大幹部の帰還

中央に据えられているのは、培養液で満たされた大型のカプセル。
まるで透明な棺のようでもあるそれを、生命維持用の様々な機器類が取り巻いて、祭壇のような形を成している。巨大な、機械の祭壇である。
祀られているのは、棺にも似たカプセル内で培養液に漬けられた、白く細く弱々しい肉体。
手足も胴体も、筋肉や臓器が入っているのかどうか疑わしくなるほどに細い。肌は白く、今にも培養液に溶け込んでしまいそうだ。
そんな弱々しい細身の周囲で、長い髪が海藻の如く揺らめいている。まるで老人のように、髪も白い。
顔は年老いているわけではなく、ふっくらと幼げな、子供のそれである。血色をほぼ失って目を閉じているその表情はしかし、往生を遂げた老人を思わせもする。
実存の神。
そう呼ばれる存在が、培養液の中で目を閉じている。ホルマリン漬けの人体標本のようにだ。
フェイトは見入った。
(これは……俺だ……)
心の底から、そう思った。
自分が辿っていたかも知れない運命をフェイトは今、目の当たりにしているのだ。
「あんたは……」
カプセル内の、肉声が届くはずもない相手に、フェイトは思わず語りかけていた。
「あんたは……俺を……」
待っていたのか。
その言葉を、フェイトは呑み込んだ。そんなはずが、ないからだ。
この『実存の神』に先程、何か共鳴するようなものを感じた。
あの少女との戦いの最中、自分の力が高まっているのを、フェイトは確かに実感した。
いや、だからと言って、この人体標本のような少年が自分を待っていたなどと。
直感を否定しようとしているフェイトに、にやりと微笑みかける者がいる。
「待っていたのよフェイト……この子は、貴方をねえ……」
黒蝙蝠スザク。
その可憐な唇が、血で汚れたまま微笑の形に歪む。
「貴方の身体は、この子のもの……貴方の、血も肉も内臓も全部、この子のためにあるの……貴方の命は、この子のもの……」
肋骨が折れて臓器のどこかに突き刺さっているのであろう、その細い身体から、炎が溢れ出していた。
黒い炎。
黒髪から、ゴスロリ調の黒いワンピースから、黒色そのものが氾濫し、燃え盛り、
「貴方の……魂は、あたしのもの!」
スザクの叫びに合わせ、フェイトを襲った。
いや、フェイトのみならずIO2エージェント計4名を一気に焼き殺さんとする勢いだ。
「くっ……!」
襲い来る黒い炎の荒波を、フェイトは睨み据えた。
エメラルドグリーンの瞳が、燃え上がるように輝いた。
緑色の眼光と共に念動力が迸り、黒い炎とぶつかり合う。
緑色の光の破片が、キラキラと飛散した。黒い炎の飛沫が、大量に飛び散った。
衝撃の余波が、フェイトたちを襲う。
隻眼の少女が、元NINJA部隊隊長が、後方へと吹っ飛んだ。
2人を庇おうとしながら、フェイトもまた吹っ飛んでいた。
床に叩きつけられ呼吸が一瞬、止まった。
無理矢理に息を吐き、吸いながら、フェイトは上体を起こした。
黒い炎の渦の中、スザクがゆらりと佇んでいる。折り畳んだ傘を、剣の如く構えながらだ。
「お願いよフェイト、大人しくして……貴方の身体、あんまり傷物にしたくないの。だって、この子のものなんだから……」
「やめろ……」
フェイトは呻いた。
「その身体で……こんな力、使ったら……あんた、死ぬぞ……」
「あたしが死んで、この身体……この子に、あげられたらいいのに……」
血まみれの唇が、牙を剥いた。
綺麗な白い歯をギリッ……と噛み合わせながら、スザクは涙を流している。
「わかる? あたしにはね、この子のためにしてあげられる事……なぁんにも、なかったのよ。フェイト、貴方が来るまではね……」
スザクは涙を流しながら怒り狂い、激怒しながら笑い、微笑みながらすすり泣いていた。
「貴方の命を、この子に捧げる……この子にしてあげられる事、やっと見つかった……」
剣のような傘に、黒い炎がまとわりつく。黒く燃え盛る先端部分が、フェイトに向けられる。
その時、銃声が轟いた。
スザクの細身が、鮮血の飛沫を空中に咲かせながら激しく揺らぎ、倒れ伏す。
「この難儀な小娘の注意を、よく引き付けてくれたな。フェイト」
柱の陰から、ディテクターが姿を現していた。その右手に握られたリボルバー拳銃が、一筋の硝煙を立ち上らせている。
「囮や弾除けとして、お前は本当に役に立つ男だ」
「……どうも」
そんな答え方しか出来ぬまま、フェイトは思った。
黒蝙蝠スザクは敵なのだ、と。
今回の作戦における、救助対象ではなく排除対象なのである。ディテクターは何も、間違った事をしていない。
黒い炎が、消え失せた。
スザクの命は、まだ辛うじて消え失せていない。
「うっ……ぐゥッ……こ、このぉ……っ」
細い胴体の、どこかに銃弾を撃ち込まれながらも即死し損ねた少女が、弱々しくのたうち回りながら懸命に起き上がろうとする。
そこへ容赦なく拳銃を向けたまま、ディテクターは言った。
「死に損なったか……ならば見ておけ黒蝙蝠スザク。お前たちが有難がって拝み奉っていたものが、所詮どういう代物でしかなかったのかを目の当たりにさせてやる」
言いつつ、何度か引き金を引く。
銃口が、立て続けに火を噴いた。スザクに、ではなく機械の祭壇に向かってだ。
培養液で満たされたカプセルは、かなり特殊な強化素材で出来ているのだろう。『実存の神』をしっかりと閉じ込めたまま、銃弾をパチパチと弾き返している。
だが他の機械部分は、そうはいかない。
祭壇のあちこちが、ディテクターの銃撃に穿たれ、小規模な爆発を起こしていた。
「嫌……」
スザクが悲鳴を漏らす。
真紅の瞳が、涙に沈んだまま呆然と見つめている。強化ガラスのカプセルが開き、培養液が溢れ出す、その様を。
白く弱々しい『実存の神』の身体が、ゆっくりと落下して行く。
「い……やぁ……嫌ッ! 嫌嫌嫌嫌いやああああああああっっ!」
死にかけていたスザクの身体が立ち上がり、少年の白い細身を抱き止めつつ、もろともに倒れ込んだ。
「出来損ないの複製品に……失われた面影を、重ねてしまっているようだな」
ディテクターの右手で、リボルバー拳銃がガシャリと開き、すぐに閉じた。鮮やかな、次弾装填である。
「生命維持装置は破壊した。その『実存の神』とやらも、長くは保たん……お前に抱かれたまま、腐り果てていくだけだ」
装填済みの拳銃を、ディテクターはスザクに向けた。
死にかけた子供を抱いた、死にかけた少女が相手でも、この男は容赦なく引き金を引くだろう、とフェイトは確信した。
「わからんのか黒蝙蝠スザク、お前は生ゴミを抱いている。生ゴミを庇いながら、死んでいくのか?」
言葉と共に、ディテクターは跳躍した。
その足元で、床が破裂していた。
何本もの、鞭のようなものが、床下から溢れ出してディテクターを襲う。
百足の大群、のように見えた。節くれだった、甲殻の触手。
それらを回避しながら、ディテクターは着地していた。
床下から出現した何者かが、呻く。
「ゴミ……と言ったのか、貴様……」
どこかで聞いた声だ、とフェイトは思った。
「ゴミと呼ばれる……それが、いかなる事なのか……わかるのか貴様、わかっているのか……」
黄金色の炎をまとう怪物。言葉で表現するならば、それしかない。
がっしりと力強い人型の全身は鱗に覆われ、その各所で、金色の体毛が炎の如く揺らめいている。
それらを掻き分けるようにして、牙のある甲殻の触手が何本も生え伸び、百足のように禍々しくうねってディテクターを威嚇しているのだ。
「殺されて生ゴミと化し、腐ってゆく……その覚悟があって口にしているのであろうな貴様……ゴミという言葉をだ!」
怒声を発する頭部は、黄金色の毛髪を生やした頭蓋骨である。眼窩の奥では、鬼火のような眼光が爛々と燃えている。
頭からは角が1対、生えていた。鹿の角、龍の角、あるいは麒麟の角。
「あんた……」
死にゆく少年を抱き締めたまま、スザクが息を呑む。
「何……しに来たのよ……廃棄物の分際で……」
「私を失脚させての立身出世を図った小娘が、無様な姿をさらしているではないか」
そんな事を言いつつ怪物は、動けぬスザクを背後に庇っている。
「だがな、その非力なる身を呈して我らの神を守り抜いた……それだけは褒めてやろう。あとは、この大幹部ウィスラー・オーリエに任せておくが良い」
「ウィスラー……さん……なのか?」
フェイトはようやく立ち上がり、声を発した。
「まさか……あんたが、そんな……」
「確かフェイトと言ったな、愚民の若造。お前を殺したくはない、早々に立ち去るが良い」
女の子に泣かされていた白人と同一人物、とは思えぬほど力強い口調で、怪物が言う。眼窩の奥で燃える光を、ディテクターに向けながら。
「だが貴様は逃がさぬ、許しはせぬ! ドゥームズ・カルト大幹部ウィスラー・オーリエが、直々に神罰を下してくれようぞ」
「あんた、まだそんな事言ってるのか!」
フェイトは叫んだ。
「見てわかんないのかよ! ドゥームズ・カルトが、もう終わりだって事!」
「終わらせはせんよ、この私が」
ウィスラーの全身で、炎のような体毛が、本物の炎に変わった。
「私はなぁフェイトよ……ドゥームズ・カルトの大幹部として、まだ何事も為していないのだよ……」
黄金色の炎を渦巻かせ、まるで猛火の竜巻のようになりながら、ウィスラーがディテクターに向かって踏み込んで行く。
「終わりになど、出来るわけがなかろうがぁあああああああ!」
「終わらせてやる……この俺がな」
ディテクターが、引き金を引いた。リボルバー拳銃が、幾度も火を噴いた。
何本もの甲殻触手が、螺旋状にウィスラーを取り巻いた。防御の螺旋。
そこへ、ディテクターの銃撃がぶつかって行く。
百足のような触手たちが、ことごとく砕けちぎれた。
ちぎれたものを蹴散らしながら、ウィスラーは右拳を叩き込んでいた。ディテクターの腹部にだ。
「うぐっ……!」
ロングコートの下に着込んだ、パワードプロテクター。その各所からバチバチッ! と火花を散らせつつ、ディテクターは前屈みに身を折っていた。
鳩尾に押し当てられたウィスラーの右拳が、黄金色に激しく燃え上がる。
怪物の全身で渦巻く炎が、右拳に集中し、ディテクターの体内に流し込まれる……寸前で、フェイトは叫んだ。
「させるかぁああああッ!」
エメラルドグリーンの眼光が、念動力を宿しながら迸り、ウィスラーを直撃する。
麒麟と百足と人間の合成体、とも言うべき異形の肉体が、金色の火の粉を血飛沫のように飛び散らせ、吹っ飛んだ。
拳から解放されたディテクターが、前のめりに倒れる。フェイトは駆け寄り、支えた。
「大丈夫ですか」
「甘く見た……」
呻きながら、ディテクターは血を吐いた。
「オーリエ財団の無能御曹司が……まさか、これほどの化け物に作り変えられているとは」
まさしく、化け物であった。
フェイトが本気で放った念動力の波動を喰らいながら、ウィスラーはよろよろと立ち上がりつつある。
「終わらせはせぬ……この私が、大幹部として!」
立ち上がった怪物の全身が、白い光に包まれた。
手負いのウィスラーが何やら底力を発揮した、わけではないだろう。
同じく手負いの黒蝙蝠スザクも、白い光を発しているからだ。
否。白く発光しているのは、彼女の身体ではない。
死にかけた少女の細腕に抱かれた、人体標本のような少年だ。
光を発する少年を抱き締めたまま、スザクは呆然としている。
少女の脇腹の辺りから、小石のようなものが飛び出して床に転がった。
ディテクターの、銃弾だった。
傷口が、異物を押し出しながら塞がってゆく。
白い光が、負傷していた少女の身体を癒している。
フェイトは呻いた。
「……実存の……神……」
生命維持装置を失い、もはや長くは保たぬであろう少年の脆弱な肉体が、力を振り絞っている。まさしく『実存の神』と呼ぶにふさわしい力を。
「力を……授けて、くれるのか……我が神よ……」
白い光に包まれながら、ウィスラーが声を震わせる。
「私に……大幹部としての務めを、果たさせてくれるのだな……飾り物の大幹部に過ぎなかった、この私に……」
白い光が、ウィスラーの肉体にもたらしたもの。それは癒しだけではなかった。
変異が、起こっていた。
怪物の肉体が、白い光の中で膨張してゆく。
聖殿の壁が破裂し、柱が砕け、天井が崩落を始めた。

 

 

ドゥームズ・カルト本部施設は、完全に崩壊した。
巨大なものが、その残骸を押しのけて月明かりを浴びている。
甲殻が、禍々しく月光を反射する。
それは列車にも似た、巨大な百足であった。
「ウィスラーさん……なのか……」
ディテクターに肩を貸したまま、フェイトは呻いた。
2人で脱出するのが精一杯だった。他2名もそれぞれ自力で脱出してくれたと、信じるしかない。
「そんな姿になってまで……あんたはっ!」
フェイトは念を振り絞った。エメラルドグリーンの眼光が、激しく迸る。
迸った念動力の塊が、大百足の甲殻に激突し、雨滴の如く飛び散った。
列車のような巨体は、全くの無傷だ。
「まさか……こんな廃棄物男に助けられるなんてね」
大百足の背中に、黒蝙蝠スザクが立っている。白く弱々しい少年の細身を、抱き上げたままだ。
「だけど今は、利用出来るもの利用しなきゃ……ここでフェイトを無傷で手に入れるのは無理そうね。今はこの子に、新しい培養液と生命維持設備を……一刻も、早く」
大百足が、スザクと『実存の神』を乗せたまま、建物の残骸を蹴散らし去って行く。
生命維持装置を失った少年を、救う事の出来る場所。
あの製薬会社の、研究施設しかない。
行先が読めても、もはや追うだけの余力が、フェイトにもディテクターにもなかった。

