尋問者たち

ゴミを相手に、会話をしている。傍目には、そのようにも見える。
「何も難しい質問をしているわけじゃあない。生きて帰りたいか、ここで死にたいか……それだけを訊いている。さあ、どうするね?」
 穏やかな口調で、そんな事を言っているのは、作業服に身を包んだ年配の男である。一見、単なる清掃作業員だ。
「もちろん抵抗されたら処分するしかないんだけど……抵抗なんて無理だろう、その有り様じゃあ」
「……こ……殺せ……」
 ゴミ回収袋の中で、それは応えた。
「我らが神に、命を捧げる……その覚悟は、出来ているのだ……」
 大型の回収袋に詰め込まれた、巨大な肉塊。
 分類すれば可燃物、あるいは生ゴミという事になる。
 何時間か前までは、もう少し立派な体格をした怪物であった。
 それを折り畳んで圧縮し、ゴミ袋に押し込んで回収して来た。
 その時点で、森くるみの今回の任務は完了である。
 だが暇なので、こうして尋問を見物しているところだ。
「こう言ってるんだからさ、局長」
 見物しながら、くるみは言った。
「焼却炉にポイして、火力強めで楽にしてやろうよ」
「森君、うちは殺人組織じゃあないんだよ。あくまで清掃局だからね、清掃局」
「綺麗にするって事だろ、世の中を」
 自分が回収してきたものを、くるみは睨み据えた。
「こういうゴミを綺麗に処分しちまうのが、あたしらの仕事なんじゃねえのかい」
「まだゴミと決まったわけではあるまい」
 言ったのは、局長ではなかった。
「有益な情報を、まだまだ搾り取れるかも知れん。焼却処分は、その後でも良かろう」
 背の高い、老人。白髪のような銀色の髪のせいで、そのように見えてしまう。
 が、よく見ると局長よりは随分と若い。
 白衣と眼鏡の似合う、絵に描いたような理系人物である。
「俺に譲れ、世賀局長。そいつが尋問で口を割るとは思えん、頭の中身を調べてみる」
「脳みそから直接、記憶を搾り出すのか……下手をすると廃人になってしまうぞ」
「すでに廃人を通り過ぎているように見えるのだがな、俺の目には」
 回収袋に包まれた肉塊に、眼鏡越しの視線を冷たく投げかけながら、銀髪の男は微笑した。
 奈義紘一郎。この研究施設の、主任研究員の1人である。
「元々は人間だったようだが、ここまで綺麗に折り畳まれてはもう人間には戻れまい。それでいて死にきれず、口をきける程度には生きている……」
 奈義の視線が、くるみに向けられた。
「見事な収納技術だな、お嬢さん」
「局長に、教わったのさ」
 いくらか気圧されながら、くるみは応えた。
 この奈義という男は、どうも苦手である。恐いわけではなく嫌いなわけでもない。ただ得体の知れぬ威圧感のようなものを、この男の前に立つと感じてしまうのだ。
 ホムンクルスを実験動物のように扱う研究者が多い中、奈義は一応くるみに対し、人間と話す言葉遣いをしてくれるのだが。
「俺の研究を邪魔している輩がいる……この施設内の薄暗い場所で、人目に触れずゴキブリの如く蠢いている。そんな気配がな、どうにも拭えんのだよ」
 ずり落ちかけた眼鏡を押し上げる仕種をしながら、奈義が言う。
「そのゴキブリどもに餌を与えているのは、こいつらなのではないかと俺は疑っている。作り物の神を擁立し、虚無の境界から独立分派せんとしている者ども……らしいが、まあ連中の内輪もめなど俺には関係ない。ただ研究の邪魔は許せん。その生ゴミを俺に譲れ局長。ゴキブリどもの飼い主に関する情報、脳を分解してでも拾い上げてやる」
「恐いよ、奈義の旦那……」
 くるみが思わず声に出すと、世賀局長が苦笑した。
「奈義君の研究の邪魔をするなどという命知らず、この研究所にそう何人もいるとは思えない。私が穏便に聞き出して見せるから、まあもう少し待っていて欲しいな」
 この世賀平太という男と奈義紘一郎の関係が、くるみは今ひとつ読めずにいた。
 清掃局局長と、A2研究室主任。どちらの方が偉いのかは、わからない。
 地位の優劣はともかく、この世賀局長は、奈義とまともに会話が出来る数少ない人間の1人であった。
 ここは清掃局の事務室、一応は世賀のテリトリーである。交渉の類ならば、奈義よりも有利であると言えない事もないか。
「ま、そういうわけだ。ここに恐い人がいるという事は、わかってもらえたと思う」
 回収袋の中の肉塊に、世賀は優しく言葉をかけた。
「特にこちらの奈義紘一郎君は、まず冗談を言わない人でねえ。脳みそを切り刻むと言ったら本当にやるよ」
「やれ! 切り刻むなり火にくべるなり、好きにしろ」
 かつて巨大な怪物だった生ゴミが、強気な事を言っている。
「貴様ら人間どもの野蛮で残虐な欲望を、大いに満足させるがいい! その様を哀れみながら、私は新たなる神に召されるのだ!」
「おめーよォ、そうゆうカッコつけた台詞吐ける様かぁ今? 鏡見てみるか、おい」
 回収袋の中に、くるみはモップの柄尻をガスガスと突き込んだ。
「四の五の言ってねえで、その新しい神様について知ってる事全部うたっちまいなぁ。そしたら焼却処分じゃなくて分解処理の方に回してやっからよ」
「ほう。焼却処分と何が違うのかね?」
 奈義が、興味深げに訊いてくる。
 ぐりぐりとモップを押し込みながら、くるみは答えた。
「肥料っす。この有害な生ゴミを、地球に優しい有機肥料に変えちまうんスよ。生かしといても役に立たねえバケモノが、死んで農家の皆さんのお役に立てるってぇワケ。画期的っしょ?」
「……そんなものを畑にまいたら、何が育つかわからんぞ」
「それも……そうッスねえ。何か、触手の生えたジャガイモとか出来ちまいそうだし」
 くるみは、回収袋に軽く蹴りを入れた。
「やっぱ、焼却炉にポイするしかねえのかなあ」
「まあ待ちたまえ」
 回収袋の傍らで、世賀は身を屈めた。袋の中にいる相手と、目の高さを合わせるかのように。
「なあ君。格好をつけて死ぬのも良いが、それでは無駄死ににしかならないと思わんかね。我々は何も、君たちの新しき神と敵対しようというわけじゃあない。神に逆らうなんて、そんな事が出来るわけないだろう?」
「……我らが神に、仕えるとでも言うつもりか」
「軽々しくそんな事は言わないよ。ただ、君たちと味方同士でありたいとは思っている。ここだけの話にして欲しいのだが、我が社としては……虚無の境界の本家筋には最近どうも、ついて行けなくてね」
 この研究施設の所有者である製薬会社は、虚無の境界とは昔から密接な関係にあるらしい。
 その虚無の境界が今、真っ二つに割れようとしている。
 これまでの盟主であった女神官に、あくまでも仕え続ける本家筋。人造の『新しき神』を崇め奉る新勢力。
 製薬会社としては、どちらに味方をするべきなのか。一方に肩入れするのか、のらりくらりと日和見を続けるのか。本社の偉い人々がどう考えているのかを、くるみは知らない。
「あの女を裏切る事は出来ぬ……そう言って貴様ら、我らへの協力を拒んだばかりであろうが」
 回収袋の中で怪物が、疑わしげな声を発する。
 諭すように、世賀は応えた。
「それは無論、まだ表立って本家筋を裏切るわけにはいかないからさ。何しろ彼女の力は強大だ。その力で、しかし我が社を助けてくれるわけでもない……知っているだろう? 当研究所は以前、IO2による襲撃を受けた。その時も、虚無の境界・本家筋は何もしてくれなかった」
「あれは勘弁して欲しかったわ、マジで」
 くるみが、今回のような出張清掃任務で研究施設にいなかった、ある日の事。
 IO2の女エージェントが、単身で施設に殴り込んで来たらしい。実験体が、大量に斬殺された。
 死体の片付けは当然、清掃局が、と言うより森くるみが1人で行う事となった。
「ぶった斬った触手やらハラワタその他諸々、全部片付けるのに夜中までかかったっつうの。どこのクソ女だか知らねーけどよォ、人んち汚しっぱなしで帰っちまうような奴ぁ折り畳んで燃えるゴミだ!」
「……あの時は森君がいなくて良かったよ。いたら、壮絶バトルで研究所が壊されていた」
「その戦い、俺は興味がある。見てみたかったと思うぞ」
 世賀と奈義が、正反対の事を言っている。
「まあ、それはともかく……聞いての通りだ。当研究所は、どうやらIO2にも目の敵にされている。君たちまで敵に回している余裕はないんだよ。完全な同盟はまだ難しいとは思うが、うちに対する攻撃や分裂工作の類を、出来れば少し控えていただけると大いに助かる」
 ゴミ回収袋の中身を相手に、世賀はそんな事を言っている。だが本当に、この研究所がIO2と敵対関係にあるのかどうかは、まだ不明瞭だ。
「とりあえずは、そうだな……当研究所で君たちと懇ろにしている所員が何人いるのか、誰と誰なのか。あと今後もうちに何かしらちょっかいを出す計画があるのかどうか。それだけでも教えてくれないかな」
「貴様たち……本当に、我らと敵対する意思はないのだな」
 回収袋の中身が言った。
「いずれ我らに協力し、新しき神のために働く……その意思が、あると言うのだな」
「もちろん。本社がどう言っているのかは知らないが、いざとなれば当研究所は本社から独立しても良い。君たちのように、ね」
 穏やかに尋問している世賀に、くるみは背を向けた。そして声を潜めた。
「ねえ奈義の旦那……本当なの? この研究所が本社から独立なんて、ほんとに出来るんスか?」
「したところでメリットがない。面倒な事にしかならん。そもそも独立だの、虚無の境界の本家筋を裏切るだの……一介の清掃局長に、そんな事を決める権限があるわけなかろう」
「じゃあ局長が言ってる事って……全部、大嘘? そりゃそうか」
 回収袋の中の肉塊が、いくつかの人名を、ぼそぼそと口にしている。
 哀れみ、に似たものが、くるみの胸中に生じた。
 あの怪物は、局長の口車に乗り、自分の組織を裏切ってしまった事になる。
(……殺してやれば、良かったかな)
「世賀局長の尋問が終わったら……あの粗大ゴミ、御苦労だが俺の研究室に運んでくれんか。お嬢さん」
 奈義が言った。
「やっぱり……脳みそ、切り刻んだりしちまうワケ?」
「そんな事はせんよ。お前さんに折り畳まれたあの身体、組み立て直して人間の形に戻してやるだけだ」
 そのついでに何か仕掛けるつもりではないか、とくるみは思った。
 怪物の肉体に、何か仕掛けを施して、虚無の境界の新勢力に送り返す。例えば、時限爆弾のような仕掛けを。
 そういう事をやりかねない奈義紘一郎が、回収袋に蔑みの視線を投げる。
「あれの細胞を見てみたがな、ひどいものだ……あのような粗悪品、殺したところで意味はない。いくらかマシなものに改良して送り返す。そして我々の技術を思い知らせる」
 眼鏡の奥で、眼光が静かに燃え上がった。
「ホムンクルスや生体兵器の類を研究している施設は、一ヵ所だけではない。だが完璧な培養技術に王手をかけているのは、紛れもなく我々だ。人造の神など作っていい気になっている連中に、それを思い知らせる」
「あいつらの、ケツを叩く事になっちゃうかもよ」
 くるみは言った。
「あいつらが、それで気合い入れて……新しい神様って奴を、とんでもないバケモノに改造しちまうかも」
「我々が、それ以上の怪物を造れば良い」
 奈義が、燃え上がるような笑みを浮かべた。
「俺たちの研究など、つまるところ怪物を造るためのものでしかないのだからな」
「……あたしも、そうっすか」
「巨大な化け物を、あんなふうに折り畳む力など、人間ではいくら鍛えても身につかん。怪物である事、もう少し誇りに思っても罰は当たるまい?」
「ま……そうなんスけどね」
 くるみは苦笑した。
 人間ではない。それで困った事など、少なくとも今のところは1度もない。
 そんな事を思いながらくるみは、局長がゴミ袋の中身を尋問する光景を、ぼんやりと眺めやった。
 あの肉塊が、奈義の手によって人間の外見を取り戻したら、恐らくは自分が空港まで送って行く事になるだろう。それがいささか面倒ではあった。

