が終わったのだと、勇太は何となしに確信をしていた。

 

 

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【 8636 / フェイト・- 】

カテゴリー: 02フェイト, 夜狐WR(フェイト編) |

脱出不可能?迷路探検依頼!

「で、依頼内容は何なんだ?」
咥え煙草で頭を掻いた草間・武彦が、面倒臭そうな表情を隠すこともなくビルを睨み付けている。
『怪奇現象』としか聞いていなかった草間が、依頼内容をはっきりと覚えているかと言われれば。そこは、まぁ。同行者である二人が覚えているだろう。
隣に立つ草間をじとりと見上げる草間・零が、やや頬を膨らませつつ口を開く。
「兄さん……ちゃんと話は聞いて下さい」
「聞いて断れるなら聞く」
「に・い・さ・ん?」
軽く足を踏み鳴らす零に、肩を竦めつつ逆隣りに立つ少女を見下ろせば、そこには紅玉と水銀のオッドアイ。
「ご依頼人様曰く、この廃ビルに入った者は二度と出られない。とのことです」
「出られない、ねぇ……」
面倒くさそうにそう言う草間に、遙瑠歌が口を開いた。
「とにかく、参りましょう。草間・武彦様。依頼人様から、後の事はお聞きしましょう」
「ったく……」
珍しく興味を持ったのか、扉へと向かう小さな少女を見て、草間は煙草を深く吸い込み、大きく吐き出した。

 

 

カツン、カツンと冷たいコンクリートに足音が響く。
「それにしても……どことなく寒いな……」
冬というわけでもないのに、吐く息が白いような。
フェイト(8636)は闇色の銃を手に静かに歩を進めていた。
人の気配はする。しかし、まだかなり遠い。
(それに。この数は……)
入ったきり出られない。と噂の立っているビルを調査するように、と単独指令を受けたのが1時間前。
愛銃を手にビルに入ったのが20分前。
あえて小さく響かせる足音は、自身の進入と居場所を知らせるためのものだ。
向こうから来てくれるのならば話が早く済む。
相手が敵であるならば排除するだけ。そうでないなら保護なり相手の望む道を照らすなり、いくらでも方法はあるだろう。
「とはいえ……向こうからこっちに来てくれる様子はない、か」
人の気配はかなり先。そしてなぜか、その場所に密集しているように感じられるのだ。
こうなったら、能力を使ってもう少し詳細を探るべきだろうか。
歩を進めながらの逡巡の後、ふとフェイトは振り返った。
新しい人の気配を察知したのだ。
(ひとつ、ふたつ……いや、みっつ……?)
しかし、ふたつは確かに感じられるのに、もうひとつがあやふやで。
「まずは、後方から聞いてみるか」
遥か先の複数より、後方からの数名の方が話を聞くには適しているだろう。
くるりと方向転換したフェイトは、足音を微かに響かせつつ元来た道を辿り始めるのだった。

 

 

向かってくる足音に、ゆっくりと零が体勢を低く取る。
「遥瑠歌、後ろに下がってろ」
戦闘を零。その後ろで草間が目を細め、その後ろで遥瑠歌が無機質な色違いの瞳を開き、前方を見ていた。
「足音は一つ、か……」
立ち止まり、相手の出方を確認するように目を凝らす零が、勢いよく日本刀を具現化させ鞘から抜き取る。
そのまま暗がりに一閃させた、その次の瞬間。
ギィン……!
一閃された刀の腹を、硬質な銃底が叩き払う。
思わぬ反撃に目を見開いた零が、正面に現れた漆黒の髪を捉える。
「……っぶな……!」
「……フェイト?」
暗闇に浮かぶ翡翠の瞳が、己を呼ぶ声に大きく開かれる。
「え、あれ。草間さん!?」

 

 

「すみません零さん。もっとちゃんと確認出来ていればよかったんですけど」
「いえ、こちらこそすみません」
日本刀と銃をそれぞれ戻しつつ、臨戦態勢を解いた二人が頭を下げ合う。
その姿を眺めつつ、草間がゆっくりと頭を掻いた。
「変なところで会ったな」
その言葉と同時に、草間の背後からゆっくりと銀の髪を揺らしつつ姿を見せた遥瑠歌を確認して、フェイトは一人納得する。
「そうか。あれは遥瑠歌さんだったんですね」
彼の言葉に、人形のような少女は紅玉と水銀の瞳をまっすぐ彼に向けつつ小さく頷いた。
「お久しぶりで御座います、フェイト様」
「あ、名前覚えててくれたんですね」
もう一度頷く遥瑠歌に笑いかけて、頭を掻いたままの草間へと視線を移す。
苦虫を噛み潰した表情なのは、恐らくフェイトが銃を持ってここにいたその理由を察したからだろう。
「お前がいるってことは、完全に『アレ』絡みか」
「あはは……すみません」
草間・武彦の『怪奇嫌い』は筋金入りだ。
この東京で探偵業を営んでいる彼の元には、様々な依頼が舞い込む。
けれど、不思議なことに彼の元へとやってくる依頼の大半が、彼の望まない『怪奇』絡み。
仕事柄、そういう現場で出会うことの多い二人だけに、お互いの存在が揃ってしまえばそれはほぼ『確定』となる。
「……よし。フェイト、情報交換しないか」
「お話し出来る分だけでよければ、是非」
会ったのも何かの縁。
暗く寂れた廃ビルにいつまでもいたい人間はそうそういないだろう。
「それじゃあ、私は少し周りを見てきますね」
告げて、零が周囲の確認に向かい、遥瑠歌がそれに付随してついていく。
草間が新しい煙草に火を着けた屈み込んだところで、情報交換開始となった。