カテゴリー: 02フェイト, season8(小湊WR), ウィスラー, 小湊拓也WR(フェイト編), 黒蝙蝠スザク |

新聞部員フェイト

「廃病院に幽霊、とはね」
工藤勇太は呆れて見せた。
「お約束……って言うのか?」
「お約束ってのは大事だぜえ」
デジタルカメラを片手に、馬場隆之介は張り切っている。
「見ろよ工藤。学校近くに、こんな立派な物件があったなんてなあ」
「これ……勝手に入っても、いいのか」
良いわけはないが、入り口の扉は破壊されたままである。
夜闇の中、暗黒が沈殿して建物の形を成したかの如くそびえ立つ、巨大な廃屋。
かつては病院であった。いつまで営業していたのか、定かではない。
今年の春、勇太が高校に受かった時には、すでに怪奇スポットとして名を馳せる廃病院であった。幽霊の目撃情報が相次いでおり、ゴーストネットOFFでも取り上げられた事がある。
昨年、どこかの若者の一団が、面白半分の肝試しで、この病院に忍び込んだのだという。施錠されていた入り口の扉を叩き壊して中に入り、病室で酒盛りに興じていたらしい。
その最中、病室の天井が崩れ、床が抜け、若者たちは瓦礫に埋もれて全員が死亡した。
当然、祟りだ何だと騒ぎになったが、彼らの死因そのものは物理的な事故死である。
警察による調査の結果、大規模な手抜き工事が発覚した。
この病院は、営業していた頃から、いつ床や天井が崩落してもおかしくはない状態であったらしい。
そんな建物であるから当然、立ち入り禁止である。
とは言っても、壊されたままの入り口に『立ち入り禁止』の貼り紙がされているだけだ。
夏休みの、とある深夜。そんな廃病院の前に工藤勇太と馬場隆之介、2人の男子高校生が佇んでいる。
2人とも、新聞部に入った。
将来マスコミ志望の隆之介は自分の意思で、勇太はその付き合いで。
隆之介には結局、付き合う事になってしまう。中学生の時から、そうである。
「で……休み明けの校内新聞のために、記事が欲しいのはわかるけど」
言いつつ勇太は、隆之介の周囲に浮かぶ白っぽいものを観察した。
赤ん坊であった。白い赤ん坊が2人、ふわふわと浮かんでいる。
この病院で産まれた……否、ついに産まれる事のなかった赤ん坊たち。
「それが怪奇スポットの探検レポートってのは、正直どうなのかな」
「しょうがねえだろ。剣道部の全国大会出場とか、校長の裏金疑惑とか、女子バレー部顧問と部長の駆け落ち失踪問題とか、そうゆう大物記事は先輩たちが担当してんだから」
そんな事を言う隆之介に、白い赤ん坊たちがフワリとまとわりつく。
「俺ら1年の下っ端は、これ系のユルい記事から始めねえとな。ま、気楽にやろうぜ? 幽霊なんているワケねえけど、いなきゃいねえで俺が適当に記事書いとくからさ」
赤ん坊2人が、小さな手で隆之介の顔をぺちぺちと叩いたり髪を引っ張ったりしている。
隆之介は、全く気付いていない。見えてもいない。白い赤ん坊たちをまとわりつかせたまま、扉の残骸をまたいで病院内へと踏み入って行く。
溜め息混じりに、勇太は後に続いた。

 

 

営業していた頃から、いろいろと問題の多い病院ではあったらしい。
院長は、何組もの患者の遺族から訴えられており、今なお係争中であるという。
その上、手抜き工事である。潰れるべくして潰れた病院である、と言えようか。
ゴーストネットOFFの記事によると、この土地には元々、小さな神社が建っていたらしい。それを取り壊して、病院を建てた。
建設時から、曰く付きの病院であったわけだ。
「あー……何か、頭が重てえ。このクソ暑いのに風邪引いちまったかなあ」
そんな事を言いながら、隆之介が院内通路を歩いている。
何人もの白い赤ん坊が、彼の頭にまとわりついて楽しげにはしゃいでいた。
赤ん坊だけではない。
手首が傷だらけの女性が、ゆらゆらと歩いている。
点滴スタンドにすがりついて歩く男が、勇太と擦れ違った。
隆之介の目には見えていない患者たち。
彼ら彼女らを見渡し、観察しながら、勇太はふと呟いた。
「多いな……」
「ん? 何が?」
隆之介が、怪訝そうに振り返る。
「あ、いや何でもない……」
勇太は、ごまかすしかなかった。見えていない者に対し、説明出来る事ではない。
病院で人が死ぬのは当たり前、とは言え多過ぎる。
死んだ人間が……と言うより、死んだのにどこへも行けずにいる者たちがだ。
悪霊怨霊の類には、勇太も何度か出会った事がある。この世に凄まじい恨みや妄念を残しながら死んでいった者たちで、中には、恨みを晴らすまで何百年でもこの世にとどまり続ける化け物もいる。
この患者たちからは、しかしそこまで凶悪な念は感じられない。
ひんやりとしたものを、勇太は右腕に感じた。
痩せこけた老婆が、勇太の右腕を掴んでいる。この病院で天寿を全うした患者の1人であろう。
(……どうしたんだよ、あんたたち。死んじゃったんなら早く行けばいいだろう、天国とか霊界とかに)
隆之介がいるので、勇太は声を出さずに話しかけた。あまり使いたくない能力の1つである。
(何が悲しくて……こんな世界に、いつまでも残ってるんだ?)
老婆は、何も応えない。じっと勇太を見つめるだけだ。
その目が、何かを訴えている。
「……何か、あるのか?」
勇太はつい、声を出してしまった。
「あんたたちの、成仏なり昇天なりを邪魔してる……何かが、この病院に」
「何か言った? 工藤」
隆之介が再び、振り向いて来る。
何でもない、とごまかす事もせず、勇太は睨み据えた。隆之介に襲いかかろうとしている者たちをだ。
数名の男女が、巨大なミキサーにでもかけられたかのように一体化している。全身あちこちに浮かんだ顔面で、苦痛と憎悪の形相を作っている。
無害な幽霊たちの中にあって、半ば悪霊・怨霊に等しいものと化している。
そんな怪物が、隆之介に荒波の如く覆い被さろうとしているのだ。
隆之介本人は当然、気付いていない。見えてもいない。
勇太が睨み据えるしかなかった。あまり使いたくない力を、使うしかなかった。
睨み据える瞳が、エメラルドグリーンの眼光を迸らせる。念動力を宿した眼光。
隆之介を呑み込まんとしていた霊体の荒波が、砕け散った。破裂し、飛び散り、霊体の飛沫となって壁や通路に付着する。
そんな様が見えているはずもない隆之介が、うろたえている。
「な、何だ工藤。いきなり恐い顔で睨んだりして」
「……ゴキブリがいた。お前の足元、カサカサ走り回ってたよ。踏み潰してやろうかと思ったけど、逃げられた」
「うええっ、マジかよー!」
隆之介が派手に飛び退り、壁に激突し、デジタルカメラを危うく落としそうになってしまう。
「お前、幽霊よりゴキブリの方が恐いんだな」
「ったりめーだろォ。あいつら幽霊と違って目に見えるし、触れちまうし、いや俺も触りたかねえけど時々ヤツらの方から飛んでぶつかって来やがるんだよ。畜生め、ホウ酸団子か何か持って来りゃ良かったかな」
ホウ酸団子では駆除出来ないものたちが、壁や通路に付着したまま弱々しく蠢いている。
明らかに入院患者ではない男女数名が、一体化して半ば怨霊と化したもの。
肝試しに来て命を落とした、若者の一団であるとしたら。
彼らもまた老婆と同じく、何かを訴えようとしていたのではないか。
思案しながら歩く勇太の、足元が揺れた。
隆之介も、揺れを感じたようだ。
「何だ、地震……?」
「……いや違う、これは」
勇太が気付いた時には、すでに遅い。
2人の足元で通路がひび割れ、崩落していた。
「……手抜き……工事……!」
そんな呟きを漏らすだけの余裕はある。幸い、あの若者たちを襲ったような、ひどい崩落ではなかった。
「くっ……いてててて……おい馬場……」
瓦礫の上で弱々しく身を起こしながら、勇太は声をかけた。
返事はない。
瓦礫に混ざるようにして倒れたまま、隆之介は微動だにしない。
病院の、地下1階であろうか。地下室とも言うべき空間である。
勇太は見回した。
崩落した通路の残骸、だけではない。古い構造物の破片と思われる様々な瓦礫が、うず高く積まれている。この地下室に、詰め込まれている。
折れた柱、と思われるもの。注連縄が絡みついた、木製の何か。壊れた賽銭箱もある。
「手抜き工事も、ここに極まれり……ってわけか」
勇太は理解した。
建築物の残骸を合法的に処分するには、金がかかる。
だからこの病院の建設業者は、取り壊した神社の残骸を、そのまま病院の地下に埋めてしまったのだ。
「これは、確かに……祟りの1つや2つ、あって当然かな……おい、馬場……」
声をかけても、隆之介はやはり応えない。動かない。
勇太はよろよろと立ち上がり、駆け寄ろうとした。
その足が、硬直した。
姿は見えない。幽霊や悪霊の類を視認する事の出来る、勇太の目をもってしてもだ。
だが、それは確かに存在していた。
姿なきものが、周囲で禍々しく渦巻いている。それを勇太は、肌で感じた。
「あんただな……この病院の人たちを無理矢理、この世に縛り付けてるのは」
神の姿を、目で見る事は出来ない。そんな話を、勇太は聞いた事がある。
「……この神社の、神様か……おい、この病院でやたらと人死にが出たのは、あんたの祟りか?」
『たわけた事をぬかすな小僧。わしは、人間を殺してなどおらん』
姿なきものが、勇太にだけ聞こえる声を発した。
『人間たちが、わしの社を潰した……が、代わりに病院が出来るのならば、それで良いとわしは思った。病や怪我に苦しむ人間たちが大勢、助かるのならば』
「だけど助からなかった……院長はじめ医者はろくでもないのばっかり、医療ミスの頻発で患者は大勢死ぬし、おまけに手抜き工事で患者じゃない人まで死ぬし」
言いつつ勇太は、笑いたくなった。
この神が怒りにまかせて凄まじい祟りを為そうとするならば、それを手伝ってやりたい気分だった。
『わしは人間どもを許さぬ……ここの亡者ども全員を怨霊に変え、我が下僕としてくれる! そして人間どもを滅ぼすのだ!』
あの若者らのように、ほとんど怨霊と化してしまった者たちもいる。
今は無害な幽霊にすぎない患者たちも、いずれ、あのようになってしまうのか。
それを止めなければならない理由が自分にあるのか。勇太はふと、そんな事を思った。
「う……ん……」
隆之介が、意識を取り戻した。深刻な怪我をしているわけではないようだ。
「あ、工藤……大丈夫かよ……あれ? 何だこりゃ」
荒ぶる神の声など聞こえるはずもないまま隆之介が、瓦礫の中から、何やら珍妙な物体を見つけ出した。
掌に乗る大きさの、丸石である。凹み窪みが、人間の顔に似た形を成している。いくらか間抜けな人面であった。
「おい見ろよ工藤、何か面白いもん見つけたぜ? 人の顔みてえ。へへへ、馬鹿面だなあ」
『…………』
神の荒ぶる意思が、止まった。勇太は、そう感じた。
「おい馬場……それってまさか、この神社の御神体……」
「神社? ああ、そう言やそんな話あったな。この病院が、もともと神社だったとか」
言いつつ隆之介が、埃まみれの人面石を自分のシャツで拭い、瓦礫の上に安置した。
そして、両手を合わせる。
「それじゃあ……いい記事が書けますように、っと」
『……記事など知らぬ。勝手に書けと、そこな人間に伝えておけ』
勇太にしか聞こえない声を発しながら、神が消えてゆく。
姿なきものの強烈な気配が、すぅ……っと天に昇って行くのを勇太は感じた。
『だがな、わしを拝んでくれる人間が1人でもいる……それに免じ、この度は許してつかわそう。亡者どもは、わしが天へと連れて行く』
重苦しい気配が、廃病院全体から消え失せて行く。
入院患者たちも、勇太に粉砕された若者たちも、神と一緒にようやく、この世から去って行ったのだ。
勇太は溜め息をつき、崩れるように座り込んだ。溜め息と一緒に、全身の力が抜けてしまった。
「おい工藤、怪我とかしたか? ひょっとして」
「いや、大丈夫……」
間抜け面の人面石に、勇太はちらりと視線を投げた。
自分も拝んでおくべきだろうか、と少しだけ思った。

カテゴリー: 02フェイト, その他(小湊WR), 小湊拓也WR(フェイト編), 馬場隆乃介 |

放課後の悪魔

「古い読み物で見つけた魔法なの」
学生服の少女は、そう言って擦り切れている紙切れを見せた。放課後の美術室には二人しか人の姿がなかった。
「紅いインクとはちみつ、摩り下ろした月桂樹。それから灰をひと匙混ぜたものを使って魔法陣を描くの。魔法を輪唱すると、精霊が出てきて悩みを聞いてくれる。素敵でしょ」
「キャンバスに魔法陣を描くなんて、考えたね」
同級生の言葉に、学生服の少女は頷いた。使い古した絵筆で、少女は擦り切れた紙の通りに魔法陣を描いていく。伸びのいいインクは、絵筆の運びに沿って鮮やかな色彩を生成色のキャンバスに伸ばしていった。
「精霊さま、精霊さま。どうぞお越しください。門はここです」
「精霊さま、精霊さま……」
二人の少女が輪唱する。くすり、と何かが笑った声がした。

 

 

パタンと、と乗ってきた車の扉を閉める。背中に車が走り出し去って行く気配を感じながら、フェイトは眼前の建物を見上げた。サングラスを押し上げて、建物――高等学校だ――をじっと見つめた。
周囲には分かる者には分かる隠蔽部隊が学校を取り囲んでいた。無論IO2のそれである。一般人に知られる訳にはいかない怪異、というわけだ。
細身の身体に真っ黒のスーツを身に着けたフェイトは、真正面の校門からその高校へと足を踏み入れようとした。
「待て。ここは閉鎖中だ」
制止してきた隠蔽部隊の男を、フェイトは緑色の目で一瞥した。一般的な日本人の、少し幼い外見と黒髪に似つかわないその緑は、綺麗な光彩ではあるものの、その部隊の男の警戒心を呼んだのだろう。
「任務です」
短い言葉と共に、懐から身分を示すIDをちらりと見せると、はっと男は弾かれたように目を見張った。
「失礼しました! ……おひとりで?」
「相棒がいますから」
ID横にちらりと見える銃を指先で叩いて、フェイトは足を進めた。禍々しい気配が校舎からあふれ出ているようにすら感じる。
――偶然にも成功した学生の悪魔召喚。悪魔は召喚者のみならず校舎まるごとを支配。その悪魔の排除と学生らの救出。それが今回フェイトに与えられた任務だった。
「状況確認しました。……はい。……了解。問題ありません」
通信機で短く報告すると、少しネクタイを緩めたフェイトは懐から相棒を取り出し、校舎の中へと足を踏み入れた。

 

 