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変装おじさんとお掃除お姉さん

もちろん兵器を輸出する事など出来ない。が、機械の部品を輸出する事は出来る。
 輸入した側が、それらをどう組み立てて何に使うか。それに関する規制など、存在しない。
 世界各地の戦場に、日本製品はすでに出回っている。
 日本の技術が、戦闘に殺戮にと、大いに役立っているのだ。
 おかげで、この会社を大きくする事が出来た。
 日本人であれば誰もが名を知る、重工業企業である。
 都内某所に城塞の如くそびえ立つ本社ビル。その社長室で、公には出来ない話をしている男たちがいる。
「協力はしない……と、そう言っているのだな?」
 社長が、苛立たしげな声を発した。
 役員の1人が、汗を拭いながら応える。
「は、はい……あの御方を裏切る事は出来ない、と」
 社長、及び役員数名。
 それ以外に1人、社員ではない男がいる。
 純白のスーツに身を包んだ、若い白人の男。整った顔立ちには、選民思想的な傲慢さが漲っている。
「ふむ……これでは片手落ちというもの」
 流暢な日本語を、彼は発した。
「御社のみならず、あの製薬会社の方々にも、我が陣営に加わっていただく……私が日本へ来たのは、そのためなのですよ。あちらの社長と貴方は日本経済界の重鎮同士、懇意にしておられると聞いたので、御社には繋ぎの役目を期待していたのですが」
「も、申し訳ない。我が社と共に貴方がたの味方となるよう、説得をしたのだが」
 白人の青年に威圧され、うなだれたまま、社長は言った。
「こうなってしまった以上、我が社だけで貴方たちのお役に立ってみせよう。我々が本格的に軍事産業を始めれば、優れた兵器をいくらでも量産出来る。製薬会社などよりも、ずっと戦力になるだろう」
「メイド・イン・ジャパンの戦闘兵器は確かに魅力的……ですが我々には、あの製薬会社が開発保有するホムンクルス技術が必要なのですよ。我らの『神』の御ために、ね」
 白人の青年が、社長を睨む。
「何度も同じ事を、説明したはずですが?」
「た、確かに説明は受けた。あの御方のもと強固な一枚岩であったはずの『虚無の境界』から、貴方たちが分派・独立しようとしていると」
 気圧されながらも、社長は言った。
「貴方たちは『神』を造り上げて擁立し、あの御方と真っ向からぶつかり合おうと」
「あの御方、などという呼び方はおやめなさい」
 白人の青年の口調に、選民思想が現れ始める。
「あれは単なる女神官。虚無という神の存在を捏造し、拠り所としなければ組織を統率出来ない、無力で愚かなる女よ。だが我らの『神』は違う! 捏造されたものではない、実在の力! 我らを真の霊的進化へと導く力!」
「その『神』に我ら、お目通り願えないものかと申し上げているのだよ」
 社長の言葉に、熱がこもった。
「確かに、あの御方……貴方がたの言う無力で愚かな女神官殿は、我が社のために何か特別な便宜を図ってくれたわけではない。だから私は、貴方がたの分派独立に協力している。いや恩を着せているわけではない。ただ『神』の偉大さを、この目で確かめたいだけなのだ。どれほど偉大なる存在であるのか、それを目の当たりにすれば……我らとて、命をなげうって貴方たちに協力する覚悟を決められる」
「見なければ信じられない、とでも言うのか……!」
 白人の青年が激怒しかけた、その時。
 社長室の扉が、いきなり開いた。
「ちぃーッス……お掃除、入りまーす」
 無愛想な、女の声。
 ノックも無しに入って来たのは、1人の清掃員だった。
 作業用制服に身を包んだ、若い娘。20代前半であろう。
 頭には三角巾を巻き、赤みがかった長髪を後頭部で束ねている。
 顔立ちは、辛うじて美人と呼べる程度であろうか。形良い唇が、煙草をくわえている。
 何本ものモップや大型のゴミ回収袋、箒にちり取りにモップ絞り器といった清掃用具を満載したカート。それを左手で押しながら、彼女はずかずかと社長室に踏み込んで来た。
 右手で、何やら大きめの荷物を引きずっている。
 社長が、白人の青年が、呆気に取られている。
 役員たちが、慌てながら怒り出した。
「な、何だね君は!」
「清掃など頼んでいないぞ、早く出て行きたまえ」
「勝手に入って来るとは信じられん! 一体どこの業者だ」
 怒る役員たちを、女清掃員はじろりと睨み回した。茶色の瞳が、いささか剣呑な輝きを孕む。
「動く生ゴミばっかの、ド汚え会社……お掃除しねえワケにゃいかねーだろぉがあああ!?」
 器用に煙草をくわえたまま、彼女は怒鳴った。
 そうしながら、右手で引きずって来たものを、社長室の中央に放り出す。
 放り出されたものが、じたばたと暴れもがきながら苦しげに呻く。
 猿ぐつわを噛まされ、縄でぐるぐる巻きに拘束された、1人の男だった。
 役員たちが、血相を変えた。
「なっ……し、社長!?」
「こ、これは一体……」
 今まで白人の若者と会話をしていた、社長……であるはずの男に、役員たちが呆然と視線を向ける。
 縛られたまま床でのたうち回っている人物と、瓜二つの男。
「ったく……こんなクソでけえ生ゴミ、便所ん中に放置しとくんじゃねえよ」
 縛られ転がっている方の社長に、女清掃員が蹴りを入れる。
「片付けんのは、あたしなんだからよ」
「……まったく本当に、どこの業者さんだい」
 今まで役員たちにも白人青年にも社長と思われていた男が、不敵に笑った。
「こいつらの『神様』って奴に……まあ、お目通りは無理にしても取っ掛かりの情報くらいは、もらえそうなとこだったのに」
 笑いつつ、己の顔面を左手で引き剥がす。
 現れたのは、特徴に乏しい男の顔だった。
「何者……!」
 白人の青年が、絶句している。
「まさか……IO2」
「お前さん方は放っといた方がいいって気もするけどな」
 特徴のない顔が、ニヤリと狡猾そうに歪む。
「分裂騒ぎで……上手い事、自滅してくれると助かるんだが」
「なめた事言ってんじゃねえよ。生ゴミを放っといたら、腐って臭って世の中の迷惑になるだけだろうが」
 言いつつ女清掃員が、カートからモップを1本、引き抜いた。まるで武器のように。
「ゴミは見つけ次第、回収する。それが、あたしの仕事だ」

「あんた……本当に、どこの業者さんだい」
 穂積忍は、まず訊いてみた。
「ただのお掃除お姉さんとは、思えないんだがな」
「おめえこそ一体どこの何モンだよ。あたしの仕事、横取りしようってのかい」
 赤い髪の女清掃員が、言葉と共に睨みつけてくる。
 凶暴な眼光を孕む、茶色の瞳。
 誰かに似ている、と穂積は思った。
 思い出したのは、あの青い瞳の少年である。冷気を操るホムンクルス。
 彼とは似ても似つかない、この凶暴そうな女が、しかし彼と同じものを、瞳の奥に内包している。
(ホムンクルス……か?)
「このビルの清掃は、うちが請け負ったんだ。邪魔しようってんなら、おめえも回収して燃えるゴミの日に出しちまうぞう」
「もちろん邪魔はしないさ。お掃除でも何でも、するといい……俺も、自分の仕事をさせてもらう」
 白人の青年……ではなくなりつつあるものに、穂積は視線を向けた。
「IO2の、ネズミが……我らに……我らの新しき神に……刃向かうかぁあああああ」
 純白のスーツがちぎれ飛び、その下から肉体が盛り上がって来る。
 筋肉が膨張し、皮膚が、ある部分では獣毛を生やし、ある部分では鱗と化し、ある部分では甲殻状に固まり隆起する。
 整っていた顔は、今や頬を裂いて牙を剥き、眼球を血走らせ、鼻孔を醜悪に広げて荒い鼻息を噴射している。
 細身の白人青年は、異形の怪物に変じていた。
 その巨大な全身あちこちから、百足のようなものたちが生えて伸びて獰猛にうねり狂う。節くれ立った、甲殻の触手。
 先端に鋭利な牙を備えたそれらが、穂積に向かって一斉に伸びた。
「神の、罰を! 受けるが良い!」
 あらゆる方向から襲い来る、牙の触手。
 それらに対し穂積は、無造作に両手を一閃させた。
 左右それぞれの手に、いつの間にかクナイが握られている。
 それらが穂積の周囲で、いくつもの閃光の弧を描き出す。
 弧に薙ぎ払われた触手たちが、片っ端から切断され、社長室の床に落ちてビチビチと跳ね暴れた。
「ぎゃ……あ……ッッ」
 怪物が悲鳴を漏らし、後退りをする。
 くるくるとクナイを弄びながら、穂積は言った。
「情報ありがとうよ。『神様』の正体、だいたいわかったぜ……今のお前さんと、同じ系列の化け物だろう」
 人造の、生命体。
 その生存を維持するために、あの製薬会社が保有するホムンクルス関連の技術が必要なのだ。
「そんな不安定な代物に頼って、虚無の境界の本家筋に喧嘩を売る……ついでにIO2にも喧嘩を売る。ちょいと無謀が過ぎるようだが、その辺はどうなんだい」
「愚弄するか! 我らを、我らが神を!」
 怪物の全身で、触手たちがグネグネと凶暴に生え変わり、再び穂積を襲う。再生能力。
 いささか時間のかかる戦いになるか、と穂積が思った、その時。
 風が、吹いた。
 疾風、としか思えぬ動きだった。
 束ねられた赤い髪が、高速でたなびく。その様だけを、穂積は辛うじて視認した。
 牙を剥いた触手の群れが、全方向から穂積に食らい付く、その寸前で動きを止めた。
 それらの発生源たる怪物の巨体が、硬直していた。
 その顔面……眉間か額か判然としない部分に、モップの柄尻がめり込んでいる。
「第3の目……の位置」
 そのモップをヒュンッと一回転させながら、女清掃員は言った。
 硬直していた怪物が、床に倒れた。眉間あるいは額に、柄尻の跡が穿たれている。
「人の体型のバケモノってのは大抵、そこに一撃食らうと動かなくなっちまうのさ」
 それは穂積も知っている。にしても、ここまで正確に『第3の目』を直撃する技量の持ち主は、IO2日本支部にも、そうはいない。
「……やっぱり、ただのお掃除屋さんじゃないな。どこの業者さんなのか、ますます知りたくなってきた」
 まずは、穂積が名乗った。
「俺は、IO2の穂積忍」
「森くるみ。清掃局・特殊清掃班所属」
 女清掃員は、くわえ煙草のままニヤリと笑った。
「どこの清掃局かは忘れちまった。見ての通り、頭悪くってさあ」
「そうは見えんがな。ま、そんな事よりも……それ、一体どうするつもりなんだい」
 第3の目を突かれ、動けずにいる怪物に、穂積はちらりと視線を投げた。
「ぐっ……き、貴様……私に、一体何を……」
 立ち上がれぬまま呻く怪物の巨体を、森くるみが踏み付ける。
「生ゴミは回収する。それだけさ」
 言いつつ、くるみは怪物の太い腕を、巨大な脚を、抱え込み捻り上げ折り曲げていった。
 関節の外れる凄惨な音と、怪物の潰れた悲鳴が、一緒くたに響き渡る。
 おぞましい絶叫を垂れ流しながら、怪物の巨体が折り畳まれてゆく。恐ろしいほどの、手際の良さである。
「コンパクトな収納は、お掃除の基本。ってね」
 ちょうど良い大きさに折り畳まれた怪物を、くるみは、カートに備え付けられたゴミ回収袋に放り込んだ。
「悪いけど穂積の旦那、コイツはもらってくよ。燃えるゴミに出しちゃう前に、いろいろ聞き出さなきゃなんねーから」
「ま……待て……」
 声を発したのは、本物の社長である。役員の1人が、縄と猿ぐつわをほどいていた。
「貴様ら一体、どういうつもりだ……! 虚無の境界の新組織には、我が社の命運がかかっているのだぞ! 日本が軍事技術大国として世界の頂点に立つ、唯一絶対の好機なのだぞ! それを」
 穂積は、社長の胸ぐらを掴んで黙らせた。
「あんまりうるさくしてると……恐いお掃除お姉さんに、生ゴミとして回収されちまうぞ?」
「……ゴミ袋がもう1枚あったら、そうしてるとこだけどなぁ」
 もぞもぞと暴れ震えているゴミ回収袋に、くるみは思いきり蹴りを入れた。
「ああホント、動く生ゴミばっかで世の中きったねーの何のって。誰が掃除すると思ってやがんだ!? どいつもこいつも」
 悪態をつきながら、くるみはカートを押し、社長室を出て行った。
 もう10年か20年も経てば、仕事と生活に疲れた味わい深い女になるに違いない、と穂積は思った。

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酒場にて

「やあ」
 伊武木リョウが声をかけると、その男はビクッと立ち止まった。
 肥り気味で俯き加減の、ある意味、絵に描いたような理系の青年。白衣と眼鏡が、まあ似合ってはいる。
 研究施設内の廊下。今は、彼と伊武木しかいない。
 人目がないからと言って、しかし暴力的に何かを白状させようという気が、今のところ伊武木にはなかった。
「御苦労さん。いつも遅くまで残って、後片付けとかしてくれてるよね」
「……それが、私の仕事ですから」
 眼鏡の奥から、暗い両眼がおどおどと向けられてくる。
 伊武木は、微笑みを返した。
「本当に助かるよ。俺なんか実験でも何でも、やりっ放しで帰っちゃうからさあ……だけど君、気をつけた方がいいよ。後片付け以外の残業も、積極的にやってくれてるみたいだけど」
「な……何の、話でしょうか……」
 さりげなく逃げようとする研究員を、伊武木は笑顔で威圧した。
「立ち入っちゃいけない場所にまで入り込んで、いろいろ残業してくれてる人がいるみたいなんだよね。まったく、そこまで仕事熱心じゃなくてもいいのにと、そういう話さ」
「…………」
 研究員が、青ざめている。
 伊武木は、笑みを保った。
「いやね、俺は全然構わないんだけど……何かホムンクルスの思考プログラムを誰かに弄られたんだか壊されたんだかで、ちょっと激おこ状態になっちゃった人がA2研あたりにいるみたいなんだ。あの恐い人に疑われるような事は、まあ控えておいた方がいいんじゃないかなと」
 ぽん、と伊武木は研究員の肩を叩き、言葉を残し、歩み去った。
「……そういう話さ」

 マティーニを好んで飲むのは、これが『カクテルの王様』と呼ばれているらしい酒であるからだ。
 これを注文しておけば、まあ間違いはないだろうと思って飲み続けている。他にも美味いカクテルはいくらでもあるのだろうが、開拓してみようという勇気が、なかなか出ない。
「基本的に、気が小さいんだよなあ……俺って男は」
 苦笑しつつ伊武木は、グラスの中身を一気に飲み干した。
 カクテルは、一口か二口で飲んでしまうもの。日本酒は、ちびちびと味わうもの。何となくだが、そんなイメージがある。
 某県の、地方都市。
 あの研究施設から車で山道を下って行くと、この街に出る。
 車は、近くの月極駐車場に止めてある。今日は酒が入ってしまったので当然、家までは終電で帰る事になる。
「ノゾミ……早く20歳にならないかなあ」
 伊武木は呟いた。
 青霧ノゾミは16歳。まだ、一緒に酒を飲むわけにはいかない。
 そんな彼を、しかし今日は連れて来てしまった。
 護衛である。
 伊武木リョウを物理的に排除しようとする力が、そろそろ働くかも知れないからだ。
 もちろん未成年を店内に入れる事は出来ないので、ノゾミには、このバーの周辺を警戒してもらっている。
 もし今、この場に、伊武木の命を狙う者が現れたとしたら。
 その殺し屋は、ノゾミの警戒をかいくぐって来たという事になる。そんな相手と、伊武木は1対1で渡り合わなければならない。
 だが今、伊武木の心を占めているのは、そんな問題ではなかった。
(ノゾミは……20歳に、なれるのかな)
 16歳。寿命数年と言われるホムンクルスとしては、未知の領域である。今のところ何の問題もなく、成長してくれてはいるのだが。
「何だよ、ホッケの塩焼きとか出ねーのかよぉこの店はよおお」
 客が1人、バーテンダーに絡んでいた。
 サラリーマン、であろうか。絵に描いたような酔っ払いである。
「お、お客様……当店はカクテルバーでございまして」
「気取ってんじゃねえよ、ポン酒出せポン酒! 焼き鳥! タコワサ! イカの一夜干しにマグロ納豆!」
 困惑しているバーテンに対し、酔っ払ったサラリーマンが無理難題を連発する。
 伊武木は、にこやかに声をかけた。
「まあまあ。焼き鳥の美味しい店なら、すぐ近くにありますから」
「何だぁ?」
 赤ら顔のサラリーマンが、充血した目をギロリと向けてくる。
「てめ、俺にこっから出てけっつってんのかああ!?」
「ここは、お酒を飲んで酔っ払う場所ですからね」
 にこにこと、伊武木は見つめ返した。
「あんた、酒なんて1滴も飲んでないし酔っ払ってもいない。違いますか?」
「……酒もタバコも、やらないんでな」
 実は酔っ払ってなどいなかったサラリーマンが、伊武木の隣に腰を下ろした。
 顔からは、赤みが綺麗に消え失せている。充血していた両眼は醒め、鋭く油断ならない光を宿している。
 サラリーマンなどではない、と伊武木は感じた。
「たいがいの人間には化けられるんだが、酔っ払いの真似は練習中だ。結構自信あったんだが、あっさりバレちまったな」
「なかなかのもんだよ。顔色も目の血走り具合も自由に変えられるなんて、素人技じゃあない」
 伊武木は誉め、1つだけ指摘した。
「ただなあ……頭にネクタイを巻くのは、やり過ぎだ。そんな酔っ払いは漫画の中にしかいないよ」
「俺、どこかの駅前で見た事あるぜ?」
 鉢巻のようにネクタイを巻いた男が、ニヤリと笑う。
 38歳の伊武木よりも若干、年上であろうか。
 ただ、その気になれば、若い男にも少年にも、あるいは老人にも、化ける事が出来るだろう。
「で……お酒を飲まない人が、どうしてこんな所に? まさかとは思うが、俺個人に用があるわけじゃないだろうな。男に付きまとわれるのは勘弁願いたいんだが」
「付きまといはしないさ。ただ、あんたがどういう人間なのか知っておきたかったのは事実だ。たちの悪い酔っ払いに、どう対応するのか……そこから見えるものも、ないわけじゃない」
 言いながらも男は、頭に巻いたネクタイを取ろうとしない。
「案外、見て見ぬふりってやつが出来ない性格みたいだな? 伊武木リョウ先生」
「……名前、だけじゃなさそうだな。俺の個人情報、一体どこまで掴まれちゃってるのやら」
 伊武木は頭を掻いた。
「もしかして警察とか公安とか、国家権力関係の人? 俺、何にも悪い事はしてないよ」
「悪い事をしてくれれば、問答無用で始末出来るんだがなあ」
 冗談めかした口調だが、冗談ではないだろう、と伊武木は思った。
 この男は、人間を始末するような仕事をしているのだ。
 研究施設に殴り込んで来た、あの隻眼の少女のように。
「……あんた、IO2の人?」
「穂積忍という」
 隠そうとはせず、男は名乗った。
「お前さんの個人情報は、今のところ名前くらいしか掴んでいないよ。この世には、どうにも掴み所のない奴ってのがいてなあ……伊武木先生は、まさにそれさ」