 

 

ビルの奥で、幾つもの気配が蠢いている。
情報交換の末、零と遥瑠歌が再び合流した一行はビルの内部を進んでいく。
「『無職、あるいはクビになった人間』ばかりが消えていくビル、ですか」
首を傾げつつ、フェイトは考える。
これが、人種を問わずであればこんな疑問は浮かばない。
しかし入っていった人たちに『共通点』があるのなら、話は別だ。
「草間さん、ちょっと『あれ』使ってみます」
フェイトの言葉に、咥え煙草の草間が肩を竦めつつ頷く。
「零、遥瑠歌。出来るだけ『邪魔』しないようにしておけ」
付け足されたような言葉に、一瞬苦笑が漏れる。
(そんな気遣い、しなくてもいいですよ?)
きっと草間は、フェイトの邪魔にならない様にと言ったのだろう。
けれどフェイトにとって草間も零も、そして遥瑠歌も。
邪魔になるような『対象』ではない。
配慮されることにくすぐったさを感じつつ、そっと目を閉じる。
(ビジョンは明確。ビルの構造は叩き込んでる。それじゃあ……始めよう)
ビル全体へと、余すことなく自身の意識を張り巡らせる。
『テレパシー』と呼ばれるその能力は、かつてフェイトにとって苦手とする分野だった。
しかし、彼は苦手をそのままにすることをよしとするタイプではない。
苦手なものは得意へと昇華させるべく、努力と鍛錬を怠らないタイプだ。
探り、得た情報をまとめ。
ゆっくりと目を開くと、一瞬鮮やかな翡翠の玉が煌めいたように見えた。
「どうだ?」
常と変らぬ草間の口調に、フェイトは躊躇いつつそっと口を開く。
「それが……」

 

 

確認できた気配は全て人間だけ。
それも、最上階に複数の気配がまとめて存在している。
とにかく、怪奇もその他の人間も他の階に存在しないのならば、警戒して歩みを遅くする必要はないだろう。
そう判断した4人は、一直線に最上階へと向かう。
「怪奇がないなら、最上階で何やってんだ?」
「分かりません。ただ、気配は特に動き回ったり止まり続けたりしていたわけではないので……。事件等というわけでもない、みたいです」
誰かに脅されていたり、事件に巻き込まれて恐怖に苛まれていれば、人は逃げ回ったりもしくは一歩も動かずにいるものだ。
けれど、フェイトが確認する限り、その気配たちはまるで『穏やか』に日常生活を送っているかのような動きしかみせなかった。
最上階へと続く扉を慎重に押し開き。そして、眼前に広がる景色に。
草間、フェイト、零の3人は、思わず言葉を失うのだった。

 

 

「草間・武彦様。何故あの方々は紙の箱で家を模したものを作っていらっしゃるのですか」
言葉を失う3人に代わり、まっさきに口を開いたのは紅玉と水銀の瞳を持つ少女だった。
押し開かれた扉のその奥に広がる景色。それは。
「……え。ホームレス……?」
まるで、街中の公園で見られる、いわゆる『ホームレス』の集団そのものだった。
「おぉ、なんだ?珍しいな。一家丸ごとで来たんか?」
固まったまま動かない草間たちへと歩み寄ったのは、一人の男。
男はへらへらと緊張感のない表情で笑いつつ話しかける。
「ここに来るやつらはみんな、仕事なくしたり家族に出ていかれたりしたやつらばっかやからなぁ。一家丸ごとはあんたたちが初めてだ」
「あ、いえ。僕たちはそういうのでは」
我に返ったフェイトが否定するも、男は「分かってる分かってる。気にするな」とまるでそれを否定として受け取らない。
「気にせんでも、ここのやつらはお互い似た境遇やからな。恥ずかしがることないぞ」
ここは天井があるから雨もしのげる。それに、囲まれているから冷たい風にさらされることもない。
「気が付けば、入ったきり出られないビル。なんて言われて、変なやつらも入らなくなったからなぁ。安全だ」
だから心配するな。と最年長の草間の肩を叩き、男は手を振って離れていった。
「……えー、と?」
困惑しつつ振り返ったフェイトは、思わず顔を引きつらせる。
肩を震わせ俯いた『彼』は、低く唸るような声を発した後に大きく息を吸い込んで。
「俺らはホームレスじゃねぇ!!!」
廃墟のビルに、一人の男の怒号が響き渡るのだった。

 

 

<経過報告>
担当者:フェイト
対象である廃ビルを捜索。
怪奇とは全くの無関係であり、事件性も皆無であることを確認。
経過観察も不要と判断。

尚、今任務中に探偵の「草間・武彦」氏と同行したことを、追記とする。

ペンを置いて、大きく伸びを一つ。
何とも不思議で間の抜けた任務が、やっと終わりを迎えた。

END

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【8636/フェイト/男/22歳/IO2エージェント】
【公式NPC/草間・武彦/男/30歳/草間興信所所長・探偵】
【公式NPC/草間・零/女/年齢不詳/草間興信所の探偵見習い】
【NPC4579/遥瑠歌/女/10歳(外見年齢)/創砂深歌者】

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■         ライター通信          ■
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大変お待たせ致しまして申し訳御座いません。
三度目のご依頼、誠に有難う御座いました。
今回はフェイトさんの能力について書かせて頂きました。
銃でのアクションも少しだけ描写させて頂きましたが、お気に召すと嬉しいです。

カテゴリー: 02フェイト, 風亜智疾WR |