能力を酷使しないためにと身に着けた体術と射撃だったが、それはフェイトの任務の中で十二分に価値を発揮していた。
元々持っていた能力に頼らない、己の力。それが活かされるのもフェイトにとっては嬉しいものだった。向き合い、折り合いをつけた自分の能力ではあるが、それでもつらい過去は確実にある。能力も、自分で身に着けた技術も、どちらもあってこその今の自分であると実感できる、救いにも似た何かになっていた。
放課後の校舎には、それでも何人かの生徒は残っていたらしく、フェイトに気づくと学生たちが奇怪な唸り声を挙げて襲い掛かってきた。
もちろん学生たちを傷つけるわけにはいかない。部活動の最中だったのか、ユニフォーム姿の学生が突進してくるのを、避けざまに一撃入れる。もちろん傷つけないために最低限のものだ。
意識を失って倒れた学生をしゃがんで見分してみるが、不可思議な気配は取り除かれていない。やはり呼び出された悪魔を処理しない限りは、また意識を取り戻してフェイトを襲ってくるだろう。
しゃがんだままのフェイトに、椅子を振りかぶってきた女学生がフェイトに迫る。捻った上半身のあった場所に、勢いよく空を切る音と共にに椅子が振り下ろされた。床を思いっきり蹴り、女学生を当身でふきとばす。
「まずいなあ……。早めに処理しないと本気で傷つけるかも知れない」
床を傷つけて転がっている椅子を一瞥して、フェイトは背筋がぞっとするものを感じた。
ふと、奥に学生たちが歩いていくのが見えた。それも一人ではない。何人もの学生だ。
「もしかして、あの奥に呼ばれた悪魔が……?」
生半可な阻止では侵入者を止められないと考えたのだろうか。階段を上がって行く学生たちは、まるで糸に操られた人形のようで、フェイトを振り向くこともしなかった。その後をつけていくと、学生たちがある特別教室へ吸い込まれて行く。
「美術室……」
そっとその教室の開け放たれた扉をくぐると、広い美術室に何十人もの学生が密集していた。その中心にいる椅子に腰かけた女生徒が、煌々とした瞳でフェイトを見据えている。
「悪魔祓いか?」
女生徒は、生来のものであるだろう少女らしい声でフェイトに尋ねた。フェイトはかぶりを振った。
「悪魔も、何も関係ないよ。ここは君の好きにしていい場所じゃない」
「私が顕現したのは、この少女の願いによるものだ。日常がつまらない、壊したい、そんな主の欲求を満たしているだけ」
「違うね。その子が望んだのは、ほんのひと匙だけの、少し楽しく過ごせるだけの刺激だよ」
がちゃん、と拳銃の底をフェイトは叩いた。
「小僧が」
すっと女生徒……いや、悪魔が片腕を振り上げると、それに反応した周りの学生たちが一斉にフェイトへ向けて床を蹴った。
「悪魔にもたらされる支配なんかじゃない!」
かつては迷いと悩みの種であった能力を少し解放すると、不可視の念力が飛びかかってきた学生らをまとめて吹き飛ばした。たった一撃で操る学生たちが意識を失ったのに、女生徒が目を見開く。
解放されたサイコキネシスは悪魔へ向いた。女生徒の身体をを念力で持ち上げると、「おのれ!」と叫んだ悪魔がその背から浮かび上がるように姿を見せる。その姿は女生徒を糸で操る姿に似ていた。
「ここではない場所へ還れ!」
最大出力の念力は、両の手を伝って拳銃にすべてが篭められた。変わらず不可視ではあったが、その大きすぎる念の弾丸は悪魔の身体を引き割き、地響きのような破裂音で粉砕されていった。
悪魔から解放された女生徒が、念の支えを失って落下するが、フェイトがその身体をしっかりと抱き留める。
「……ささやかな願い、そうだよね。少しだけ平穏を崩してしまいたくなっただけ」
意識のない少女の背を撫でて、黄昏時から夜の星が目立ち始めた空を、フェイトは美術室から眺めた。様々な想いを馳せながら。

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黒い灯火

ドゥームズ・カルト本部施設、大僧正の間。
その床に、真言の符が3枚、それぞれ1本ずつのクナイによって鋲留めされ、三角形を成している。
三角形を成しながら、電光を発している。
3点から発生した電撃の光が、バリバリと荒れ狂いながら立体的に結合し、ピラミッドを形成していた。
ピラミッド型の、電光の檻。その中に閉じ込められている何者かの姿は、よく見えない。
とにかく穂積忍が、少し離れた場所から、そちらに向かって独鈷杵を掲げている。帝釈天の真言を、唱えながらだ。
「ナウマクサマンダ、ボダナン……インダラヤ、ソワカ」
ピラミッド型を成す電撃光が、さらに雷鳴を発しながら輝きを増す。
閉じ込められている者の姿が、その光の中に浮かび上がった。
1人の女、である。
ピラミッド内部で、空気が揺らいでいる。目に見えるほどの揺らぎが、優美な女性のボディラインを成しているのだ。
実体を持たぬ、その女性が、微笑んだ。フェイトは、そう感じた。
「私、ね……可愛い男の子が、大好きなの。可愛い女の子も、大好き」
「俺はどうだい。こんな可愛い中年、なかなかいないぜ?」
穂積の口調が、いささか苦しそうである。
帝釈天の法力で、悪しきものを電光の檻に閉じ込めている。
閉じ込められたものが、しかし電光を檻を破ろうとしている。穂積の世迷い言に、応えながらだ。
「私、可愛くない男は大嫌い……お前たちのような可愛くもない男どもが、可愛くない動き方をして私の邪魔をする……この世で一番、嫌いな物事を1つだけ挙げるとしたら、それね」
「俺は……あんたみたいに、若作りに躍起になってる年増女ってのは嫌いじゃあない。ごってり厚化粧した横顔に時折、人生の疲れみたいなもんが滲み出る……これがなあ、たまらないんだよ」
「……ドブネズミがッ!」
電光の檻の中で、真紅の光が燃え上がる。実体のない女の、眼光であった。
雷鳴を発する光のピラミッドが、砕け散った。電光の破片が、弱々しく飛散する。
それと同時に、銃声が轟いた。
空気の揺らめきで構成された女の身体が、解放された瞬間、後方に吹っ飛んでいた。
「迷ったぞ、フェイト……」
男が1人、いつの間にかそこに立っていて、拳銃を構えている。
古臭いリボルバー拳銃……の形をした、強力な呪物。強固な肉体を持つ怪物であろうが、実体を持たぬ悪霊怨霊であろうが、差別なく容赦なく撃ち殺す万能武器だ。
その銃口から硝煙を立ち上らせつつ、男が言う。サングラス越しの眼光が、フェイトを射抜く。
「お前のような奴は、いっその事、生贄としてその女にくれてやる……さっきまで俺は、本気でそう考えていた」
「……すみませんでした」
フェイトは負傷した身体を立ち上がらせ、頭を下げた。
体内のどこかが破裂している。身を折ると、激痛が疼く。
それでも、頭を下げるしかないのだ。
「今も考えていないわけじゃあないがな……まあいい。お前へのペナルティは、後で酒でも飲みながら考えよう。それよりも、だ」
「……ディテクター……ふふっ、貴方……いつまで、そんな名前を使っているの……?」
呪物による射撃をまともに喰らい、吹っ飛んだ女が、苦しそうに笑っている。
笑いながら、弱々しく薄れてゆく。優美な女の形を成していた空気の揺らめきが、単なる空気に戻ってゆく。
「本物の探偵に、お戻りなさいな……あちらの貴方の方が、ずっと可愛いわよ? フェイトほどでは、ないけれど……」
「フェイトの身柄が欲しければ、貴様が直々に来い。分身など使わずにだ」
「俺を囮にする気満々、ってわけですか……」
呻くフェイトの腕を、誰かが掴んだ。
たおやかな片手が、しかし驚くべき力でフェイトの身体を引きずり立たせる。
「その通り、貴方は囮だ。弾除けだ。使い走りでもある。今後、私たちのために何でもやってもらうぞ? お兄様」
「お前も来ちゃったのか……」
腕を掴み、隻眼で睨みつけてくる少女に、フェイトは苦笑か愛想笑いか判然としない表情を向けた。
「ま、それはともかく……見ての通りだけど、どうする?」
フェイトは、ちらりと視線を投げた。隻眼の少女も、そちらを見る。
彼女と同じ姿をした少女が、倒れている。
「お前のお父さんの、仇なわけだけど」
「……あれは、ただの人形だ。私が狙うもの、それは人形使いの命……!」
緑色に燃え上がる隻眼が、消えゆく女に向けられる。
「お兄様を囮にしたところで……本体を引きずり出す事は、出来なかったようだな。まあいい、魂の一部だけでも滅ぼしてやるぞ」
「……貴女も、可愛いわね……次は、貴女にしようかしら」
抜刀の構えを取る隻眼の少女に、消えゆく女が両眼を向ける。真紅の眼光が、激しく燃え盛る。
「させるか……!」
フェイトは少女の前に立ち、両腕を広げた。
そんなフェイトの眼前に、ゆらりと割り込んで来た人影がある。
「年甲斐もなく若い男に熱上げたりするから、そんな目に遭う」
穂積だった。霊験あらたかな金剛杵を構えながら、妄言を吐いている。
「もっと手近な男で間に合わせちまいな。ちなみに……俺なら今、フリーだぜ?」
「ドブネズミのような男……お前だけは、可愛くないわね」
両眼を赤く燃え上がらせながら、女は消えてゆく。
「ちょろちょろと鬱陶しく、フェイトの周りをうろつくなら……次は、容赦はしないわ……ふ、ふふふふ、悔しいけれどまた会いましょうフェイト。ずっと先の楽しみに……しておくわね……」
真紅の眼光も、消え失せた。
実体なき女は、完全に消滅していた。
結局、彼女本人を討ち果たす事は出来なかった。彼女の魂の、そこそこ大きな一部を消滅させた。それが、まあ戦果とは呼べるだろうか。
「あの女の、居所を突き止めようかとも思ったが……そんな余裕はなかった。消滅させるのが、精一杯だった」
ディテクターが呻く。
「だが……あの女も、しばらくの間は動けなくなったはずだ」
「つまり虚無の境界が、本当に分裂騒ぎを起こすかも知れないと。そういう事だな」
穂積が言った。
盟主が、しばらくの間は動けない。
それが虚無の境界という組織に、どのような異変をもたらすか、現時点ではわからないのだ。
「まあ先の事よりも……今は、あれだな」
大僧正の間の、最も奥まった部分に、フェイトは目を向けた。
派手に飾り立てられた、巨大な観音開きの扉。
その豪奢な扉が少しだけ開き、人間1人が辛うじて通り抜けられる隙間が生じている。
誰かが扉を開き、その先へ進んで行ったという事だ。
誰であるのかは、考えるまでもなかった。

 

 

黒蝙蝠などという姓はあり得ないし、スザクというのも、なかなか付けない名前ではある。
もう少しありふれた苗字の家に生まれた。両親も、普通の女の子らしい無難な名前を付けてくれた。
その名前を、黒蝙蝠スザクは覚えていない。忘れてしまった。
思い出そうとすると必然的に、両親そして弟の事を思い出してしまうからだ。
弟が生まれる事になった。
スザクは弟が欲しかったので、勝手にそう決めていた。妹であったら、それはまあそれでいい。
ともかく陣痛に苦しむ母を、父は自分の車で病院に連れて行った。
当時5歳であったスザクも同乗し、ずっと母の手を握り締めていた。
もう1つ角を曲がれば病院、という所で、トラックが突っ込んで来た。
父は確かに気が急いていただろうし、トラックの運転手も過労で寝不足気味であったらしい。
スザク1人が、ほとんど無傷で生き残ったのは、母がとっさに庇ってくれたからだ。スザク自身は、そう思っている。
自分は生き残り、父と母は死に、弟は、ついにこの世に生まれて来る事はなかった。
トラックの運転手は軽傷を負い、それを治す事もなく首を吊った。
誰が悪い。誰のせいだ。誰を、憎めばいい。
そんな思いだけが、スザクの中で渦巻いた。
行き場のない憎悪の炎が、スザクの中で燃え盛り荒れ狂い、5歳の少女の心を焼き尽くした。
そんな時、虚無の境界に拾われたのは、まあ幸運ではあったのだろう。
この組織においてスザクは、行き場のない憎悪の炎を、物理的な破壊手段として発現させる能力を身につけた。
それはやがて黒い炎となり、スザクの意思1つで、敵を焼き尽くす事は無論、威嚇にとどめておく事も出来るようになった。
能力を開発し鍛錬する環境を、虚無の境界は与えてくれたのだ。
いつ頃からか黒蝙蝠スザクと名乗り、手練の破壊工作員として、その名を馳せるようになった。
このまま虚無の境界で生きてゆく。その事に何の疑問も抱かぬまま、スザクは16歳になった。
そして出会った。生まれてから1度も目を覚ました事のない、1人の少年と。
(なぁんだ……こんなとこに、いたんだ……)
一目見た時スザクはまず、そう思った。
弟は、死んだのではない。あの時から今まで、神様が預かってくれていたのだ。
スザクは本気で、そう思った。
神様が預かってくれていた、どころか、その少年本人がやがて神として扱われるようになった。
生まれてから1度も目を覚まさぬまま少年は、確かに神または魔物と呼び得るほどの力を、幾度も発揮して見せた。
虚無の境界が、恐らくは生体兵器の一種として生み出したものであろう。
そんな事は、しかしスザクにとっては、どうでも良かった。
あの時、生まれて来なかった弟が、今になって来てくれた。スザクにとっては、それが全てだった。
守り通す。
あの時、弟を守ってやれなかった自分に出来る事は、それしかない。
そう思い定め、スザクは行動してきた。
結果、今はこんな所にいる。
ドゥームズ・カルト本部施設最奥部。聖殿と呼ばれる区域。
巨大な生命維持装置は、まるで祭壇のようである。
その祭壇の中央、透明な棺とも言える強化ガラスのカプセルの中で、少年は培養液に浸されていた。
生まれてから1度も、培養液から出た事のない少年。
見た目の年齢は5歳ほど。本当に5年を経ているのか、生まれた時からこの姿であるのか、定かではない。
痛ましいほどに痩せ細った身体を、長い髪がゆらゆらと海藻の如く取り巻いている。
老人のような、白い髪。
肌も白い。透き通るような白さ。いずれ培養液と同化して、何もかも消えてしまうのではないか、と思わせるほどである。
何よりも儚げなのは、その顔立ちだ。
生まれてから今まで、ずっと目を閉じている。あどけない寝顔でもあり、死体を模して作られた人形の顔にも見える。
今にも消えてしまいそうな、この儚げな存在を『実存の神』として崇め擁立する事で、ドゥームズ・カルトは組織の体を成してきたのだ。
虚無の境界において、盟主に叛旗を翻さんとする者たちが、この『実存の神』を奪い持ち出して独立分派を実行した。
スザクの眼前には、2つの選択肢があった。この叛乱者たちを皆殺しにして『実存の神』を虚無の境界へと取り戻すか、あるいは叛乱者たちと行動を共にしてドゥームズ・カルト側から『実存の神』を守り続けるか。
最終的に後者を選ぶ事になったのは、ある噂を耳にしたからだ。
虚無の境界の盟主が、『実存の神』を失敗作として廃棄処分しようとしている。
実は失敗作と言うよりも、己の立場を脅かす危険分子として。
そうスザクに囁いたのは、誰であったか。盟主の懐刀として暗躍し、『実存の神』の開発・調整・生命維持にも携わっていた、あの少女ではなかったか。
ドゥームズ・カルトには……否。『実存の神』には、貴女が必要なのよ。貴女が、この子を守らなければ。
そう言っていた彼女が先程、もはや用済みとばかりに正体を現し、スザクの肋骨を砕いてくれた。
折れた肋骨が、体内のどこかに刺さっている。
スザクはもう1度、血を吐いた。可憐な唇が、吐血で汚れた。
だが痛みを感じている場合ではない。
足音が、聞こえてくる。複数。
助けてくれたのはフェイトだが、それ以外にも何人かいるようだ。
恐らくは、IO2からの増援であろう。先程は、銃声らしきものも聞こえてきた。
「させない……」
血の味を噛み締めながら、スザクは呻いた。
負傷した細身で、祭壇の前に立ちはだかる。
ツインテールの黒髪、ゴスロリ調のワンピース。それらが、黒色を溢れ出させる。
溢れ出した暗黒が、燃え上がった。
「この子は……あたしが、守る……あの時は、守ってあげられなかったけど……」
今、この場で守りきる事が出来たとしても、しかしこの少年はもはや長くは保たない。
だが。この少年の、健康な予備の肉体とでも言うべき存在が今、向こうから来てくれる。
足音を発していた者たちが、聖殿内に姿を現した。
思った通り、何人かいる。
スザクの目にはしかし、フェイトしか見えていなかった。
「フェイト……ねえ、貴方をちょうだい?」
血まみれの唇で、ニヤリと微笑みかけてみる。
「フェイトの……その健康な身体……筋肉、心臓、肺と胃袋……肝臓腎臓、大腸小腸……全部、この子のために……ね、いいわよね? ね? ね?