 未成年が酒を飲んではいけない、という法律がある。
 それ自体は別に構わない、と青霧ノゾミは思う。酒など、別に飲みたいとは思わない。もちろん伊武木リョウが飲ませてくれると言うのなら話は別だが。
 気に入らないのは、その伊武木リョウと、こうして別行動を取らなければならないという事だ。
 未成年だからという理由で、一緒に店に入る事が出来ない。
 店の人間をことごとく凍らせて砕いてやろうか、とノゾミは半ば本気で思った。
 その男が現れるのが、あと1分でも遅かったら、それは実行に移されていたかも知れない。
 店の周囲をうろつき、窓のない店内を何とか覗き込もうとしている、挙動不審の男。
 肥り気味で眼鏡をかけた、理系の男である。
「あなた……防犯カメラに、映っていたよね」
 ノゾミが声をかけると、その男はビクッと振り向いてきた。
 間違いない。研究施設の防犯カメラ、その映像記録に幾度も出て来た研究員である。
 誰もいない時間に施設各所に出入りし、人がいる時でも、出るのは一番最後。
 あまりにも怪し過ぎる。露骨なほどにだ。
「あからさまに怪しい人っていうのは、実はそんなに重要じゃない。本当に悪い人は、まず怪しまれるような事をしない……リョウ先生が、そう言ってた」
 肥り気味の身体をおどおどと震わせている研究員に、ノゾミは青い瞳を向けた。
 その瞳が、冷たく輝く。
 白く冷たい霧が、うっすらと発生した。
「だけど今は、あなたしか手がかりがない。本当に悪い人は、誰なのか……知ってる事を話して欲しいな。凍り付いて、口がきけなくなる前に」
「わ、わかった話す! 確かに俺は、命令されたんだ。ホムンクルスに、いろいろ細工するように」
 あたふたと言葉を発しながら、研究員は己の懐に片手を入れた。
「命令した人の顔、ちゃんとスマホで撮ってあるからさ。ほ、ほら今、見せるよ」
「……じゃ、見せてもらおうかな」
 1歩、ノゾミは研究員に歩み寄った。無警戒な、不用意な1歩。
 直後、心臓が止まるような衝撃が、ノゾミの全身を駆け抜けた。
 研究員が懐から取り出したのは、スマートフォンではなく、スタンガンだった。
「……対ホムンクルス用の、特別製だよ。どうだい、効くだろう?」
 研究員が、怯えながらもニタリと笑う。
 息を詰まらせ、倒れながら、ノゾミは何も応える事が出来なかった。
 口をぱくぱくと開閉させながら、のたうち回る。まるで、打ち上げられた魚のように。
 それが、精一杯だった。
「心配するな、死にはしないよ。お人形しか愛せない変態童貞中年を手懐けるための、お前は大事な大事な人質だ。おっと人じゃなくてお人形かあ?」
(言ったな……先生の悪口、言ったなぁあ……)
 ノゾミは呻こうとしたが、声が出ない。
(凍らせてやる……砕いてやる……ッッ!)
 殺意だけが燃え上がり、高まってゆく。が、念を集中させる事が出来ない。意識の乱れに合わせ、白い霧も乱れ消え失せてしまう。
「……ひどい言われようだな、おい」
 声がした。
 ノゾミは、まるで自分が凍って砕け散ったかのような気分に陥った。
(リョウ先生……!)
 伊武木リョウが、店から出て来たところである。
「まあ俺が本当に変態で童貞なのかどうかは、さておいて……ノゾミをいじめるのは、やめてくれないかなあ」
 見られた。ノゾミは、それだけを思った。
 スタンガンごときに敗れて地を這い、のたうち回る無様な姿を、伊武木リョウに見られてしまった。彼を護衛しなければならない、自分がだ。
「おおい、なぁにやってんだ伊武木先生よおお」
 酔っ払いを1人、伊武木は伴っていた。
 頭にネクタイを巻いた、見るからに愚かしい赤ら顔のサラリーマン。
「もう2、3軒ハシゴすんぞハシゴ。砂肝の美味い店、近くにあるんだろぉー」
「いいねえ穂積氏。酔っ払いの真似、かなり上手くなってきたよ?」
 伊武木リョウが、わけのわからない酔っ払いと仲良くしている。
 ノゾミは、おかしな悪夢でも見ているような気持ちになった。
(リョウ先生……誰なの? そいつ……ねえ……)
 心の中で呆然と呟くノゾミに、肥り気味の研究員がスタンガンを突き付ける。
「ちょうど良かった伊武木先生。俺と一緒に、来てもらおうか」
「ほう。俺に一体、何の用が?」
「ホムンクルスに関して、あんたの右に出る先生はいないからな。どうしても俺たちの陣営に引き込んでおかなきゃいけないんだよ。このお人形ちゃんに致死レベルの電気ぶち込まれたくなかったら、大人しく俺と一緒に」
「……素面で悪酔いしてる奴がいるなあ、まったく」
 穂積と呼ばれた酔いどれサラリーマンが、己の頭からネクタイをほどいている。
 次の瞬間。ノゾミの目の前で、スタンガンが地面に落ちた。叩き落とされていた。
 穂積のネクタイが、研究員の右手を絡め取り、捻り挙げている。
「な、何だお前……」
 そんな声を出しながら研究員が、物のように折り畳まれ、コンパクトに束縛されてゆく。
 その肥り気味の身体を、穂積が、ネクタイ1本で手際良く縛り上げていた。
「酔っ払いに化ける練習中……とは言っても、お前さんのは参考になりそうもないな」
「じゃあ始末するかい?」
 言いつつ伊武木が、スタンガンを拾い上げる。
 そして肉の小包と化した研究員に、躊躇いもなく押し当てた。
 雷鳴のような音と、豚を思わせる滑稽な悲鳴が、同時に響いた。
 研究員は白目を剥き、泡を吹き、気を失っていた。
 穂積が、いささか驚いている。
「おいおい、本当に始末しちまったのか?」
「ノゾミを虐めてくれた、お礼をしただけさ。放ってけば、いずれ目を覚ます……風邪くらいは引くかも知れんがね」
「目を覚ましてから、どこへ逃げ込むか……こうやって痛い目に遭った事を、誰に言いつけるか。だな」
 穂積も伊武木も、この研究員を、しばらく泳がせておくつもりのようである。
 だがノゾミにとっては、そんな事はどうでも良かった。
「誰なの……あなたは……」
 ようやく、声を出せるようになった。
 この男が、伊武木リョウを守った。自分ではなく、このふざけた酔っ払い男が。
 自分は何も出来ず、無様に倒れていただけだ。
 それを思うだけで、ノゾミの心に憎悪が満ちた。憎悪が、燃え上がった。
 その炎が青い瞳に宿り、穂積に向けられる。
 乱れ散っていた念を、ノゾミは無理矢理、集中させていた。
「誰なんだよ……何なんだよ、お前はあああああああッッ!」
 白く冷たい濃霧が、発生と同時に凝結し、何本もの氷の矢と化した。
 それらが一斉に、穂積を襲う。
 いくつもの光が、閃いた。
 閃光の弧が、氷の矢を全て打ち砕いていた。
 キラキラと舞い散る、氷の破片。その煌めきの中で。穂積がゆらりと動きを止める。
 その両手に、2本のクナイが握られていた。
「1つの能力に頼り過ぎだな、坊や」
 ニヤリと笑う、その顔からは、酒気の赤みが消え失せている。最初から、酔っ払ってなどいなかったようだ。
「何とかの1つ覚えじゃ、そのうち通用しなくなるぜ」
 気絶している研究員の身体からネクタイをほどき、己の首にシュルッと巻き直す。
 恐ろしいほどの手際の良さを披露しながら、穂積が歩み去って行く。
 呆然と見送るしかないノゾミの肩を、伊武木が軽く叩いた。
「勝てない相手がいるって事、ノゾミもそろそろ学習しておいた方がいい。常々そう思っていたところさ」
 これからは穂積氏に守ってもらう。お前は、もう要らない。
 伊武木の言葉が、ノゾミにはそう聞こえた。
「要らない……」
 何か考える事も出来ぬまま、そんな言葉が漏れてしまう。
「ボクは……要らない……」
 黙らせるように伊武木がいきなり、ノゾミの細い身体を抱き締めた。
 今のノゾミはしかし、その温もりを感じる事も出来なかった。

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魔眼の兄妹

薪の爆ぜる音で、フェイトは目を覚ました。
「うっ……ん……」
うっすらと、目を開く。
ベッド、いやソファーの上だった。近くでは、暖炉の中で火が燃えている。
洒落た造りの、洋室である。
半ば毛布を被ったままフェイトは、ソファーの上で弱々しく身を起こした。
身体に力が入らないまま、ぼんやりと見回してみる。
目が合った。
暖炉の近くで膝を抱えている細身の人影が、顔だけを上げて振り向いたのだ。
「初めまして、お兄様……とでも言うべきなのかな」
目が合った、と言っても片目だけだ。左目は、黒いアイパッチに覆われている。
そして右目は、緑色に輝いている。禍々しい、エメラルドグリーンの輝き。
鏡を見ているような気分に、フェイトは一瞬、陥った。
「あんたは……」
「貴方の妹、というわけではないが……まあ、そのようなものだ」
少女だった。高校生か、あるいは中学生か。
しなやかな、いくらか凹凸に乏しいと思われる細身を、黒く短い衣服に包んでいる。
髪も黒い。ポニーテールの形に束ねられてなお、背中に達する長さだ。
それら黒さと鮮烈な対比を成す、肌の白さ。そして瞳の緑。
この少女を自分は知っている、とフェイトはようやく思い出した。
だが、あの時は隻眼ではなかった。
それに7人いたはずだが、ここには1人しかいない。
7人のうち、確か4人がIO2日本支部の保護下に入った。3人が、虚無の境界に走った。
ここにいる1人は、果たしてどちらなのか。
「俺……虚無の境界に、捕まっちゃったのかな」
「ここは虚無の境界の施設ではない。単なる山小屋、山中の休憩所だ」
少女が、冷ややかに微笑んだようだ。
「研究所の人たちが、私たちをここまで運んでくれた。そうなるに至った経緯を、説明しようか?」
「……いい。思い出した」
思い出したくもない記憶が、フェイトの中で甦って来る。
自分は無様な油断をして、捕まったのだ。氷の中に、閉じ込められたのだ。あの青い瞳の少年によって。
アメリカにいた時、不調で長期休暇を強いられた事がある。あれと同じくらいの失態であった。
フェイトは額を押さえ、うなだれた。
「あんたが、助けてくれたと……そういうわけか」
「任務なのでな」
少女は言った。
「消息を絶ったエージェントの身柄を回収する……それが私の、最初の任務となった」
「任務ね。虚無の境界の手先が、完全にIO2エージェントになっちゃったわけか」
隻眼の少女を、フェイトは睨み据えていた。
「上手い事IO2に入り込んで、何をしようって言うんだ? 一体何を企んでる!?」
虚無の境界に走った、あの3人と同じだ。
この少女も、あの女性に取り憑かれているに違いない。かの組織を統べる、赤い瞳の女神官に。
そう思い込みながら、フェイトは叫んでいた。
「虚無の境界が、いよいよ本格的にIO2を乗っ取りにかかったと! そういうわけか、おい!」
少女は何も応えない。隻眼を、じっとこちらに向けているだけだ。
フェイトと同じ、エメラルドグリーンの瞳。あの女神官の、真紅の邪眼とは違う。
この少女は、何者かに取り憑かれているわけではない。
虚無の境界の女盟主の、分身などではない。自分自身の心というものを、持っている。
ひどい言葉を浴びせられれば傷付く心を、持っているのだ。
「……ごめん。八つ当たりだった」
フェイトは俯き、詫びた。
「俺、助けてもらったのにな。ありがとう……本当に、ごめん」
「簡単に気を許し過ぎだぞ、お兄様」
緑色の隻眼を冷たく輝かせて、少女は言った。
「私は本当に虚無の境界の密命を帯びて、IO2を内側から崩そうとしているのかも知れない。それを明確に否定出来る根拠など、ないだろうに」
「どうでもいいけど……お兄様、って俺の事? どうにかなんないかな、それ」
「では、お母様とでも呼ぼうか。私たちは、貴方の肉体から生まれたのだからな」
「別に、呼び捨てでもいいよ。まあ少しは先輩扱いしてくれると、嬉しいけどな」
フェイトは頭を掻いた。
お母様というのは冗談にしても、お父様とは呼べないだろう。
この少女にとって、お父様と呼ぶべき存在は、別にいる。
フェイトは訊いてみた。
「仇……討つ気でいるのか?」
「復讐は何も生まない、といった類の説教なら御免こうむる」
少女の口調は、淡々としている。
「今ならわかる。私たちが『お父様』と呼んでいた男は、単なる狂人だ。私たちの事を、愛してくれていたわけでもなかった。単なる作品として、私たちを作っただけ……それでも私が今こうして存在していられるのは、お父様のおかげだ。私は、その恩を返さなければならない」
淡々とした口調に、しかし確固たる何かが宿っている。
「なのに私は、あの男が生きている間には何もしてやれなかった。死んだ者に対する恩返しなど……仇討ち、くらいしか思いつかん。他にあるなら教えて欲しい」
死んだ者の分まで、幸せになる事。幸せに生きる事。
そういった綺麗事を彼女は、IO2日本支部で嫌になるほど聞かされたに違いない、とフェイトは思った。
復讐。それが、この少女の心の中核なのだ。
自然ならざる生命として、この世に生まれながら、彼女は心を育んできたのだ。
それを否定する資格など誰にもない、とフェイトは思う。復讐心であろうと闘争心であろうと、心は心だ。
自分を凍らせてくれた、あの青い瞳の少年を、フェイトはふと思い出した。
彼もまた母親の胎内ではない場所から生まれつつ、心を育んできた。凶暴なまでに、純粋な心。
その根底にあるのは、誰かを守りたいという思いだ。あの少年には今のところ、それしかない。
(俺には……それすらない、んじゃないのか?)
思いかけて、フェイトは軽く頭を横に振った。
自分には何があるのか。自分は、何なのか。何者であるのか。
アメリカでも、さんざん自問した事である。自問し、思い悩み、時には周囲に迷惑をかけた。
答えなど出ない。
それが、思い悩んで辿り着いた結論である。
「……名前、まだ聞いてなかったよな。そう言えば」
強引に、フェイトは話題を変えた。
「俺はフェイト。一応、改めて名乗っておくよ」
「私はイオナ。I07と呼びたければ、ご自由に」
「誰が名付けたのか知らないが……それなら俺はA01でアオイ、とでもなるのかな」
フェイトは苦笑した。
虚無の境界によって造り出された怪物・A01であった頃の自分というものは、どれほど忌避しようと抹消出来るものではない。受け入れて一生、付き合ってゆくしかないのだ。
虚無の境界によって生み出され、IO2によって鍛え上げられた結果、今ここにフェイトという存在がある。
このイオナも同じだ。虚無の境界の技術で生まれ、IO2エージェントとして生きてゆこうとしている。
2つの組織の、奇妙な繋がりが、今の自分たちを存在させているのだ。
あの青い瞳の少年は、どうなのか。
彼を生んだ研究施設は、虚無の境界と関係している。IO2とは、繋がっているのか。
「イオナは……あの子と戦って、俺を助けてくれたのかな?」
「あの氷の少年か。もし戦っていたら私は今頃、生きてはいないかも知れない」
イオナは答えた。
「幸い、戦いにはならなかった。彼の保護者らしき男と、穏やかに話し合っただけだ……私は貴方を助けるというほどの事はしていないよ、お兄様」
「まあでも戦いにならなくて、良かったじゃないか」
「……どうかな、それは」
緑色の隻眼が、天井に向けられる。
「私の戦闘能力を、極限まで実験したかった……そう考えている人々が、IO2上層部には少なからずいると思う。危険な敵との戦いを私が回避してしまって、彼らは不満を抱いているだろうな」
「上の連中の思惑なんて、気にするなよ」
IO2と、あの製薬会社との間で、あらかじめ話がついていた。
今回のフェイト救出作戦は、双方の『作品』がどれほどの力を持っているか、それを測定するための実験だった……のだとしても、フェイトとしては驚く気にはなれない。
日米問わずIO2という組織は、そのくらいの事はする。
それを糾弾する資格も自分にはない、とフェイトは思う。
(俺が無様にも捕まったりしたのが、そもそもの始まり……だもんな)

 

 

その男は、床に座っている。座った姿勢のまま、束縛されている。
たくましい全身を包むのは、がんじがらめの拘束衣だ。
イオナは、呆れるしかなかった。
「この師範殿は……一体、今度は何をやらかしたのか」
「聞きたいか? まあ、いつもの事さ。ちょいと、やり過ぎちまってなあ」
唯一、拘束されていない顔面が、ニヤリと凶悪に歪む。
良く言えば、仕事熱心な男なのだ。本当に熱心に、殺戮・殲滅任務を遂行する。
イオナの、戦闘師範を務めている男である。
IO2日本支部の、地下懲罰房。
イオナがフェイト救出に赴いている間、この師範もIO2エージェントとして、とある任務を遂行していた。
任務そのものは成功したようだが、何故かこんな所に入れられている。
「いいぜ、超常能力者ってぇ連中はよ」
暴走した超常能力者が、教団のようなものを組織してテロ活動を行おうとしていたらしい。
それを、この師範が見事に阻止してのけた。残虐なほど、見事にだ。
「ちょいと普通じゃねえ力があるってだけで、すぐ勘違いしてバカをやらかす。正義の味方や救世主を気取って得意の絶頂……そこから叩き落として、地べたを這わせる。これがな、たまんねえのよ」
拘束されたまま、師範は楽しそうに、本当に楽しそうに、笑っている。
「超常能力者ってぇ連中は何しろ、てめえが負ける事なんざぁコレっぽっちも考えてねえ。そうゆう奴らが地べたを這って、大げさに命乞いまでしてくれやがる。殺す方も気合いが入ろうってもんじゃねえか」
「聞いたぞ。生かして捕えろという命令だったのだろう? なのに気合いを入れて殺してしまったのか」
イオナは溜め息をついた。
「まったく、何という様だ……すぐにでも貴方に、稽古をつけてもらいたかったのに」
「ほう。可愛い事、言ってくれるじゃねえか」
「まず貴方に勝てないようでは……あの女を倒すなど、夢のまた夢だからな」
父の仇である、あの女。虚無の境界の、女盟主。破滅の女神官。
今のイオナの力では、彼女に一太刀浴びせるどころか、近付く事さえままならない。
復讐のためには、IO2の力が必要なのだ。
「……1つ、気になる事がある」
少しだけ迷った後、イオナは疑問を口にした。
「テロリストまがいの超常能力者を、殺さずに捕えろなどと……何故、そんな命令が出たのだろう?」
「さあな。上の連中の考えてる事なんざぁ」
「今回、貴方が潰した教団……人類の霊的進化を、教義としていたらしいな」
イオナ1人で、調べられるところまでは調べ上げてみた。
「虚無の境界の下部組織を、IO2が殺さずに取り込もうとしていた。そういう事ではないのか?」
「さあな」
曖昧な答え方をしながら、師範はただ凶悪に微笑むだけだ。
それが気に入らなかったから、貴方は皆殺しを実行したのではないのか。
その問いかけを、イオナは飲み込んだ。この師範がまともに答えてくれるとは思えないからだ。
虚無の境界の下部組織。あの製薬会社も、言うならばそうだ。虚無の境界系列の研究で、あの青い瞳の少年を生み出した。
それでいて、IO2とも繋がりを持ちつつある。フェイト、あるいはイオナが、本意ではないにせよ媒介の役割を果たしているのではないか。
IO2と虚無の境界が、あの製薬会社を介して、接近しつつあるのか。
それならそれで一向に構わない、とイオナは思う。
(あの女に近付く事が……出来る、かも知れない)

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復讐者の剣舞

黒が似合う少女である。
 しなやかな細身にピッタリと貼り付いた、黒く短い衣服。ポニーテールの形に束ねられた、長い黒髪。
 それら黒色と鮮烈な対比を成す、白い肌。
 エメラルドを内包しているかの如く、緑色に輝く右目。アイパッチに覆い隠された左目。
 隻眼の美貌には、表情というものがない。
 そんな少女を、男たちが呼び止めた。
「道をお間違えではありませんか」
 某県の山間地帯。
 とある製薬会社の研究施設、その正門前である。
 まるでプロレスラーに守衛の制服を着せたような、筋骨隆々たる男たちが、少女の行く手を阻んでいた。
「道を、お間違えではありませんか」
「間違えてはいない。ここに、私の兄がいるはずだ」
 言いつつ少女は、1通の書簡を懐から取り出した。
 IO2の、緊急捜査令状。
「これを見せれば、入れてくれると聞いた……お兄様に、会わせて欲しい」
「道を、お間違え、ではありませんか」
 令状を一瞥もせず、男たちは言葉を繰り返している。
「道を、お間違え、では、ありませんか」
「道を、おま、おまち、おまち」
「がががががえ、ではありありありあり」
 守衛の制服の下で、隆々たる筋肉がメキメキと蠢いている。
 少女は、小さく溜め息をついた。
「お前たちも、私と同じか……」
 人工的に造り出された生命体。
 こういうものを、この研究施設では大量生産しているらしい。
 自分と、あの姉妹たちのように。
 守衛の制服が、ちぎれて飛んだ。
 その下から、筋肉と獣毛が盛り上がって来る。
 もはや人間の形を保てなくなった男たちが、少女を取り囲みながら牙を剥いた。
「道を、道を、みみみみみみ道を」
「お、おまち、おまち」
「間違え、間違え、間違えでは」
 牙が、あるいはカギ爪を備えた毛むくじゃらの剛腕が、あらゆる方向から少女を襲う。
 緑色の隻眼が一瞬、燃え上がるように輝いた。
 少女の細い腰に吊られたものから、光が走り出す。
 一振りの、日本刀。
 閃光の弧が、男たちを薙ぎ払った。
「生まれた時から、道を間違えているのは……お前たちの方だ」
 もはや届かぬ言葉をかけながら少女は、一閃させた刃を、ゆっくりと鞘に戻した。
 獣と化した男たちの巨体が、幾重にも食い違いながら滑り落ち、ぶちまけられる。
 鮮やかな、輪切りであった。
「いや……私も、かな」
 表情のなかった隻眼の美貌に、微笑、らしきものが少しだけ浮かんだ。
 滑らかに切り刻まれた男たちの屍と一緒に、黒い物体が2つ、地面に転がっている。
 2丁の、拳銃だった。
「お兄様……」
 呟いてみる。思い出してみる。
 この2丁拳銃を手にして自分たちと戦った、あの青年の姿を。
 彼を、救出する。
 それが、初めての任務となった。

 小さな氷山、とも言うべき氷の塊。その中に、青年は閉じ込められていた。
 辛うじて、生きてはいる。
 命を奪う一歩手前で、ノゾミは自制してくれたようだ。
 だからと言って、誉めてやる事でもない。笑って許してやる、わけにもいかない。
 だが伊武木リョウは、とりあえず微笑んだ。
「ノゾミ……何か、言う事はあるかい?」
「ありません」
 俯き加減に、青霧ノゾミは言った。
「ボクは勝手な事をしました。失敗作として……リョウ先生の手で、処分して下さい」
「ノゾミ1人が覚悟を決めれば良いという問題ではないんだよ」
 伊武木は、笑みを消した。
「こんな事をされたら、我が社は大々的にIO2を敵に回してしまう……大勢に迷惑をかけるというのが、どういう事なのか。もう少し、学んで欲しいな」
「はい……」
 どのようなペナルティを受けても、このIO2エージェントは始末しておかなければならない。ノゾミは本気で、そう考えたのだろう。
 確かに、危険な力を持った青年ではあるのだ。それは伊武木にもわかる。
「危険だからと言って、片っ端から排除してしまったのでは……この世には、安全で面白みに欠けて発展の見込めないものしか無くなってしまう。研究者としては、憂えるべき事態だ。そこまでノゾミにわかって欲しいとは言わないけれど」
 氷の中で眠る若者を見つめたまま、伊武木は腕組みをした。
 この若者を、どのようにしたいのか。こんな所に呼び寄せて、自分は何をしたかったのか。
 実のところ伊武木自身にも、明確にわかってはいないのだ。
 ノゾミの友達に、会ってみたかった。興味があった。無理矢理にでも言葉にすると、そのようにしかならない。
 とりあえず解凍し、意識が戻るまで保護する。今、出来る事はそれだけだ。
 耳障りな警報が鳴り響いている事に、伊武木は気付いた。
「ああ、伊武木先生! こんな所に!」
 研究員が1人、あたふたと駆け寄って来た。
「緊急事態です、安全な場所に隠れて下さい!」
「どうしました? B7研あたりの実験体が、また暴れ出したのかな」
「詳細は不明ですが、どうやら侵入者です。警備用の実験体が、すでに何体も倒されていると……って、これは何ですか? 氷? 中に人が」
「ああ、どうかお気になさらずに。そうですか、殴り込みですか」
「は、はい。セキュリティーシステムも破壊されました」
 能力者による襲撃に備えて、テレパス妨害用の特殊電波を流してあったのだが、それも除去されてしまった事になる。
 何が起こっているのかは、明らかだった。
 IO2が、エージェントを追加派遣してきたのだ。この氷詰めの青年を、救出するために。
 いくらか責任のようなものを感じているのだろう。ノゾミが、思い詰めた顔をしている。
「ボクが行く……!」
「まあまあ」
 伊武木は、ノゾミの細い肩に手を置いた。
「コーヒーとお菓子の準備を頼むよ。今日は、フィナンシェがいいな」
「リョウ先生! IO2の連中が攻めて来たんだよ? ボクのせいで……だからボクが戦わなきゃ」
「戦わずに済ませる、という事も学んで欲しいな。ノゾミには」
 伊武木は言った。
「IO2が、どんなお客さんをよこしてくれたのか……一緒に、見てみようじゃないか。もしかしたら、またノゾミの友達になってくれるかも知れないよ?」