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狼は吼え、猟人は潜む。そして楽聖は歌う

「止めてくれ」
ニコラウス・ロートシルトが言うと、老執事は黙って車を停止させてくれた。
運転手が龍臣であれば、止めてはくれなかっただろう。彼は、危険があると判断すれば平然と主の命令を無視する。
だが、この老執事は違う。いくらか危険があろうと、ある程度はニコラウスの自由にさせてくれる。
「おい、親父……」
後部座席でニコラウスの隣に座っていた龍臣ロートシルトが、運転席の老人を咎めようとする。
その時には、後部座席のドアは開いていた。
ニコラウスは路上にふわりと飛び出し、無警戒に歩み寄って行った。道端で倒れている、その男に。
ボロ布をまとう、死体のような男。もはや死臭にも等しい臭いを発しているが、辛うじてまだ生きてはいるようだ。
ウィーンの、最も人通りの少ない区域である。浮浪者の類が倒れているのは、珍しい事ではない。
「どうしました。お身体の具合が、悪いのですか?」
ニコラウスは身を屈め、まずは話しかけてみた。
「私の知り合いが、この近くで診療所を開いています。差し出がましく恐縮ですが、よろしければそこまで」
「い……いえ、病気や怪我ではないのです……」
死体寸前とも言うべき男が、声を発した。
「ただ……お恥ずかしい話ですが、もう何日も食べておりません……どうか、水と食べ物を……いえ、水は要りません」
弱々しく言葉を発する口が、大きく裂けた。無数の牙が、頬を切り裂いて生え伸びる。
「血を……血と、肉を……貴方様の、その若く瑞々しい血と柔らかな肉を、どうか私に!」
血走った眼球から涙を飛び散らせながら、男は人間ではなくなっていた。
ボロ雑巾のような服が破け、鱗のある皮膚が、大量の筋肉と一緒に盛り上がって来る。
牙が、カギ爪が、ニコラウスの細身を襲う。
外見は確かに14歳、オーストリア人の美少年である。確かに美味そうには見えるのだろう、とニコラウスは思う。
だが血の瑞々しく肉も柔らかなこの身体は、10代前半で成長を止めてしまった70歳の老人のそれなのだ。
「……こんなものを食べては君、お腹を壊すよ?」
ニコラウスがそんな事を言っている間に、銃声が轟いていた。
怪物と化した男の巨体が、路面に倒れ沈む。その頭部……眉間の辺りに、1つだけ銃痕が穿たれている。
「ニコラウス様、そいつから離れて下さい」
龍臣が、いつの間にか車から降りて来ていた。その右手に握られた拳銃が、微かな硝煙を立ち昇らせている。
「まだ生きてるかも知れません」
「いや……お前が、一発で仕留めてくれたようだ」
凄まじい悪臭が、ニコラウスの小さな鼻孔を容赦なく襲う。
倒れた怪物の巨体が、急速に腐敗しながら干涸びていった。
腐臭を発する干物のような屍が、ひび割れ、崩れてゆく。
まともな生き物の死に様、ではなかった。
「やはり……か」
呟くニコラウスに、龍臣が歩み寄って来る。
「ニューヨークで、こういう死に方をする化け物を見かけましたが……ニコラウス様も、ご存じみたいですね?」
「馬鹿げた噂話であって欲しかった」
馬鹿げた噂話に関して、いろいろと調べた結果、ニコラウスはこうして命を狙われた。
ここで車を止めなかったら、男は怪物と化して、どこまでも追いかけて来ただろう。
「……人を怪物に変えてしまう薬が、あるらしい。そんなものの売買をしている人々が、このウィーンにもいるという話さ」
「そいつは……確かに、馬鹿げた話ですが」
言いつつ龍臣が、車の方を睨む。
老執事が、いくらか億劫そうに運転席から出て来たところである。
「どういうつもりだ親父。こんなのがニコラウス様のお命を狙ってる、それを知ってて車を止めたんだろう? ニコラウス様もです。わざわざ御自分から、危険な目に遭うような事を」
「このような輩が、ニコラウス様のお命を狙っている。いずれ、どこかで戦いになる」
老執事の言葉に合わせるかの如く、いくつもの人影が、ニコラウスたちを取り囲んでいた。
「それならば……人通りのない、この辺りが良い」
痙攣しながら、揺らめく人影たち。
「あ……あぁあ……ろ、ロートシルト家の……お坊ちゃん当主……」
「あ、あんたを殺せばぁ……もっと、クスリを……もらえるんだよおぉぉ……」
「だから死んでおくれよおおおおお」
口々に呻きながら全員、人間ではなくなってゆく。
龍臣が、舌打ちをした。
「野良犬どもを、毒入りの餌で飼いならしてる奴らがいるって事か」
「どうするね? 龍臣よ」
老執事がニヤリと笑いながら、老人らしく手にした杖を軽く掲げる。
否、杖ではない。鞘を被った、日本刀だ。
「お前の手に負えぬと言うのなら、私が老骨に鞭打って……美術品による殺戮を、披露しても良いが」
「引退した奴は引っ込んでろよ」
言いつつ、龍臣が引き金を引いた。ろくに狙いを定めずに1度だけ。ニコラウスの目には、そう見えた。
だが轟いた銃声は2つ、いや3つか。
メキメキと痙攣しながら、一斉に襲いかかって来た怪物たち。その中で最もニコラウスに近く迫った3体が、硬直した。
彼らの眉間に、額に、側頭部に、銃痕が生じている。
硬直し、立ち尽くしたまま、怪物3体が屍に変わり、腐り干涸びてゆく。
なおも淡々と引き金を引きながら、龍臣は言った。
「大人しくしろよ野良犬ども、一発で脳みその機能を止めてやる……薬や毒ガスよりも、楽に死ねるぞ」

 

 

あの時、自分は死んだ。龍臣ロートシルトに、撃ち殺された。
「今の俺は、もう死んでる……だから恐いものなんて何にもないんだぞっ」
若干やけくそになっているだけだ、と自覚はしながら、フェイトは引き金を引いた。
左右それぞれの手で、拳銃が火を噴いた。2つの銃口から、弾丸の嵐がフルオートで迸る。
薬物で巨大化した筋肉を獣皮で覆い、剛毛を生やした者。鱗をまとった者。外骨格を隆起させた者。翼を広げた者、無数の触手を伸ばした者。
様々な姿の怪物たちが、フェイトに襲いかかりながら銃撃の暴風に薙ぎ払われ、砕け散った。
体液の飛沫と肉片の雨が、研究施設内部をビシャビシャッと汚してゆく。
ヨーロッパ某国、湖のほとりに建てられた研究施設。とある製薬会社の所有物で、当然ながらその会社の了承を得る事もなく、こうして襲撃に及んだわけである。
このような怪物たちを、施設内で放し飼いしているだけでなく、世界各地で大量生産している製薬会社。
克明に調べ上げるまでもない、とフェイトは思う。背後には間違いなく、あの組織が存在している。
「虚無の、境界……!」
フェイトは引き金を引いた。左右2丁の拳銃が、虚しい音を発する。弾切れだった。
それを待っていたかのように、怪物たちが襲いかかって来る。
カギ爪、棘のある触手、甲殻類のハサミ……様々な異形の攻撃が、あらゆる方向からフェイトに向かって一閃する。
元々は人間であった者たち、などと考えている余裕はない。
フェイトは身を翻した。
心臓を狙って突き込まれて来たハサミが、胸板と左肩の中間あたりを高速でかすめる。黒いスーツがざっくりと裂けたが、肉体は無傷だ。
カギ爪が右肩を、棘のある触手が脇腹をかすめる。フェイトの全身あちこちでスーツが裂け、いくつもの固く小さな物体がこぼれ落ちる。掌サイズの、細長い箱。
スーツの内側に、大量に収納しておいた、予備の弾倉である。
フェイトは念じた。
収納しておけなくなった弾倉たちが、フェイトの周囲で、渦を巻いて浮遊する。
そのうち2つが、左右の拳銃に吸い込まれ、装填される。
龍臣ロートシルトがここにいたら、装填などする暇もなく全て撃ち落とされているところだ。
そんな事を思いながら、フェイトは両の拳銃をぶっ放した。
銃撃の嵐が吹き荒れた。
カギ爪が折れ、ハサミが砕け、触手がちぎれた。粉砕された怪物たちが、飛び散った。
装填されたばかりの弾丸が、凄まじい勢いで減ってゆく。
無駄弾を撃ち過ぎだ。だから、すぐに弾切れを起こす。龍臣には、そう言われた。
ならば、どうするか。無駄弾を撃たない。本来ならば、それが正解なのであろう。
だが、フェイトの選んだ答えはこれだ。いくらか無駄弾を撃っても、弾切れが起こらぬ状態を用意しておく。つまり、予備の弾倉を大量に携行する。
「アメリカ仕込みの物量作戦だよ、文句あるかっ!」
叫びながら、フェイトはとっさに跳躍した。
その足元で、火花が跳ねた。
「銃撃……!? いやまさか」
気のせい、ではない。
床に転がり込んで身を起こしながら、フェイトは見た。
怪物たちの中に、小銃を持った一団がいる。
持っているだけではなく、構えている。カギ爪の生えた手で、水掻きを備えた五指で、触手状の指で、器用に銃身を保持しつつ引き金を引いている。
いくつもの銃口が、フェイトに向かって一斉に火を噴いた。
身を隠す場所もない。襲い来る銃撃の嵐を見据えながら、フェイトは念じた。
左右の瞳が、緑色に燃え上がる。
エメラルドグリーンの眼光と共に、念動力の塊が生じた。それがフェイトの眼前で、不可視の防壁を成す。
そこに、怪物たちの銃撃がぶつかって来る。
フェイトの眼前で、空間に亀裂が生じた。蜘蛛の巣状の亀裂が、空間に広がってゆく。
念動力の防壁が、ひび割れてゆく。
「くっ……」
僅かでも気を抜いたら、ひび割れた防壁は砕け散る。怪物たちが弾切れを起こしてくれるまで、フェイトの気力が果たして保つのか。
その状況を破ったのは、一発の銃声だった。
火を噴き続ける怪物たちの小銃。その轟音を断ち切るかのような、鋭い銃声。
小銃をぶっ放していた怪物の1体が、いきなり倒れた。頭部のどこかに、銃弾を撃ち込まれたようである。
倒れた怪物が、腐敗し、干からび、ひび割れてゆく。
「物量作戦を否定するつもりはないが……」
声がした。それと共に、鋭い銃声が立て続けに響く。
小銃を持った怪物たちが、ことごとく倒れた。倒れた数と銃声の回数が、ぴたりと一致している。
「しかしフェイト……お前のはアメリカ流の物量作戦と言うより、日本流のカミカゼだな。まさか1人で突入するとは」
「あんたか……」
龍臣ロートシルト。
その姿は見えないが、存在は感じられる。正確無比な狙撃が、彼の存在そのものであると言える。
「武装した怪物どもの巣窟に、日本人の若造1人を放り込む……それがIO2アメリカ本部のやり方か」
恐らく拳銃ではない。銃身の長い、狙撃用のライフルであろう。
施設内のどこかで龍臣は、その引き金を淡々と弾きながら、淡々と喋っている。
「あちらでも日本人差別が横行している、と。そういう事じゃないのか?」
「俺1人だけで大丈夫、って事で派遣された。俺自身は、そう思ってるよ……結局、大丈夫じゃなくて、あんたに助けてもらう事になったけど」
「ニコラウス様のご命令でな。別に、お前を助けに来たわけじゃあない」
そんな会話をしてる間に、怪物は1体もいなくなっていた。全て、頭部を撃ち抜かれた屍に変わり、腐り干涸び始めている。見える範囲内では、だ。
「先へ進もうか。この奥で、例の薬が大量生産されている」
龍臣が言った。
「頼むぞフェイト。今みたいな調子で、せいぜい派手に暴れて……弾除けに、なってくれ」

 

 

聖母を讃える内容の歌が、清らかに響き渡る。
欧州の、とある大銀行。
屈強なガードマンが全員、床に倒れていた。
昏睡状態である。死んではいないものの、医師による適切な処置が必要な状態だ。
「もちろん救急車は呼んであげる。病院で何日か、ゆっくり休むといい」
同じく倒れている頭取に、ニコラウスは優しく語りかけた。
「その間に再編成は済ませておく。この銀行は、私が直轄する事になるだろう。君の今後に関しては、まあ考えておくよ」
「ぐっ……ぅ……こ、この……魔物がぁ……っ」
立ち上がれぬまま、頭取が呻く。
頭取、それにガードマンたち。倒れている者全員の上に、小さな光の塊が浮遊していた。
飴玉ほどの球形に固まった、光。
「魔物? 今更、何を言っているのかね君は」
ニコラウスは微笑んで見せた。
天使の笑顔、天使の歌声、と人は言う。
天使の歌声を聞いた者は、しかし皆こうなるのだ。生命力を、光の飴玉という形で抜き取られてしまう。
無論そんな事にならぬよう、力を制御して歌う事は出来るが、それには尋常ならざる修錬が必要であった。
修錬の末、人の命を吸い取ったりしない歌を、歌えるようになったのだ。
それこそが、まさしく歌である、とニコラウスは思う。
「君たちにも、私の歌を聴いて欲しかったよ……こんなものを、歌とは呼べないからね」
ニコラウスは、右手の人差し指を立てた。
光の飴玉が全て、その指先に集まって来た。集まり、固まり、巨大な光球を成して輝きを増す。
「こんな事を言いたくはないけれど、私がその気になれば……君たちに、目覚めの来ない眠りを与える事も出来た。それは、わかってもらえたと思う」
とある製薬会社に、この銀行から金が流れ込んでいた。
その製薬会社の研究施設は今頃、ニコラウスが名指しで依頼したIO2エージェントによって潰されているだろう。念のため、龍臣を加勢に行かせておいた。
あとはニコラウス自ら、こうして資金源を断ち切るだけである。
「愚かな事を……ニコラウス・ロートシルト……お前は、あの御方を敵に回してしまったのだぞ……」
頭取が、呻きながら意識を失ってゆく。
「我らを……大いなる霊的進化へと、導き給う……偉大なる、滅びの聖女を……」
ニコラウスはもはや聞かず、巨大な光の飴玉に、そっと唇を触れた。
人体に戻す事は出来ない。責任を持って、摂取するしかないのだ。