 爪が、牙が、触手が、あらゆる方向から襲いかかって来る。
 襲い来る全てに、隻眼の少女は語りかけた。
「私は運が良かった……お前たちのようには、ならずに済んだ」
 右の細腕が、ユラリと動く。綺麗な五指が、柄に絡み付く。
 抜刀。
 鞘から閃光が走り出し、少女の周囲を駆け抜けた。
 怪物、としか表現しようのない生き物たちが、少女に向かって牙を剥き、カギ爪や触手を振り立てたまま、硬直した。
 彼らに取り囲まれたまま少女は、抜き放った日本刀を、スラリと鞘に差し戻した。
「……お前たちよりも、ずっと救いようのない存在と言えるな」
 まるで、風景そのものが断ち切られたかのようである。
 滑らかな断面を晒しながら、怪物たちは崩れ落ちていった。1体残らず、真っ二つになっていた。
 研究施設内。部屋か通路か判然としない、ホールのような広い一角である。
 今は、滑らかに両断された怪物たちの屍で埋め尽くされている。
 自身で作り出した、殺戮の光景を一瞥しながら、少女は思い出していた。自分に剣術を教えてくれた、あの男の言葉を。
 お前の念動力、剣術向きだな。
 念動力そのものは、お前そんなに大した事ぁねえ。だが剣と併用すりゃあ、とんでもねえ力になるぜ。鉄砲玉の距離まで斬撃が伸びる、念動力の剣だ。とりあえず、そいつを極めてみな。
 そう言いながら、あの男は容赦なく少女を叩きのめした。
 復讐がしてえんなら、強くなるしかねえぞ。そんな事も言っていた。
 綺麗事しか言わないIO2職員たちの中にあって、あの男だけが、復讐を否定しなかった。少女の胸の内で暗く燃え盛るものを、肯定してくれた。
 復讐ほど楽しいものはねえぞ。お前もな、このIO2って組織を復讐のために利用してやれ。それには実績ってものが必要になる。今は、面倒でもコツコツと仕事を重ねていくしかねえぞ。憎しみを育てながら、な。
 そう言いながら、あの男は容赦なく少女を痛めつけてくれた。
 耐えるしかなかった。復讐に必要な力を、身につけるために。
「お父様……」
 呼びかけてみる。当然、返事など返って来ない。
 今ならわかる。自分たちが父と呼んでいたのは、単なる狂人だったのだ。惨たらしく殺されたとは言え、同情するにも値しない。
 それでも、自分という存在をこの世にもたらしてくれた恩人である事に、違いはない。
 拍手が聞こえた。
「いやあ、お見事お見事。こいつらの処分には頭を悩ませていたところでねえ」
 この施設の、研究員であろう。白衣を着た痩せぎすの男が1人、いつの間にかそこに立っていて、楽しそうに手を叩いている。
「綺麗に処分してくれてありがとう。助かりましたよ、お嬢さん」
 血色の良くない顔が、少女に向かって、にこやかに歪む。
 細められた両目の中で、瞳が黒い。光彩に乏しい真っ黒な瞳。
 暗黒そのものだ、と感じながら少女は会話に応じた。
「貴方は、ここの責任者か?」
「平の職員ですよ。伊武木リョウと言います。貴女は……IO2の方、とお見受けしますが」
「私の名は、I・07……今は、イオナと呼ばれている」
「I07でイオナさんですか。それならA01でアオイ君、といった感じでしょうか? 何とも安直……いやいや、わかりやすくて結構結構」
「そのA01に用がある。今は、その名前ではないはずだが」
 思わず剣を抜いてしまいそうになった右手を、イオナは辛うじて止めた。今はまだ、軽々しい動きを見せるべきではない。
 伊武木リョウの傍らに控える少年の、出方が読めないからだ。
「……こちらで、ご厄介になっていると聞いた。連れ戻すように言われている」
 伊武木と会話をしながらイオナは、その少年に隻眼を向けていた。
 救出対象である青年と、どこか似ている黒服の少年。
 その両眼は青く爛々と燃え輝いてイオナを睨んでいる。敵意そのものが、凝り固まって眼球を成したかのようだ。
「失礼ですが、彼との御関係は?」
 伊武木が訊いてきた。
「まさか恋人同士? だとしたら男としては情けない話です。彼氏の方が、彼女に助けられてしまうなんて」
「あれは私の兄だ」
 イオナは即答した。
 お兄様、などと呼んでいる。もっとも本人に直接そう呼びかけた事はない。出会った時は、敵同士だったのだ。
「兄……ね」
 伊武木の口調が、変わった。
「俺の考えが正しければ……お兄さんと言うより、お父さん、みたいなものじゃないのかな? 彼は貴女にとって」
「私のお父様は別にいる!」
 イオナは激昂し、だがすぐ冷静になった。
 伊武木の傍らに立つ少年が、青い瞳をギラリと輝かせたからだ。
 一瞬の肌寒さが、イオナを襲った。微かに霧が発生した、ようにも見えた。
 伊武木が、少年を制するように片手を上げる。
 霧は、消え失せた。
「失礼……傷に触れるような事を、言ってしまったようだな」
「……こちらこそ失礼。貴方がたを相手に、事を荒立てるつもりはない」
「充分、荒立っていると思うなあ」
 死屍累々と言うべき光景を見回し、伊武木は笑った。
「廃棄物処分要員として、この研究所で雇いたいくらいだよ。IO2よりお給料は安いかも知れないけど、3食昼寝付きでどうかな? おやつもあるよ。ケーキやドーナツで極上のブラックコーヒーを」
「甘いものは好きではない。それに私とて、好きで事を荒立てているわけではないぞ」
 イオナは言葉を返した。
「正式な令状を持って来たと言うのに、読んでもくれない。そんな連中を、門番として使っているだけでなく屋内でも放し飼いにしている。穏やかに対話しろと言う方が無理だ」
「放し飼いにしているわけじゃあない。どうも誰かさんがセキュリティーをぶっ壊してくれたみたいでねえ。隔離しておいた失敗作どもが、こうして暴れ出してしまったんだよ」
 セキュリティーシステムは、確かにイオナが破壊した。
 テレパスの類を無効化する特殊電波が流されていたようだが、それも除去された。
 だから救出すべき青年の居場所を、イオナの思念で捜し当てる事も出来た。
「私の兄は、この先の部屋にいるはずだ。返してくれるのか、くれないのか……それだけを今、私は知りたい」
「返答次第では我々も真っ二つ、というわけかな」
 伊武木が笑う。
 青い瞳の少年は、笑いもしない。敵意の表情を、変えようともしない。
 即、斬殺するしかない。そうしなければ自分が死ぬ。
 イオナが直感した、その時。
 真っ二つの屍が、いくつか吹っ飛んでビチャビチャと散った。
 凶暴な雄叫びと共に、床が裂けていた。
 何かが、凄まじい勢いで、階下から姿を現したところである。
 巨大な昆虫だった。甲殻類にも見える。異形の外骨格に覆われた巨体は、しかし人間の原形を辛うじて残してもいる。
「A2研の実験体か……!」
 伊武木が、息を呑んでいる。
 そう呼ばれた怪物が、大顎を鳴らし、イオナに襲いかかった。
 念動の斬撃で、叩き斬る。それしかない。
 だが伊武木は叫んでいた。
「駄目だ、殺してはいけない! この実験体には、まだ研究の余地がある!」
 無視するべきであった。この男の研究など、イオナの知った事ではない。
 だが。抜刀する前に、全ては終わった。
 霧が発生し、漂い、消えたのだ。
 イオナが肌寒さを感じた時には、昆虫のような甲殻類のような怪物は、動かなくなっていた。その巨体が、小さな氷山の中に閉じ込められている。
 青い瞳の少年が、ようやく言葉を発した。
「……捕獲したよ、リョウ先生」
「お見事。よくやってくれた」
 伊武木が微笑み、少年も微笑んだ。
 殺してはいけない、という叫びは、この少年に対する命令だったようである。
「イオナ嬢、貴女のお兄さんも実はこんな状態でね」
 伊武木が言った。
「解凍が済むまで……フィナンシェとコーヒーでも、いかがかな?」
「……もらおう」
 そんな返事をしてしまった理由は、イオナ自身にも、よくわからない。
「兄を返してくれるなら、むやみに貴方がたと敵対する理由もないからな」
「……コーヒーに毒を入れたりはしないよ」
 青い瞳に敵意を孕ませながら、少年が言った。
「あなたがリョウ先生の敵になるなら、そんな回りくどい事はしない……凍らせて、砕く。それだけだよ」
「……お前、私と同じだな」
 イオナは言った。
「私は、お父様を守れなかった……お前は、守り通せるかな」
 守れなければ、あとは復讐しかなくなってしまう。
 そこまでは、イオナは言わなかった。

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青い瞳、緑の瞳、そして暗黒の瞳

 伊武木リョウは、どちらかと言うと甘党である。が、コーヒーに砂糖は入れない。
 その代わりにメープルチュロスを一皿、用意する。
 チョコレート味のケーキドーナツにするべきかどうか、青霧ノゾミは少し迷ったが、今日はチュロスで行く事にした。
「はい、先生。コーヒーブレイクだよ」
「ああ……ありがとう」
 伊武木が、パソコンの画面と書類の束から顔を上げ、微笑んだ。
 いくらか青ざめた、あまり健康そうではない笑顔が、ノゾミの胸を締め付けた。
「リョウ先生……ちょっと、やつれたんじゃない?」
「俺の顔が不健康そうなのは元々さ。本当に不健康というわけじゃあない、心配するなよ」
 A7研究室。今ここにいるのは、伊武木リョウと青霧ノゾミだけである。
 伊武木はこのところ、様々な実験や書類の作成などで忙しい日々を送っていた。
 ノゾミも忙しいと言えば忙しいが、外で身体を動かす事が出来る分、伊武木よりは恵まれている。
「ん~……甘いものにブラックコーヒーを合わせる。この一時のために、窮屈な研究所生活に耐えているようなものさ」
「お菓子とコーヒーだけじゃなくて、ご飯もちゃんと食べないと駄目だよ先生」
 言いつつノゾミは、自分のコーヒーに砂糖とミルクをたっぷりと注ぎ込んだ。
「昨日だってカップラーメンだけで、しかもろくに寝てないんでしょ。無理し過ぎじゃないの? 最近」
「俺はむしろ、ノゾミに無理ばっかりさせている……今回も、ご苦労だったね」
 この研究施設から、出来損ないの実験体が15匹ほど脱走した。
 ほぼ全てを、ノゾミが1人で処分した。
 最後の1体だけは、不本意ながら他者の力を借りる事になってしまった。
「俺は、ノゾミにばかり危険な仕事を押し付けている」
「しょうがないよ。危険な仕事が出来るの、ボクだけだもの」
 いささか甘くなり過ぎたコーヒーを、ノゾミは一口だけ啜った。
「……危険なのは、この研究所かも」
「ん? どういう事かな」
「他の連中なんか、どうなったって構わない。だけど……ボクのせいで、リョウ先生が危険な目に遭うかも知れない……」
 怪物に出会った。
 脱走した出来損ないの群れとは格の違う化け物に、ノゾミは目をつけられてしまったのだ。
「IO2の、フェイト……あいつは、先生の敵……」
「おいおい、どうしたんだ。ノゾミが、そんなに警戒するなんて」
 興味深げに、伊武木が言った。
「IO2のエージェントに出会ったのか。まあ彼らが動くだろうとは思っていたけれど」
「先生は、心配しないで」
 青く澄んだ瞳を、ノゾミはじっと伊武木に向けた。
「あいつが攻めて来ても、ボクがリョウ先生を守るから」
「命に代えても、なんて言わないでくれよ」
 やつれ気味の青白い顔が、にっこりと微笑む。
 苛立ちに近いものが、ノゾミの胸中に生じた。
(先生……どうして、笑っていられるの? 本当に危険なんだよ、あのフェイトって奴は……)
 緑の瞳の怪物。
 あの男が殺意を剥き出しにして、この研究施設に押し入って来たら。
 間違いなく、命懸けの戦いになる。冗談抜きで、命に代えても伊武木を守らなければならない。
 その伊武木リョウは、しかし妙に嬉しそうだ。
「ノゾミに友達が出来た、という事かな」
「何……言ってるの? 先生……」
「会ってみたいな、ノゾミの友達に」
 伊武木リョウが、IO2のフェイトに興味を抱いた。
 ノゾミではない何者かに、興味を抱いてしまった。
(……って、今更何を考えてるんだよ、ボクは……!)
 この先生を独り占めする事など、出来はしない。
 それは最初から、わかっていた事だ。

 日本人なら、子供でも名前を知っている製薬会社である。
 そんな所から、メールが来た。会社訪問にいらっしゃいませんか? という内容である。
 もちろん、その会社の関係者にアドレスを教えた覚えはない。電話番号も住所も本名も、うかつに他人に教えるような事はしていない。
 ただ、フェイトというエージェントネームを名乗った記憶はある。あの青霧ノゾミという少年に対してだ。
「そこから、俺の個人情報を割り出してくれたと。そういう事かな?」
 IO2本部で出されるものより、いくらかはましなコーヒーを啜りながら、フェイトは睨み据えた。
 向かい側のソファーでにこにこと微笑む、いささか不健康そうな男をだ。
「いやあ本当、便利な世の中ですよね。調べようと思えば、大抵の事は調べられてしまうんだから」
 伊武木リョウ。そう名乗った男が、悪びれもせずに応えた。
 件の製薬会社が、某県の山間地帯に有している、巨大な研究施設。
 その応接室でフェイトは今、コーヒーと菓子が置かれたテーブルを挟んで、伊武木と向かい合っている。
 会社訪問と言うより研究所訪問になってしまったが、とにかくフェイトは、メールで指定された通りに、ここを訪れた。
 当然、拳銃を持ち込めるわけはなかった。
「入口にさ、ガードマンがいたよね。プロレスラーに制服着せたような、ごつい人たち。あの人らに俺の拳銃、没収されちゃったんだけど」
「もちろん、お返ししますとも。貴方が何の問題もなく、ここを出て行かれる時にね」
 伊武木が言った。フェイトは、苦笑した。
「もちろん俺だって、問題は起こしたくないけどさ……それはともかく。あのガードマン全員、人間じゃないよな?」
「おや。どうして、そう思われます?」
「その子に殺処分されてた連中と、同じような臭いがしたから」
 ちらり、とフェイトは視線を動かした。
 伊武木の傍らに控えた少年が、青い瞳を燃え上がらせ、睨み返してくる。敵意の眼光だった。
 青霧ノゾミ。
 今、この場で彼と戦う事となったら。拳銃のない自分は、どうするべきか。
 フェイトは考えてみた。念動力で、いきなり頭を粉砕するしかない。それが通用する相手かどうかは、やってみなければわからないのだが。
「うちのノゾミを、助けていただいたそうで」
 にこやかに、伊武木は言った。
「お礼を言わなければ、と思っていたんですよ」
「俺の助けなんて必要なかったと思う。その子……優秀だからな」
 優秀な少年。優秀な能力者。優秀な道具。優秀な作品。優秀な実験体。
 様々な言葉が、フェイトの胸中で渦巻いた。
(その子、あんたが……造ったのか?)
 という質問を、フェイトはしかし口に出す事が出来なかった。
 人間を造る。何という、おぞましい言葉であろうか。
 だが。人間を怪物に造り変える、よりは遥かにましなのか。
 フェイトは、テーブルの上の菓子を口に詰め込んだ。砂糖をまぶした、餡ドーナツである。
 その甘味を、ブラックコーヒーで一気に流した。おぞましい言葉もろとも、飲み込んだ。
 伊武木が、目を細めている。
「甘いものにブラックコーヒーって、最高ですよね」
「俺、スコーンと紅茶で英国流のティータイムってやつを試してみた事もあるよ。あんたと同じくらい、クセのある奴と一緒にね」
 そんな事はまあ、どうでも良かった。
「それにしても……ここは製薬会社の施設って言うより、軍事基地に近いよな。守りが固いよ、異常に」
 入って、すぐにわかった。研究施設全域に、特殊な電波が流されている。
 テレパスの類は一切、使えない。
 もっとも、フェイトにしてみれば想定内である。
「こんな所に、俺を引きずり込んで……一体どうするつもりなのか、訊いてもいいかな」
「別に、貴方をどうこうしようという気はないんですよ工藤さん、じゃなくてフェイトさん」
 本名も知られている。それもフェイトにとっては想定内である。
「それとも……A01とでも呼んでみた方が、刺激的かな?」
「……別に、刺激は求めちゃいない」
 何もかも、調べ上げられている。それも想定内である。
「その名前を知ってるって事は、要するに資料が残ってるって事だよな。この研究所に」
「さて、何の資料かな?」
「とぼけるなよ」
 あのガードマンたちに拳銃を預けておいて良かった、とフェイトは思った。そうでなかったら、この場で伊武木に銃口を突き付けていたかも知れない。
「あの研究を、何らかの形で引き継いでる……虚無の境界と繋がってるって事だろうが、この研究所が」
「引き継いではいないよ。あれはもう、終わった研究だ。いろいろと参考にしているのは確かだけれど」
「何を参考にして、どんな研究をしているのか、あんたに訊いてみたいと思ってたところさ」
 フェイトが言った瞬間、すぐ近くで敵意が膨れ上がった。
 ノゾミの青い両眼が、激しく輝いている。敵意、と言うより憎悪の眼差し。
 うっすらと、霧が発生した。
「やめなさい、ノゾミ」
 伊武木が、少しだけ厳しい声を発する。
 敵意の眼光はそのままだが、霧は消え失せた。
「失礼……まあ、ここでどんな研究が行われているのかは、ノゾミを見ればわかるだろう。俺たちは新しいものを造り出そうとしているのであって、すでにある誰かの研究成果に手を加えようという気はないんだ。そんな事をしても、俺にとっては実績にも名誉にもならないからね」
 すでにある誰かの研究成果。要するにフェイトの事だ。こんな事を言われても、まあ平然としていられるようにはなった。
「だからフェイト君、繰り返すが貴方を研究や実験に引っ張り込んでどうこうしようというつもりはないんだ。ここへお招きしたのは……ただ、ノゾミの友達に会ってみたかったからさ」
「友達ね」
 同類に近いもの、ではあるのだろうか。
 フェイトは人間として生まれた後、誰かの研究成果になった。
 青霧ノゾミは、最初から研究成果として生まれた。
「研究成果『A01』に興味があった、のも事実だけどね。あの実験体が今、こうして無事に生きている。優れた戦士として、大勢の人々を救っている……あの研究が、それほど間違ったものではなかったという、何よりの証明だと俺は思うよ」
 あの実験によって、自分は確かに力を得た。
 その力が、大いに役立つものであったのは、事実である。
 そう思う事にしながらも、フェイトは言った。
「だからと言って……あんた方のやってる研究を俺は、少なくとも肯定する気にはなれない。ノゾミ君にも言ったけど、許せないと思ってる奴が最低ここに1人はいる」
 エメラルドグリーンの瞳が、燃えるように輝くのを、フェイトは止められなかった。
「許せないから叩き潰す、と言いたいところだけど……あんたたち、別に悪い事してるわけじゃあないもんな。わかりやすく子供をさらって人体実験とか、してるわけでもなし。自分たちで造り出した生き物を、自分たちで処分したり可愛がったり……してるだけだ……」
 声が、微かに震える。それをフェイトは止められなかった。
「……自分で言ってて、胸くそ悪くなってきたよ」
「胸くそ悪いものには、手を触れないのが一番さ」
 伊武木が微笑んだ。
 にこやかに細められた両眼の中から、黒い、光彩に乏しい瞳が、じっと向けられて来る。
「だから我々には、もう関わらないで欲しい……攻撃的な関わり方をされたら、俺たちも反撃をしなければならなくなる。ノゾミを、フェイト君と……戦わせる事になってしまう、かも知れないんだ」
 暗黒の瞳。フェイトは、そう感じた。
「肯定する気になれない、と言ったね。だけどフェイト君、俺たちの研究を否定するという事は、ノゾミの存在を否定するという事でもあるんだよ?」

 この製薬会社はIO2日本支部にとって、今のところは調査対象である。
 殲滅対象として認定されれば、例えばNINJA部隊のような暴力装置が投入される事になる。
 あるいは、フェイトに殲滅任務が与えられるかも知れない。
 工藤勇太を救い出してくれた、あの男が派遣されるかも知れない。
 だが、今はあくまで調査対象である。殲滅に値する反社会的行為が、この製薬会社で行われているわけでもない。
 フェイトに与えられた任務は、殲滅ではなく調査だ。
 調査の一環として、今回の招待メールに応じてみた。
 無駄であった、とは思わない。この製薬会社の、研究部門の重鎮である伊武木リョウと、接触する事が出来たのだ。
 彼の言葉が、フェイトの脳裏に、胸中に、甦って来る。
 俺たちの研究を否定するという事は、ノゾミの存在を否定するという事でもあるんだよ……
「否定……か」
 否定される。それがどういう事であるのか、フェイトは思い出したくなくとも思い出してしまう。
 まず母が、自分を否定した。
 大勢の人々が、工藤勇太を否定した。
 だが肯定してくれる人々もいた。
 青霧ノゾミは、どうなのか。
「俺が、あいつを肯定してやらなきゃ……なんてのは、思い上がりなんだろうけど」
「まさしく、そうだね」
 フェイトの呟きに、何者かが応えた。
 応接室のある研究施設の本棟を、出たところだ。
 霧が、立ちこめていた。冷たい霧だ。
「ボクを肯定してくれるのは、リョウ先生だけ……リョウ先生、1人だけでいいんだよ」
 言葉と共に、霧の中で何かが光る。青い、眼光。
 青霧ノゾミが、そこに佇んでいた。
 それに気付いた時には、フェイトはすでに動けなくなっていた。
 黒いスーツに、びっしりと霜が付着している。その霜が厚みを増し、氷になってゆく。
 氷が、フェイトの全身を、分厚く冷たく包み込んでゆく。
 完全な、油断であった。
「あなたを殺せ……リョウ先生は、そうは言わなかった。だから殺しはしない、だけど帰すわけにもいかない」
 ノゾミの声は、まだ辛うじて聞こえた。
「何故なら、あなたはリョウ先生を殺しに来る……許せない、とあなたは言った。ボクにはわかる。あなたは、許せないとなれば平気で人を殺す」
(……まあ……確かに……な……)
 そんな自嘲を最後に、フェイトの思考も凍り付いた。

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霧の鏡

霧の都に1人、知り合いがいる。
 そんな事をフェイトがふと思い出したのは、あまりにも霧が深い夜であるからだ。
 ロンドンがそう言われるほど霧深い都市であるのかどうか、何しろ行った事がないのでフェイトは知らない。
 今夜、ロンドンはともかく、東京には霧が出ていた。まさに霧の都と呼ぶにふさわしい濃さである。
「あいつ、元気でやってるかな……」
 英国首都を拠点として多忙な日々を過ごす、若き大富豪。
 あの優雅で不敵な笑顔を思い出しながら、フェイトは身震いをした。
 寒い。気温が低いと言うより、霧が冷たい。
 黒いスーツが、うっすらと白くなっている。霜が、貼り付いていた。
 フェイトは足を止め、見回した。
 見慣れた公園の夜景が、ぼんやりとした冷たい白さに覆われている。
 これは、本当に霧なのか。
 少なくとも、自然に発生した霧ではない。
 明確な根拠もなく、そう感じながら、フェイトは拳銃を抜いた。
 霧の中で、光が点ったからだ。
 2つの、小さな青い光。
 眼光だった。青い瞳が、ちらりと向けられてくる。
 フェイトは一瞬、鏡を見ているような気分になった。
 冷たい霧の中に佇む、1人の少年。
 細い身体は、ほぼ黒一色の装いをしている。黒いジャケットにベスト、黒いズボン、黒革のショートブーツ。
 似ているのは服装だけではない、とフェイトは感じた。
「A6研の人かな。それともA5?」
 青い瞳の、その少年が、謎めいた事を言っている。
「何にしても一足遅かったね。ボクの仕事、横取りするつもりだったんだろうけど」
「仕事……ね」
 少年の足元に横たわるものを、フェイトはちらりと観察した。
 氷の塊……いや、凍死体に見えた。人間ほどの大きさの何かが、真っ白に凍り付いている。
 何であるかをフェイトが確認しようとした時には、それはキラキラと砕け散っていた。
「……どんなお仕事なのか、ちょっと訊いてみてもいいかな」
「研究所の人じゃないの……?」
 少年が、怪訝そうにフェイトを見る。
 その目が、はっと見開かれた。青い瞳が。フェイトの拳銃に向けられている。
「先生が言ってた。日本で、堂々と拳銃を持ち歩いてるのは……IO2だけ」
「名刺代わりになっちゃったな、こいつが」
 言葉と共にフェイトは、少年に拳銃を向けていた。
 この少年が何者なのかは不明だが、1つ明らかな事がある。フェイトが、直感した事がある。
 この霧の中では、自分は100%の力を発揮出来ない、という事だ。
 霧の冷たさが、全身にまとわりついて体内に浸透して来る。
 自分の力が少しずつ凍結してゆく。フェイトは、そう感じた。
 このまま戦いになったとしたら、自分は確実に負ける。今すぐ引き金を引いて、この少年を射殺しない限り。
 だがフェイトは引き金を引かず、言った。
「アメリカ暮らしが長くてね。人に銃を向ける事には、あんまり抵抗がないんだ。良くない傾向だとは自分でも思うよ」
 作り笑いを、浮かべてみる。
「アメリカのせいにしちゃあ、いけないかな……とにかく、ここで何をしてたのか教えて欲しい」
「安心して。人殺しをしたわけじゃないから」
 白く凍った肉片が、公園の地面にぶちまけられている。それを見下ろしながら、少年は言った。
「ボクたちが、不始末を後片付けしているだけ……IO2の人たちに、手間をかけさせるつもりはないから」
 霧が、濃くなった。
 その白い闇の中で少年が、ふわりと後退りをしている。
「どうか、余計な事はしないで……」
 霧が晴れた。
 少年の姿は、消えていた。
 言葉は、しかし残っている。少年の発した、ある1つの単語が、フェイトの心に突き刺さっている。
「研究所……か」
 本当に、嫌な言葉だった。

 一瞬。ほんの一瞬だが青霧ノゾミは、鏡を見ているような気分に陥った。
 路地裏で無様に尻餅をつき、怯えている男。衣服とも呼べないボロ布の下にある肉体は、今のところ辛うじて、人間の形を維持しているようだ。
 この男は、生ける兵器として造り出され、実験動物として扱われ、失敗作として廃棄処分を決定され、それに逆らって脱走した。
 同じ研究所にいながら青霧ノゾミは、素晴らしい先生に恵まれ、慈しまれ、今のところは成功作品として大切に扱われている。そして今、脱走した失敗作を狩る側にいる。
 何か1つでも間違っていたら、立場は逆転していただろう。
「だけど、それは……あなたを見逃す理由には、ならないから」
 1歩、ノゾミは近付いた。
 尻餅をついたまま、男は後退りをして、ビルの外壁にぶつかった。
「や……やめろ、やめてくれえ……」
 言語中枢は、まだ生き残っているようだ。
「わ、わからねえのか……お前だって、そのうち俺と同じになるぞ……モルモットみてえに扱われて、ゴミみたく捨てられて」
「同じ事を言わせないで。それは、あなたを見逃す理由にはならない」
 楽に死なせる。美しく、キラキラと粉砕する。
 この男のためにノゾミがしてやれる事は、それだけだ。
「だいたい、わかったよ」
 声がした。
 足音が聞こえた時には、もう銃口を向けられていた。
「あんたの言う研究所で、どういう研究をやってるのか……今のやり取りで、大体わかった」
「あなたは……」
 黒髪に、黒いスーツ。エメラルドグリーンの瞳。
 先日、公園で出会った、IO2の青年である。
 あの時と同じく、ノゾミに拳銃を向けながら、青年は言った。
「わかったけど、少し詳しい話も聞きたいな……その研究所ってのが、どこにあるのか。まずは、それから話してもらおうか」
「な、何でも話す! 俺が教えてやるよ、だから助けてくれよお!」
 ビルの外壁にしがみつくようにして、男が叫んだ。ノゾミが止める暇もなく、ある地名を口にしてしまった。
「俺みたいな奴が大勢、そこに閉じ込められて! ひでえ目に遭ってんだよぉおお!」
「だから逃げ出して、追われて、狩られてると。そういうわけか」
「15体」
 逃げ出した実験体の数を、ノゾミは仕方なく明かした。こうなった以上、ある程度の説明はしなければならないだろう。
「ここにいるのが、最後の1体……見ての通り、大した力は持っていないよ。IO2の人に手を貸してもらうまでもない、ボク1人で充分だから……帰って、くれないかな」
「俺も、お手伝いをしようって気はないんだ」
 エメラルドグリーンの瞳が、ギラリと発光する。
 同じだ、とノゾミは感じた。この青年は、自分と同じだ。
 無論、ホムンクルスではないだろう。母親の胎内から生まれ、だがその後間もなく……恐らくかなり幼い時期に、何かしらの開発実験を施された。
 そして、人間ではないものに造り変えられた。ホムンクルスの最高傑作、にも等しいものに。
 研究所の科学者たちが見たら羨むだろう、とノゾミは思った。
(先生への、お土産に……連れて帰ってみたいな)
「……道具だな、あんた」
 青年が言った。その口調に、緑色の眼光に、怒りが漲っている。
「物として、便利に使われてる。その自覚はあるのかな」
「あなたは……何をそんなに怒っているの?」
 ノゾミは、微かに首を傾げた。
「ボクが先生の道具なのは、当たり前じゃないか。先生はボクを、本当に大事に使ってくれる。ボクは先生の役に立ってる。誰も困ってはいない、誰かを怒らせる要素なんて1つもないと思うけどな」
「先生、ね……あんたたちみたいな生きる道具を、大量生産してるわけだ。その研究所では」
「それのどこに、あなたを怒らせてしまう理由があるのかな?」
 研究所では、皆が幸せに過ごしている。
 その幸せを感じられない者だけが、こうして時折、脱走するだけだ。
 誰も困りはしない。誰かに怒られる理由など、ないはずであった。
「IO2の人たちにとっても、有益な研究をしている所だよ」
「IO2とも、虚無の境界とも、繋がってた……そんな研究施設があったのさ」
 言葉と共に青年の瞳が、緑色に燃え上がる。鮮やかな、エメラルドグリーンの炎。
 綺麗だ、とノゾミは感じた。
 青い瞳が綺麗だ、と先生に誉められた事がある。が、この燃え上がる緑色ほど綺麗ではないだろう。
「虚無の境界がやってた研究を、いつの間にかIO2が引き継いでいたんだよ。だから俺は、IO2の上層部にいる連中を信用してない。あいつらが喜ぶ有益な研究なんて、認めたくはないな」
「ボクたちの研究所と、IO2が手を組めば、凄い力が生み出せるんだよ? 世界のみんなが、幸せになれる力さ」
「先生とやらが、そう言ったのか」
 青年が何を言っているのか、ノゾミは一瞬、わからなくなった。
「そういう言葉で、あんたを便利に使いこなしているわけだ」
「え……っと」
 ノゾミは、頭を掻いた。
「もしかして、今……先生の悪口、言った?」
「直接会って、悪口をぶつけてやりたい気持ちはあるよ。悪口だけで済ませられるかどうか、ちょっと自信ないけどな」
 この青年は、先生に危害を加えようとしている。
 それだけでノゾミは、両眼が青く激しく輝くのを止められなくなった。
 路地裏に、霧が立ちこめる。
 問題は、銃口がすでに自分に向けられている、という事だ。
 引き金を引かれる前に、この青年を凍結させ粉砕する事が、果たして出来るかどうか。
 絶叫が、おぞましく響き渡った。
 ビルの外壁にへばりつき、怯え震えていた男が、さらに激しく痙攣し、叫んでいる。
 その全身から、ボロ布がちぎれ飛んだ。
 剛毛が、筋肉が、凄まじい勢いで隆起している。まるで熊かゴリラのように。
 もはや人間の言葉を発声出来なくなった口が、大きく裂けながら巨大な牙を露わにした。
 そして、ノゾミに喰らい付いて来る。
 完璧な奇襲であった。許せない発言をした青年に、ノゾミは注意を奪われている。
 一瞬後には、食い殺される。覚悟を決めている暇すらない。
 銃声が、轟いた。
 緑の瞳の青年が、引き金を引いていた。銃口はノゾミに、ではなく獣と化した男に向けられている。
 熊かゴリラのような巨体が、フルオートの銃撃を叩き込まれて吹っ飛び、倒れ、だが起き上がって来る。
 そこへノゾミは、青く燃え上がる眼光を向けた。
 霧が凝集・凝結して水滴に変わり、凍り付く。
 氷の矢が無数、そこに発生していた。
 一斉に発射されたそれらが、獣と化した男の全身に突き刺さる。
 剛毛と筋肉で膨れ上がった巨体が、一瞬にして凍り付き、砕け散った。
 白く凍った肉片が、ガラスのようにキラキラと飛散する。
 ノゾミは一瞬、鏡を粉砕したような気分になった。
 何か1つ間違っていれば、こうして粉々になっていたのは自分の方なのだ。
「大したもんだ……あのまま戦いになってたら、俺がこうなってたかもな」
 そう思うなら今すぐ撃ち殺せば良いものを、それをせずに青年が言う。
 ノゾミは、ちらりと睨み据えた。
 青と緑、2色の眼光が一瞬、ぶつかり合った。
「あなたは、許せない事を言った……だけどボクを助けてくれた。今回は、それで帳消しにしてあげる」
 言いつつノゾミは、青年に背を向け、歩き出した。
 これ以上、睨み合っていたら、本当に戦いになってしまうかも知れない。
 今まで自分が始末してきた出来損ないの実験体、とは明らかに格の違う、この緑の瞳の怪物とだ。
「1つ、言っておこうかな……先生の敵に回るのなら、ボクは容赦しないよ。あなたがどんなにバケモノでも」
「俺からも1つ言っておく。こんなものを造り出すような研究は、たとえ何か正当な理由みたいなものがあるにしても、俺は絶対に許さない」
 燃え上がる緑の眼光を、ノゾミは背中に感じた。
「許さなきゃどうするのか、今はまだわからない。あんまり勝手な事は出来ないからな……ただ、許せないと思ってる奴が最低1人はいる。それを、先生とやらに伝えておいて欲しい」
「……ボクは、青霧ノゾミ」
 ノゾミは振り向かず、名乗った。
「……あなたは?」
「フェイト」
「覚えたよ」
 可愛らしく並んだ白い歯を、ノゾミは微かにギリッ……と噛み鳴らした。
「先生の敵の名前は……フェイト」