 

 

狙撃用ライフルを左肩に担いだ龍臣が、右手で携帯電話を折り畳んだ。
「資金源の方は、ニコラウス様が片付けて下さったらしい。俺たちの仕事も、とりあえず完了だ」
「とりあえず……ね」
龍臣と2人で湖畔に佇んだまま、フェイトは呟いた。
工場は破壊した。が、この製薬会社の背後に在るのが本当に虚無の境界であるならば、資金源や工場の1つ2つを潰した程度で、果たして終わるものなのか。
「ニコラウス様がな、お前を招いて直々に労いたいそうだ」
龍臣が言う。
「来るか?」
「……やめておく。労ってもらうほどの事は、してないからね」
フェイトは背を向けた。
「虚無の境界が相手なら、きっと長い戦いになる……また会えるよ。あんたとも、ニコラウスさんとも」

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滅びの聖女

自分が何故、こんな所にいるのか。何のために、ここへ来たのか。
 それをフェイトは、思い出した。思い出すと言うよりも、改めて考えてみなければならなかった。
 ドゥームズ・カルトを壊滅させる。それが任務である。
 だが壊滅とは、どういう事か。
 ドゥームズ・カルトが本尊として崇め奉っている、実存の神。それを滅ぼせば、この組織は地上から消え失せてくれるのか。
 ここは大僧正の間。実存の神は、この奥の聖殿と呼ばれる区域に在る。
 そこへと攻め入り、実存の神を破壊したところで、しかし意味はないのだ。
「実存の神なんてもの、代わりはいくらでもある。そうだな?」
 フェイトの問いに、レディ・エムは答えない。ただ微笑むだけだ。
 高僧の衣装に身を包んだ男女2人が、対峙している。
 男は、緑色の瞳をした若者。女は、真紅の瞳の少女。
 微笑むだけの少女に、フェイトは拳銃を向けようとしたが、拳銃など持ってはいない。捕われた際に当然、没収されている。
 この剣呑極まる相手と、素手で対峙しなければならなかった。
「このドゥームズ・カルトって組織そのものが、そうなんだよな……あんたの一存で、潰す事も出来る。地球上のどこかで、いつでも復活させられる」
「もう、そんな必要はないわ。貴方を捕えるための組織は、もう要らない。貴方は私のものに、なったのだから」
 言葉と共にレディ・エムが、たおやかな片手を掲げる。
 フェイトに奪われ、放り捨てられた杖が、ふわりと宙に浮いた。
「それが嫌なら、抗ってごらんなさい?」
 少女の繊手が、杖を再び掴んでいた。
「可愛らしく、往生際悪く、刃向かっておいでなさいな。私が叩き潰してあげる」
 言葉に合わせて、錫杖のような杖がブゥンッ! と空気を裂く。
 フェイトは軽く後方へ跳び、かわしていた。
 レディ・エムが、なおも踏み込んで来る。
 杖が、またしても唸りを発した。
「これで思いきり殴ったら、きっと痛いわよね……かわいそうなフェイト……」
 少女の細腕が、男の武術者顔負けの剛力と技量で、金属製の杖を猛回転させる。
 暴風のような一撃をフェイトは、よろめくように回避した。
 かわされた杖が、柱を直撃・粉砕する。仰々しく彫刻された石柱が、綺麗に砕け散っていた。
「だけど仕方のない事なのよ。だってフェイト、貴方は痛くしないと大人しくなってくれないから」
 石の破片を蹴散らすように、レディ・エムの細身がくるくると舞う。ゆったりとした高僧の衣装が、超高速ではためく。
 怪鳥の羽ばたきにも似た躍動に合わせて、金属の杖が唸る。様々な角度から、フェイトを襲う。
 頭蓋を狙う、横薙ぎの殴打。鳩尾を襲う、一直線の突き。低く旋回する足払い。
 全てを、フェイトは辛うじてかわした。
 白兵戦技術だけで回避できるような、甘い攻撃ではない。小規模な予知能力が自然に発動し、身体が勝手に動いている。
(何だ……俺の能力が、上がっている……いや、上げられている……?)
 フェイトは感じた。何かが、自分に働きかけている。
 自分の内にあるものが、その何かと……共鳴、共振している。
 聖殿の方向。
 得体の知れぬ何かは、そちらから感じられる。
(まさか……実存の神……?)
「……この際、何でもいい。戦いが、少しでも有利になるなら……」
 怪鳥の舞を披露しながら迫り来る少女を、フェイトは睨み据えた。
「利用させて、もらうぞ!」
 両の瞳が、エメラルドグリーンの輝きを迸らせる。
 念動力を宿した眼光が、真正面からレディ・エムに激突する。
 少女の細身が、無残にも砕け散った。一瞬、そう見えた。ちぎれた僧衣が、ひらひらと花びらの如く舞い散る。
 7人のIナンバー。その1人を、自分は砕き殺してしまったのか。フェイトは、そんな事を思った。
 自分の分身とも言うべき、7人の少女。その1人でも命を落としてしまった時、フェイトに仕掛けられた「リミッター」が解除されてしまう。結果、何が起こるのかは、フェイト自身にもわからない。
 だからと言って、生かしたまま無力化出来るような容易い相手ではないのだ。
(何とか……魂の連結を、断ち切る事が出来れば……)
 少女に植え付けられた、とある女性の魂。それを討ち滅ぼす、のは不可能でも、せめて少女から引きずり出す事でも出来れば。
 それは、しかしレディ・エムを、まともに戦って敗死させるよりも困難な離れ業である。
 幸いに、と言うべきであろうか。無残にちぎれ飛んだのは、彼女のまとう高僧の衣装だけであった。
 後方へと吹っ飛んだレディ・エムが、くるりと宙を舞いながら軽やかに着地し、杖を構える。
 少女の細身にピッタリと貼り着き、いささか凹凸に乏しいボディラインを強調しているのは、強いて言うならばチャイナドレスに似た緑色の衣装だ。水着かレオタードのようでもある。
 緑色。あの女性の髪の色だ、とフェイトは思った。
「貴方、可愛いわ……可愛すぎるわよフェイト。よりにもよって私に、念動力の勝負を挑もうなんて」
 本当に楽しそうに、レディ・エムは笑っている。
「いいわ、もっと抗いなさい。逆らいなさい、歯向かいなさい。そんな貴方を、私は今から手に入れる……フェイトを、私だけのものにする。こんな楽しい事ってないわ」
「……一応、訊いておく。俺を手に入れて、一体どうするつもりなんだ」
 フェイトは問いかけた。
「あんた、俺を一体どうしたいんだ?」
「嫌だわフェイト。私がそんな事……きっちり考えてあるとでも、思っているの?」
 レディ・エムが、ゆらりと杖を掲げる。
 フェイトを見つめる真紅の瞳が、燃え上がるように輝いた。
 今、フェイトが放ったものと同じ……否。それよりも数段上の破壊力を有する念動力の波動が、真紅の眼光と共に襲いかかって来る。
「くっ……!」
 目に見えぬ波動を、フェイトは睨み据えた。エメラルドグリーンの瞳が、激しく発光する。
 同じく念動力の塊が、防壁の形で出現した。
 そこに、真紅の眼光が、嵐の如くぶつかって来る。
 轟音と衝撃が、大僧正の間を揺るがした。
 防壁が砕け散り、目に見えぬ力の破片が、一瞬だけキラキラと光を発しながら飛散する。
 光の破片と一緒に、フェイトは後方へと吹っ飛んでいた。
 そして壁に激突し、ずり落ちる。倒れているのか座り込んでいるのか、判然としない格好になってしまった。
 背中を強打し、呼吸が止まりかけている。
 ぜいぜいと息をしながら、フェイトは血を吐いていた。体内のどこかが、破裂している。
「本当に……貴方を、どうしようかしら。ねえフェイト?」
 レディ・エムが、ゆっくりと歩み寄って来る。
 その足が、ぴたりと止まった。
「このまま、お持ち帰りするも良し。それとも……この悪趣味な建物を、綺麗なフェイト小屋に建て替えてみようかしら?」
 花の香り、のようなものが漂っている。フェイトを、包み込もうとしている。
 あの少女ならば「腐った花の臭い」と表現するであろう。
「貴方を、ここで飼ってあげる。仔犬ちゃんみたいに、ね」
 濃密に匂い立つものが、レディ・エムの身体から立ちのぼり、漂い、押し寄せて来る。
 人形のような棒立ちの姿勢のままレディ・エムは、今やレディ・エムではなくなっていた。意思を持たないに等しい、少女の肉体だ。
 真紅に輝いていた瞳は、今は緑色をしている。眼光も光彩も失い、ただ緑の色素だけで満たされた瞳が、虚ろにどこかを見つめている。
 先程まで少女の両眼を赤く輝かせていたものは、今は香気を発する何かとなって、フェイトの周囲に漂っていた。そして言葉を発する。
「こんな辛気臭い村は潰して、一面のお花畑にしてあげるわ。お花に囲まれたフェイト小屋で、貴方はもう戦う事も苦しむ事もなく幸せに暮らすのよ。ああ心配しないで。あの子もすぐに捕まえて、一緒に入れてあげるから」
 レディ・エムの人格を成しているものが、少女の身体から離脱し、フェイトを取り巻いているのだ。
「私はね、今まで辛い事ばかりだった貴方たちに、幸せになって欲しいだけ……前にも言ったけれどフェイト、貴方はあの子と2人っきりで幸せに暮らすのよ。生活の面倒は私が見てあげる」
 冷たく、しなやかで滑らかなものが、フェイトの頬に触れた。
 たおやかな、女性の手。
 目には見えない。だが確かにそれは存在していて、香気を発しながら、フェイトの頬を撫でている。本当に、愛おしそうにだ。
「私はただ、幸せな貴方たちを見つめて……幸せな気分に、なりたいだけ……」
 その手が、痙攣した。
 何かが、天井から降って来ていた。
 3本の、ナイフのようなもの。
 それらが、3方向からフェイトを取り囲む形で床に突き刺さり、三角形を成している。
 ナイフ、ではなくクナイであった。
 3本のクナイが、それぞれ1枚ずつ、長方形の紙片を床に刺し付けている。
 真言、らしきものが書かれた、3枚の札。
 それらが、雷鳴を発した。何者かの、呟きに合わせてだ。
「ナウマク、サマンダ、ボダナン……インダラヤ、ソワカ」
 真言を呟きながら、ふわりと床に降り立った黒い人影。カラスか蝙蝠が降りて来た、とフェイトは思った。
 思っている間にも、雷鳴は激しさを増してゆく。
 3枚の札が、電光を発していた。
 荒れ狂う放電の光が、3方向から発生しながらフェイトを取り囲み、まるでピラミッドのような電光の檻を形成している。
 それは、しかしフェイトを閉じ込めるためのものではなかった。
「やっと出て来たな……フェイトに、直に触ってみたかったんだろ?」
 カラスのような蝙蝠のような男が、言った。
 吐血に汚れた口元を手で拭いながら、フェイトは声をかけた。
「穂積さん……」
「そいつは悪霊怨霊の類だけを縛り付ける結界だ。お前は動けるはずだから、そこから離れた方がいい……若作りの年増女と、いつまでもよろしくやっていたいってんなら話は別だが」
 フェイトは少しだけ慌てて、その場を動いた。電光の檻から、這い出した。
 荒れ狂う電光が、フェイトの身体に触れる。何も起こらない。静電気ほどの感電もなく、フェイトはそこから脱出した。
「待って……待ちなさい、フェイト……」
 今までフェイトの身体にまとわりついていた何かが、電光の檻の中に残されている。花の香気を発する、形なきもの。
 それが今、穂積忍が結界と呼んだものに閉じ込められている。
 目に見えなかったそれが、荒れ狂う電撃の光に照らし出され、僅かながら姿を見せていた。
 空間の揺らぎが、美しい女性の姿を成している、ように見える。
 実体のない女性が、電光の檻の中で、両の瞳を赤く爛々と燃え輝かせているのだ。
「今まで……鬱陶しいけれど見逃してあげていた、ドブネズミのような男が……そう、私からフェイトを奪おうと言うのね……」
「奪うつもりはないさ。俺だって、こんなのは要らん」
「……じゃあ何で、助けに来てくれたのかな」
 フェイトは穂積を睨んだ。
 電光の檻に向かって独鈷所を掲げたまま、穂積がニヤリと笑う。
「お前はまあ、囮として役には立ってくれたからな。助けられるようなら、このまま助けてやる。まだわからんよ? お前を見捨てて逃げなきゃならん状況に、これから陥らないとも限らんからな」
「囮……ね」
 フェイトは、全てを理解した。
 穂積忍の目的。それはフェイトを手に入れるべく最終的に姿を現すであろう、とある人物の、捕縛あるいは討伐なのだ。
「ま、さすがに御本人様が出てくるわけはないか……それでもまあ、こうして魂の一部だけでも取っ捕まえておけば、本体に何らかの痛手は与えられる。上手くすれば」
「本体の居場所を、探り当てられる……かも知れない?」
「そういう事だ。ま、それはそれとして覚悟しとけよフェイト」
 穂積は言った。
「お前の単独行動、探偵様がいたく御立腹だ。便所掃除1年間、くらいで済むといいな?」 