カテゴリー: 02フェイト, season7(小湊WR), 小湊拓也WR(フェイト編) |

新たなる戦いの中へ

奇怪、としか言いようのない巨大な石像が、闇の中に整然と並んでいる。
 その闇の中で、無数のマズルフラッシュが閃き続ける。
 石像たちが見下ろす通路の真ん中で、2人の男は殺し合っていた。
 1人は、すらりと引き締まった身体を黒いスーツに包んだ、日本人の青年。童顔で、下手をすると高校生にも見えてしまう。
 相手を見据える両の瞳は、淡い緑色の輝きを発していた。
 左右の手にそれぞれ握られた拳銃が、間断なく火を噴きながらも銃撃の方向を逸らされ、眼前の標的を仕留められずにいる。
 もう1人は、いくらか年上の男であった。
 サングラスとロングコートが、いささか怪しげな感じに似合っている。
 コートの下には、プロテクター状の防具を着用しているようだ。
 右手にはリボルバー拳銃、左手にはコンバットナイフ。
 2つの得物で、相手の2丁拳銃を打ち弾き、銃撃の方向を逸らせながら、その男は言った。
「随分と派手にやってくれたな、フェイト……」
「派手になっちゃったんですよ。文句は虚無の境界の連中に言って下さい」
 アリゾナ州グランド・キャニオン大峡谷に、地震によって突如出現した神殿型ピラミッド。
 その内部通路でフェイトは今、上司の襲撃を受けているところであった。
「俺はただ、護衛の任務を遂行しただけですよ。犬の散歩中だろうがいつだろうが、あいつらは襲って来るんです。穏便に帰ってもらう事なんて出来ません、どうやったって派手になりますから!」
「わかっている……お前に落ち度がある、と言っているわけではないんだ」
 フェイトがぶっ放した拳銃を、上司がナイフで殴打する。銃口が、あらぬ方向に火を噴いた。
 その時には、リボルバーがフェイトに向けられている。
「ただ、な……今はまだ、お前にはあまり派手な事をして欲しくない」
「病み上がりだから、ですか?」
 引き金を引かれる寸前。フェイトはもう片方の拳銃を鈍器のように振るい、そのリボルバーを打ち払った。
「あんたなら、今の俺がどういう状態なのかはご存じでしょう。確かに心身共に健康とは言い難いですけどね、こうやってディテクターさんを相手にやり合う事くらいは出来ます。お気遣いは無用ですよ」
「魂が根付いている最中、か……確かにそれも気になるが、俺が言っているのはその事ではないんだ」
 フェイトは、喉元の辺りに冷たいものを感じた。とっさに、身を反らせた。
 上司……ディテクターのナイフが、顎の辺りをかすめるように一閃していた。
「お前があまり大暴れをすると、奴らが気付いてしまう。お前という存在を、知られてしまう」
「わけわかんない事を……!」
 ナイフをかわしながら、フェイトは引き金を引いた。
 同時に。ディテクターのリボルバー拳銃が、こちらに向かって火を噴いていた。
 フェイトは吹っ飛んだ。ディテクターも、吹っ飛んでいた。
「うぐっ……!」
 床に倒れ込み、どうにか受け身を取りながら、フェイトは起き上がった。そして拳銃を構える。
 否、拳銃などない。最初から、持っていなかった。
 見回してみる。
 奇怪な石像が立ち並ぶピラミッド内……ではなく、IO2日本支部の戦闘実技練成場であった。
「サイコネクション……だったか。お前の能力、やはり大したものだ」
 少し離れた所で、ディテクターが身を起こしている。
「限りなく実戦に近いイメージトレーニングが出来る。重宝なものだ。これからも度々、付き合ってもらうぞ」
「俺……今日は、休みなんですけどね」
「何か予定でもあるのか?」
「……ありません」
 任務のない日は、する事がない。
 アメリカでも日本でも自分は同じだ、とフェイトは思った。
 今日も漫然と筋力トレーニングをこなしていたところ、ディテクターに呼び出され、戦闘訓練に付き合わされたのだ。
「……まあ、それはいいんですけどね。それよりディテクターさん、思わせぶりな事言いっぱなしってのは勘弁ですよ。俺の存在を知られたら困る相手ってのは一体、誰なんですか」
「お前をな、御本尊として崇め奉っている連中がいるのさ」
 意味不明な冗談を言いながら、ディテクターが背を向けた。
「いずれわかる。仕事がなくて、やきもきしているようだが……安心しろ。そいつらがお前を、嫌でも忙しくしてくれる」
「ちょっと、待って下さいよ……」
 結局、思わせぶりな事を言いっぱなしで立ち去ろうとするディテクターを、フェイトは追おうとした。
 何かが、飛んで来た。
 ディテクターが背を向けたまま、さながら忍者の手裏剣の如く投げてよこしたもの。
 それをフェイトは、パシッと受け取った。
 カード、と言うより名刺であろうか。
「そこの店主から、依頼が来ている」
 歩み去りながら振り向きもせず,ディテクターは言った。
「依頼の内容までは知らんが、あの女が簡単な仕事を投げてくるわけはない。とりあえず、それを片付けて見せろ」
「このお店……」
 フェイトは名刺を見つめた。
 店の名前も,店主の名前も,懐かしい。
 アメリカへ行く前,工藤勇太であった頃に、いくらか縁を持った事がある。
「ここ……まだ、やってたんだ……」

 古代中国の玉彫工芸品、と思われる置物である。
 祭壇のような横長の台座の上で,2匹の竜が向かい合っている。
 つい先日まで,右側の竜が失われている状態であったらしい。
「びっくりしたよ。まさか、あの坊やが……IO2エージェントなんてね」
 このアンティーク・ショップの女店主が、2匹の竜を撫でながら感心している。
「いい仕事してくれたよ……アメリカへ行くなんて聞いた時には、どうなる事かと思ったけど」
「あいつがアメリカにいる間、虚無の境界の方でも色々とあってな」
 ディテクターは言った。
「真っ二つに,割れようとしている……その片方が,フェイトの身柄を狙っているのさ」
 正確には,今はまだ工藤勇太の研究実験データを血眼になって探し求めている段階だ。
 だがいずれ、フェイト本人の身柄を狙うようになるだろう。
「難儀な目に遭ってばっかりだね,あの子も」
 女店主が、溜め息をついた。
「あたしがしてあげられる事なんて,何にもないんだろうけど」
「俺にもない。あいつに何かしてやれる奴なんて,誰もいない」
 無論,フェイトにも仲間はいる。
 だが最後の最後で、自身を取り巻く難儀な状況を切り抜けるためには、自分自身の力を振り絞らなければならない。
 それは,フェイトに限った話ではなかった。

カテゴリー: 02フェイト, season6(小湊WR), 小湊拓也WR(フェイト編) |

ぼっち温泉

純粋なホモ・サピエンスで、年齢は外見通りの22歳。実は100年も200年も生きている、という事はない。
魔力・超能力の類は一切持たず、霊感が強いわけでもない。IO2や『虚無の境界』とも無関係。体力と根性はあるが、腕っ節は人並みである。
馬場隆之介は、正真正銘の一般人だ。フェイトの知り合いとしては、希有な存在と言っていい。
悪霊や妖怪といった輩はしかし、霊感の強い者よりもむしろ、こういった人間を好んで狙うのではないか、と思える時が度々ある。
中学・高校時代の隆之介は、とにかく厄介事に巻き込まれやすい少年だった。
怪奇現象を伴う厄介事だ。
いわゆる『学校の怪談』として扱われがちな事件の数々に、隆之介は当事者でもないのに何故か巻き込まれてしまうのである。
彼が上手い具合に気を失っている時を見計らって、フェイトが、いや工藤勇太がほぼ毎回、助けてやったものだ。
だから隆之介は、勇太の能力に関しては、何も知らないはずである。
とにかく、怪奇な事件に巻き込まれやすい体質は、社会人になってからも変わっていないようであった。
アメリカでも、ナグルファルの騒動に、ものの見事に巻き込まれてくれた。
死にかけていたところを、天使のような外見美少女に救われた。アトラスの記者にふさわしい体験であった、とは言えるのか。
そんな馬場隆之介が今、自分をも巻き込もうとしている、とフェイトは思った。
『なあ工藤。お前、ぼっちだろ? だから俺と温泉行こうぜ』
「……お前は何を言っているんだ」
スマートフォンを片手に、フェイトは呆れた。
IO2日本支部の職員宿舎。その一室を与えられたままフェイトはしかし、いまだ任務をもらえずにいる。
「ぼっち、と言うか……暇なのは確かだけど」
『だから温泉よ。まあ、ちょっとホームページ開いてみ』
隆之介が、某県のとある温泉旅館の名を口にした。
フェイトはとりあえずパソコンを立ち上げ、言われた通りに検索をしてみた。
「これか……30歳以下の独身男性で、女性のパートナーがおられないお客様限定。お泊まりもお料理も半額」
『半額ってのもそうだけどよ、よぉく見ろよ。いろんなとこに女将さんとか仲居さん映ってんだろ? みんな美人だろうが。温泉美人ってやつだよ、おい。そんな旅館がよお、ぼっち男性客限定サービスなんておめえ』
「落ち着けよ、一緒に温泉入ってくれるわけじゃないんだから……それに、いくら何でもこれ安過ぎないか? 安いものには、安く出来る理由があるんだぞ」
『使ってる食材が全部中国産とかでも、俺は許す! 汚水廃油まみれの料理でも、その仲居さんたちが食わせてくれるんなら平らげて見せるぜ!』
隆之介のテンションは、上がる一方であった。
放っておけば、1人でも行ってしまいかねない。そして何かに巻き込まれる。昔から、この男はそうだ。

どのような何か、であるのかはわからない。
とにかく、この旅館には何かがある。
フェイトがそう直感したのは、サイト内で微笑んでいる女将や仲居たちが、あまりにも美し過ぎるからだ。
知り合いに、人間ではない女性が何人かいる。彼女らに似た感じの、美しさであった。

旅人が、山奥で夜を迎えてしまう。
そこで美しい女性に出会い、彼女の家に招かれ、饗応を受ける。豪勢な料理と酒を振る舞われ、幸せな気分のまま床に就く。話によっては、その女性と一夜を共に過ごしたりもする。
翌朝、旅人は肥溜めの中で目を覚ます。
日本の、昔話である。
自分たちも今、その旅人と同じ目に遭っているのではないか、とフェイトは心配になった。
それほど、料理が美味い。
安く出来る食材を、巧みにごまかしているのか。あるいは昔話の旅人と同じく、実は葉っぱや虫の死骸を食わされているのか。
「あら、お口に合いませんか?」
女将が訊いてきた。
旅館の大広間で、夕食を堪能しているところである。
「何だか難しいお顔を、なさっていますのね」
「あ、いや美味しいですよ」
お世辞を抜きにして、フェイトは言った。
「美味し過ぎて、不審に思ってるところです。あんなに安くて大丈夫なんですか?」
「期間限定ですから」
女将が微笑んだ。
やはり美しい。人間の女性が、こんなに美しいはずがない、と思ってしまうほどにだ。
女将に劣らず美人ぞろいの仲居たちが、華やいだ声を発している。
「えーっ、マスコミの方なんですかぁ?」
「それじゃ、ここの温泉ばっちり取材してガンガン宣伝して下さいよぉ!」
月刊アトラス、とは名乗っていないようである。
とにかく隆之介は、仲居たちにちやほやとお酌をされたりしながら、思いきり鼻の下を伸ばしていた。
「いいよーいいよぉ、温泉美人のいる温泉旅館! 取材しがいがあり過ぎて困っちゃうなーもう」
大事な商売道具であるはずのデジカメで、仲居や女将を撮りまくる隆之介。酒も進んでいるようだ。
「まったく、いい気なもんだ……」
苦笑しつつフェイトは、それとなく仲居たちを観察してみた。
狐か狸の尻尾を隠している、気配は今のところなかった。

 

 

「いやあ。ぼっちって最高だよなあ工藤君」
隆之介が、相変わらず浮かれている。
男同士、2人で温泉に浸かっているところである。寝る前の一風呂だ。
「俺、今日ほどリア充じゃなくて良かったと思った日はないぜー。ところで工藤は、彼女とかは? お前って中学高校と、実は何気にモテてなかった?」
「そんなわけないだろ。今だって、まあ職場に女の人は何人かいるけどな。それだけだよ」
その職場に関して、フェイトは隆之介には何も説明していない。
隆之介は、フェイトの今の職業を知らないのだ。
「工藤ってさ……仕事、今何やってんの?」
まじまじと、隆之介が見つめてくる。
「サラリーマンとか言ってたけど……ただのリーマンじゃねえよな」
「……何で、そう思う?」
「だってお前、身体すげえじゃん。筋肉バキバキで、傷跡とかもあって」
高校卒業から数年間、IO2で戦闘訓練と実戦の日々であった。
工藤勇太でしかなかった頃に比べると、細い身体にも幾分、筋肉らしきものが付いているのか。自分ではわからないが、久しぶりに会った隆之介の目には、もしかしたら別人のように見えてしまうのかも知れない。
「……まあ、馬場と似たような仕事かもな。ちょっと危ない事も、しないわけじゃあなかったりして」
「ん? 俺、別に危ない事なんて……」
「この温泉、ちょっとした怪奇スポットなんだって?」
先程、IO2に問い合わせてみたのだ。
「俺たちみたいな男の客が、何人も行方不明になってるそうじゃないか。まあアトラスで扱うには、ふさわしいかもな」
「……知ってたのか」
湯の中で、隆之介は俯いた。
「ごめん工藤……編集長に言われたわけじゃないけど俺、確かにここへ調べに来たんだ。お前を誘ったのは、まあ何だ。餌は、1人より2人の方がいいと思ってな」
「そんな事だろうと思ったよ」
フェイトは苦笑した。
「お前、行方不明になった人たちを助けたいんだろ?」
「そ、そんなんじゃねえよ。俺はただ、スクープが欲しくて」
隆之介が、口籠る。
「……お前には本当、悪いと思ってるよ。昔から工藤、学校で変な事ある度に、助けてくれたもんな」
「俺は、何にもしてないよ」
「俺も、お前が何かしてるの見たわけじゃあない。けど、お前がいると何か助かってたんだよ」
「お前の運が良かっただけだ。幸運が続いてる間に……危険な事は、やめといた方がいいぞ」
言いつつフェイトは、湯の中で身体を伸ばした。
温泉でのんびり過ごしたい気分が、全くないわけではないのだ。

 

 

翌朝。目が覚めると、隆之介はいなかった。フェイトの隣の布団は、空である。
女将に訊いてみたところ、急用を思い出して夜中に東京へ帰ってしまったのだという。
「そんなわけないだろ……」
などと言ってみたところで、女将が正直に話すわけがない。フェイトが自分で調べるしかなかった。
浴衣姿のまま、興味深げに館内をうろつく宿泊客、といった様子で歩き回る。
怪しい場所は、すぐに見つかった。
本館から少し離れた所で、雪に埋もれかけている納屋。
その中は、納屋と言うより美術館である。
ぞっとするほど精巧な、氷の彫像が、ずらりと綺麗に並べられている。火に当てても溶けない氷なのだろう、とフェイトは思った。
すべて、若い男の氷像であった。
思った通り、と言うべきなのだろうか。隆之介の氷像もある。
それを確認してから、フェイトは納屋の外へ出た。
女将と仲居たちが、待っていた。
「……お客様の不正には、きっちり対処させていただきますわね」
女将が、人外の美貌をニッコリと歪める。
フェイトは、とりあえず会話をした。
「不正……この中を、勝手に見た事かな?」
「30歳以下の独身男性で、女性のパートナーがおられない方限定。間違えようもないほど、はっきりと明記してあったはず……今年はね、私たちの種族繁栄の年なの。私たち、たくさん子供を産まなきゃいけないの。若い男の生気が、大量に必要なのよ」
風が吹いた。雪混じりの、冷たい風。
仲居たちが、女将が、正体を現しつつある。
「男か女かわからない奴の生気なんて……要らないのよねええ」
「……それ、俺の事?」
「とぼけないで。貴方、肉体はともかく魂は、半分くらい女でしょうが!」
雪混じりの風が、強くなった。
フェイト1人を襲う、それは超局地的な猛吹雪であった。
「それも人間の女じゃあない、わけのわからない異国の牝妖怪! そんなものの魂を埋め込まれた奴が、人間の男どもに混ざって何食わぬ顔で不正宿泊! 許せるわけないでしょーがぁああああ!?」
女将も、仲居も、吹雪を発生させている、と言うより吹雪そのものに変化していた。
雪混じりの、まるで見えざる刃のような冷風。それが、フェイトの周囲あちこちで空気を歪めている。
それら歪みが、美しい女性の人面を成している。牙を剥いて微笑む女たち。
「雪女……か……」
フェイトの全身で、浴衣が激しくはためきながらズタズタに裂けた。
それと共に、鮮血がしぶいて真紅の霧と化す。吹雪が、激しく渦巻きながら不可視の刃と化し、フェイトの肌を切り刻みにかかっている。怒りの絶叫と共にだ。
「男か女かわからない、人間かバケモノかもわからない! そんな奴の生気を、私たちの子供にあげるわけにはいかなぁああああいッ!」
「……そうだな。こんなの食べたら、お腹壊す」
呟きに合わせ、フェイトの両眼が淡く輝く。
渦巻く猛吹雪の中で、少しずつ輝きを強めてゆく、エメラルドグリーンの眼光。
ズタズタに裂けながら真紅に汚れた浴衣の袖が、冷風に逆らうが如くはためいた。
はためく袖の中から拳銃が現われ、フェイトの両手に握られる。
「人間かバケモノかは、俺自身……今ひとつ、わかってないところさっ!」
咆哮の如き銃声が、吹雪の轟音を掻き消した。
フェイトの周囲で、いくつものマズルフラッシュが閃いた。
念動力を宿した銃弾の嵐が、雪混じりの冷風を粉砕しながら荒れ狂う。
空気の歪みで組成された女の人面たちが、念動の銃撃によって打ち砕かれ、消滅してゆく。
「ぐっ……こ、このバケモノが……!」
女将か仲居かは判然としない、とにかく雪女の声が、遠ざかりつつあった。
「まあいい、覚えておいで……私たちは子孫を残し、必ず栄えさせる。私たちの種族が、いずれこの世を永遠の雪に埋める……永遠の冬で、この世を閉ざす……」
やがて、何も聞こえなくなった。
超局地的な吹雪も消え失せ、血まみれのフェイトだけが残った。
納屋の中から、ぞろぞろと男たちが歩き出して来る。
「俺……こんな所で、何を……」
「お、おい女将さんは? あの仲居さんたちは……」
「……工藤? おい!」
隆之介が、駆け寄って来た。
「どうしたんだよ、お前その怪我」
「大した傷じゃない。それより、元に戻れて良かったな」
「元に……って? 俺、どうなってたの。また何かあって、お前に助けられたって事?」
わからないのなら説明する事もあるまい、とフェイトは思った。

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フェイトという名の器

帰ったら即仕事、という事にもなりかねん。忙しくなるぞ、覚悟しておけよフェイト。
 新しく上司となった男が、そんな事を言っていた。
 だが仕事は与えられなかった。フェイトは今、はっきり言って暇である。
「休め……と。そう、言われてるのかな……」
 IO2日本支部の、職員宿舎。自室のベッドで微睡みながら、フェイトは呟いた。
 眠い、ようでいて、いざ眠ろうとすると眠れない。日本へ帰って来てから、そんな日々が続いていた。
 脱力感、あるいは倦怠感と言うべきであろうか。
 体調は良い。この脱力感か倦怠感か判然としないものに支配された身体で、戦闘訓練は普通にこなす事が出来る。念動力も、問題なく使える。
 射撃場で、あるいは実技練成場で、激しく動いている身体が、しかし自分の身体ではないような気がする。
 いや。自分のものになりきっていないのは、肉体ではなく魂の方か。
 魂が、しっかりと肉体に根付いていない。気を抜くと、身体からフワフワと出て行ってしまいそうだ。
 当然と言えば、当然であった。
 フェイトの魂は1度、完全に失われてしまったのだ。
 今ベッドに投げ出されている、この肉体に宿っているのは、とある1人の少女から分け与えられた魂である。
「俺は……フェイト……本名・工藤勇太……だよな……?」
 眠く、だが眠れぬまま、フェイトは呆然と呟いた。
「俺……アデドラじゃないよな……?」
「貴方はフェイトよ。魂がどういう状態であろうと、それは紛れもない事実」
 誰かが、教えてくれた。聞き覚えのある、女の声。
 はっ、とフェイトは目を覚ました。
 机に突っ伏して、熟睡しかけていたようである。
 IO2の職員宿舎、ではなく教室の中であった。40名のクラス。だが今いるのはフェイトだけだ。
 自分の身体を、見下ろしてみる。
 高校時代の、制服を着ていた。自分は今、フェイトであるのか、それとも工藤勇太であるのか。
 がらんとした教室を、フェイトは見回した。
 生徒は、自分以外に誰もいない。
 いるのは教師だった。すらりと教壇に立つ、1人の女性。
 豊麗な女の凹凸を、ぴったりと女性用スーツに閉じ込めてある。禍々しいほどの色香は、しかし隠せはしない。
 緑色の髪は、さらりと流れつつフワリと波打ち、風もない教室内で微かに揺らめいているようでもある。
 理知的な美貌には、眼鏡がこの上なく似合っている。レンズ越しにフェイトを見つめる瞳は、赤い。まるでルビーが生命力を宿したかのように。
 文句のつけようもない、絵に描いたような女教師である。
「私の授業で、居眠りをした罰よ」
 ルージュで艶やかに色づいた唇が、にこりと歪みながら、涼やかに言葉を紡ぐ。
「今日は、ずっと個人授業……しばらく帰してあげないから覚悟なさい」
「す、すみません……じゃなくて、ええと……」
 ぼんやりと、フェイトは記憶を探った。
 自分はこの女性教師を、知っているような気がする。担任としていつも顔を合わせている、という事ではなく。
 むしろ顔は知らない。顔は今日、初めて見る。だが、ずっと以前から知っている……
 フェイトは、椅子を蹴るように立ち上がった。
「……巫浄……霧絵……!」
「いけない子ね、教師を呼び捨てにするなんて」
 黒板の前にいたはずの女教師が、いつの間にか傍らに立っている。
 綺麗な片手に握られた教鞭が、フェイトの顎の下に当てられている。
「巫浄先生とお呼びなさい……霧絵先生、でもいいわよ?」
「ここは、夢の中……って事で、いいのかな」
 フェイトは、声を発するのが精一杯だった。
 教鞭で触れられているだけ、なのに身体が動かない。
 身体を動かす意思が、生じて来ない。
 IO2が総力を挙げて行方を追っている相手が今、目の前にいると言うのにだ。
「わけのわかんない夢を、俺に見せて……一体何を企んでる?」
「貴方の不安を取り除いてあげたいだけよ。言ったでしょう? これは個人授業。魂に関する、特別講義よ」
 教鞭が、顎の下から離れてゆく。
 支えを失ったかのように、フェイトは椅子に座り込んだ。それ以外の動きは、出来なかった。
「自分が、自分ではなくなってしまうかも知れない。貴方はそんな心配をしているようだけど」
 フェイト以外には誰もいない教室内を、霧絵が足取り優雅に歩き出す。
「魂を入れ替えただけで、別人になってしまう……人間の構造がそれほど単純なものなら、私たちも色々とやり易くなるわね。けれど残念。魂と肉体の関係というものは、もう少し複雑なのよ」
「魂ってものの研究に関して……あんた方『虚無の境界』は、IO2より百年は進んでる。らしいな」
 フェイトは言った。喋る事は、出来る。
「そこの盟主様が、そう言うんなら、そうなんだろうな」
「たかが百年よ。魂に関して、もう少し深い所まで研究しようと思うなら、あと千年、二千年は欲しいところね。初歩の初歩、そのまた初歩でしかない今の段階で、明らかにわかっている事は1つだけ」
 誰もいない教室内に、規則正しい足音が軽やかに響く。
「それは肉体というものを決して軽く考えてはいけない、という事。魂と肉体、どちらが欠けても人間は成り立たない。人格、自意識、精神性、それに能力……そういったものは全て、肉体による物質的な経験がなければ獲得出来ないのよ」
 フェイトの肩にピタッ、と教鞭が当てられる。霧絵が、いつの間にか背後にいた。
「工藤勇太あるいはフェイトとして22年間、育まれてきた、この肉体……魂を入れ替えただけで別人になってしまう事など、あり得ないわ。それは、だから安心なさいな」
「後ろに、あんたが立っている。安心なんて出来るわけないだろう」
 身体が動かない。背後に立つ女教師を、睨みつける事も出来ないまま、フェイトは言った。
「お勉強は、もういいよ。そろそろ本題に入って欲しいな……あんた、俺に一体何の用が」
「慌てて答えを出そうとしては駄目。先生の話は、よく聞くものよ?」
 教鞭が、後ろからフェイトの頬をぴたぴたと叩く。
「大きくなったわね、A01……いえ、フェイト。能力者として、本当に立派に育ってくれて。先生嬉しいわ」
 先生と言うより母親の口調で、霧絵は語る。
「貴方が22年かけて立派に育んできた肉体よ。どんな魂を入れてもフェイト、貴方にしかならないわ……貴方は今、貴方になっている最中なの。フェイトにしか成り得ない肉体に、新しい魂が急速に根付いている最中なのよ。脱力感や倦怠感を感じる事もあるでしょうけど、魂が完全に根付いてしまえば、それもなくなるわ」
「魂が……まだ完全には、根付いてない?」
「その通り。だから今しかないのよ……貴方を私のものにする機会は、ね」
 優美な細腕が、背後からフェイトの上半身に絡み付いて来る。
「貴方が欲しくて、貴方の遺伝子から何人もクローンを作ってみたわ……だけど、上手くいかなかった。『虚無の境界』の技術をもってしても、貴方が育んできたフェイトという存在を複製する事など出来はしない。貴方はね、1人しかいないの。だから奪うしかないのよ」
 豊かな胸の膨らみが、フェイトの後頭部を柔らかく圧迫する。
「1人しかいないフェイトが、ここにいる……こんな事、考えられないわ。魂を失った肉体に、新しい魂を根付かせる。普通どんなに短くても、半年か1年はかかるものよ。それが数日で、ほとんど不具合もなく、以前のままのフェイトが出来上がりつつある」
「数日も……かかってないよ」
 背後からの優しい抱擁に、フェイトは抗えなかった。言葉を発するのが精一杯だ。
「新しい魂をもらって、すぐに目が覚めた……前と同じ俺として、ね」
「誰? 貴方に新しい魂を植え付けたのは一体、誰なの? 最高幹部待遇で、虚無の境界に迎え入れたい人材よ」
「……気持ちだけ、いただいておくわ」
 霧絵の言葉に、何者かが応えた。
 少し離れた席に、女子生徒が1人、いつの間にか座っている。教科書とノートを広げ、しとやかに自習をしている。
「他に用がないなら、ここから出て行って欲しいわね。貴女の魂、臭いわ……まるでラフレシアみたい。腐った花の臭いね」
 そんな事を言いながら、さらさらとペンを走らせている1人の美少女。ほっそりと小柄な身体で、ブレザーの制服を清楚に着こなしている。
 さらりと艶やかな黒髪は、一見すると日本人のようだが、ビスクドールを思わせる可憐な顔立ちは、よく見ると欧米人女性の美貌である。
 そして冷たいほどに澄みきった、アイスブルーの瞳。
「アデドラ……」
 フェイトが名を呟くと、その少女はようやくノートから顔を上げた。
「聞こえなかったのかしら? 先生……腐った花の臭いをフェイトに擦り付けないで、と言っているのだけど」
 青い瞳が、刃物のように鋭く輝く。たおやかな繊手の上で、ペンがくるりと回転する。実に鮮やかな手並だ。
「フェイトは今、あたしのために魂を美味しく育んでくれてる最中なのよ。そこに変な臭いを混ぜないで欲しいわね」
「貴女は……」
 アデドラ・ドールに言われたから、ではなかろうが、霧絵はフェイトを抱擁から解放した。
「賢者の石を、体内に隠し持って……いえ、まさか貴女自身が? そう、そんな事が……」
 虚無の境界の盟主ともあろう女性が、微かに息を呑んでいる。
「欲しいわ、貴女……フェイトと一緒に『虚無の境界』へいらっしゃい。貴女がいてくれれば、千年かかる魂の研究を三百年くらいに短縮出来るわ」
「フェイトに近付かないで。フェイトに触らないで。フェイトに手を出さないで。フェイトの名前を口にしないで」
 アデドラには、霧絵の話を聞くつもりが全くないようであった。
「……言葉の警告は、これで終わりよ」
 教室内の風景が、あちこち歪み始める。
 それら歪みが、いくつもの人面を形成し、牙を剥く。
 興味深げに見回しながら、霧絵は微笑んだ。
「私も、言葉だけの勧誘はここまでにしておくわ……次に会う時は即、実力行使でいくわよ。あなたたち2人とも無理矢理、私のものにしてあげる」
 本当に楽しそうな、笑顔だった。
「安心なさいな、賢者の石のお嬢さん……貴女を、ずっとフェイトと一緒にいさせてあげる。つがいの仔犬ちゃんみたいに仲良く飼ってあげる。お揃いの首輪を付けてあげる。結婚させてあげる。あんな事やこんな事、いっぱいさせてあげるわ。私のもとで幸せになりなさい、2人とも」
 人面たちが、一斉に霧絵を襲った。無数の牙が、女教師の全身を食いちぎる……
 否。巫浄霧絵の姿はもう、そこにはなかった。
 制服姿のフェイトとアデドラだけが、教室内に残されている。
 アイスブルーの眼差しが、じっと向けられている事に、フェイトは気付いた。
「ねえフェイト……あたしになってしまうのが、そんなに嫌?」
 アデドラが訊いてくる。可憐な美貌が、いくらか悲しそうな翳りを帯びる。
 心が、疼くように痛む。
 それを押し殺し、フェイトは答えた。
「……ああ、嫌だ。俺はアデドラじゃないからな」
「そう……それでいいのよ、フェイト」
 悲しそうな表情など、一瞬にして消え失せた。
「簡単に、あたしになってしまう……そんな魂、欲しくないから」
 言いつつアデドラが立ち上がり、フェイトに背を向ける。
 黒髪が、清楚なプリーツスカートが、フワリと舞い翻る。
 制服が本当に似合う、と思ったその瞬間。
 教室の風景は消えて失せ、フェイトは自室のベッドに呆然と腰掛けていた。

カテゴリー: 02フェイト, season6(小湊WR), 小湊拓也WR(フェイト編) |