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Mの真意

でっぷりと肥えた身体に、大僧正のきらびやかな装束が、まあ似合ってはいる。
 その着飾った肥満体に、何人もの若い女が寄り添い、艶やかに微笑んでいた。大勢の女性信徒の中から、大僧正の妾として選りすぐられた女たち。
 酒杯を片手に美女を侍らせる。あまりにもわかりやすい、破戒の聖職者。
 そんな姿を晒す、この男が、ドゥームズ・カルトという組織における最高権力者なのだ。
 元々、虚無の境界で、それなりの地位にあった男である。
 そんな男が、虚無の境界からの独立分派を成し遂げて新組織ドゥーム・カルトを立ち上げた。
 黒蝙蝠スザクの見たところ、この男に、そこまでの力量手腕はない。
 協力者がいるはずだ。
 ドゥームズ・カルト本部施設。その中枢たる、大僧正の間。
 スザクは見渡した。
 高僧の装束に身を包んだ幹部たちが、ズラリと居並んでいる。ドゥームズ・カルト幹部一同。
 有象無象としか言いようのない者たちである。この中に、陰の協力者と呼べるほどの大物はいない。
「黒蝙蝠スザク……大僧正猊下の御前であるぞ。拝跪せぬか」
 高僧の1人が、偉そうな声を発する。
「聞こえぬか貴様!」
「まあ、良い良い」
 大僧正が、鷹揚な声を発した。
「良いぞ、黒蝙蝠スザクよ。跪く必要はない。その美しく可憐な立ち姿を、私に見せておくれ……うむ、そなたは本当に美しいのう」
 どろりと濁った眼差しが、スザクの全身にまとわりつく。ゴシック・ロリータ調の黒ワンピースの上から、少女のしなやかなボディラインを嫌らしくなぞり回す。
「可愛いそなたに、罰など与えたくはないのだが……悲しいかな、そうも言っておれぬ状況よ。私が何故このような形で、そなたを呼び出さねばならなくなったのか、わかっていような?」
「……その女どもに加われ、というお話でしたら、何度もお断りしたはずですけど」
 真紅の瞳で、大僧正とその周囲の女たちを見据えながら、スザクは言い放った。
「それよりちょっと、そこ……どいて下さいません? 実存の神に、あたしこれから拝謁しなきゃならないんです」
 実存の神のまします場所は、この大僧正の間のさらに奥。スザクのような末端の戦闘員が立ち入る事など本来許されぬ、聖殿と呼ばれる領域である。
「痴れ者が……貴様一体何を言っているのか、わかっておるのか!」
 高僧たちが、口々に喚く。
「実存の神に御拝謁適うは大僧正猊下のみ! 貴様ごときが聖殿に立ち入るなど!」
「猟犬は猟犬らしく、我らの敵を狩っておれば良い! いや、それすら出来ずに失態を晒し、今まさに罰を受けんとしておるのだぞ貴様は!」
 失態。心当たりがスザクには、なくもなかった。
「もしかして……あの役立たずな人形を大量生産していた、ガラクタ工場の事を言ってるわけ?」
「そなたには、かの工場を防衛せよと命じておいたはずであるが」
 大僧正が言った。
「工場は失われ、そなたは生きてここにおる。不問とするわけにはゆくまい? 私も心苦しいのだよ、可愛いそなたに罰を与えるなど」
「あんな工場よりも、ずっと実存の神の御ためになるものを見つけたんです。それを御報告しなきゃいけません……さ、そこをどいて下さい」
「黒蝙蝠スザク……哀れな、そして愚かな娘よ。私はそなたを、甘やかし過ぎてしまったようだ」
 女の1人を左手で嫌らしく抱き寄せながら、大僧正は右手を上げた。
 重量のあるものが4つ、しかし意外に軽やかな動きで、スザクの周囲に着地した。
 4人の、大男……大柄な人型に組み立てられた、機械である。右腕は大型のチェーンソー、左腕は超銃身ガトリング砲。
 ドゥームズ・カルトの戦力の1つ、兵器人間だ。この4体は、いくらか改造が施されているようである。
「そなたの美しい手足を、切り落とさねばならぬ……だがスザクよ、芋虫のようになったそなたも可愛いのであろうなァ」
 大僧正の濁った両眼が、ギラリと輝いた。おぞましい欲望の輝き。
 それを合図として、兵器人間4体が一斉に襲いかかって来る。
 4つのチェーンソーが、轟音を立てて回転しながら、スザクの四肢を狙う。
 四方からの襲撃。その中央で、スザクは跳躍した。猛回転するチェーンソーが、4つとも空を切った。
 ゴシック・ロリータ調に黒く彩られた少女の細身が、まさに蝙蝠の如く空中を舞う。
 そこへ4体の兵器人間が左手を向ける。
 4門のガトリング砲が、一斉に火を噴いた。
 空中でスザクは、手にしていた傘を開いた。そして地上へ向ける。
 蝙蝠の翼のように開いた傘が、くるくると回転しながら銃撃を跳ね返す。
 銃弾の嵐が、ことごとく地上に向かって跳ね返され、高僧たちに、そして兵器人間4体に、降り注ぐ。
 阿鼻叫喚の地獄が、そこに出現した。
 跳弾の雨が、高僧たちの頭部を、兵器人間たちの全身を、容赦なく穿つ。
 優雅に傘を折り畳みながら、スザクは着地した。
 周囲では、間接的に射殺された高僧たちが、死屍累々と言うべき光景を作り出している。
 全身に跳弾を打ち込まれた兵器人間4体は、身体のあちこちからバチバチッと火花を飛ばしながら硬直し、立ち尽くしている。
 そちらへ向かってフワリと踏み込みながら、スザクは身を翻した。
 ツインテールの形に束ねられた黒髪。その片方の房が、優美に弧を描いて舞う。
 黒髪の房から、艶やかな黒色が溢れ出し、燃え上がった。
 黒い炎が、4体の兵器人間を薙ぎ払い、焼き払う。
 黒焦げの金属屑が、大量にぶちまけられた。
「ひ……ひぃ、ままままままま」
 待ってくれ、とでも言おうとしているらしい大僧正にも、黒い炎が襲いかかる。
 大僧正も、その周囲の女たちも、遺灰と化して一緒くたに舞い散った。
「だから、どけって言ったのに……」
 殺戮の現場と化した大僧正の間を見回しながら、スザクは溜め息をついた。
「えー、これってつまり……あたしが次の大僧正? めんどいなあ。前線で汚れ仕事やってる方が、あたし性に合ってるのに」
「貴女は現場の人なのよね、黒蝙蝠スザク」
 声がした。涼やかな、若い女の声。
「戦いの現場を求めるあまり、末端の戦闘員という身分に甘んじて……本当に、よく頑張ってくれたわね。私、貴女には感謝しなければ」
 高僧が2人、生き残っていた。
 いや違う。いつの間にか、大僧正の間に入って来ていた。
 1人は、女性である。スザクと、そう年齢の違わぬ少女に見える。高僧の装束に身を包んだ少女。
 たおやかな手で、錫杖のような杖を携えている。
 こちらを見据える瞳は、赤い。ルビーが生命を宿したかのような、禍々しい生気を漲らせた真紅の瞳。
 その眼光を、同じく赤色の瞳で受け止めながら、スザクは問いかけた。
「レディ・エム……貴女、いつからそこにいたの」
「少し前からよ。貴女の活躍、楽しませていただいたわ」
 レディ・エム。
 この少女に関して知られているのは、その呼称のみである。
 ドゥームズ・カルトという組織が立ち上がった頃から、大僧正の近辺に、彼女の影はちらついていた。
 間違いない、とスザクは思う。
 あの愚かな大僧正に、虚無の境界からの独立分派などという難事を成し遂げさせた協力者。それは間違いなく、このレディ・エムだ。
 だが彼女の事など、スザクはすぐに、どうでも良くなった。
 もう1人の高僧。いや、高僧の衣装を着せられた若い男。
「フェイトさん……! ちょっと、何なのよその格好!」
 自分の声が弾むのを、スザクは止められなかった。
「もしかしてドゥームズ・カルトに入信希望!? いいわ、いいわよぉ。あたしが貴方を、思いっきり有効活用してあげる!」
「…………」
 フェイトは、何も言わない。
 高校生にも見えてしまう童顔には何の表情も浮かんでおらず、緑色の瞳は、眼光を抜き取られてしまったかのように虚ろである。
「ちょっとレディ・エム……貴女、この人に何かした? 洗脳の類?」
「そこまで大掛かりなものではないわ。まあ、催眠術レベルの処理をね」
 レディ・エムが微笑んだ。
 美しくも禍々しい笑顔。それに、真紅の瞳。
 その美貌は、よく見るとフェイトに似ている。だがその微笑みは、ある1人の女性を彷彿とさせる。
「フェイトったらね、たった1人でここに乗り込んで来たのよ? だから私が……かわいそうだけど、ほんの少しだけ痛い目に遭わせてあげたの。これに懲りて、無茶を控えてくれると良いのだけど」
「そう……相変わらず正々堂々、1人で真っ正面からカチ込んで来たわけね」
 無表情なフェイトの頬に、スザクはそっと手を触れた。
「その男らしくて、おバカな魂……あたしが、もらうわ。身体の方は、今言った通り有効活用してあげる。偉大なる、実存の神の御ために」
 ちらり、と聖殿の方に視線を投げる。
 末端の戦闘員が立ち入る事は許されない、とは言えスザクは何度も忍び込んだ。実存の神に、何度も拝謁した。
 拝謁する度、目の当たりにせざるを得なかった。
「偉大なる実存の神が、その実……どれほど脆弱で不完全な存在であるのか」
 レディ・エムが言った。
「貴女は知っているのよね? 黒蝙蝠スザク」
「レディ・エム……貴女、下っ端のあたしなんかより、ずっとよく知ってるはずよね? 実存の神について」
 フェイトとレディ・エム。お揃いの高僧衣を身にまとう2人の姿が、スザクの視界の中で、急速にぼやけてゆく。まるで、水中に沈んだかのように。
 涙に沈んだのは、スザクの瞳の方だった。
「神は……あの子は……ねえ、いつまで保つの?」
「……今、生きているのが不思議なくらい」
「そう……でも、助けてあげられるのよね? だってフェイトさんが、ここにいるんだから」
 泣きじゃくりながらスザクは、フェイトの身体にすがりついた。
 綺麗な五指が、僧衣の内側に忍び込んでゆく。
 形良く引き締まった胸板が、少しだけ露わになった。
「戦ってみて気付いたわ。フェイトさんの力は、身体は、偉大なる実存の神と同じ……この強くて綺麗で健康な身体の、いろんな部分……あの子に、移植してあげられるんでしょう? あの子を助けてあげられるんでしょう? ねえレディ・エム」
「やってみなければ、わからないわ」
「やってもらうわよ。貴女も、虚夢の境界を裏切ってこっちに来たんでしょう? ドゥームズ・カルトと、運命共同体で行くしかないんでしょう?」
 レディ・エムは、もはやドゥームズ・カルトを裏切れない、はずであった。
「フェイトさん……貴方の身体は、あの子のもの。貴方の魂は、あたしのもの……」
 表情のないフェイトの顔を、スザクはそっと撫でた。
 その瞬間、睨まれた。
 フェイトに、ではない。彼の瞳は相変わらず、一切の眼光を失ったまま、ぼんやりとした緑色を湛えている。
 スザクが感じたのは、青い眼光だ。
 冷たく鋭いアイスブルーの瞳が、どこからか視線を突き刺してくる。
 スザクは、思わず飛び退り、見回した。
「なっ……何……誰!?」
 青い瞳をした何者かの姿など当然、どこにもない。この場にいるのは、真紅の瞳の少女2人と、緑眼の青年1名のみだ。
 だがスザクは、殺意に近いものを宿したアイスブルーの眼光を、確かに感じていた。
「殺る気満々で、あたしを睨んでやがるのは一体誰!? ちょっと出て来なさいよ!」
「あの子は、ここにはいないわ。フェイトを通じて、貴女に警告の眼差しを送っているだけ」
 謎めいた事を言いながらレディ・エムが、ゆらりと身を寄せて来る。
 錫杖のような杖が、しゃら……と微かに鳴った。
 それが聞こえた時には、もはや遅かった。
「だけど私は……警告なんて、してあげないわよ?」
 杖の先端が、スザクの細い脇腹に、めり込んでいる。
 何か叫ぼうとしながら、スザクは血を吐いた。折れた肋骨が、体内のどこかに刺さっている。
「あの出来損ないに、フェイトの身体を捧げる? 移植する? ……世迷言も、休み休み言いなさい」
 レディ・エムの声が、冷ややかに降って来る。
 スザクは、倒れていた。
 ゴシック・ロリータ調に着飾った細身が、痛々しく痙攣し、のたうち回る。可憐な唇が、苦しげに開閉しながら吐血で汚れてゆく。
 そこへレディ・エムが、にこやかに声を投げた。
「フェイトの身体も魂も、私のものよ。手間はかかったけれど、フェイトはこうして私のもとへ来てくれた……貴女たちドゥームズ・カルトのおかげよ」
「……………………ッッ!」
 悲鳴も怒声も、吐血に潰されてしまう。スザクはただ、睨む事しか出来なかった。
 真紅の瞳が、レディ・エムに向かって眼光を燃やす。
 同じく真紅の瞳が、スザクに向かって冷ややかな眼光を降らせる。
「フェイトが欲しい、それは私の個人的な望み……そのために虚無の境界を動かす事は出来ない。私の個人的欲望を叶えてくれる組織がね、必要だったのよ」
 それが、ドゥームズ・カルト。
 このレディ・エムという、美少女の姿をした悪しき何者かは、組織立ち上げの協力者などではない。
 ドゥームズ・カルトという組織の、設立者なのだ。
 あの大僧正ら、虚無の境界において己の待遇に不満を抱いていた者たちを、巧みに誘導して独立分派させ、新組織の本尊として『実存の神』を当てがった。
 そのようにしてドゥームズ・カルトを作り上げた少女が、さらに言う。
「実存の神……ふふふ、大切に扱ってくれたようで嬉しいわ。フェイトのクローンの中で、比較的ましなものを選んだつもりだけど、思った以上に役立ってくれたわね。そして、それは貴女も同じ」
 レディ・エムが、高々と杖を振り上げた。
「今まで、本当にありがとう。ご苦労様……一足先に、霊的進化への道を歩みなさい」
 その杖が、スザクの頭に振り下ろされる……寸前で、止まった。
 フェイトが横合いから、杖を掴んでいた。
「わざと捕まった……なんて言っても、信じてもらえないかな」
 緑色の瞳に、眼光が蘇っている。
 あの工場で戦った時と同じ、闘志に満ちたエメラルドグリーンの眼差し。
「フェイト……貴方……」
「レディ・エム……霧、ミストのMって事でいいのかな」
 霧を名前に含む女を、スザクも知っている。
「あ……あたしを……」
 スザクはようやく、声を発する事が出来た。
「……助けてくれた、つもり? そんな事したって……」
「別に、恩返しを期待してるわけじゃあない」
 言いつつフェイトは、レディ・エムの細腕から杖を奪い取り、放り捨てた。
「あんたを助けたつもりもない……俺自身、自分が今何やってるのか、よくわかってるわけじゃあないんだ」

カテゴリー: 02フェイト, season8(小湊WR), 小湊拓也WR(フェイト編) |

滅びの神殿へ

お前、割とキレやすいからなあ。
知り合いに、そう言われた事がある。その通りだ、とフェイト自身、思わざるを得ない。
頭に血が昇ると、止まらなくなってしまう。幼い頃、父親の肉体を破壊した時から、自分はそうだ。
インドでは、殴る蹴るの暴行で人を殺した事がある。
「俺にはリミッターが仕掛けられてる……らしい。そいつが外れると」
某県、とある山村。
廃村寸前であった村1つが丸ごと、ドゥームズ・カルトの本拠地となっていた。
「俺は……たぶん、止まらなくなる。上手いこと敵だけを選別して叩き潰すような、そんな器用な制御が出来る自信はない」
『だから……あの子を、置いて来たのね』
すでに姿を消した少女の、声だけが聞こえる。
『あの子が死ねば、貴方は爆ぜて止まらなくなってしまう……死ぬような危険があの子に迫れば、助けるために、守るために、貴方はやっぱり爆ぜて止まらなくなってしまう』
結果、守らなければならない少女の身を、暴走の巻き添えにしてしまう事にもなりかねない。
自分には、もはや単独行動しか許されていないのだ、とフェイトは思った。
「俺がどうなるか、見届けてほしい。もしも……」
自分が、爆ぜて止まらなくなってしまったら。暴走する怪物と、成り果ててしまったら。
フェイトがそれを言う前に、少女は言った。
『殺して止める……なんて事、あたしには出来ないから。出来ても、する気はないから。そのつもりでいてね、フェイト』

 

 

貧困につけ込む形で、ドゥームズ・カルトは村全体を掌握してしまったらしい。
村人たちはほぼ1人残らず『実存の神』の信奉者で、信奉しない者に対する暴力的な私刑も行われているという。
外部の人間に対しても容赦はない、聞いていたが、今のところは襲いかかられたりする事もなく、フェイトは村の中を歩いていた。
真夜中である。村人たちは寝静まっているのか、あるいは起きて息を潜めているのか。
真円にいくらか足りぬ月が、村全体に冷たく清かな光を降らせてくる。
その月光の中に浮かび上がる、禍々しき威容。
寺院か、あるいは神殿と呼ぶべきか。
ドゥームズ・カルトの本部施設。その巨大な正門が、怪物の大口の如く開いている。
「わざと捕まって、実存の神様とやらの所まで連れてってもらう……それも1つの手かな」
呟きながらフェイトは、開けっ放しの正門を堂々とくぐり抜けた。
「まあ、行ける所までは行ってみようか……っと」
フェイトは、思わず目を見張った。
正門を抜けると、そこは広大な庭園だった。奇怪な石像が、あちこちに立っている。
湖のような人工池に、豪奢な橋が架けられていた。
橋を渡った先が、本部施設の入り口である。
その橋に、篝火が灯ってゆく。
「俺……歓迎されてる、って事かな」
煌々と篝火を燃やす巨大な橋に、フェイトは足を踏み入れた。
その明かりの中に、奇怪なものたちの姿が浮かび上がる。
彫像か、とフェイトは一瞬、思った。庭園のあちこちに立つものと同じ、異形の怪物たちの石像。
それらが一斉に、襲いかかって来る。
石像ではなく、有機的な肉体を有する怪物たちであった。
皮膚を剥がされた人体、のような姿。隆々たる剥き出しの筋肉は、しかし外皮同然の強靭さを有しているようだ。
そんな怪物たちが、牙を剥き、皮膚のない剛腕を振るい、その先端でカギ爪を閃かせる。フェイトに向かってだ。
「お前らに歓迎されるのは、嬉しくないな……俺、お前らとは2度と会いたくなかったよ」
錬金生命体。
群がり襲い来る彼らの真っただ中で、フェイトは身を翻した。
黒いスーツはズタズタに裂け、血に汚れ、赤黒いボロ雑巾と化している。
その懐から、拳銃が引き抜かれる。左右2丁。フェイトの両手に握られながら、火を噴いた。
フルオート、ではなく単射である。
回復してもらった、とは言え体力も気力も残弾も、ここで消耗し尽くすわけにはいかないのだ。
あの少女がもたらしてくれる回復に、頼りすぎてはならない。彼女とて、虚無の境界に身柄を狙われているのだから。
至近距離に達していた錬金生命体が、2体、3体。フェイトにカギ爪を叩きつけようとしながら硬直し、倒れてゆく。
彼らの額あるいは眉間に、銃痕が生じている。
単射された弾丸が、頭蓋の内部奥深くに達し、ヴィクターチップを粉砕したのだ。
「やっぱり……第3の目、の位置か」
そこを正確に撃ち抜く事が出来れば、銃弾が最短距離で、ヴィクターチップに達してくれる。
額に銃痕を穿たれた錬金生命体が1体、しかし何事もなく牙を剥き、フェイトの首筋に喰らいついて来る。第3の目を、僅かに外した。銃弾は恐らく、ヴィクターチップをかすめて脳内にとどまっている。
「くっ……やっぱり、あの人みたいなわけには!」
フェイトは軽く後方へステップを踏んだ。首筋を狙っていた牙が、眼前でガチッ! と噛み合わさる。
左右からも、背後からも、牙が、カギ爪が、間断なく襲いかかって来る。
全方向からの襲撃である。身体を大きく動かしての回避行動は、不可能だ。
人混みで通行人を避けるように、フェイトは小刻みに身を揺らした。
二の腕や背中で、ぼろぼろのスーツがさらに容赦なく切り裂かれてゆく。
首筋を、冷たい風が撫でて走る。
錬金生命体たちの攻撃が、フェイトの全身あちこちを高速でかすめ続けた。
牙を剥きながら間近を通り過ぎて行く、怪物たちの頭部。
その眉間に、あるいは側頭部に、後頭部に、顎の下に、フェイトは左右2つの銃口を次々と押し当てながら引き金を引いた。
単発で撃ち込まれた弾丸が、錬金生命体たちの頭蓋内部で、ヴィクターチップを粉砕してゆく。
受信装置を破壊すれば、1匹につき弾1発で済む。よく狙え。
そんな事を言っていた男がいる。遠隔操作で操られる機械の怪物たちを、彼は言葉通り、1体1体をそれぞれ弾1発で射殺して見せた。
「あの人の……真似、くらいは出来たかな」
1匹残らず屍と化した錬金生命体たちが、橋のあちこちで干からび、ひび割れ、崩れてゆく。
そんな光景の中を、フェイトはゆっくりと歩いた。
そして立ち止まった。
本部施設の入り口。そこに、細身の人影が佇んでいる。
仏教の僧侶にも、キリスト教の司祭にも、似ているがそのどちらでもない僧衣。
フェイトも資料で見た事がある。ドゥームズ・カルトの上位幹部、高僧と呼ばれる人々の制服だ。
そんなものに小柄な細身を包んだ、若い女性。と言うより少女。たおやかな片手で、錫杖のようなものを携えている。実存の神に仕える高僧の、聖なる杖。
「あんたは……?」
フェイトは声をかけた。夜闇の中で、少女の顔はよく見えない。美しい輪郭が、辛うじて見て取れるだけだ。
その端麗な口元が、にこりと歪んだ。
僧衣をまとう細身が、ゆらりと踏み込んで来る。
棒術か、槍術か。ともかく素人の踏み込み、ではなかった。
聖なる杖の先端が、フェイトの鳩尾にめり込んでいた。
「ぐっ……え……ッッ!」
膝から崩れかけたフェイトの左右に、それぞれ1体ずつ、錬金生命体が回り込む。
凄まじい力に左右から拘束されるのを感じながら、フェイトは、眼前の少女を睨み据えた。
顔は、やはりよく見えない。ただ夜闇の中で、真紅の眼光だけが禍々しく輝いている。
黒い炎を操る、あの少女か。
(いや……少し、違う……?)
そんな事を思いながら、フェイトは意識を失った。
首筋に、杖の一撃を受けていた。

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金色の蛾と褐色の蝶々

オーリエ家の使用人たちが日頃していた事を、そのまま実行する。
そう思えば、さほど難しい事ではなかった。
「使用人どもに出来て、私に出来ないはずはないのだ……ふん。こんなもの、こんなもの」
ウィスラー・オーリエはダスターを握り締め、ひたすらにテーブルを拭いた。
開店前のジャズクラブ。店内にいるのは、従業員ウィスラー・オーリエ1人だけである。
「この私が手ずから、汚れきった貴様たちを拭い清めてやろうと言うのだ。光栄に思え、テーブルども」
テーブルではなく、世の中の汚れを全て拭い去る。かつて自分は、そのために働いていたはずであった。戦っていたはずであった。
戦い、敗れ、ゴミのように扱われた。今ならば、はっきりと思い出せる。
この店で使用人の如く働いている限り、そのような目に遭う事はない。
経営者は確かにいくらか過酷な人物ではあるが、少なくともウィスラーを、折り畳んでゴミ袋に入れたり、そこにモップを突き込んで来たりはしない。
そんな目に遭う事のない、平和な日々が続いている。
自分はドゥームズ、カルトから、解放されてしまったのだろうか。
ふと、そんな事を思いながら、ウィスラーは顔を上げた。
店の扉が、開いたのだ。
「お客様、申し訳ございません。まだ開店のお時間では……」
そこまで言って、ウィスラーは固まった。
ここにいるはずのない、こんな所へ来るはずのない男が、そこに立っていたからだ。
「お客様……などという言葉遣いが、出来るようになったのですねえ」
褐色の秀麗な容貌が、楽しそうに微笑んでいる。
面白いものを観察する眼差しが、眼鏡越しに、じっとウィスラーに向けられて来る。
「変われば、変わるものですね。誰からも嫌われる毛虫や芋虫が、いくらかましな蛾に成長したようなものでしょうか。蝶々と呼べるほど綺麗な変化ではありませんが……あ、私は蛾も大好きですよ。蝶と蛾の区別というのは、実は難しいものでしてね。言うならば、ここの経営者の方に『お金持ちの御曹司』と一括りに扱われてしまう、私と貴方のようなもの」
「ダグラス・タッカー……!」
息を呑みながら、ウィスラーは呻いた。
様々な罵詈雑言が、胸の内で渦巻きくすぶりながら、喉元まで込み上げて来る。
それを吐き出さずにいられたのは自分が、この店の制服を着ているからだ。
前掛けに、店の名前がきっちり刺繍されているからだ。

 

 

開店前に押しかけて来た無礼な客を、しかし従業員ウィスラー・オーリエは親切に、カウンター席まで案内してくれた。
ダグは、とりあえずハウスワインを注文した。店独自の一品である。
ワインに関する口上を、感心にも一通り覚えたのであろうウィスラーが、それを口にしようとする。
しかしダグは、それを片手で制した。そしてグラスを傾け、中身を一口だけ味わってみる。
「ふむ……これは珍しい。いわゆる本場の味ではなく、日本産ですね。ゼンベー・カワカミの技法を受け継ぐ、由緒正しい味」
「……お見事でございます、お客様」
ウィスラーが、恭しく一礼する。
意外に、と言っては失礼であろうが様になっている。
この御曹司に、ここまでの接客技法を身につけさせる。経営者である、あの女性の手腕であろう。
「見違えましたよウィスラーさん。最初は、貴方だとわかりませんでした」
「落ちぶれた、と言いたいのだろう……おっしゃりたいのでしょう? お客様」
ウィスラーの声が、震えている。ダグは微笑みかけた。
「今は営業時間外。従業員と客、ではなく……昔馴染みの話し方で、いきましょう」
「……私を嘲笑いに来たのか、ダグラス」
ワインに毒でも入れかねない形相で、ウィスラーが睨みつけてくる。
「貴様の商会とて忙しいであろうに、若社長自ら御苦労な事だな。それとも貴様、暇人か? その歳で若隠居か。内輪揉めにでも敗れて、事業から外されたのか。だとしたら私と大して変わらんな」
「若隠居。いいですねえ。日がな一日、虫たちと過ごす暮らしをしてみたいものです」
もう一口、ワインを飲んでから、ダグは本題に入った。
「虚無の境界から独立分派した方々がいらっしゃるようですね。確か……ドゥームズ・カルト、でしたか。貴方がたオーリエ財団が、随分とあの方々に投資しておられると聞きまして」
「……何か、文句があるのか」
「文句はともかく、関心はありますよ。商売敵が、どのような相手と手を結んでいるのか……ドゥームズ・カルトとオーリエ財団を繋ぐ御曹司、貴方の動きには注目せざるを得ません。いろいろと調べさせていただきましたよ」
「私ではない。財団とドゥームズ・カルトを繋げているのは、私のクローンだ。誰もクローンなどと見抜いてはくれんがな」
ウィスラーの青い瞳の奥で一瞬、黄金色の炎が燃えた、ように見えた。
「それより貴様。いろいろ調べたというのは、一体どの程度だ。私が今、どのような存在であるのか……そこまで知っているのか」
「お気になさらず。人間ではない方々なら、IO2にも大勢いらっしゃいますからね」
IO2エージェントには、ジーンキャリアもいる。
今のウィスラー・オーリエは、ジーンキャリアとは、蝶と蛾くらいには異なるようだ。
「それよりもウィスラーさん。私どもタッカー商会は、貴方がたオーリエ財団ほど大規模ではないにせよ、いくらか死の商人めいた事業も手がけておりましてね」
「ふん。紅茶を売って儲けた金で、BC兵器の類でも開発しているのか」
「そんな古臭い分野に今更、踏み込もうとは思いませんよ。我が商会が開発しているのは、全く新しい兵器です」
兵器、と呼んで差し支えはないであろう。
鎧の如く装着して人力を数十倍、数百倍に強化し、拳と蹴りだけで爆撃並みの破壊をもたらす兵器。
空爆の類と異なり、破壊・殺戮の対象を、装着者の意思で選定する事が出来る。米軍などがやっているように、一般市民を巻き添えで爆殺してしまう事もなくなる。
実験は済ませた。ダグの個人的な知り合いでもある1人のIO2エージェントに、実験台を務めてもらったのだ。
彼は、ダグの贈った装着兵器の試作品を身にまとい、戦い、アメリカでの一連の騒動に決着をつけた。
「ウィスラーさんはご存じでしょうか? 少し前に、アメリカでおかしな事が起こっていました」
「ニューヨークがテロリストに襲われたり、グレートプレーンズを巨大ハリケーンが縦断したり、日本嫌いで有名な上院議員が不審死を遂げたりと、いろいろ賑やかではあったな」
ウィスラーが微かに、鼻で笑った。こういう仕草は、なかなか様になっている。
「詳細は知らん。が、虚無の境界が何らかの形で関わっていたのは間違いあるまい。アメリカを支配下に置くつもりで、いろいろと暗躍していたようだが……結局は失敗に終わった。愚かな奴らよ」
確かに、失敗だったのだろう。
だが、あの騒動で、虚無の境界は1つ恐るべき技術を完成させた。
「錬金生命体、というものをご存じですか?」
「錬金……? 知らんな」
すでにドゥームズ・カルトから除籍されたに等しいウィスラーが、知っているはずはなかった。
「かの騒動の、中核を成していた怪物たちの名称ですよ。ちょっとした伝手で、我が商会は、彼らの標本屍体をいくつか手に入れる事が出来ました。もちろん目的は屍体そのものではありません。屍体の頭部に埋め込まれていた、メモリー装置です。これによって錬金生命体たちは、戦闘経験を蓄積・共有していたのですよ」
例えば1体が、戦いで死んだとする。他の者たちは即その場で、死をも経験した歴戦の兵士となる。
短期間での精鋭育成を可能にする、そのメモリー装置の名称はヴィクターチップ。
その技術を、開発中の装着兵器に応用すべく、タッカー商会では現在も研究が続けられている。
「そのヴィクターチップが……つい最近、戦闘データの獲得・蓄積を再開したのですよ」
「……錬金生命体とやらが、どこかで戦闘あるいは破壊殺戮を行い、経験値を貯めている最中と。そういう事ではないのか」
「あり得ません。アメリカでの一連の騒動の末、錬金生命体は全滅したのですから」
装着兵器の実験台となってくれた青年が、錬金生命体たちの命と魂を、全て使い果たしたのだ。
「私はそう思っていたのですが……この日本でね、どうやら錬金生命体を1から作り直してしまった人たちがいるようなのです」
「まさか……ドゥームズ・カルトが? 私の知らない、怪物などを……」
「ウィスラーさん、どうかお忘れなきように。貴方はもう、かの組織とは無関係なのですよ」
それは祝福すべき事である。ダグは乾杯の形に、ワイングラスを掲げて見せた。
「彼らは、とてつもなく愚かな事をしました。錬金生命体を復活させる……それはね、この世で最も怒らせてはならない人の逆鱗に触れる愚行」
掲げたグラスの中身を、ダグは一気に飲み干した。
「ドゥームズ・カルトは終わりです。彼を、怒らせてしまったのですから」
「何だと……おい貴様、何を言っている」
ウィスラーの青い両眼で、黄金色の炎が燃えた。
「彼、とは何者だ。どこの何者が、我がドゥームズ・カルトに害をなさんとしているのだ」
「IO2の精鋭、とだけ言っておきましょう」
ダグは、カウンター席から立ち上がった。
「繰り返しますがウィスラーさん、貴方はもうドゥームズ・カルトとは無関係です。このお店の従業員として……まずは、お勘定をお願いしましょうか」

 

 

ダグラス・タッカーが自ら来日した。
それはつまり、タッカー商会そのものが動いた、という事である。ドゥームズ・カルトを潰すために。
偉大なる『実存の神』を、この世から消し去るために。
ダグラスの言う通りならば、IO2も動いている。
IO2とタッカー商会が手を結んで、ドゥームズ・カルトを潰しにかかっているという事だ。
命が惜しければ手を出すな、とダグラス自ら、わざわざ伝えに来たのだ。
「貴様が……私に、警告だと……」
ダグラスの去った店内で、ウィスラーは1人、呻いていた。
屈辱が、身体の中で燃え上がる。金色の炎が、全身から溢れ出してしまいそうだった。
ドゥームズ・カルトの勢力が著しく衰えているのは、ウィスラーに対する刺客が、あれから全く放たれて来ない事からも明らかである。
脱走した元幹部の始末どころではない状態に、ドゥームズ・カルトは陥っているのだ。
そこへIO2とタッカー商会が、結託して襲いかかる。
ドゥームズ・カルトは終わり、というダグラスの言葉は決して誇張ではない。相手を必ず叩き潰せるという公算がなければ、絶対に動かぬ男である。
「私は……脱走した、わけではないのだぞ……」
オーリエ財団において自分は、飾り物の御曹司として、捨て扶持を与えられるだけの存在だった。
大幹部として、働きを示す。
そのためにウィスラーは、人間をやめてまでドゥームズ・カルトに入信した。
だが今に至るまで、自分は大幹部として何も為してはいない。
何も出来ていないまま、こうして組織の壊滅をやり過ごそうとしている。つまり、逃げているという事だ。
「私は……逃げている、わけではないのだぞ……!」
使い捨ての兵隊として量産された、自分のクローンたちを、ウィスラーは思い出していた。
彼らを大量に殺戮しながら、自分は逃げ出して来たのだ。
あんなふうに雑魚として虐殺されながら、彼らは『実存の神』の下僕としての生き様を全うするのだろう。殺されるまで、戦い続けるのだろう。
オリジナルである自分はどうか。
ドゥームズ・カルトから解放された、などと一息つきながら、こんな所で安穏と使用人の真似事をしている。
「私は……まだ、戦ってすらいないのだぞ!」
店の名前が刺繍された前掛けを、ウィスラーは脱ぎ捨てた。

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蘇る因縁

 意識を失う寸前、僧衣をまとった男の姿を見た、ような気がする。
 仏教の僧侶か、キリスト教の司祭か、判然とはしないがとにかく神聖な装いをした男性。
 力を消耗し尽くしたイオナの目に、その姿は、とてつもなく神々しく映った。
 気高き高僧。自分の臨終に、立ち会ってくれるのか。経を唱えてくれるのか、神に安らぎを祈ってくれるのか。
 そんな事を思いながら、イオナは気を失っていた。
 そして今、目覚めてこの部屋にいる。
「……ここ……は……」
 イオナは、ソファーに寝かされていた。
 いささか起伏に乏しい少女の細身に、まるで入院患者のような、ゆったりとした白い服を着せられている。
 その下は、包帯だ。ほぼ全身に、巻き付けられている。
「安心したまえイオナ嬢。君を脱がせて手当てしたのは、俺じゃあない」
 声がした。男の声。聞き覚えのある声だ、とイオナはまず思った。
「君と一緒に戦っていた、あのお掃除お姉さんだよ。彼女ああ見えて割といろんな事、出来るんだよね」
 向かい側のソファーに、その男はゆったりと腰を下ろしていた。
 白衣を身にまとった、理系の人間だ。イオナの世話をしてくれるIO2の技術者たちと、感じが似ている。
 いや。彼ら彼女らと比べて、一癖も二癖もありそうな男だ。
 年齢は、外見からは読みにくい。20代の青年にも見える。老獪な中年男にも見える。
 そして、その光彩に乏しい暗黒色の瞳。
「ここって実は女の人が少なくてね。どいつもこいつも、可愛い女の子でも作ればいいのに何でか美少年しか作ろうとしない。君の世話は、だから彼女に任せるしかなかった」
「伊武木リョウ……」
 イオナは、どうにか名前を思い出す事が出来た。
「ここは……そうか、貴方の研究室か」
 見覚えのある部屋である。
 以前ここで伊武木リョウに、コーヒーとフィナンシェを振舞ってもらった事がある。
「私は……戦闘中に力尽き、無様にも意識を失って、ここに運び込まれたと。そういう事だな?」
 イオナは思わず、伊武木を睨んでしまった。緑色の隻眼が、鋭く輝く。
「助けていただいた事は感謝する。いずれ借りは返す……だが、やはり魂胆を疑ってしまうな。何故、私を助けてくれた?」
「魂胆か。まあ、無くはない」
 その眼光を、伊武木は、不敵な微笑で受け止めた。
「あの男の研究を受け継いだせいか……君は、とんでもなく出来のいいクローンだからね。ついつい何かの実験材料にしたくなる誘惑、抑え込むのに苦労してるよ」
「……私を、もっと強力な生体兵器に改造してくれるのなら」
 イオナは言った。
「実験台にでも研究材料にでも、してくれれば良い……とは思うが、私の一存で決められる事ではないな」
「強く、なりたいのかい?」
 伊武木の笑みが、ニヤリと歪みを増す。
 見据えたまま、イオナは答えた。
「私の兄が……1人でドゥームズ・カルトの本拠地へと向かってしまった。私は、兄の単独行動を止められなかった……戦力外と判断され、置いて行かれたのだろう」
「戦力外通告を、黙って受け入れてしまうのかな?」
 伊武木の言葉に、イオナは答えられなかった。
「以前あの兄上を助けるために、ここへ殴り込んで来たのはイオナ嬢だろう。助けてもらった身分で、君に偉そうな戦力外通告なんて下す資格ないと思うけどね」
「……そうだな。確かに、偉そうだ」
 あの兄は偉そうに、一方的に、イオナを気遣っている。1人で気負っている。確かに元々、気負いがちな性格ではあるのだが。
 あの錬金生命体という怪物たちと遭遇した時から、であろうか。兄の様子が、どこかおかしい。
「その左目……」
 黒いアイパッチを走らせるイオナの顔を、伊武木がいささか無遠慮に見つめてくる。
「初めてイオナ嬢を見た時から思ってたんだけど君、もしかして身体じゅうに不具合が出てるんじゃないか? 本当はまだ這い這いから立っち出来るかどうかって年齢なのに、日本刀なんか振り回せるくらいまで急激に成長させられたせいで……ああ大丈夫、君の刀はここにあるよ」
 ソファーの傍に、イオナの刀は立てかけられていた。鞘を被った、無銘の数打ち物である。
「いいお薬があるんだけど、試してみる?」
 伊武木が、少しだけ身を乗り出して来る。
「成長促進剤って言ってね。ああ名前は促進剤だけど大丈夫、一気にオバサンになっちゃったりする事はないから。急激な成長を、身体に無理のない状態に修正するためのものでね……うん、オバサンにはならないけど君の場合、年齢相応の身体に戻っちゃうかも知れない。つまり赤ちゃんか幼女になっちゃうかも知れないって事で、それはそれで見てみたいなあ。どう?」
「……私の一存では決められない、と言ったはずだ」
 一言で却下しつつイオナは、ソファーから立ち上がった。
 身体は、ほぼ問題なく動く。
「世話になった。あの清掃人のお2人にも、礼を言っておきたい」
「2人とも、もうここにはいないよ。俺なんかと違って忙しい人たちだからね」
 伊武木は言った。
「イオナ嬢も忙しそうだねえ。もう行っちゃうのかい?」
「念のため言っておく。止めても無駄だ」
「止めはしないさ。君のお兄さんには、助けが必要だ」
「兄を助けに行くわけではない。任務を、続行するだけだ」
 ドゥームズ・カルトの本拠地を潰す。その任務は、継続中なのである。
 任務遂行の過程で、結果として兄の手助けをする事になってしまうかも知れない。
 そこまでは、イオナは言わなかった。
「君は、生きてお兄さんを助けなければいけない」
 伊武木の口調が、いくらかは真摯な響きを帯びる。
「イオナ嬢の身に万一の事があれば……君のお兄さんは大変、困った事になってしまう」
「……まあ、少しは悲しんでくれるかも知れないが」
「そういう事じゃなく、リアルに物質的な意味で大変な事が起こってしまうんだよ。目覚めてはならないものが目覚める。災害、と言ってもいい。人が大勢死ぬ。イオナ嬢の命は、言ってみれば鍵なんだ」
 伊武木が、わけのわからない話を始めた。
 無視して出て行くべきか、とイオナは思った。
 思いとどまったのは伊武木が、ある数字を口にしたからだ。
「鍵は、全部で7つある」
「7つ……だと」
 7。それはイオナにとって、聞き流す事の出来ない数字であった。
「昔……1人の男が、深く暗い牢獄に悪魔を閉じ込めた」
 伊武木が、自分に何かを伝えようとしている、とイオナは感じた。
「牢獄の鍵は7つ……どれか1つだけでも、鉄格子戸を開いて悪魔を解き放つ事が出来る」
「私の命が、鍵。そう言ったな」
 イオナはちらりと、伊武木に隻眼を向けた。
「7つの命、というわけか?」
「そう、命だ」
 ある男が、悪魔を閉じ込めた。
 その男を伊武木は憎んでいる、とイオナは思った。根拠はない。彼の口調から、何となく感じられるだけだ。
「……俺が言いたい事は、ただ1つ。その悪魔が、うっかり解放されてしまった場合の話さ」
「私に何か、出来る事が?」
「君にしか出来ない事だよ、イオナ嬢」
 伊武木がソファーから立ち上がり、何かを手渡してくる。
「その悪魔をもう1度、閉じ込めて鍵をかける。それが出来るのは、君だけだ」
 丁寧に折り畳まれた、黒い男物の上下である。
 イオナが着ていたIO2の制服は、そう言えばあの戦いで、血まみれの雑巾のようになってしまった。
「用意出来る服が、これしかなかった。うちの子の、お下がりと言うか予備なんだけど」
「彼か……」
 氷の能力を持つ、青い瞳の少年。
 何か1つ間違っていれば、彼とも殺し合わなければならなかったところである。
「ここで着替えてくなら、俺ちょっと出てるけど」
「その必要はない」
 白い入院着のような服を、イオナは無造作に脱ぎ捨てた。
 伊武木が、いくらか慌てて後ろを向いた。

 廊下を去って行くイオナを見送り、研究室のドアを閉める。
「ふう……やれやれ」
 一杯やろうか、と思ったところで伊武木リョウは固まった。
 もう1人の伊武木リョウが、ゆったりとソファーに腰を下ろし、ウイスキーのグラスを優雅に傾けている。
 常温保存可能な数種の薬品類と一緒に、隠しておいたものだ。あっさり見つけられていた。
「どいつもこいつも何が美味くて、こんなもの飲んでるのか……この歳になっても、よくわからんよ」
 ちびちびとウイスキーを啜りながら、もう1人の伊武木は言った。
「人生間違ってるのかなぁ、俺」
「職業柄いろんな人に化けなきゃならないし、人混みに紛れ込んで仕事する時もあるんだろ? だったら少しは酒の飲み方も覚えた方がいいと思うがね」
 向かい側のソファーに、伊武木は腰を下ろした。
 鏡と向かい合うような格好になった。
「ほらほら、そのグラスの持ち方。俺と比べて全然、様になってない。そんなんじゃすぐにバレるぞ」
「そうか。じゃ、本物に消えてもらおうかな」
 鏡の中の伊武木が、ニヤリと笑った。
 まさしく自分は今、この男に消されるところだったのだ、と伊武木は思った。
 思いながら、微笑み返してみる。
「まったく……いつから、ここにいたのかな。あの子の生着替え、隠れてずっと見てたわけじゃないだろうな」
「そこまでして見るものでもなし。俺、駄目なんだよ。もっと胸とか腹とか弛んでて、生活の疲れが滲み出た女じゃないと。イオナ嬢ちゃんがそのレベルに達するまで、あとまあ2、30年はかかるな」
 美少年ホムンクルスばかり作ろうとする、この施設の研究員たちよりは、正常な性的嗜好の持ち主なのだろう。
 伊武木は、そう思う事にした。
「なあ伊武木先生。ここは研究所なのに何だ、白衣や眼鏡の似合う理系の年増女はいないのか?」
「白衣と眼鏡の似合うダンディーなら1人、知ってるよ。あんたと仲良く出来るかどうかは、どうだろうなあ」
「そうかい。じゃあ帰るとするか」
 伊武木リョウ、に化けた男が、ソファーから立ち上がる。
「俺なんかを速攻で始末しに来そうな、あの坊やもいないし。楽に帰れそうだ」
「あの子は仕事中だよ。始末しなきゃいけない相手は、あんただけじゃあないんでね」
 新しいグラスを用意しながら、伊武木は言った。
「というわけで……俺を始末するなら、今がチャンスなわけだけど」
「今日は、やめておく」
 伊武木の傍を通り過ぎながら男は、己の顔面を引き剥がした。
「あんたの話は、役に立ちそうだからな」
「何の事やら」
「あいつのリミッターが、うっかり外れちまったら……あんたの助言が、必要になるかも知れん。そういう事さ」
 伊武木の眼前、テーブルの上に、剥がれた顔面が投げ出される。
 男は、研究室を出て行った。
 弛んで伸びきった人面が、テーブル上から伊武木を見つめてくる。
「俺……こんな顔、してるのかなあ」
 グラスにウイスキーを注ぎながら、伊武木は呟いた。

 研究施設の近く。林道に1台、車が止まっていた。
 イオナを迎え入れるように、助手席側の扉が開く。
「ドゥームズ・カルトの本拠地……その詳細な場所を、お前は知らないだろう」
「ディテクター隊長……そうだな、確かにその通りだ」
 男物の黒服をまとった細身を、イオナは助手席に入り込ませた。
 扉が閉まり、車が走り出す。
 ハンドルを転がしながら、ディテクターは言った。
「あいつには、少しペナルティをくれてやる必要がありそうだな」
「……お兄様に、か?」
 彼の勝手な単独行動は、指揮官としては確かに許し難いものだろう。
「だが……あいつが先走ったのも、俺の調査不足と差配ミスが原因だ。まさか奴らが、錬金生命体を持ち出してくるとは」
「錬金生命体とは……一体?」
 イオナは訊いてみた。
「お兄様は、あやつらを見て、何やら冷静ではいられなくなったようだが」
「ちょっとした、まあ因縁があってな……道中、話して聞かせてやろうか」

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